「風味」から食の世界を語りつくすーー三浦哲哉さん、稲田俊輔さん対談 in 文喫
現代社会においてあえて自炊することの喜びを謳い、読者を軽やかに自炊へと誘う三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』が好評を博しています。思想誌「ユリイカ」2025年3月号では自炊が特集されるなど、いま「自炊」が密かなブーム。そして、そのなかで"令和のニュースタンダード"とも言われる独自の立ち位置を占めるのが料理家の稲田俊輔さんです。
今回、『自炊者になるための26週』の4刷と、稲田俊輔さんの新刊『ミニマル料理「和」』の刊行を祝し、2024年3月に「文喫・六本木」にて行われた三浦哲哉さんと稲田俊輔さんの対談の一部を公開いたします。4種のだしを前に「利きだし」をすることからはじまり、稀代の食いしん坊としても知られるお二人が、和食、だし、風味、化学調味料、はたまた「ラーメン二郎問題」にいたるまで、縦横無尽に語り合った記録です。ぜひお読みください。
周縁の民
三浦哲哉氏(以下、三浦): この本を出してから、どんな反響なんだろうかと日々ドキドキしています。不安もありましたね。そんな中で、稲田さんがある日twitter(X)で、すごく好意的なメッセージを発信してくださって。起き抜けに読んで悶絶いたしました。本当に嬉しい、最も心強いコメントいただいたと思っております。
稲田俊輔氏(以下、稲田): 三浦さんの本、本当に夢中で読んでしまったんですけれども、何がって、「ここに仲間がいる」っていう感覚だったんですよ。自分も味とか風味、あるいは家庭料理、自炊といったことに関して、常にある種のポリシーというか考え方を持ってるつもりです。だけど同時にそれは世間では少数派の意見であるということもわかっていて……。その中で三浦さんとか、ほかにも例えば『あたらしい家中華』の酒徒さんとか、今の主流に対して少しアンチテーゼを掲げるような人たちがいて、なんとなく勝手に「仲間」だと思っています。でも全員、徒党を組んだりするのは好きじゃない人ばかりなので、徒党は組まないのですが。
三浦 今日もきっと「周縁の民」というキーワードをめぐって……(笑)。
(注:稲田さんは「最適解から離れて味覚の外周に向かいがちな人々」のことを「周縁の民」と呼んでいる。)
僕も稲田さんの『異国の味』について簡単にコメントすると、まさに「俺は1人じゃなかった」っていう感じが強くしました。「よくぞ言ってくれた」「よくぞこれを褒めてくれた」っていうことがすごくたくさんあって。挙げるときりがないんですけど、例えば「ルマンド」とかですよね。
稲田 笑。
三浦 小さい頃から大好きで。小ネタなんですけど、学会でお菓子を買うことになって、ルマンドを発注したんです。ところが桁を間違えて、段ボール箱で4箱ぐらい届いちゃったんですよ。僕は「まあ、日持ちもするし、むしろこれでみんなずっと幸福じゃん」って思ったんだけど、みんなシラーッとして。え? なんで? と。「温度差」というか、「わかってくれないことがわからない」という感じでした。
ルマンドしかり、自分の中で思っていたことがたくさん出てくるんですよね。大陸からいらしたばかりの中華料理店主の郷土料理を渇望する話とか。読んでいるとすごく腑に落ちて。心強くもなるし、やっぱりダメなのかって……(笑)。
稲田 ダメじゃないですけどね(笑)。ちょっと違うっていうだけで。
利きだし
三浦 今日の進行としては、最初にもういきなり「利きだし」から入るんですよね。すでに用意していただいています。
稲田 1つ目が昆布とカツオと薄口しょうゆで味をつけたもの。2つ目が、昆布を味の素に置き換えてます。3つ目は、某有名だしパックのお店のだし。最後、4つ目は、うまみ調味料としょうゆだけのだしになっております。
いま、どれがどれかというのはわからない状態になっていますが、ぜひ一口ずつ飲んでいただいて、香りとか色とか、そういったところ見ていただいて。
あんまりこれね、「当てなきゃ」とか思わないほうがいいですよ。当てるの難しいんです。量が少ないし。ちょっと種明かしをすると、だしパックのものには少し塩味がついていますが、薄口しょうゆと塩分濃度を合わせるためなので、ほぼ味がありません。そして、塩味ついてないと、素材の味がわかりにくいから難しくなります。
