第一回 子どもの遊び
世界は遊びにあふれている。むろん子どもはよく遊ぶし、よく遊ぶ大人もいる。だが、そもそも遊びとは何なのか。なぜ、ただ走り回ることも、カフェでのおしゃべりも、遊びなのか。きっと私たちは何であれ遊ぶことができる。食事や散歩も遊びになるし、ゲームやスポーツでも遊べる。勉強や仕事さえ遊べる人もいるだろう。とはいえ、これらの遊びは遊びでしかないわけではない。それらは遊ぶこと以外の理由があって遊ばれるからである。たとえば、あり余る元気が子どもを走らせるのかもしれない。また、大人は気晴らしにカフェに行くのかもしれない。だが、世界には遊びでしかない遊びがある。それは遊ぶこと自体のために遊ばれる。遊びを探究するなら、これを哲学すべきである。なぜなら、これは遊びでしかないからである。たしかに子どもは遊んでしかいないことがある。でも、遊びでしかない遊びが遊ばれるとき、そこには何が起こっているのだろうか。どうしたら遊びでしかない遊びを遊べるのだろうか。
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子どもの遊び
子どもは本当によく遊ぶ。いや、もちろんよく遊ぶ大人もいるだろうが、子どもはいつでもどこでも遊んでいる。でも、どうして子どもはそんなに遊べるのだろうか。
子どもの遊びは目が覚めるとすぐに始まる。今朝、私がトリケラトプスとして起こされたときには、子どもはすでにティラノサウルスになっていた。襲われるのかと思ったら、なぜか世話をしてくれた。子どもは服を着替えながらも遊んでいる。パンツを頭に被ったり、シャツを履いたりするので、なかなか着替え終わらない。さらに食事中にも遊ぶことができる。なぜかブルーベリーが、ブロッコリーの上を転がったり、牛乳の入ったコップの中に落ちたりする。やっと食べ終わったときには、口の周りはチョコレートだらけだし、テーブルの下はパンくずだらけである。
子どもは学校へも遊びながら行く。急に走り出すことがあるので、危なくてしょうがないし、そのまま走り続けられると、朝から(私も)汗をかくことになる。また、子どもはなぜか急に真っ直ぐにしか歩けなくなる。そうすると、行き止まりの道ではずっと足踏みをしているし、通学路を逸れて知らない人の家に入りそうになるので、私が彼の向きを適切に変えてあげなければならない。
学校ではどうしているのだろうか。たとえば学校でも休み時間には遊べるかもしれない。しかし、少なくとも授業中は遊ぶべきではないだろう。それは遊ぶことが疎まれるときである。たとえば公園のように遊びが推奨される場もある。つまり、そこではたくさん遊ぶべきである。とはいえ、遊びはもちろん疎まれることもある。たとえば、光化学スモッグ警報が出ていたら、屋外で遊ぶべきではない。あるいは、家族が風邪で寝込んでいたら、(少なくとも病床では)遊ぶべきではない。授業中(や大人なら仕事中)に遊んでいたら、きっと教師(や上司)に怒られる。だが、遊びはいつでもどこでも可能である。だとすれば、子どもは授業中に遊んで先生に怒られているかもしれない。
もちろん、学校から家に帰るときも、遊ばずにはいられない。なぜなら、帰り道には遊べるものがたくさんあるからだ。ただの石でさえ子どもは蹴って遊ぶことができるが、きれいな石なら子どもは喜んで持って帰ってくる。そして、どこかから拾ってきた葉っぱや枝などと一緒に庭の片隅にずっと置いておく(が、そのうち無くなっていても特に気に留めるわけでもない)。さらに子どもは虫を捕まえてくる。たとえば、ダンゴムシくらいなら、家に入る前に手放してくれるが、バッタやカマキリだと、しばらく(数時間から数日)虫かごで観察してから、また草むらに逃がしに行くことになるし、カブトムシやクワガタであれば、名前まで付けて、そのままずっと飼い続けることもある。
さらに子どもは遊び続ける。お風呂ではよく海の生き物たちと遊んでいる。たいていジンベイザメは優雅に泳いでいるが、すぐ近くではゴマフアザラシがシャチの親子によく弄ばれている。また、そこでは、水族館のように、イルカのショーも見られるし、ペンギンのエサやり体験もできる。だが、お風呂にはさらにモササウルスがいる。だから、まるでジュラシックワールドのようなモササウルスのショーを見ることもできるし、お望みなら、モササウルスにアンモナイトを食べさせることもできる。
