朝日出版社ウェブマガジン

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一番身近な物体

日常に潜むスイッチ

 

 原因は過去に向かうけれど、回復は未来に開かれている。前回の記事で書いたように、原因を特定するとは、「自分が今こうであるのは〇〇だからだ」という、自己にまつわるストーリーを描く作業です。これに対して回復は、こうだと思った自己像の外側で、「そうあってもいい」と思える意外な自分と遭遇することによって成立します。

 しかしながら、現実には事態はもっと複雑です。回復するとは、過去と完全に無関係になることではないからです。回復した人も、さまざまな形で逃げ出したい過去にとりつかれ、呑み込まれそうになり、すんでのところで回避する、といった経験をしています。この意味で、回復とは単に再発していない状態の継続と言うことができるかもしれません。

 第三回でとりあげるのは、くり茶さんのケースです[1]。くり茶さんは中学3年生のときに過激なダイエットを経験。それ以降、拒食と過食の両端を往復しましたが、現在では回復し、食事もふつうにとることができています。回復はしていますが、しかし摂食障害になる前の状態に戻ったわけではありません。ふとしたことをきっかけに、過去に引き戻されそうになる。そんな過去との揺れ動く関係に迫ります。

 

拒食:コントロールモード

 

 先述のとおり、くり茶さんは拒食と過食という両極端の症状を経験しています。重要なのは、それが単に「食べるか食べないか」という食事の量だけに関わる問題ではないということ。くり茶さんによれば、それは「0か100」という両極端の二つのモードなのだそうです。

 まず拒食は「100」です。ひとことで言えば、それは「100点=完璧」を目指すということ。くり茶さんが最初にこのモードになったのは、高校2年生のときでした。それまでの小中学校では、理不尽なルールを押し付けられているようで、くり茶さんはなかなか学校というものになじめずにいました。ところが高校は自由なところを選んだので、「急に学校が楽しく」なった。「髪も染めていいものすごく自由な学校だったんですけど、そしたら急に勉強したくなったんです(笑)。勉強楽しい!」「学校楽しい!!みたいな感じでした。先生も友達も合う人ばっかりでした」。

 私にとって驚きだったのは、「学校が楽しい」からこそ「食べられなくなった」という、くり茶さんが語った因果関係でした。学校が楽しければご飯もおいしく食べられるだろう、逆に食べられないのは食欲を奪うようなネガティブな要因があるからだ。表面的にそう考えていた私の先入観とは全然違うところに、くり茶さんの食はあったのでした。

 そのときの状況を、くり茶さんはこう語っています。

 

勉強も毎回テストで100点取りたい、みたいな「0か100か思考」になっちゃって、授業も完璧に聞きたいから一番前の席に座っていました。食事についても、太ったのをどうにかしたい、決まったものを朝・昼・晩に食べたいと思うようになりました。

 

 つまりくり茶さんは、高校での生活が好ましいものであったからこそ、その完璧な状態をキープしたいと考えて、拒食になってしまったのです。勉強もちゃんとやりたい。食事も完璧にしたい。食事は量だけでなく質にもこだわって、添加物をとらないようにしたい。こうして完璧な状態を維持するためのコントロールが、「100」ということでした。

 第一回の記事でふれたnaoさんは、家庭や勉強に関して思い通りにいかないことが多く、だからこそ確実に成果がでるダイエットにはまっていきました。naoさんにとって、ダイエットは「例外」であり、「すがる対象」でした。一方、くり茶さんにとっては、そこに「体重とそれ以外」という対比はありません。体をコントロールの対象とみなしている点は共通していますが、食を含めた生活の全体がコントロールの対象になっている。「この新しい自分を変えたくない」という気持ちがあった、とくり茶さんは言います。

 ただし、現状に対するこうした肯定的な評価は、満ち足りているという意味での満足とは違う感情によってドライブされていました。なぜなら、くり茶さんにとって、現状の「完璧」はそれがくずれる「不安」と常に隣り合わせだったからです。

 