あとやはりこういうものの味って、最初の1口っていうより、飲み進めていった時に後半でだんだん美味しくなっていくのが「美味しい」じゃないですか。
三浦 なるほど、はいはい。
稲田 ね。これをお椀いっぱい飲んでいくと最終的には印象とか満足感に違いが出てくる、という話なので、わからなくて当たり前。そもそも、テレビのバラエティみたいな、当てないとブーッとか鳴るとか、そういう世界の話ではないので、気楽に違いを楽しんでください。
三浦 ちなみに私、さっき控室でやってみたら、外れましたね。風味の本を書いているのにその屋台骨が崩れたみたいなショックを受けました(笑)。そのあと、このだしで作ったものはこの風味、ということをいちど記憶した状態でもう一度やって、ようやく当たりました。
稲田 いや、なかなか当たらないものです。でも僕は一応言っときますけど、1発で当てました。
三浦 そうです。僕がショックを受けていたところに、がらっとドアを開けて入ってこられて、こともなげに、はい、これはこれ、これはこれ、って。
稲田 いや、自分は仕事とかで4つを比較する機会も多いからわからないとマズい。三浦さんは飲み比べていないから、わからなくなるのは当たり前です。
みなさん、そろそろいいですか。じゃあ、わかりやすいのから行こうかな。多分これがわかりやすかったですよね。
あ、わかりました? わかった方が結構いらっしゃいます。
じゃあ、ブルーのやつが何かというと、これ、茅乃舎のだしですね。
みなさん、いま「あ~!」っておっしゃっていますが、割と日常生活で出会う味ということでわかったんじゃないかな。
残りが結構難しいはず。自分も最後にどっちがどっちかな、って。
オレンジのほうが「昆布+カツオ」。三浦さんがいつも使ってる「三浦のだし」です。最後が「味の素+カツオ」。
どうですか皆さん。全部当たった方いらっしゃいますか?
(2名ほど手を挙げる)
おー、いらっしゃった、いらっしゃった。意外とバチッとあてるのは難しい。全部を比較したことがないと難しいわけです。
「だし」とは?
稲田 じゃあここから、この4つがどう違うのかっていうところをお話ししましょう。
要するに「おだし」というのは何かというと、「グルタミン酸ソーダ+イノシン酸+フレーバー」です。ざっくりこの3つの要素からできていて、基本となる「三浦さんのだし」(昆布、カツオ、薄口しょうゆ)は、コブのグルタミン酸、カツオのイノシン酸、そしてコブとカツオからフレーバーが出る、という構造なわけです。
で、緑のカップのほうは、グルタミン酸がコブから出ているのではなくて、「味の素」を使いました。成分としては同じなんだけど、当然ながらコブにはグルタミン酸+その他の希少成分+「コブの風味」があります。それに対して味の素には雑味がないわけですね、純粋なグルタミン酸なんで。
ところが、今回は「味の素+カツオ」であり、カツオ節にも風味がふんだんに含まれているので、コブの風味あるなしの差が非常にわかりにくかったと思います。
ところで、「うま味調味料+薄口しょうゆ」のほうの「うまみ調味料」は、実は「味の素」ではありません。何かわかる人。
会場 ハイミー。
うお、あたり。素晴らしい! ハイミーと味の素の違いがなんなのかわかる方いらっしゃいますか。
会場 イノシン酸の分量が多い。
そうそう、そうなんです。味の素はグルタミン酸がほとんどで、イノシン酸はほんのちょっと、補助程度。それがハイミーになるとイノシン酸がしっかり入っているので、いわゆる合わせだしと同じような構成になっています。
さっき、味の素にはコブのフレーバーがありませんと言いました。「ハイミー+しょうゆ」は、コブだけじゃなくて、コブもカツオも、両方のフレーバーがない。つまり、風味が限りなくゼロに近づいたのがこのハイミーのおだしというわけです。ただ、今回は薄口しょうゆのフレーバーが少し加わるので、完全に味気ないというわけでもない。でも4つで比べるとフレーバーが最も弱く感じられたでしょう。
