朝日出版社ウェブマガジン

MENU

遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第二回 遊びの理由・遊びのメタフィジックス

遊びの理由(後半)

【第1回から続く】

  では、「なぜ遊べるのか?」の問いに、遊びの目的●●をもって答えたら、どうだろうか。

 たとえば、子猫が遊びながら狩りの練習をするように、いずれ大人になって社会で生きるために、子どもは遊んでいるのかもしれない[9]。明らかに(人間の)子どもは大人をまねて遊ぶことがある。おままごとは家庭をまねているし、お店屋さんごっこは商売をまねている。また、キッザニア(KidZania)のように、まさに子どもが遊びながら大人の社会を体験できる施設もある[10]

 あるいは、美的仮象を創造したり享受したりするために、私たちは遊ぶのかもしれない[11]。たしかに、絵を描いたり見たりして、あるいは、歌を歌ったり聞いたりして、私たちは遊ぶことがある。また、もしかしたら、ホイジンガの言うように、そもそも「遊びには美しくなろうとする傾向がある」[12]のかもしれない。すると、おままごとでお母さんになる子どもと、舞台でハムレットを演じる俳優が、本質的に同じことをしていることになるように[13]、遊びと美しさは互いに分かちがたく結ばれることになる。子どもの遊びからも美は生まれ、芸術家も美のために遊ぶからである。だとすれば、遊びとはそもそも美的な行為であるのかもしれない[14]

 なるほど、何か目的があって遊ぶのなら、遊びはなお自由な行為でありうる。というのも、遊びに目的があるとしても、それを達成する手段は遊び以外にもありうるからである。たとえば、大人として社会で生きる術は、むしろ学校教育の中で学んで身に付けるべきかもしれない。また、美しい芸術に触れること自体が、そもそも必要ない人もいるかもしれない。だとすれば、美の手段である遊びもまたその人には必要のないことになる。以上から、遊びが何かの手段であるなら、遊びはやはり自由な行為であることになる。そのときには遊ばなくてもよいからである。

 とはいえ、行為の目的は、行為の結果●●として、定められなければならない。――さもなければ、いかにしてそれを狙えるのか。――なぜなら、遊びの目的は、それが遊びの結果として生じるときに、果たされるからである。すると、遊んだ結果それが起こるのなら、それの原因として遊んでいなければならない。しかし、もちろん、遊びの目的は、遊んでいるときに、すでに果たされているわけではない。(もしそうであれば、そのために遊ぶ必要はなくなる。)遊ぶときには、遊びの結果はまだ出ていない。だから、それは、遊んでいるときには、遊びの結果でなく、遊びの目的であるにすぎない。そして、遊びもまた、それの原因でなく、それの手段であるにすぎない。

 手段と目的の関係は、(原因と結果の関係と違って、)必然的であるとはかぎらない。そもそも、すでに達成していることは、目的になりえない。だから、手段が講じられているときには、むしろ目的は果たされていてはならない。目的があって遊ぶとき、それは、果たされていてはならないし、それゆえに果たされるとはかぎらない。手段は目的を達成しないかもしれない。遊んでも何にもならないかもしれない。それにもかかわらず、私たちは遊ぶことができるのである。だとすれば、仮に目的があって遊ぶとしても、遊びはなお自由な行為でありうる。遊びはしなくてもよいのである。

 

遊びのメタフィジックス

 ところが、遊びの目的については、従来の遊び論に共通する有力な見解がある[15]。すなわち、遊びとは「それ自身のためにのみ行われる」[16]ものである。こうした遊びの自己目的性はもちろんホイジンガにも共有されている。彼によれば、「遊びはそれだけで完結している行為であり、その行為そのもののなかで満足を得ようとして行われる」[17]。遊びは、遊び以外の何かのために為されるのでなく、まさに遊ぶこと自体のために為されるのである。

 これは明らかに直前の論旨に反する。つまり、私たちは、遊ぶこと以外の別の目的のために、遊ぶことができるのではなかったか。それとも、本当の●●●遊びには、遊ぶこと以外に別の目的があってはならないのか。

 ここで私は後者の遊びをあえて「本当の遊び」と呼びたい。なぜなら、それ自体が目的である遊びは、遊びでしかない●●●●●●●からである。もちろん前者の遊びも遊びではあるだろう。しかし、それは、遊びでもありうるが、他の何かでもありうる。たとえば、ライオンの子は、狩りをして、遊んでもいるが、学んでもいるだろう。また、美しい絵を描く人は、遊んでいるのかもしれないが、働いているのかもしれない。

 でも、どうして学習や仕事でさえ遊びになるのだろうか。それはおそらく、どんなことであれ、(それが自由な行為であるなら、)それ自体を自己目的的に楽しむことが(なぜか)できるからである。だから、ここで私たちが探求すべきは、自己目的的な遊びなのである。私たちは遊びでしかない遊び●●●●●●●●●を探究すべきである。

