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一番身近な物体

第一回 休み方がわからない

 

 障害や病の当事者にインタビューをしていると、ときどきこんな言葉に出くわすことがあります。

 「うーん、あんまり自分の体っていうふうには思っていないですね」

 最初に聞いたときは衝撃をうけました。自分のものであるはずの体を自分のものだと思わないとはどういうことなんだろう? 誰か別の人のものだと思っているということ? それともわざわざ「自分の」と言うまでもないほど自分と一体化しているということ?

 実際に話を聞いてみるとその背景はさまざまでした。自分の体なのに思い通りにならなくて苦しんでいる人もいれば、思い通りにならないけれどその思いすら手放して「体が他人事」になっている人もいる。常に誰かの介護を受けているから自分のものでない人もいるし、重い病から自分の魂を守るためにほとんど悟りのような境地に達してそう感じている人もいる。

 体は生まれてから死ぬまで常にそこにある。でもそれが自分のものであるというのは、それほど自明なことではないのかもしれません。もっとも身近なものでありながら、良い意味でも、苦しい意味でも、ただの物体のように疎遠なものになりうる対象。それが体というものなのかもしれません。

 本連載では、こうした「一番身近な物体」としての体のあり方について、さまざまな当事者の語りを通して考えていきます。

 

*        * 

体は他人

 

 naoさんは、六年前、三〇代のときに体調が悪化して入院。現在では退院して仕事もしていますが、倒れて以降、一夜にして体との関係が大きく変わってしまったと言います。[1]

 自分にとって、現在の体は「他人」であるとnaoさんは言います。「他者」ではない。明確に「他人」なのです。それは無視してやりすごすことを許してくれません。いつもそこにいて、naoさんの日常生活に無言で大きな影響を与えてきます。想像より一オクターブ低い、落ち着いた芯のある声でnaoさんはこう語ります。「やっぱり他の人や世界とのあいだに、体っていう大きい他人が立ちはだかっている」。

 他者の対義語は自分です。他者とは、単純に自分以外の存在を指します。一方で「他人」と言うとき、そこには「自分とは関係ない」というニュアンスが含まれています。たとえば家族や友人、あるいは同僚は、「他者」ではあるけれど「他人」ではない。利害関係を共有している仲間は、物理的には自分以外の存在であったとしても自分のゆるやかな延長、すなわち「身内」になります。だからこそ、身内であっても利害関係が対立した場合には、「兄弟は他人の始まり」のような逆説的な表現が成立することになる。

 つまり、naoさんにとって体は身内に感じられないのです。利害関係を共有していない。「買い物に行きたい」「友達と会いたい」といった日々の関心、究極的には「この人生を生きていく」という私の目的を、体が共有してくれていないのです。naoさんの言葉を借りるなら「そっぽを向いている」。「共通項がないんですよね。友達でも夫婦でも、他人じゃなかったら共通項ってあるじゃないですか。そういう重なりがなくなっちゃった。 共通の目的もないし、共通の趣味もないんです」。

 「大きい他人」として立ちはだかる体が無言であるというのは、比喩ではありません。naoさんの実感として、体の感じていること、考えていることがよく分からないのです。たとえばリラックスするために足をマッサージをしたり、保湿のために肌にクリーム塗ったりしたとします。「気持ちいい」「ほっとする」といった感想を持ってよい場面ですが、naoさんからすれば、そのとき体は「キョトンとしてる」「何やってんのって感じ」。物理的な接触があるにもかかわらず、自分の体にふれているというよりは、物体をさわっているような感じなのです。

 だから、よく言う「体の声を聞く」という表現がnaoさんにはピンとこない。確かに改めて考えると不思議な表現ですが、一般には、社会的な「すべき」を離れて、自分のなかにある自然な衝動や感情に気づくこと、のような意味で使われている言葉でしょうか。その声を、naoさんはどうがんばっても聞くことができない。「あれ(「体の声を聞く」という表現)が、完全にファンタジーで。何のことを言っているのかよく分からないんですよね。ほんとうに教えてほしいです、どこから聞こえるのか」。確かに「他人」であれば、声が聞こえてくるのはおかしなことです。

