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【試し読み】慣れろ、おちょくれ、踏み外せ――性と身体をめぐるクィアな対話(森山至貴×能町みね子)

三通目の手紙:能町さんへ  森山至貴より 

 二通目の手紙(能町さんから森山さんへ)が冒頭に入る「当事者性が強すぎて」という間奏章の次は、2章「基準を疑え、規範を疑えーー性、性別、恋愛ってなんだろう?」です。2章について少し説明しますと、この章では、男と女、性別二元論についてどう考えるかということや、「好き」だという気持ちは自分や相手の性別を認識してから生まれるものなのかどうか(結論は「人によって違う」なんですが、このお話、面白いですよ。きっと周りの人たちとあれこれ話したくなります)。そして、性のあり方に「一貫性」を求められがちであること、「アイデンティティは変わらないものだ」という言い方が、いかに特定の人たちを傷つけるか、などなど。わかりやすいキーワードからこぼれ落ちる経験、子供の頃から大人になるまでのことをおふたりがお話ししています。  

 2章の次には「「わからない」って言いたいだけじゃん」という短い章が入ります。スタートは森山さんから能町さんへ宛てたお手紙から。(編集部)


「わからない」って言いたいだけじゃん


 対談に引き続きお付き合いいただき、ありがとうございます。最初のお手紙で私が書いた、「誰もがクィアという言葉を自分のものとして使うのがよいことなのか」に通じることで、もうひとつ能町さんに聞いてみたいことがあります。


 差別や抑圧について説明する際に、社会の仕組みのせいでセクシュアル・マイノリティがこんなことに悩んだり苦しんだりしている、というエピソードを話すことがあります。何に困っているか知ってもらわないことにはその解消にかかわってもらうこともできませんから、そこをわかってもらうことは大事なことなのですが、残念ながら、この「わかる」という要素がしばしば逆手に取られてしまう。「究極的には他人が何を考えたり感じたりしているかはわからない」というかたちで「わかる」ことを極めて高いハードルで設定したうえで、だからセクシュアル・マイノリティについても「わからない」のは仕方のないことだ、というかたちで正当化されてしまうのです。


 おそらく、こういう理由を持ち出す人は、日頃からどんな他者に対しても何を考えたり感じたりしているかわかっていないわけではない。それでは通常のコミュニケーションが成り立たないはずですから、「わかる」のハードルはもっとゆるやかで穏当なものに設定されているはずです。でも、「わかりたくない」と思う相手に対してはそのハードルを高く設定し、その「正論」で理解を拒んでしまう。それはなんだかとても不当なことのように、私には思えるのです。

 能町さんは、このような「わかる」の使い方に接したことはないでしょうか。またこのような「わかる」の使い方をどのようにお感じになりますか。雑な問いかけで申し訳ないのですが、そんな入り口から少しお話ができれば、と思っています。

 
森山至貴


  この森山さんの問いかけに対し、能町さんは、「まず、わかるか、わからないかで考えることが間違っていて、方向性が違うんじゃないか」と答え、そこから話が始まります。(編集部)

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  1. あさひてらす編集部

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