朝日出版社ウェブマガジン

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一番身近な物体

第四回 帝国主義者のまなざし

 

初対面で全身スキャン

 

 シン・ユニさんの自宅におじゃましたのは、夏の初めのじめじめした日。介護のためにシフトに入っていた悠平さんに案内されて洗面所で手を洗い、マスクを新しいものと取り替えて、リビングにいるユニさんと対面しました。

 ユニさんは先天性疾患・脊髄性筋萎縮症(SMA)の当事者。24時間、入れ替わり立ち替わり約10人のヘルパーさんの介護を受けながら自立生活する大学院生です。認知能力や会話に問題はありませんが、筋力が低下しているため、体をほとんど動かすことができません。両腕も祈るような姿勢で常に肘が折り曲げられており、介護者がその位置をときどき調整しています。「自分の体でさわったことがない部位があるわけですよね」と訊いたら、「そうだね、お尻とかさわったことない。足もとどかない」と早口で返事が返ってきました。[i]

 日頃のインタビューで私が一番知りたいのは、その人とその人の体の関係です。生まれてから現在までのあいだに、その人は自分の体をどのようなものとして捉えるようになり、それに対してどのような距離感で接するようになったのか。しかしユニさんにはそもそも体との関係なんてあるのか? その設定自体、あまりに自分の体を前提にしたものだったのかも……そんな不安に苛まれながらの訪問でした。

 リビングに入ると、ユニさんは筋肉の少ない細い体をソファに横たえていました。水平のユニさんに、垂直に立ったまま近づいていく私。その出会いに、水平と垂直によって十字を作るようなぶつかり合いを感じたのは、私を見るユニさんの視線が、独特な動きをしたからでした。あくまで私が受けた主観的な印象ですが、ユニさんの目は、私ではなく私の体を、頭のてっぺんから足のつま先までさっとスキャンしたように感じたのです。

 一般的な社交において、見ることを許されているのはほぼ「顔」だけです。初対面のときは特に、断りもなく相手の体をじろじろ見ることは、それだけで失礼な行為にあたります。胸やお尻はもちろんのこと、頭部を見るだけでも「この人、私の髪型を変だと思っているのかな」等の疑念を相手に与えてしまうことになりかねません。視線に関しては、まさに顔だけが、他者に許された唯一のインターフェイスなのです。

 だからこそ、逆に礼儀の一線を越える意図があるときには、視線はずかずかと顔以外のパーツにも進出するようになります。たとえば、相手を性的に誘惑しようとしている場合。全身をなめまわすような「やらしい目つき」はその典型でしょう。あるいは人を侮辱する意図がある場合も同様です。以前、ヨーロッパのとある高級住宅街を歩いていたとき、仕立てのよいスーツ姿で子犬を散歩していた白人の老女に、頭のてっぺんから足のつま先まで、疑うような目つきで見られたことがあります。住宅地に入ってきたアジア人を見て、彼女は「穢らわしい」とでも言いたげでした。 

 そのような社交の常識にどっぷりつかっていた私にとって、一瞬でこちらの全身をスキャンしたユニさんの視線は、率直に言ってどぎまぎするものでした。確かにユニさんは視力がよく、眼球も活発に動きます。でもその動きは、単なる「観察力の高さ」のようなものには還元できないするどさがありました。この水平と垂直のぶつかりあいは何なのか? 言葉では歓迎してくれているけど、ユニさんは本心では私を訝しんでいるのはないか? 自分でも意外なほど動揺してしまい、その理由を正面から尋ねることができたのは、ようやく2回目に会ったときでした。

 

帝国主義者に狙われる

 

 ユニさん曰く、確かにそういうことは「やってる」。でもそういうふうに言われた経験がある程度で、自覚的にではない。あえてその理由を探すとしたら、との問いかけにユニさんはこう答えました。「いやもちろん、この人は僕を抱っこできるのかできないのかっていうのはなくはないと思う」。ユニさんの体を抱きかかえることができるのかどうか。自分の体重を支えるのに十分な筋力や腕の長さをこの人物は備えているのかどうか。つまりユニさんのスキャンするまなざしは、欲望や疑念からくるものではなく(そういう場合もあるかもしれないけれど、少なくともそれだけではなく)、きわめて実践的・実利的な関心からくるものだったのです。その背景を、ユニさんはこんなふうに語ります。