 もちろん、自己目的的な遊びを遊ぶことは(少なくとも私には)至難の業である。というのも、私たちは――おそらく人間の自然本性レベルで――あらゆることを因果的に捉えてしまうからである。たしかに、どんな遊びであれ、それ自体としては自己目的的であるだろう。しかし、私たちが、それを手段とし、別の目的に結び付けてしまうとき、それはすでに原因と結果の関係に巻き込まれてしまっている。遊びの目的は、遊びの結果として生じるときに、果たされるからである。また、(さらに悪いことに)遊びの原因が求められることもある。だが、そのときには、それは、もはや自由な行為ではなく、したがって遊びでもなくなるのである。ようするに、「遊びは、遊びが行われる文脈や遊びが招く結果、あるいは遊びをするために作り出された物や場所から、簡単に引き離せる活動ではない」[18] 。どんなことであれ、原因と結果の関係に巻き込まれうるからである。

 それでも、自己目的的な遊びが探求されなければならない。というのも、手段より目的が求められるなら、自らを目的とする遊びは、他の何の手段でもなく、それゆえにもっとも求められるはずだからである。アリストテレスによれば、幸福(エウダイモニア)はそれ自体のために求められる即自的な活動であるが、遊びもまた、それ以外の何かのためでなく、それ自体のために求められる即自的な活動である[19]。(とはいえ、結局アリストテレスはすぐに遊びを労働のための休息と見直してしまうのだが[20]。)だとすれば、自己目的的な遊びもまた(幸福のように)それ自体で最高に求められるはずである。だから、自らを目的とする遊びが探求されねばならないのである。

 では、自己目的的な遊びはどのように探求されるのか。それはもちろん形而上学的(メタフィジカル)に探求されねばならない。というのも、もしそれが自然科学的(フィジカル)に探求されるなら、それは因果的に探求されることになるからである。西村清和は『遊びの現象学』で次のように書いている。

 

(…)科学的精神は、観察された所与事実の根拠としての因果性を究明する。いまや、ひとはあらためて、遊び行動という、生物学的、心理・生理学的事実のかくされた根拠を、したがって、「ひとは、なぜ遊ぶか」という原因を、また「ひとは、なんのために遊ぶか」という目的因を問う。[21]

 

 ようするに、遊びを必然的に引き起こす原因も、遊びの結果として果たされる目的も、自然科学的(フィジカル)に探求される。しかし、それ自体が目的である遊びには、それ以外の原因はもちろん、それ以外の目的さえあってはならない。本当の遊びは、因果を逃れ、即自的にのみ為されるのである。

 したがって、私たちはここで新たな遊びの理由●●●●●を考えたいわけではない。というのも、「なぜ遊ぶ(ことができる)のか?」の問いには、遊びの原因か遊びの目的をもって答えることになってしまうからだ。でも、遊びの原因をもってそれに答えるなら、遊びはしなくてもよい自由な行為ではなくなってしまう。また、遊びの目的をもってそれに答えるなら、遊びは自らのための即自的な活動ではなくなってしまう。だから、自由かつ即自的な遊びには、原因も目的も(すなわち理由も結果も)ありえない。しかし、私たちはそれを探究したいのである。

 それゆえに、私たちは、自然科学(フィジックス)を超えて●●●、すなわち形而上学的(メタ●●フィジカル)に、遊びを探究すべきである。なぜなら、為されない自由があるのに、即自的に為される遊びを、私たちは探求したいからである。自然科学的(フィジカル)な世界はどうしても原因と結果の関係に巻き込まれる。しかし、子どもは本当の遊びを、遊ばなくてもよいのに、遊ぶためにのみ遊ぶことができる。そして、本当の遊びは、因果的な枠組みを逃れ、それゆえに自然科学(フィジックス)を超える。だから、本当の遊びは形而上学的(メタフィジカル)に探求される。むろんそこでは「なぜ本当に遊べるのか?」と問うことはできない。そこに因果はないからである。そうではなくて、そこで問われるべきは、「本当の遊びとは何なのか?」である。これを形而上学的(メタフィジカル)に探求することが本連載の目標である(が、ここでこそむしろ本当に遊んでみたいものである)。

 

 

[9] Cf. 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,7-8,12-14頁.

[10] KidZania Japan「キッザニアとは」https://www.kidzania.jp/about(2023年10月30日閲覧)

[11] Cf. 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,8-9頁.

[12] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,37頁.

[13] Cf. 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,18頁.

[14] Cf. 松永伸司『ビデオゲームの美学』慶応義塾大学出版会,2021年9月1日,312-313頁.

[15] シカール,ミゲル.『プレイ・マターズ:遊び心の哲学』松永伸司訳,2021年5月20日,36頁.

[16] スーツ,バーナード.『キリギリスの哲学:ゲームプレイと理想の人生』川谷茂樹・山田貴裕訳,ナカニシヤ出版,2015年4月16日,124頁.

[17] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,33-34頁.

[18] シカール,ミゲル.『プレイ・マターズ:遊び心の哲学』松永伸司訳,2021年5月20日,66頁.

[19] アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』高田三郎訳,岩波文庫,2001年9月25日,170-171頁.

[20] アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』高田三郎訳,岩波文庫,2001年9月25日,172頁.

[21] 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,11頁.

バックナンバー

著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

ジャンル

お知らせ

ランキング

閉じる