 

コーピングとしてのダイエット

 

 naoさんの体がnaoさんに対して「そっぽを向く」ようになるまでには、実は長い前史がありました。

 大きなきっかけの一つは、高校生のときにダイエットにのめり込んだこと。ダイエットは、表面的には食事を制限したり運動したりして体重を落とすことですが、その本質は、体を徹底的に管理することにあります。体を管理し、監視し、きびしく支配するのです。

 それは積極的に体を「他人化」することであった、とnaoさんは言います。電車に乗っていても、街を歩いていても、いつも人の目が気になる。「他人を意識するのが嫌なあまり、体を分離させて他人にしちゃったんですよね。それで、こいつを支配する、という形になった」。

 つまり、六年前に倒れて体との関係が変わったと言っても、親密だったものが他人になったわけではないのです。それまで支配できていた相手が急に言うことをきかなくなった。支配の限界がきたのです。六年前に起こったのは単なる体の不調ではなく、体の逆襲だったとnaoさんは言います。

 

 高校生だったnaoさんは、きわめて計画的にダイエットを実行していました。たとえば、1日の食事はほうれん草一把だけ、というのを何ヶ月も続けていく。成果は確実に出た、とnaoさんは言います。体重がおもしろいように減っていく。そして確実に成果が出る、というところがダイエットにはまった要因でした。naoさんは思ったといます。「こんなに体ってチョロいんだ」「これはおもしろいな」。

 当時のnaoさんは、家族が一緒に住むことができなかったり、がんばった高校受験で第一志望に合格できなかったり、思い通りにならない出来事が重なっていました。こうあってほしいと願っても、その通りにならない。努力しても、結果が出ない。不確実性があまりに高い状況であったといえます。

 一方で、ダイエットは確実に成果が出る。がんばっただけ、数字が応えてくれる。naoさんにとって、ダイエットは「すがるよりどころ」になっていったと言います。

 症状に見えるものが実はコーピング(対処法)である、ということはよくあることです。発熱という現象は、仕事や学校に行けないという意味ではネガティブな「症状」ですが、ウイルスや菌を追い出すための反応という意味では「コーピング」です。吃音の連発という現象も、スムーズな発話を規範とみるなら「症状」ですが、次の音を出すための試行錯誤とみれば「コーピング」です。

 同じように、過剰なダイエットも、周りの人からすれば止めたくなる「症状」かもしれませんが、当時のnaoさんにとっては、それがなければ生きていけないような「コーピング」でした。「さいごは利尿剤まで飲んでいました」。「体を管理することで頭がいっぱいだから、もう誰がどうしようが何を言ってこようが、麻痺していたんですよね」。

 

DV夫

 

 体を徹底的に管理し、支配下に置いていた自身を、naoさんは「DV夫」と呼びます。「私はやっぱりDV夫なんですよね。被害者が体というのはすごく思います。そこが私の中では当たり前だったんですけど、みんなはちがうんだ、もっと一体感?があるというか……そんなに理解不能なものではないのかな、と。今までは、黙らせて、支配して、管理して、それが今度は翻弄されて。そんな関係ってみんながみんなそうじゃないんだ、ということを知りました」。

 夫の暴力の対象になっているのは、体です。体=妻。妻というものがまさにそうであるように、「身内」であるとはいえ、体は常に私=夫の意向に沿ってくれるとは限りません。出かけたいのに体調がそれを許さなかったり、寝たいのに目が冴えてしまったりする。ところがnaoさんは、ダイエットを通して、体を支配し、管理することができると思ってしまった。あとからそれが幻想であったと気づいたとしても、当時は完全に支配下に置くことに成功したと感じていました。

 この意味では、ダイエットには逆説があるように思えます。体に対する意識が高いからこそダイエットを始めたはずが、結果的に体を無視することにつながっていく。そのことが体を「いるのにいない」存在にしていく。「身内」でありながら暴力的に体を黙らせていた関係を、「家庭内暴力(ドメスティックバイオレンス)」と形容したnaoさんの表現は、まさに言い得て妙です。体は「利害関係や目的を共有する仲間」ではなく、「利害関係や目的を一方的に押し付けてよい物体」になっていきます。