まだ子どもは遊ぶ。子どもは寝るまで遊んでいる。今度はなぜか自分がペンギンになって布団の上に巣を作っている。寝室に入ると、「きみ、だれ?」と聞いてくるので、しかたなく「カピバラ」と答えてはみるが、どうしたらカピバラがペンギンを寝かしつけられるのだろうか。ひとまずペンギンとカピバラのまま寝る準備をする。子ペンギンは歯を磨きながら歌っている。トイレにはカピバラに乗っていく。お母さんペンギンに本も読んでもらう。すると、子ペンギンはいつの間にか眠っている。いつの間にか私もカピバラではなくなっている。
こうして朝から晩まで子どもはずっと遊んでいる。だから、子どもと過ごす日は、こちらもずっと遊ぶように促される。だが、大人は――少なくとも私は――子どものようには遊べない。大人はつい遊びでないこともしてしまうからである。けれども、子どもはただひたすらに遊び続けることができる。子どもは一日中ずっと遊んでしかいないことがある。
でも、どうしたらそんなによく遊べるのだろうか。大人だって――少なくとも私は――ときには子どものように遊んでみたい。しかし、子どものように遊ぶには、何をどうしたらよいのだろうか。子どもが遊んでいるとき、そこには何が起きているのだろうか。子どもの遊びとは何なのだろうか。
遊びの理由
もしかしたら、いわゆる「遊戯」の境地に至るなら、あらゆることが遊べるのかもしれない。たとえば、「禅仏教の『遊戯三昧』では、自らの意志も自我の一部であると捉え、それを取り除いた先に『遊び』の境地を見る」[1]、といわれる。なるほど、我を忘れて遊びに没頭する子どもは、いわば無我の境地にあって、まさに遊んでいるだけなのかもしれない。だが、無心で遊ぶ子どもは、無我の境地に達しているから、遊びに没頭できるのだろうか。おそらくそうではない。というのは、子どもは、いつでもどこでも遊ぶことはできるが、あらゆることを遊べるわけではないからである。たとえば、どんなによく遊ぶ子どもでも、漢字ドリルの宿題は遊べないかもしれない。あるいは、体育が遊べない子どももいるだろうし、掃除が遊べない子どももいるだろう。習い事が遊べない子どももいる。しかし、「遊戯」の境地に至るなら、きっと何であれ遊ぶことができるはずである。すると、子どもは、無我の境地にいるから、ただ遊ぶことだけができるわけではない。そうではなくて、ただ遊ぶことだけができるから、(遊んでいる間は)我を忘れることができるのである。でも、どうして子どもはただ遊ぶことができるのだろうか。
もちろん子どもは遊ばなければならないわけではない。つまり、子どもは、遊ぶこともできるが、遊ばないこともできる。にもかかわらず、子どもはよく遊ぶのである。もしかしたら、「遊戯」の境地においては、遊ばないことはできないのかもしれない。というのは、(それはそれで驚くべき境地ではあるのだが、)そこではあらゆることが遊ばれてしまうからである。だが、そもそも遊びとは自由なものではないだろうか。すなわち、遊びとは、することもできるが、しないこともできる、余計なものではないだろうか。遊び論の大家ホイジンガが言うように、「命令されてする遊び、そんなものはもう遊びでない」[2]。子どもは、遊ばなくてもよいのに、遊んでいるのである。
それゆえに、子どもの遊びは(意図的な)行為である、といえる。つまり、それは、たんに手が上がるような行動でなく、あえて手を挙げるような行為である[3]。むろん遊びにはフィジカルな運動が伴われるだろう。なぜなら、遊ぶということは、何かをして遊ぶということだからである。子どもたちは、飛び跳ねたり、走り回ったりして、遊ぶかもしれない。本を読んだり、歌を歌ったりして、遊ぶこともあるかもしれない。また、大人たちは、カフェでおしゃべりをしたり、お酒を飲んだりして、遊ぶかもしれない。あるいは、たんに空想にふけって遊ぶ人もいるかもしれない。しかし、たんに空想するときでさえ、脳の諸部分にはフィジカルな運動がなければならない。もちろん、どんなことをして遊ばなければならないということはない。というのは、どんなことであれ、どんなことでも遊びになりうるからである。とはいえ、遊ぶためには必ず何かをしなければならない。何もすることなしにただ遊ぶということはありえない。
ここで行為(と行動)の本質(的な相違)に切り込むことは(私の手に余るので)できない。しかし、遊びが(意図的な)行為であるのなら、「なぜ遊ぶ(ことができる)のか?」と問うことができる[4]。すなわち、自由な(意図的な)行為は、しなくてもよいのだから、それをするときには、それをする理由があるはずである。けれども、「なぜ子どもは遊ぶ(ことができる)のか?」と問われたら、どのように答えるべきなのだろうか。何を子どもが遊べる理由とすべきなのだろうか。