不安になっちゃうんですよね。やっぱりコントロールしたいんですかね。「こうなる」とわかっていたら予測できるというか。予想外のことが起きるのはちょっと怖いのかもしれないですね。自分は自分の思い通りにいたい、という気持ちが強い感じがしますね。

 

 不安とは、未来に対して思いを馳せることからくる感情です。未来は本質的に不確実です。このままいくと、よくないことが起こるかもしれない。「完璧」を破壊するような「予想外のこと」が起こるかもしれない。そのことに対する「怖さ」も、くり茶さんが頻繁に口にする感情です。未来に対する恐れ、そしてだからこそ現在を律する、という心性。それはどこか、災いを恐れて行う祈りやまじないにも似ています。それも「未来への願いをこめてやる」のではなく、「やらないことによって何かが起こるのが怖い」からやる。不安とは、過剰に未来を先取りしている状況に他なりません。

 こうしてくり茶さんは、「起こらないようにする」ための膨大なメンテナンスの作業に、脅迫的に追われていきます。くり茶さんにとってそれは、辛いというより疲れる時間だったと言います。「いまやってることのどれが欠けてもいけない、という感じでしたね」。「せねばならない」ことはどんどん増えていき、当時は出かけるときにも「この角を絶対に曲がりたい」のようなこだわりが生まれていました。「ひとつこうしなきゃをやってると、ほかのこともふわふわさせておけない、というか。何かしら自分を律する、コントロールするきまりが欲しい、というのがあるかな、と思います」。

 興味深いのは、こうして未来を過剰に先取りすることによって、くり茶さんの体に対するイメージまでもが変わっていることです。不安が、単なる感情では終わらずに、対象の捉え方にも影響を与えているのです。それが典型的に現れるのは、「食べた瞬間に太る」という感覚です。「1グラム食べたら、そのまま1グラム増えると思っていました。口に入れるたびに体重計に乗ったり、ちょっと飲んじゃったらトイレに行ったりして、自分のなかで±0を保とうとしていました」。

 同様の感覚は、同じく拒食を経験したカナブンさんによっても語られていました。「(食事をすると)気持ち悪くて体が重くなる感じがしました。特に肩ですね」。食べた瞬間に、マシュマロマンのように肩のあたりが膨らむ感じがあった、と言います。「妄想なんですよね。やばい、やばい、これはやばい、次とりもどさないとみたいな焦りを感じていた覚えがあります」[2]

 今更ですが、私たちは体のなかを直接見ることができません。だからこそ、そこは簡単にイメージが入り込む場所、妄想が増殖しやすい場所になり得ます。食べた瞬間にそこに含まれていた養分が吸収され、体のかたちが変化する、ということは物理的にはありえません。けれども、未来を過剰に先取りしている人にとっては、「太る」という未来がただちにやってくる、ということになる。まだやってきていない、つまりは存在しない「太った体」を、すでに現在に生きてしまっている。その中を見ることができないからこそ、体の中では予感が現実のものになってしまうのです。体は本質的に不安を醸成する場所です。くり茶さんも「実際の体内がどうなっているかというよりは、体内に対して自分が安心できるか」が問題だった、と言います。

 こうして現実の体とイメージの体の乖離が生じ、「気づいたら30キロ台になっていた」とくり茶さんは言います。添加物を気にしてコンビニのご飯を避けたりしているうちに、食べられるものがどんどん減って、「お昼はコーヒーしか飲まない」という状態になってしまった。いつのまにか1ヶ月に1キロのペースで体重が落ち、体はすでに必要な熱を作り出せないほどガリガリになっていました。「夜に布団に入ると、布団の中なのに、寒くて震えが止まらなくて、怖かった」。

 一度は入院して治そうとしますが、合わないと感じ、くり茶さんは自宅で治療することを決心します。その後は家族の協力もあり、徐々に食べられるように。しかし食べているうちに、こんどは過食スイッチが入ってしまいます。それは家中のものすべてを食べてしまう、制御のきかない「0」のモードでした。

 

過食:なまけものモード

 