 DV夫と妻の関係は、食や体型に関することにとどまらず、生活全般に及んでいきます。それを象徴するのが、倒れる直前のnaoさんの働きぶりでした。二〇代から三〇代にかけて、naoさん本人の感覚としては「とにかく元気」で、ほとんど食べないで働きまくっていた。

 「仕事しながら学校にも通いはじめていたんです。しかも転職期間中で、前の職場のひきつぎをしながら、新しい職場も慣れていこうとしていて、さらにシェアハウスに住み始めたばかりで。まえの職場もちょっと変わった方がいて、ストーカーのようなものを受けていたんです。よく考えたらすごいのがいっぱいそろっていた」。

 ふつうの体力であれば同時にはこなせないようなことを、倒れる直前のnaoさんはこなしていました。「疲れた体に鞭打って」という言い方がありますが、トップスピードで走りつづけるnaoさんには、「つらいのに無理している」という自覚すらなかったのではないでしょうか。体を管理下におくことができるということは、言い方を変えれば、naoさんが非常に自己管理能力の高いまじめな人物であるということを意味しています。計画を立て、きちんとそのとおり実行できる。職場で信頼され、頼りにされていたことが容易に想像できます。

 しかし三〇代に入って、そんな生活にも限界がやってきます。ある夜、唐突に「ブレーカーみたいなのがガコンと落ちるイメージ」がわいた。「なんかけっこうだるいな」「疲れたんだなあ」と思っていたら、ふらふらになって、夜中に倒れてしまった。「ブレーカーが落ちる」とは、限界を超えてエネルギーを使った結果、体の全機能が停止したということでしょうか。

 naoさんは病院に担ぎ込まれ、すぐ入院になります。突然の妻=体の逆襲でした。naoさんは慌ててしまいます。「誰でもいいから早く治してくれっていう感じでしたね。気持ちいいくらい変わりましたね。怖くて。体が怖くて」。それまでの「他人化」している関係なら、主導権はこちらにあります。ところが、体が支配をふりほどき、本当の「他人」になってしまった。「いつどうなるか分からない体になっちゃって。いきなり息止まるし。いきなりふわふわするし。いきなり鉛みたいになるし」。何をしでかすか分からない不気味な他人が、家の中にいる。そのことがnaoさんに恐怖を感じさせます。

 

切れ目ないメロディをずっと奏でている

 

 そのとき妻はどんな気分だったのでしょうか。

 naoさんは他人である妻=体の視点に立って語ることはないので、以下はあくまで私の推測になりますが、ヒントになるのは、naoさんがこの逆襲を「止まること」ととらえているという点です。ブレーカーのイメージもまさに「停止」ですし、naoさん自身も、入院は止まることであったと語っています。「二〇代一〇代だったらぜったい入院したくないって言ったと思うんですよね。もう観念して、たぶんそのころから意識的に、止まらないとこれだめだな、と思ったんです」。

 背景にあるのは、高校生でダイエットを始めて以来ずっと続いていた、naoさんの「止まれなさ」です。おそらくは一五年ほどにわたって一度も、naoさんは休むということができていない。その日々はまるで「切れ目ないメロディをずっと奏でている感じ」だったとnaoさんは言います。次から次へとやってくるメロディを弾き続けなければならず、いつまでたっても一息つくことができなかった。

 一応頭では「この仕事が終わったら休もう」と思ってはいます。でも、いざ終わってみたらすぐ次のことに取りかかっているのです。「休むってなんだろう、っていう感じですね。思い出せないんですよね。ぼうっとするとか、休むっていう感覚が、ほんとうに思い出せない」。