まず、私たちは、理由を聞かれたときに、原因 を答えることがある。たとえば、「なぜ遅刻したのか?」と聞かれたときに、「電車が遅延したため」と答えられるのは、電車の遅延が遅刻の原因だからである。では、子どもの遊びの原因は何だろうか。何が子どもの遊びを引き起こすのだろうか。
たとえば、子どもは、エネルギーがあり余っているから、遊べるのかもしれない[5]。たしかに子どもは総じて大人よりも元気に見える。私自身も、公園で子どもと遊ぶと、子どもより先に疲れてしまうことがある。すると、子どもの遊びの原因はエネルギーの余剰である、といえるかもしれない。
あるいは、遊びの原因は暇への不安であるかもしれない。すなわち、子ども(というよりも人間)は、することがない暇な時間への不安から、気晴らしとして遊んでしまうのである[6]。何もしないことはたしかに難しい。特に予定のない休日が苦手な人は、友人を誘って食事に行くかもしれないし、見たかった映画を見に行くかもしれない。また、外に出かけない人でも、ついスマホをいじってしまったり、ゆっくり本を読んだりするかもしれない。
とはいえ、行為の理由は行為の原因に尽きるのだろうか。たしかに、――遅刻の理由を聞かれ、遅刻の原因を答えるように、――理由と原因が交換可能な文脈では、原因をもって理由とすることはある[7]。だが、私たちは、行為の理由を聞かれたときに、行為の目的を答えることもある。たとえば、「なぜ遅刻したのか?」と聞かれ、(きっと怒られるだろうが)「朝礼に出たくなかったから」と答えるなら、朝礼の欠席が遅刻の目的であったことになる。
また、原因と結果の関係が必然的なものであるなら、遊びの原因は結果として必ず遊びを引き起こすことになる。しかし、これは遊びが自由な行為であることに反する。遊びは、しなければならないものでなく、しなくてもよいものである。すると、(遊びに伴うフィジカルな運動には原因があるだろうが、)遊びには原因はないこともある。あるいは、「なぜ遊べるのか?」の問いには、遊べる原因をもって答えるべきではないのかもしれない。
もちろん、原因と結果の関係は必然的ではない、と考えることもできる[8]。しかし、特定の原因が特定の結果を(特定の確率で)生み出すのでなければ、いかなる自然法則も(確率論的にさえ)成り立たない。たとえば、水素が燃えたら、水が生じなければならない。止まっていた物が動き出したら、力が加わったのでなければならない。こうした自然科学の諸法則を信じない人はおそらくほとんどいないだろう。こうした諸法則を信じる人はもれなく原因と結果の必然的な結合を信じているのである。
けれども、遊びに必然的な原因はあるだろうか。エネルギーがあり余る子どもは、必ず遊ぶのだろうか。遊んでいる大人は皆、暇な時間に不安を感じたのだろうか。そんなことはありえない。仮にそうであるとすれば、遊びは自由な行為でなくなる。(もちろんエネルギーの余剰も暇への不安も自由な行為ではありそうにない。)しかし、遊びはしなくてもよい自由な行為である。遊びを自由な行為と見るのなら、遊びの原因を求めるべきではない。
[1] 立命館大学研究活動報RADIANT,Issue #18:ゲーム・遊び,STORY #6「古今東西で追及されてきた「遊びの哲学」」,2022年12月22日.https://www.ritsumei.ac.jp/research/radiant/game/story6.html/(2023年9月30日閲覧)
[2] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,30-31頁.
[3] Cf.ウィトゲンシュタイン『哲学探究』丘澤静也訳,岩波書店,2013年8月29日,313頁.
[4] Cf. アンスコム,G. E. M.『インテンション―実践知の考察―』菅豊彦訳,昭和61年2月10日,17頁.
[5] Cf. 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,11頁.
[6] Cf. 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,6,11頁.
[7] Cf.一ノ瀬正樹『原因と理由の迷宮:「なぜならば」の哲学』勁草書房,2006年5月12日,2頁.
[8] Cf. ヒューム,デイヴィッド.『人間本性論』木曾好能訳,法政大学出版局,2011年5月10日,100頁.