で、最後、茅乃舎のだしですけれども、おそらく構成としては同じ、グルタミン酸 + イノシン酸。ただ強い。グルタミン酸が強いので、4つを比べるといちばん旨味というかコクが強く感じるのが茅乃舎だしだったのではないでしょうか。あとね、フレーバーとしてもコブとカツオだけじゃなくて、もう少し複雑なフレーバーがしたと思います。少し分厚い感じ。そして、もわ~んと香ばしい、みたいな。
いま、会場では「うんうん」っていう方が3分の1ぐらいと、「何言ってんだよ」っていう方が(笑)。
よく言えばコクと旨味がわかりやすく強いんだけど、悪く言うと、キレが悪いというか、鈍くなるというか……厚みがあるんだけど、それが「重い」と感じることもある、という、そういう感じなんですね。
SN比
ちょっと別の角度で話すと、和食の「一番だし」ってありますよね。三浦さんのだしはほぼ一番だし。これは簡単に言うと、なるべく旨味を強く出しつつ雑味を出さない、というものです。オーディオの世界では「SN比」なんて言ったりします。SはシグナルでNはノイズ。シグナルは大きいほどいい、それに対してノイズは小さければ小さいほどいい、その比率をSN比と言いますが、要するに、「1番だし」っていうのは、SN比を最大化するための「だし」なんですよ。
それが「一番だし」なんだけど、でも実はこの4つの中で、もっともSN比が高いだしって、どれでしょうか。
それはハイミーなんです。
ですよね? ハイミーはN(ノイズ)がほぼゼロに近いから。理屈上は、だしを高品質にするために「一番だし」にするんだけど、それをさらに高品質にしようと思ったら、ハイミーを水に溶かすのがもっとも高品質だ、ということになる。だけど現実には、ハイミーがもっとも美味しかったわけではない。いや、ハイミーが雑味がなくて美味しいって思った方もいらっしゃるかもしれないですが、でも、決して全員が美味しいとは思わないわけです。
要するに「最高」を目指して、1番だしがあり、ハイミーに向かって進化してきたわけだけど、ハイミーはベストじゃないということがわかった。ということは、1番だしとハイミーのどこか途中に真の正解があるはずだって思いません?
三浦 なるほど。
稲田 となると、「味の素+カツオ節」っていうのは、もしかしたら、一番だしとハイミーの間にある、正解のひとつなのかもしれない。……という、これはそういう実験みたいなものだったんです。
うなぎ屋さんのお吸い物と化学調味料
三浦 ちなみに稲田さんはご家庭では、ハイミーとか味の素は……。
稲田 置いてますし、使うべき時は使います。ただし用途は極めて限定されますし、量もかなり微妙な加減です。
三浦 でも、お吸い物とかの時は。
稲田 絶対使わないですね。ただ、例えば古い昔からのお店、うなぎ屋さんとかのお吸い物って、多分、ほとんどの店が「カツオだし+ハイミー」みたいな感じのもの、ことによるとハイミーにちょっとカツオを足しただけでハイミーがメイン、みたいなものが多いと思うんです。
三浦 そうですね。稲田さんがかつてそういう発言をされていてすごく膝を打った。言われない限り僕にはわからなかったと思うんですけど、でも、言われてみると確かにそうなんです。かつてどこかで読んだんですが、うなぎ屋さんの「肝吸い」と言えば、ジョエル・ロブションが日本であらゆるものを食べた中で最上の料理は、うなぎ屋さんに出てくるお吸い物である、と。
稲田 ロブションがそんなことを。
三浦 そんなことを言ったんです。それはハイミーが主成分の可能性があるわけですよね……(笑)。
稲田 知らなかった、それは。
三浦 ずっと歴史を遡っていくと、いわゆる化学調味料と呼ばれる「味の素」は、必ずしも、庶民の低級な料理では全くなかった、という歴史があるじゃないですか。それこそ畑中三応子さんが味の素のサイトで書かれていますが、むしろ福沢諭吉級の文化人が強烈に推していた。これはモダンな、素晴らしい発明品で、文化・生活を向上させるものだと。老舗の料亭が、宣伝役を買って出てもいました。
稲田 そうそう、吉兆の湯木貞一さんも、むしろ上手に使う使い方を啓蒙していた。昔はおそらく、割烹とか料亭とかでも、割とそういう感じだったんではないかな。でも、だんだん、なんだかそういうのがいけないことになってきて、世間の風潮に合わせて使わないのが主流になった。
