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【試し読み】慣れろ、おちょくれ、踏み外せ――性と身体をめぐるクィアな対話(森山至貴×能町みね子)

二通目の手紙:森山さんへ  能町みね子より 

 はじめに一通目の手紙(森山さんから能町さんへ)に続き、能町さんから森山さんへの手紙を公開します。

  本書の対談は、2020年に2回、そして2022年の春に3回行っていますが、実は後半の対談は、この能町さんのお手紙からスタートしました。能町さんが「こういった問題について語る際に一番悩んでしまう根幹」について、森山さんへ打ち明けます。(編集部)

 


当事者性が強すぎて


 以前から私が、こういった問題について語る際に一番悩んでしまう根幹の部分についてお話ししたいです。


 私は一般論として――偽悪的に言えば、まるで他人事のように、LGBTやクィアについて語ることはできます。こう考えるべきだ、世間はもっとこうするべきではないか、あるいは、自分にもこういう偏見があった――などと、訳知り顔でコメントすることもできます。そういうとき、私は噓をついているわけではなく、きちんと本音で話しているつもりです。


 ただ、問題は、自分がまぎれもない当事者であるということです。


 自分が当事者だということを意識した途端に、急に「客観性」がグラついてしまうのを感じます。


 自分がかかわる問題について、「世のなかはこうあるべきなんじゃないか」と言った瞬間に、それはただ卑小で個人的なわがままに過ぎないんじゃないか、という思いがよぎったり、あるいは自分の過去の嫌な記憶がよみがえって急にそのことに触れたくなくなったりします。さらにこんなとき、もし私の意見に反論されたらと思うと、仮にそれが罵倒でも差別でもなく一聴に値する意見であったとしても、当事者である自分の切実な思いに対する反論は即ち自分自身の存在の否定であると捉え、とんでもなく傷ついたり感情的になったりしてしまいそうで、だったらこんな問題にははじめから言及しなければいい、と避けたくなります。


 そのため私は、自分の思いを素直に表現し、世間にアピールしたり、デモをしたりする人たちに対しては、自分にはとてもできないという尊敬の思いもあれば、なぜそんな心身の危機を顧みないことができるんだろうとたじろぐような思いもあります。


 自分がかかわりうることについて何ごとか主張するのであれば、こういった思いをある程度克服しなければいけないようにも思います。ただ、主張するたびに心労となって日常的な精神の健康に影響を及ぼすくらいなら、あえて克服しない、という方法もあるのかもしれません。


 自分について主張すればするほど自分の傷をえぐるような心持ちになるので、よほど差し迫った事情がない限りは問題から遠ざかりたくなってしまう、という件について、森山さんに相談あるいはお話がしたいです。


能町みね子


 「自分が関係ないことに関しては、むしろいろんなことをある程度無責任に言っちゃったり、迂闊なことを言っても訂正すればいいやと思ったり、それなりになんでも言えるんですけど、自分に関することになると急にこう……何も言いたくなくなってしまうんです。当事者性が強すぎて」

 こう話す能町さんに森山さんが提案すること、それから森山さんが「その話をしたくないな」と感じるとき。そして「マイノリティについて語るときに、みんな簡単に「乗り越える」とか言うじゃないですか。〔…〕「乗り越える」ってなに?(森山)」。言い淀みながら、おふたりは考えを積み重ねていきます。

 『文學界』(2022年1月号)に能町さんが寄稿された「敵としての身体」も、ぜひご高覧ください。(編集部)

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  1. あさひてらす編集部

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