 過食モードは、「ゆっくりしたナマケモノみたいな感じ」とくり茶さんは言います。「いろいろなことに構わなくなります。0でいいやって。どうでもいい」。不確実な未来の到来を恐れてすべてをコントロールしようとしていた拒食モードとは対照的に、すべて手放し、コントロールなしの状態になるのです。

 「コントロールなし」と言うとリラックスしてのびのびしているように聞こえますが、実際にはそれは、体がブレーキを失ったというのに近い状態でした。「止められない」「運動会みたいに食べていた」とくり茶さんは言います。

 最初は、体重が35キロまで落ちた状態だったので、「生命が、危機的なところから回復するために食べさせている」と理解していました。夜中や早朝を中心に1日に2回程度、食べられるところまで食べる。夜中や早朝を選んでいたのは、ご飯を炊いて冷蔵庫に入っているものも全部食べてしまうので、恥ずかしかったから。拒食モードのときは頭がすっきりして冴えている感じがあったのに、過食モードになるとどうでもよくなり、頭が鈍くなる感じがあった、とくり茶さんは言います。

 けれども、回復のための食事は、ある程度体重が増えてからも止まることはありませんでした。「食べられるところまで食べる」は文字通り、物理的に胃をパンパンにする作業だったとくり茶さんは言います。「胃が破裂しそうで痛かったです。限界まで入れて、たまに親に胃薬をもらったり、胃の向きを意識して寝たりとかしていました」。食事のことを「食べる」ではなく「入れる」という即物的な動詞で表現するのは摂食障害の方にしばしば見られる言い方ですが、ここではまるで収納の問題を解決するための工夫として体の姿勢が語られています。それは充実感のある「満腹」ではなく、物理的な限界という意味で「自分を満杯にする」作業でした。

 ただし、満杯は、それ自体が目的だったわけではありませんでした。単純に「行けるところまで行かないと止まらない」状態だったのです。「運動会みたいに食べる」というアクティブさを、動きの少ない「なまけもの」に喩えるというギャップの正体もここにあります。体は「食べる」という行為をしていますが、同時にくり茶さんは何もしていません。過食は体の暴走であって、くり茶さんが外から介入してどうこうできる現象ではないのです。「止める」ことはできない。「止まる」まで行き切るしかない。満腹は自らブレーキをかけることですが、満杯はいわば物理的な壁に衝突して車が停止することです。過食が終わっても、そこには達成感はない、とくり茶さんは言います。「やっと終わった、という感じですね」。

 過食を繰り返すうちに、やがて体重も35キロから60キロくらいまで増加していきます。と同時に過食の頻度も減っていきました。1日に2回だった過食の回数が数日おきになり、1ヶ月おきになり、1年に1回になりました。最初はその期間を意識していましたが、徐々にそれも意識しなくなっていきます。

 症状の緩和には、二十歳くらいのときにつきあっていた恋人の存在も大きかった、とくり茶さんは言います。その人は「コンビニのお菓子とかよく食べる人だった」。それでくり茶さんも、となりでちょっとずつ食べるようになったのです。「前だったら、食べちゃいけないと思っていたものは、逆に止まらなくなってたくさん食べちゃってたんですけど、自然な食べ方ができるようになって」。

 その恋人に好かれることによって安心感が生まれた、とくり茶さんは語ります。未来を過剰に先取りしていたくり茶さんが、よくないことが起こるかもしれない、という恐怖を抱かずに済むようになった。「一緒に食べても悪いことは起きない、一緒にいることが楽しい、という感覚がありましたね」。「いま食べること」の意味を「未来の出来事」との関係で語る視点が、くり茶さんならではのものです。でも、安心感が生まれているくり茶さんは、その二つを切り離してとらえることができるようになっています。

 ただし、そのような変化が起きたのは、恋人が特別に摂食障害に理解があったから、というわけではなかったようです。むしろ「結構鈍感な人」だった。「その人はそんなに細やかな話をしなかったので、その適度に気にされていない状態が楽だったのかもしれないですね」。腫れ物にさわるような関係ではなく、むしろある程度雑に扱われたことによって、くり茶さんもふと、「自分はこういう人間だ」と思いこんでいる人間像の外側、「そうあってもいい」という自分に出会うことができたのかもしれません。