 

たとえば万が一今地震がきて、その人が生き残ったけど、ぱっと横見たらOくん〔そのときのヘルパー〕の体に鉄骨がぶっささってて「もうOくん死んだんだ」ってなったら(笑)、その人に抱っこしてもらって逃げるのかとか、そういう妄想をね、するよね。

 

 まるで漫才のようなヘルパーさんとのやりとりについてはまた後で。「妄想」とはいえ内容はいつ起こってもおかしくない、命にかかわるシリアスなものです。人と人の関係は現実的であり、同時に潜在的なものです。「この人とどのような関係を結ぶか」は「将来的にこの人とどこまで立ち入った関係を結ぶ可能性があるか」をめぐる了解を含んでいます。考えてみれば当たり前のことですが、私のように自力で動くことができる人が他人の体に対してもつ潜在的関係と、ユニさんが他人の体に対してもつ潜在的可能性は、全く異なっています。万が一のときは、自分はこの人の体を使って逃げるかもしれない。ユニさんの移動可能性は、そのときたまたま近くにあった他人の体の身体能力に完全に依存しています。つまり、ユニさんにとっては、あらゆる他者の体が潜在的に「自分の体」なのです。他人の体は文字通り「自分ごと」です。

 他人の体を潜在的な自分の体として見ること。見られた「他人」の側からすれば、それはユニさんの生存に自分の体が巻き込まれていくことを意味します。他人の体が自分の延長じゃなきゃ困る、というユニさんにとって、それは死活問題です。しかし、見られた側にも、ユニさんの体に組み込まれてしまうことへの直感的な戸惑いがあります。単刀直入に言ってしまえば、ユニさんに見られたとき、私は「狙われている」と感じたのです。横たわる細い体から発せられる、スナイパーのようなまなざし。ほんの一瞬だったけど、何だか射すくめられるような感じがしました。もちろんその緊張は言葉を交わすことによってすぐに解けたのですが、ユニさんにとって身体という言葉が意味するものを垣間見た気がした瞬間でした。

 そんな自身のあり方を、ユニさんは冗談めかして「帝国主義者」と呼びます。他者の体を取り込んで、自分の領土の一部にしていく。領土拡大を狙って、目は次なる大陸=体を探しています。もちろん、これはあくまでユニさんのケースであって、同じように介護を受けながら生活をしている人がみなそうだ、というわけではありません。「自由が好きなくせに、すべてを自分の手中におさめないと、気が済まない」というユニさん。ちなみに時間に関しても、ユニさんの一日のスケジュールは、勉強する時間、食事の時間、寝る時間、と厳格に規律化されていると言います。

「自分の体を自由に動かせないこと」と「すべてを手中におさめる帝国主義者としてふるまうこと」。自分に裁量のある範囲の多寡という意味では真逆にも思えるこの二つの傾向が、ユニさんのなかでは、ぶつかるどころかダイレクトにつながっているのです。もしかしたら、「体が動かせなくて不自由だ」という感覚すら、ユニさんにはないのかもしれない。「自分の体は何%くらい自分のものだと思いますか?」という私の質問に、ユニさんはこう答えています。

 

それがなかなか難しくて、何%自分のものっていうときのパーセントと所有権って、ぼくのイメージではちょっと違うんだよね。先に所有すべき量が決まっていないと、何%とっているとか、何%とられたかって言えないじゃない。でもぼくは帝国主義者だから、取りにいくべき領土が無限に広がってる。帝国主義者って自分が取るべき量を最初に決めてなくて、取れるものは取ったほうがいいっていう発想でしょ? だから「どこまでが」というのがなくて、どこまでも広がればいいという気がしてる。自覚としては100%だけどね。

 