 言い換えればこれは、「疲れた」という「体の声」がnaoさんには聞こえなくなっていた、ということでしょう。「やらなければならないこと」に機械的に応答していく時間に切れ目を入れるのは、重い、だるい、といった体からの抵抗です。体はその声を発していたかもしれませんが、それがnaoさんにキャッチされることはなかった。「いまから思えば気力だけで働いていた」とnaoさんは言います。

 哲学者のビョンチョル・ハンは、『疲労社会』のなかで、過剰な活動性が容易に過剰な受動性に転じうることを指摘しています。そしてハンは、この奴隷状態に「ノー」を言うためには休むことが必要だが、同時にそれが非常に困難であるとも論じています。ハンが問題にしているのは、ダイエットではなく現代社会一般の状況であり、naoさんがかかえる問題に直接対応するものではありませんが、ここでは「妻の気持ち」を理解する手掛かりとして、その議論に耳を傾けてみたいと思います。

 

 活動は過剰に活動的(ハイパー・アクティヴ)なものへと先鋭化すると、かえって過剰に受動的なものへと転換してしまう。そして、この過剰に受動的な状態において、私たちはいかなる衝動や刺激にも抵抗できず従ってしまう。(…)過剰な活動から転換した過剰な受動性は、自由の代わりに新たな強制を生み出す。人は活動的になればなるほど、それだけいっそう自由であるというのは、ひとつの幻想であろう。

 刺激を遮断する習性がないと、行為は、落ち着きなく過剰に活動的(ハイパーアクティヴ)な反応や発散と変わらなくなってしまう。純粋な活動は、すでに存在しているものを持続させるだけにすぎない。それを他のものへとじっさいに転換させるためには、中断という否定性が必要となる。手を休めるという否定性を媒介にしてのみ、行為の主体は偶然性の空間の全体を横断することができる。[2]

 

 ハンの診断によれば、現代は「肯定」が過剰すぎる時代です。かつては「〇〇しなければならない」という社会的規範が明確に存在し、それが自己に対する抑圧として機能していました。しかしそうした規範の力が弱まった現代では、逆に自分の好きなことをして自分らしく生きることが奨励されています。それは一見自由になったように見えますが、逆に能力を発揮して成果を出すことへのプレッシャーを強め、人々をバーンアウトさせたりうつ状態に追い込んだりしている。この能力主義の時代に足りないのは、むしろ「否定」である、とハンは言います。

 先述のとおりこれはあくまで現代社会についての話ですが、naoさんの「止まれなさ」に通じるところがある指摘だと思います。naoさんは「すでに存在しているものを持続させること」、naoさんの比喩でいえば「メロディーが流れ続けるようにすること」以外の選択肢を持てなくなり、ひたすらやるべきことに応答していく「肯定」だけの状態に陥っていました。「やればできるを獲得しちゃったっていうか。うまくいかなくなっても、そのやり方を手放せないんですよね」。naoさんは「なんとなくぼーっと引き込まれるっていうのはない」と話します。

 こうした過剰な活動性のなかで失われるものは何か。それは「憤慨」だとハンは指摘します。つまり、ひどく怒ることです。

 注意しなければならないのは、「憤慨」は「苛立ち」とは異なるということです。針の穴に糸がなかなか通らなくてイライラする。体調が悪いのに調剤薬局で一時間待たされてムカムカする。これは「苛立ち」です。つまり、苛立ちは個別の出来事に対する怒りです。

 一方の「憤慨」とは、現在の状況全体に対する、より根本的な怒りです。それは現に存在するものの全体を捕え、すべてに対して否定を突きつけます。

 

 現代社会に広く見られる加速化や過剰な活動のなかで、私たちは憤慨することも忘れてしまっている。憤慨における特異な時間性は、加速化や過剰な活動と相容れない。加速化や過剰な活動は、時間的な幅を許容しない。そのため、未来は延長された現在という意味に切り詰められてしまう。だが、この延長された現在には、他なるものへの眼差しを許容する否定性が欠けている。それに対して、憤慨は現在をその全体において問う。そのために、現在のなかで中断し手を休める必要がある。この点で憤慨は苛立ちと異なる。(…)憤慨はある状態を中断し、別の新たな状態を始めることのできる能力である。こんにち、憤慨はますます苛立ちや腹立たしさに取って代わられている。しかし、苛立ちや腹立たしさは、根本的な変化を引き起こすことができない。[3]