 

穴だらけの家

 

 こうして、それまでNGだったコンビニの食べ物も、何も気にせず食べられるようになったくり茶さん。恋人とは別れてしまったけれど「いい癖がついていった」と語ります。食事の時間も気にしなくなり、「今は食べることに関しては何もない」と言えるまで回復しました。

 けれどもそれは、摂食障害を経験していない人と全く同じ状態になった、ということではありません。ふたたび摂食障害になる可能性は常にそこにある。その可能性をこまめに回避するような工夫を、くり茶さんは無意識のうちにしているのです。

 そのことを自覚したのは、病院である薬を処方されたときでした。その薬の副作用を調べて、強い恐怖に襲われたのです。

 

体調を崩していたときに処方された薬を調べたら、「太りやすい薬」って書いてあって(笑)。それで絶対に無理です、ってなりましたね。それを飲むくらいだったらがまんします、という感じになって、そのときに自分でもちょっとびっくりしました。異常なまでに怖いなと思いました。

 

 そもそも、くり茶さんは日頃から無意識的に服用する薬の副作用を確認する習慣がありました。特に副作用を経験したわけではないけれど、「太りやすい薬がある」というイメージがあったから。そして実際にそのような副作用のある薬に出会ったとき、自分でも驚くほどの拒否感を感じたのです。治ったと思っていたので、「あ、まだそういう自分あるんだ」と感じたとくり茶さんは言います。

 同様の習慣は、薬の副作用を調べること以外にもある、とくり茶さんは言います。たとえば、自分の体重を知らないようにすること。自分から体重計に乗らないのはもちろんのこと、健康診断に行っても「私は体重計を見ませんので言わないでください」と検査員に伝えます。たまに何かの拍子で見えちゃったりすると、そのときはちょっと落ち込む。つまり、触れたくないもの、拒食や過食の衝動につながりそうなものに出会うことがないように、それを避ける工夫を無意識のうちにしているのです。

 くり茶さんはこのことを「スイッチ」という言葉で表現します。「日常にちょいちょいスイッチが潜んでいて、ある程度自分で予防、ここに触れたらスイッチ入るな、とか、避けられるものは避けていますね。薬もそうですけど、健康維持できる程度に避けています」。それが「スイッチ」という機械のメタファーで語られるのは、いったん拒食や過食のモードに入ってしまったら容易には止めることはできないという「自動性」があるからでしょう。通行止めにしたはずだけれど、その回路はすでに敷かれている。だから、うっかりそれが発動するという事故が起きないようにするために、くり茶さんにはそれに近づかないための工夫を日常的に行う必要があります。

 「スイッチ」という言葉は、摂食障害にかぎらず、さまざまな病気や障害の当事者が用いる表現です。たとえば吃音の当事者である徳永泰之さんの場合。「話すという状況になると、スイッチが入る」と言います。突然うしろから脅かされて「わっ!」と言うときなどはスイッチがはいっていないのでどもらないけれど、道を歩いていて話しかけられたようなときは、こちらが話さなくちゃいけなくなるので、スイッチが入ってどもってしまうのです。話すことを意識して準備してしまうとどもるので、いかにスイッチをいれずにしゃべるか、ということが楽にしゃべる工夫になってきます。[3]

 興味深いのは、くり茶さんが、このスイッチの存在を「歴史」として語っていることです。すでに治ってはいる。でも「歴史はある」。今は安定した地盤の上に立っているけれど、その下にはかつて経験した拒食と過食の古層があります。ふとしたきっかけでスイッチが入ってしまえば、過去の自分の反応のパターンがよみがえり、それを反復してしまうことになりかねません。つまり、スイッチがあるということ自体が、過去にそのような経験をしているということの証拠なのです。

 くり茶さんは、あの副作用のある薬を2回ほど飲んでみたと言います。そのときに起こったのは、まさにあの拒食のときの感覚、未来を過剰に先取りし、不安に駆られて体の中で予感が現実のものになっていくような感覚でした。

 