 「自分の体は何%くらい自分のものか?」という問いは、その人の身体感覚を知るために、私がこれまでワークショップなどで何度も投げかけてきた定番の質問です。正確な統計をとってはいませんが、帰ってきた答えを平均すると、だいたい70%くらいは自分のもの、と思っている人が多いようです。「スポーツが思い通りできない」「介護に時間を取られている」など理由はさまざまですが、多くの人が、自分の体は完全には自分のものではないと感じているのです。90%以上と答える人はかなりまれ。障害や病気をもたず、かつ社会的地位や経済力のある人が、必ずしも高い値を答えるわけでもないのが、この調査の面白いところです。

 ところがユニさんは「100%」と言う。多くの人にとってこの質問のポイントは「自分のもの=自分でコントロールできる範囲」という「分子」の側にあります。でもユニさんにとってのポイントは、むしろ「自分の体の総量」という「分母」の方にある。値としては100%のまま、分母がたえず増大していくのです。電動車椅子の上にあるのは細い体であったとしても、ユニさんの体は無限に大きくなりえるのです。

 

他者の体の自己性/自己の体の他者性

 

 ただ注意しなければならないのは、ユニさんの帝国主義が、「他人の体を自分の意のままにあやつる」という意味での単純な道具化とはどうも様相が違っている、ということです。確かに関係性としては、他人の体は自分の体の延長じゃなきゃ困る。でもたとえば先にあげたような地震が本当にやってきたとき、他人の体が実際に役に立つかどうかは別問題だ、ともユニさんは言うのです。守ろうとしても、守りきれないかもしれない。他人の体は不確実性をはらんだ領土なのです。ユニさんは言います。

 

上から瓦礫が降ってきたときに、人間は反射的に頭を覆うわけじゃない。そのとき〔そばにいる他人が〕僕の頭を守って覆い被さってくれなきゃ困るじゃん。という意味では延長だけど、実際にどうなるかは分からないから、そういう意味では常に0。常に0だけど常に100かな。健常な人間だって、手を伸ばそうとするけど、頭を守れるかどうか分からない。だから同じなんだよね。100じゃなきゃ困るという規範の問題はあるけど、最終的にどうなるか分からないという意味では0。誰もが一寸先は闇。

 

 規範としては100%自分のものであってほしいけど、実際に機能するかは別問題だから、全く自分のものではないともいえる。重要なのは、ユニさんの「それは健常な人間も同じ」という指摘でしょう。確かに、自分で体を動かせる人間だって、身の安全を完全に守りきれるかどうかは分かりません。そもそも人は自分の体を意のままにあやつることはできず、体は自分の目的を達成するための完全な道具とはなりえないものです。であるなら、体を動かせる人にとっての自分の体との関係と、ユニさんにとっての他人の体の関係は、本質的には変わらないのかもしれない。つまり、ユニさんにとって他人の体が自分のものでありながら同時に自分のものでないように、体を動かせる人にとっても自分の体は自分のものでありながら自分のものではないのです。他者の体の自己性と、自己の体の他者性。この不確実性込みで、やはり他人の体は「道具」ではなく「体」なのです。

 体が私たちの意思をはぐれていくように、介助者もときにユニさんの意思をはぐれていきます。そしてユニさんは、あるレベルにおいておそらくそれを欲してもいる。ユニさんは、小学校2年生のときの介助員(教育委員会が派遣した学校内の介助を担当する人)が、今でもヘルパーの理想になっていると言います。ユニさん曰く、その介助員は「ちょっとアホな人」だった。

 ある日の放課後、ユニさんが学校の花壇に電動車椅子を走らせて、そこに植えられた花を見ようとしていたそうです。ところが位置が悪くて、どうしても見ることができなかった。その様子を背後からそっと見ていたその介助員さんは、近寄ってきて事情を尋ねます。そしておもむろに「花をぶちって引っこ抜いて持ってきた」のだそうです。

 