 

 憤慨は、現在の時間をただ延長していくことに対する、全面的な「ノー」です。それは、例外状態を作り出します。この意味で、憤慨とは全面的な休息を召喚する身振りだと言うことができます。中断し、別の新たな生を始めること。受動的に活動させられている奴隷的な状態から、自分で自分の主人となって本当の意味で活動しはじめること。

 ここに休む=中断の本質的な意味があります。休むというと、力を抜いて何もしないことだというイメージがありますが、いったん過剰な活動状態に飲み込まれてしまったときには、休むとはむしろ出来事を起こすこと、現在を揺さぶることに他なりません。

 突然ブレーカーをさげるというnaoさんの体=妻の行為も、同じような全面的な中断の身振りだったように思います。六年前に倒れたとき、naoさんの体=妻は、ものすごく怒っていたのではないか。もうこれ以上メロディを奏で続けることはできない、と憤慨し、これまでの生き方を延長しないために、停止したのではないか。

 ちょっとした気晴らしではなく、根本的な休止を、例外状態を呼び込む必要がある。そのための根源的な怒りの「ノー」が、その夜に、文字通り身をもって発せられたのではないか。だからこそ、naoさんがそのとき、「体が怖い」と恐怖を感じたのではないでしょうか。

 

和解と赦し

 

 停止した体と、どう再び関係をつくるか。それが現在のnaoさんのテーマです。

 体調の変化の波を感じられるようになってきたものの、その関係はまだギクシャクしている、とnaoさんは言います。良かれと思ってやったことが裏目に出たり、ダメそうだと予想していたときにかえって調子がよかったりするからです。「今日は雨だから静かにしてた方が良いのかな、きっとだるくなるぞと思ったらやたら元気になったり、今日は晴れだから元気いっぱい動いて体を健康に持っていこうと思ったらものすごいしんどくなっちゃったり。 なんで?っていうタイミングでそういう反応が返ってきたりするんです」。

 もっとも、体が予想と違う反応をする、ということは、他の病気や障害の当事者からもよく聞かれることです。体調が悪くなると予想して一生懸命に準備しても、けっきょく悪くはならなかったりする。そうすると、疲れだけが残って「準備損」なので、過剰に予想に反応しすぎないほうがいい。体に敏感になればなるほど健康にすごせるわけではないので、「こうしたらこうなるはず」という理論を持ちつつも、その理論を信じすぎないことが重要である。よくそんな話を耳にします。

 こういう話からすると、現在のnaoさんの体に対するスタンスは、かなり丁寧に見えます。変な言い方になりますが、ずいぶん「下手(したて)」に出ている。まるで腫れ物にでも触るかのようです。実際、naoさんは、「今の体ははかなすぎる」と言います。

 なぜそうなるのか。

 言うまでもなく、DV夫としての罪悪感があるからです。「私が体に対して押し付けてきた無理難題って、何千何万個もあるわけじゃないですか。その命令が思い起こせばもう何十年分もあるわけで、それに体は必死の思いで耐えてきたな、っていうのもわかるので、はかないですね。もう飽き飽きしてるっていうのもなんかわかる。でもどうしたらいいかわかんない」。長きにわたって支配してきたという罪の意識があるからこそ、naoさんは、関係を修復するためには、まずは罪を認め、赦しを乞うことが必要だと感じてします。