薬も2回くらい飲んだんですけど、すごく太った気がするんです(笑)。そういう成分が体をめぐった気がする。お腹が出てきた気がするとか、最近体が重いのはあの薬のせいだ、とか思っちゃう。それを思いすぎると、そこに考えが寄っちゃうので、ちがうことを考えるようにしています。そういう意味では、仕事があったほうが、他のことが考えられて助けられたりしますね。

 

 精神科医の中井久夫は、過去の何かを引き出す現実世界内の手がかりのことを「索引」と呼んでいます。「図書館の索引が本の表紙に私を導き、本の表紙が内容に導く」[4]ように、索引は「一つの世界をひらく鍵」[5]であると中井は言います。私たちが過去に経験したことは、「索引」というしるしとして、現実世界に埋め込まれています。ですが、ふとした瞬間にそれがトリガーとなって、現実とは異なる別の世界が一気に立ちあがるのです。ポイントは「指し示す」という記号性と、現在から過去へという時間性でしょう。中井のいう「索引」はプルーストのマドレーヌの記憶のようなものも含まれるので、必ずしも忌避すべきものではありませんが、具体的な対象をきっかけに、本人の意志を超えて過去に親しんだ世界につれもどされる感覚は、くり茶さんの「スイッチ」に通じる特徴を持っています。

 中井は、「私には、私の現前する意識には収まりきらないものが非常に多くある」と言います。「私の意識する対象世界の辺縁には、さまざまの徴候が明滅していて、それは私の知らないそれぞれの世界を開くかのようである」。つまり「意識は開放系」であり、「海綿のように有孔性」[6]なのであって、だからこそ私は私の意識を閉じることができず、日常生活のなかのさまざまな索引によって、スイッチを押されてしまうのです。私たちは、外界のちょっとした刺激によって過去へと連れ戻され、感じ方がまるっきり変わってしまうような、穴だらけの家のような存在です。いわば世界に対して「漏れて」いる。雨が降れば吹き込みますが、一方で美しい月の光も差し込むともいえます。

 世界そのものは私とは無関係に存在していますが、そこは「私の歴史」を反映した索引で満ちている。だからくり茶さんは、スイッチが入らないようにする対策を日常的に取っています。「100」のコントロールモードになってしまいそうなこと、具体的には「体重を知ること」や、「太る副作用のある薬を飲むこと」を避けたり、家で過ごすときに家事を最低限にしてがんばりすぎないようにしたりしているのです。ただし、スイッチの予防にはある矛盾があります。なぜならそれは、体重のことを考えないようにするために、考えておくことだからです。「考えないほうがいいんだけど、考えておかないと予防ができない(笑)。予防すること自体がちょっと考え方が偏っているのかなとは思いますね」。

 あるテレビ番組で見た少年野球の監督の言葉が思い出されます。その監督は、チームを引き連れて全国大会に出場するのですが、大事な試合で攻め込まれ、敗北の色が濃くなります。みるみる元気を失っていく子供たち。そこで監督は、子供たちに驚くべき言葉をかけるのです。「俺たちは自由だ!」。負けてくると、子供たちは体がこわばり、力を発揮できなくなり、「前にも経験したあの負け試合のときのモード」に自ら入っていってしまうのだそうです。「運命」というと大袈裟かもしれませんが、私たちの体は、いともたやすく特定のモードに飲みこまれ、「すでに未来が決まっている未来」に向かっていってしまうような存在です。それは私たちの体の切なさです。そこからいかに逃れ、自由であり続けるか。それが回復ということなのかもしれません。

 

 

[1] くり茶さんへのインタビューの全文はこちらで公開しています。

[2] カナブンさんへのインタビュー全文はこちらで公開しています。

[3] 徳永泰之さんへのインタビュー全文はこちらで公開しています。

[4] 中井久夫『徴候・記憶・外傷』、みすず書房、2004、p. 30

[5] 前掲書、p. 34

[6] 前掲書、p. 31

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著者略歴

  1. 伊藤亜紗

    東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。専門は美学、現代アート。主な著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)〔のちに『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)〕、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)、『感性でよむ西洋美術』(NHK出版)など多数。

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