僕も、さすがに小学校2年生なりに規律化されてるから、花壇の花を抜いてはいけないってことは分かってるわけ。「抜いた!」って思って(笑)。それが見つかっちゃって、翌日担任の先生に呼び出されて、彼と僕が怒られたんだけど、先生も怒ってるときに笑ってるんだよね。一応教師として「花壇の花を抜いてはいけません」って言ってるんだけど、俺が抜いてって言ったわけじゃないし、大人が自らすすんで抜いてるし、抜いた理由も正当と言えなくもなくて、先生も困ったんだろうね。それで「これは怒ってない」っていうのが子供ながらに伝わってきて、そのとき僕は、「こういうときルールを守らなくてもいいんだ」って思って、ルールを守らなくてもいいって教えちゃう大人がいるっていうことが面白かった。っていうのが僕のひとつの理想の介助者の姿かな。

 

 花を見たいというユニさんの意思を、ある意味でストレートなやり方で実現した介助員さん。しかしその仕業を、「抜いた!」というちょっと引き気味の感嘆符とともにユニさんが眺めるとき、介助員さんはもはやユニさんの意思の延長ではありません。領土の一部が突然帝国から離脱したかのように、ユニさん自身がやってはいけないと思っていることを実行し始めてしまう。でもその行為は、ユニさんへの反乱ではなく、ルールよりもユニさんの欲望を上位に置いた結果の、服従の過剰とさえ言いうるものです。

 そして怒るに怒れなくなってしまった先生。社会の建前がやぶれてしまうような革命的な状況に、しかし小学校2年生のユニさんはむしろ開放感を感じています。介助者が意思を実現するだけの純粋な手足ではありえず、思いがけない出来事をつれてくる他者であることも、他人の体を取り込んで生きることの愉快さなのだ、とでも言うかのように。ユニさんの帝国主義は、自分が信じている規範の実現だけを善とする恐怖政治ではなく、「ちょっとアホ」をよろこぶ皇帝のいる帝国なのです。

 

体の声をブロードキャスト

 

 ではここからは具体的に、ユニさんと介助者のやりとりを見ていきましょう。ユニさんはどのように、自分の延長である他人の体を使いこなしているのでしょうか。

 そばにいてまず驚くのは、ユニさんが「ずっとしゃべっている」ということです。「体調がわるくてもしゃべってる。肺炎でゲホゲホしてるときでも、わりとしゃべってる」。もちろん普通の会話もしています。独り言や歌もあるそうです。でもユニさんに特徴的なのは、そうした言葉に加えて、「お水ちょうだい」「首のばして」などヘルパーさんへの指示が小刻みに挟まれていくことです。

 注意しなければならないのは、これらの指示の言葉が、一般的な社会的ふるまいとしての「人に何かをお願いする」場合とはやや違ったテンションとメカニズムを持っている、ということです。体を動かせる人の場合、喉が渇いたなと感じたら、手が自然と飲み物のほうに伸びていきます。場合によっては、喉の渇きを自覚するよりも先に、手が伸びているかもしれません。一方、ユニさんの場合、喉が渇いたなと感じたら、口が自然と「お水ちょうだい」と言っている。つまり、体を動かせる人にとって反射的な反応である「手を伸ばす」という動作と等価なものとして、ユニさんは言葉で介助者に指示を出しているのです。社会的なふるまいではなく、生理的ないし神経的な反応としての指示。ユニさんは言います。「何も考えずに口が動いてる」「体から出た信号が、ほぼ無意識的に口からぶわって出る感じ」。

 つまり、ユニさんは自分の体の生理的な状態を、絶えず外に向かってブロードキャストしているのです。睡眠、空腹、疲労、かゆみ、痛み……人間の体には、そうした生理的な欲求が一日中ざわめきのように起こっています。体を動かせる人であれば、ちょっと姿勢をずらしたり、患部をさすったり、食べ物を口に運んだりすることで、小刻みに起こるそうした欲求を解消していきます。一方、ユニさんはそれを、外へと常に「可視化」ならぬ「言葉化」することで解消につなげている。だからずっとしゃべっていることになる。見方を変えれば、ユニさんという存在は、刻々と変化する自分の体の生理的な状態と、介助者の具体的な行為を結びつけるための、単なる媒介者であるかのようです。「自分の体の声が支配の根源」だとユニさんは言います。「体の声しか聞かない。自分の体の声が支配の根源で、まわりを従属させる。わりとそういうところがあるかな」。