 体との関係を作り直すためにnaoさんはいろいろな工夫を試みます。横になってみたり、休憩をとってみたり、マッサージをしてみたり。しかし、あらゆる赦しがそうであるように、そのプロセスは容易ではありません。「ごめんなさい」と頭を下げることが相手の心を開くどころか、かえって閉ざすこともあるように、赦しは、必ずしも加害者からの能動的な働きかけによって成立するとは限らないからです。デリダが指摘したように、もし赦しが謝罪と改悛に対して与えられるものならば、そこにあるのは単なる「エコノミー的な商取引」になってしまうでしょう。「もし私が、私に赦しを乞うために他者が告白し、立ち直り始め、みずからの過ちを変容させ始め、他者自身が過ちからみずからを切り離し始めることを条件として赦しを授けるとしたら、そのとき、私の赦しは、赦しを腐敗させるある計算によって汚染されるがままになり始めてしまうのだ」[4]

 naoさん自身も、いろいろな和解策を試みながら、「こうならなきゃダメだって思ったり考えたりすることで体を説得してるな」と思ってしまう。「DV夫の中には、妻に申し訳ないことしたと思う人もいると思うのですが、どうしたらもっと言うことを聞いてくれるかなぁっていう下心があって、状況を理解しているようで理解できてない男もいる。たぶん、そういうパターンなんですよね。やっぱり自分の心は、体がどうしたらまた元のように聞き分け良くなってくれるかなと思ってる」。

 つまり、和解の試みをしているかぎり、結局、以前と同じ管理型のアプローチを延長することになってしまうのではないか。「何とか私のこと聞いてよ、みたいにしていて、そのこと自体が、ちょっと違う次元なのかなって思ったりします」。そうはいっても、能動的な和解の試みを超えて赦しが「やってくる」ためには、逆説的ですが、naoさんがいま取り組んでいるように、和解の試みをさまざまに試みるしかないようにも思います。

 「ダイエットをする前の、自然に「お腹すいた〜」って思って食べていたころには、戻りたくても戻れない」とnaoさんは言います。ダイエットをしているあいだ、naoさんにとって食べることは「頭の営み」でした。つまり、カロリーやグラム数といった「数字の計算」の問題だったのです。そこには「お腹すいた」や「おいしい」の感覚はない。いったんそうなってしまったあとで、どうすれば再び「食べる」を、体の感覚の営みに戻すことができるのでしょうか。

 それはまるで、踊り方を忘れたムカデのような状態だとnaoさんは言います。意識しなければうまくできていたのに、いったん意識してしまうと、自然に行うことができなくなってしまう。「一回そっちに行くとなかなか戻れないですね……。 どこかで目的が舞い込んできたら、自然と、意識しなくてもやっていけるのかな、と思うんですけどね」。

 

 naoさんの話を聞いていると、人間にとって「感じる」とは何なのかということを考えさせられます。

  私が専門とする美学という学問は、ひとことで言えば「感じること」についての学問です。自戒を込めて言うのですが、これまでの美学は、「感じる能力」や「感じる内容」についてはさかんに議論してきましたが、「感じることの困難さ」についてはほとんど問題にしてこなかったように思います。

 感じる能力とはどのような能力か、またその感じ方にいかに時代や社会の影響が浸透しているか。こういったことについては議論の蓄積があります。けれども、それらはどれも「感じることができる」というのを当たり前のこととして扱ってきました。

 けれども、そもそも感じることができるためには、安全や健康や余暇や経済的な安定が保障されている必要があります。先程あげたハンは「文化が必要としているのは、深い観想的な注意の可能な環境である」[5]。感じることは文化の基本です。これが現代を覆う病だとすると、感じることができるというのは、もしかするとかなり特殊なことなのかもしれません。

 私と体との関係を考えるということの根本には、おそらくこの「感じるとは何か」とう問いがあります。次回以降、また別の方の語りを手がかりに考えていきたいと思います。

 

 

[1] 上記の文章は、二〇二二年五月に行われた著者によるnaoさんへのインタビューにもとづくものです。インタビューの全文はこちらで読むことができます。

[2] ビョンチョル・ハン(横山陸訳)『疲労社会』花伝社、2021、58頁

[3] 同前、60-61頁

[4] ジャック・デリダ(守中高明訳)『赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』未来社、2015、77頁

[5] 『疲労社会』、37頁

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著者略歴

  1. 伊藤亜紗

    東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。専門は美学、現代アート。主な著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)〔のちに『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)〕、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)、『感性でよむ西洋美術』(NHK出版)など多数。

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