 ユニさんにおいて、「体の声が支配の根源」はかなり徹底しています。そのときに何かしていることがあったとしても、「体の声」が呼びかけてきたならそれを中断することも厭いません。たとえば大学にいるとき。「授業中もお腹すいちゃったらごめん僕お腹すいちゃったから帰るって言って帰っちゃう」。ユニさんにとっては、時間割よりも「空腹」というサインの方がプライオリティが上なのです。

 もっともこれは、ユニさんの価値観の問題ではなく、「体の声」を優先せざるを得ないという事情があります。特に食に関しては、子供のころから「食べることはちゃんとやらなきゃ」と自覚させられる出来事が重なっていました。体を直角に維持できなくなったため胃酸の逆流が起こったり、遊びに熱中しすぎて食事の量が減り低血糖症になったり、といった苦労をしていたのです。やりたいことがあったとしても体の声を聞かないとまずい。体の声は「中断させる声」でもあります。

 ちなみに、ブロードキャストの習慣そのものは、ユニさんが言葉をしゃべるようになった幼児のころからすでに持っていたものだと言います。ユニさんにとって、言葉はそもそもブロードキャストのための道具としてあった、とさえ言えるのかもしれない。もっとも、一般的に幼児は大人よりも自分の欲求を率直に表現するものですが、ユニさんの場合はその精度が異常に高かった。考えていることが全部外に出てくるから、お母さんもその点で悩むことはなかったそうです。

 

僕1歳になる前にしゃべりはじめたらしいんだよね。トイレの指示とごはんの指示が、0歳代にできていて、泣いているときにも、何で泣いているかを、母親だけじゃなくてみんなが分かるやり方で伝えてた。それで母ちゃんは、「この子は障害があっても大丈夫かもしれない」って思ったって。弟は健常者なんだけど、弟のほうが考えていることが分からなくて大変だったって。母親は、障害があるって分かったときは、2人で死のうかと思ったぐらいおびえちゃったけど、育て始めてからは、大変だと思ったことがマジでないって言ってた。自分が変わればよかっただけで。僕は考えていることが分かるからね。本当にずっとしゃべってて、本も読めないくらい疲れて10分くらい休むわっていうときも、YouTubeのカラオケとかをつけてずっとうたってるからね。

 

 言葉にできないから泣くのではなく、泣きながらその理由を言葉にする。恐るべき子供だなと思ってしまいますが、恐らくはユニさんの生まれ持った言語能力の高さと、身体的特性が相互に高め合って作られたローカルルールなのでしょう。「体がそういうふうに積み上げられてる」とユニさんは言います。

 

内語とかない

 

 しかし、何でも言葉にするということは、裏を返せば、言葉にしないものはない、ということを意味します。すべての感覚や思考を口に出すという習慣は、そのようなローカルルールを持たない人間にとっては、想像を絶する苦痛にも思えます。何しろそれは頭の中を常に誰かに覗かれている、ということなのですから。プライベートな自分と社会的な自分の区別はどうなっているのだろう? 誰にも言えない秘密はないのか? 自分を常に外に晒していて疲れてしまわないのか? いろいろな疑問が湧いてきます。

 こうした疑問に対し、ユニさんは「内語とかない」ときっぱり答えます。つまり、自分の頭の中だけでああでもないこうでもないと考え事をすることはない、と言うのです。「内語とかない。反省、リフレクシオンとかない。全部パロール」。

 体を動かせる人にとって、自分の「領土」は基本的に体の物理的限界と一致しています。そしてその領土内で行われる知的な営みを「考える」と呼んでいる。その内容は表情などによって漏らさないかぎり、本人の意思に反して「領土外」に知られることはありません。「考える」とは秘匿的な行いであり、法的にも、その秘匿性が保たれることを、「内面の自由」と呼んで保障しています。頭の中では何を思ってもいいし、何を信じてもいい。この意味で物理的な体は、思考を他者の目から匿っておくためのブラックボックスとしての機能を持っているといえます。

 一方ユニさんの「領土」は、体の物理的な限界を超えてその外側にも広がっています。だからこそ、考えるという営みが、物理的な体の外側において行われることになる。パロール、つまり声に出して話すことと、リフレクシオン、つまり頭の中であれこれ考えることは、物理的な体によって自分の思考の秘匿性を守ろうとしている人(≒体を動かせる人)にとっては截然と区別される二つの行為です。しかしユニさんにとってはそうではないのです。すべてがパロールの中で行われる。

 もちろん、だからといってユニさんの私生活がすべての人に対して公開されている、ということにはならないでしょう。介助者との信頼関係は重要であり、誰もがユニさんの「領土」に入り込めるわけではありません。それぞれの介助者との関係は、一朝一夕で作られたものではなく、数ヶ月から数年にわたる調整のたまものです。ユニさんの「物理的な体の外側で考える」行為は、あくまでそのような安定したネットワークの上に成り立っています。

 そのことを実感したのは、最初にユニさんの部屋を訪れたときの研究の様子でした。その日、ユニさんはルソーのフランス語の文献を日本語に訳す作業をしていました。その介助を担当していたのは、ヘルパーの悠平さん。驚いたのは、さまざまな物たちの配置でした。2人の体を取り囲むようにして、翻訳作業に用いられるさまざまな道具が、まるで職人の作業部屋のように、きわめて的確に配置されていたのです。

 まず、ユニさんはソファに横たわっています。そして悠平さんはユニさんを背にして手前の床に座り、ローテーブル上のパソコンに向かっているという関係――つまり、ユニさんは悠平さんの右肩越しにパソコンの画面を見ており、2人はちょうど二人羽織のような格好になっています。基本的な作業としては、ユニさんがルソーの原文を口頭で訳し、悠平さんがそれをパソコンに打ち込んでいきます。

 道具の配置を見ていきましょう。一番重要なルソーの原著は、書見台に立てた状態でパソコンの右手奥に置いてあります。その手前右手には分厚いフランス語の辞書と、フランス語の文法書が。パソコンの反対側、左手側には、原著と対称をなすようにルソーの既訳本が置かれ、手前にはスマホと電子辞書、マウス、ボックスティッシュ、そしてユニさんの足元には数枚のタオルが置かれています。さらに細かく言えば、パソコンの画面内にも配置があります。作業中、デスクトップ上には原文のデータファイルと、訳語を書き込むワードファイルが開かれており、その二つのウィンドウにも2人にとっての最適な配置があるようでした。

 同じ物でもどこに置くかによって機動性がまったく変わってきます。それはまさに「布陣」であって、仕事全体の質を決定します。翻訳という極めて複雑な作業が、2つの体と多数の物の的確な布陣のうえに実現されていくさまに、「物理的な体の外で考える」の実践を見た気がしました。それは2人がともに作業をするなかで徐々に落ち着いていったやり方なのでしょう。

 ただし重要なのは、この作業の過程でヘルパーの悠平さんは「訳語の打ち込み」だけをやっていたわけではない、ということです。ユニさんに「頭掻いて」と言われれば、振り返ってここかなと思われるところを掻く。「肩揉んで」と言われれば、肩を揉む。「吸って」と言われば、キッチンから器具をとってきて唾液や痰を吸引をする。タオルで顔を拭く。つまり、「翻訳」の作業はただ翻訳だけを行うのではなく、ユニさんの「体の声」によって絶えず侵食されているのです。苦手だという「複数の仕事の同時対応」をせまられる悠平さん。ルソーの文章を翻訳することと、自分の体の声をブロードキャストすることは、ユニさんにおいてはシームレスにつながっています。

 

舞台にあがる舞台裏

 

 こうした次元の異なる言葉がシームレスにつながっていくことは、傍で観察している分には見事で見入ってしまいます。ですが、同様のことがインタビューにおいても起こるため、実際に聞いた内容を文字起こしし、原稿として残す際にはある悩みが発生しました。どこまでが、文字化すべきコンテンツなのかがよく分からないのです。

 インタビューなので、基本的には私が質問し、それに対してユニさんが答えるというやりとりをしています。でも、翻訳作業の場合と同様、ユニさんは質問に答える合間に――というよりしばしば答えの途中で――自分の体の声をブロードキャストする(=ヘルパーさんへの指示を出す)のです。

 ユニさんの体の仕組みを知れば、そうした指示は、体を動かせる人が、話しながらちょっと腰を浮かせて椅子に座り直したり、肩の凝りをほぐすために首を傾けたりするのと同じようなものだと分かります。でも、ユニさんの場合は、どちらも言葉を介したやりとりです。私から見るとユニさんは常に「主演俳優」と「現場監督」の二役をこなしている感じで、「セリフ」と「裏方への指示」がシームレスにつながっているように見えます。インタビューの文字起こしという意味では「セリフ」だけ取り出せばよいのかもしれませんが、注意深く観察すると、二つは完全に分離されているわけではなく、ときに影響しあっているのです。

 たとえば、先ほどの「自分の体の声が支配の根源」に関する説明箇所も、実はその説明だけが答えとして話されたわけではありません。実際のユニさんのしゃべりは、こんなふうに、私に向けられた「セリフ」と、ヘルパーさんへの「指示」が混じり合いながら進行していました。

 

質問に「体とうまくやるコツは何ですか」ってあったよね。それに関しては僕は摂食障害者とは違って、むしろ、体の声しか聞かない。自分の体の声が支配の根源で、まわりを従属させる。わりとそういうところがあるかな。たとえば、「お腹すいた」って――ちょっと待ってヘルパーさんお水ちょうだい、ものすごい…それまでずっと勉強してたからそんな隙はなかったんだよね――そういう感じで、体から出た信号が、ほぼ無意識的に口からぶわって出る感じ

 

 引用した発言のうち、一重下線を引いた箇所は私に向けられた「セリフ」と解釈できる言葉です。冒頭はしばらくこの「セリフ」が続きますが、途中で「ヘルパーさんお水ちょうだい」という太字で示した発言が挿入されます。これは私ではなくヘルパーさんに向けられた「指示」です。問題はその後の二重下線を引いた箇所。まず「それまでずっと勉強してたからそんな隙はなかったんだよね」という発言が続きます。これは「セリフ」の途中で「指示」を出したことへの、あるいは水を飲むことへの、私に対する釈明とも取れる発言です。つまりすでに「セリフ」が「指示」によって介入されています。

 さらにそのあとの二重下線「そういう感じで」は、「体の声が支配の根源」という現在進行形のトピックに対して、「喉が渇いたから指示を出して水を飲む」という裏方のやりとりが、ひとつの事例になっているということを示唆する発言です。その意味では「指示」はもはや裏方ではなく、「セリフ」と同格かそれ以上のコンテンツになっているとも言えます。

 では、そのような指示を出したことは、説明を分かりやすくするためにユニさんが意図的に行ったデモンストレーションだったのか? おそらくそうではないはずです。実態はむしろ逆で、「体の声が支配の根源」というトピックについて話していたからこそ、それまで気づかなかった「喉が渇いた」という体の声が意識にのぼったのではないかと推測できます。なぜなら、ユニさんにとって体の声は、「打ち消したいけど打ち消せないノイズ」という側面をもっており、一定時間「まぎれる」ものでもあるからです。そうやってトピックに刺激されて意識にのぼった体の声に対して、指示が完了してから遡及的に、ユニさんがそれを「実例」として位置付け直したのではないか。この場合は、「セリフ」が「指示」を触発した、とも言えます。

 こんなふうに、ユニさんのインタビューは「セリフ」と「指示」がときに不可分のものとして混じり合いながら進行します。しかもその混合具合は均一ではなく、「指示」が頻繁になされる時間帯とそうでない時間帯がある。結局、私は「指示」も含めてすべて文字起こしすることにしました。ユニさんに事前に原稿を見てもらったところ、「読みにくい」との指摘があったのですが、理由を説明して納得してもらいました。

 

口述筆記する谷崎

 

 おそらく、世の中にすでに出版されている文章の行間にも、こうしたさまざまな「指示」が実はあったのでしょう。それらは、実際には著者の「考える」の一部を成していたかもしれないけれど、コンテンツではないと判断されて、原稿からは削除されていったのではないか。

 たとえば晩年の谷崎潤一郎(一八八六―一九六五)は、高血圧症に起因する極度の眩暈や右手の麻痺、視力の低下のために、自分で筆をとることが難しくなっていました。そこで原稿執筆の補助を中心的な役目とする秘書・伊吹和子を雇い、一九五八年以降はほぼ全面的に口述筆記によって執筆するようになります。つまり、谷崎が言葉で話した内容を秘書が書き留めるという、ユニさんと同じスタイルで書くようになったのです。

 その過程を詳細に分析した田村美由紀は、谷崎の「一人ひそかに原稿用紙に向はなければ思想が湧いてこない」という発言を受けて、彼の口述筆記の経験をこう分析しています。

 

他者を前にした外的な発話行為は、思考を刺激し、自己の意識化を促す契機にもなり得るが、谷崎の場合、思考を湧き上がらせるのは生身の人間との接触や対話ではなく、原稿やペンなど書字用具を通した物理的な刺激と自己との内的対話だったのだろう。思考と書字との連携はそれほどまでに強固であり、外的な発話はその再帰的な関係を断ち切る行為として認識されていたことがわかる。長い作家生活のなかで谷崎が培ってきた創作スタイルは、口述筆記という執筆形態とけっして相性が良いわけではなかったのだ。[ii]

 

 「自分の物理的な体でもって道具を使用すること」と「自己との内的な対話」がなくては思考が生まれないとは、ユニさんの思考のシステムを知った今となっては、「谷崎もまだまだだなあ」という気がしてきます。田村が指摘するように、執筆形態の変更は、単なる物理的な技法の更新というだけでなく、「作家」としての主体性やジェンダー規範とも関わる複雑な問題をはらんでおり、谷崎にとっては幾重にも困難な道のりだったでしょう。

 興味深いのは、こうした口述筆記が、原稿補助のために雇われた秘書である伊吹以外の人物、すなわち谷崎家の家事を補助するお手伝いさんによっても担われていた、という事実です。そうしたお手伝いさんの中には、谷崎作品の文学的価値や作家としての権威性に対してまったく関心を持っていない人物もいました。伊吹の回想録によれば、お手伝いのヨシさんは「はーい、書きましたよー。次を早う言うて下さいやー」と催促したり、「ええ加減に早うして下さい先生、しんきくさいなあ、もう。わたし、忙しいのに。お洗濯かてせんならんし、お風呂場も汚れたあるし」と谷崎を責めたりする始末。彼女にとっては書斎の仕事は家事労働の一種か、それ以下の「イヤで仕方のない仕事」だったようです。[iii]

 しかし、発表された谷崎の作品からは、こうした「行間」は削られています。実際には、伊吹やヨシさんという他の人間の身体を媒介にして谷崎が執筆した作品であり、その執筆形態は作品の内容にも影響を与えているはずです。にもかかわらず、そうしたことは少なくとも表面上は「コンテンツ」の外部に置かれています。

 こうしたことは、根本的には「オーサーシップとは何か」という大きな問題につながっていきます。ある文章があったとして、その作者は誰なのか。何がコンテンツなのか。障害は、近代が作り上げたこの「作者」という概念に、疑問を投げかけます。[iv] 体の使い方が変われば考える方式が変わり、考える方式が変われば思想の主体も変わる。それは単に、そこに関わった人すべての名前を列挙すればいい、という単純な話ではないでしょう。ユニさんの拡張した「体」は、そんなことも問いかけているように感じます。

 

 

 

[i] シン・ユニさんへのインタビューはこちらで公開しています。

[ii] 田村美由紀『口述筆記する文学――書くことの代行とジェンダー』名古屋大学出版会、2023、pp. 32-33.

[iii] 前掲書、pp. 47-48.

[iv] 障害とオーサーシップの問題については以下を参照。 Mara Mills and Rebecca Sanchez ed. Crip Authorship: Disability as Method, NYU Press, 2023

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