三浦 そうですね。70年代にアメリカで、中華料理屋さんで化学調味料が大量に入った料理を摂取して体調がおかしくなるという「チャイニーズ・レストラン・シンドローム」が問題になり、ナチュラル・フードが持ち上げられるなかで、化学調味料が低く見られるようになった。ただこういう問題のほとんどはデマで、科学的には否定されています。
こんな偉い人も使っていたという話で言うと、辰巳浜子さん。家庭料理のザ・オーセンティック、家庭料理の母みたいな人ですが、やっぱり「味の素」を使っている。『手しおにかけた私の料理』という1960年のベストセラーを見てみると、「あじのつみれ汁。決め手は味の素」と書かれています。ただ、かつおこんぶだしのお吸い物には使っていません。イワシなどのちょっと魚臭い椀物に使っています。そのことで臭いが緩和される効果があるのかもしれません。でも、その娘の辰巳芳子さんが1992年に編集した新版からは「味の素」の使用が全部なくなっているんです。これも歴史だなと。
稲田 時代的にね。今だったらまた違ってくるかもしれないですけどね。
三浦 味の素といえば、リュウジさん。新書の『料理研究家のくせに「味の素」を使うのですか?』も読んだのですが、やっぱり面白い。味の素にしか果たせない役割があるということを強調されていて、卓見だなと思いました。つまり、「昆布を味の素に変える」というのは、単に代替用途なのではない。昆布によって旨味を足そうとすると昆布のフレーバーまでついてきてしまうけど、味の素だと「フレーバーなしの旨み」だけを足せる。料理人が味の設計をする上でこれはすごくアドバンテージで、使わないのはもったいない、しかも使わない理由が偏見であるならばそんな愚かなことはない、という主張をされていて、ほんとそうだよな、と説得されました。
風味と旨味のバランス
稲田 「旨味」と「風味」ってある程度のバランスが必要で、風味ばっかりが強いとバランスが悪くなる。例えばつみれにすると風味のほうが、ぐわっと上がってしまう。そうするとバランスが悪くなるから、辰巳浜子さんはここで少し旨味を味の素で足してバランスを良くする。風味が突出すると臭みとか癖を感じるので、この差を埋める、という、そういう発想だったんじゃないかと思います。
三浦 辰巳浜子さんは小さいころから味の英才教育として、当時の名だたる料理店に通ってもいたらしいです。八百善とか、魯山人がやっていた星岡茶寮とか。だから、さっきは家庭の料理の母と言いましたが、実は料亭の味のバランスが念頭にあって、それゆえに味の素を決め手にしたのかもしれない。
辰巳芳子さんの時代になると、少しぐらい自然の風味が「尖っていてもよい」となっていく場合もあると思います。90年代以降のある種の家庭料理書では、風味が突出していても、むしろそれが価値になる。それがさらに突き抜けて行くと、細川亜衣さん的な、素材を微視的に見つめる世界観の料理になったり。それは決して田舎臭さではなくて、むしろファッショナブルなものと受け入れられてもいますね。
稲田 なるほどね。確かに、「尖らせないようにする」っていうのは、いわゆる、接待とかおもてなしの世界だったりするから。昔だったらお父さんが会社帰りに同僚を連れてくるからつまみを用意しておけ、みたいな、今だったら絶対炎上するような、ああいう文化ではきっと大事だったんですよね。
三浦 旨味の底をぐっと上げてバランスを取り、素材の風味を尖らせない。
稲田 そうそう、誰にも嫌われない、みたいな。
三浦 中華料理にも、「高級中華」っていうジャンルがあるじゃないですか。このジャンルのお店で食べると、もわんとしてますよね、全部が。で、酒徒さんだと、その「もわん」が一切ないっていう。澄み切った世界。
稲田 パキっとね。
C感覚とF感覚
三浦 だしをどうするのか問題については、僕も自分の本で書いていまして。結局、それぞれに良さがあるんだけれども、自分の本に関しては「風味」ですよね。風味、においを求めて自分はだしをとる、と。なぜあえてカツオ節を使うのか、なぜ面倒くささをおして使うのかというと、「においを楽しみたいから」である。そういう意味では、茶葉からお茶を淹れるのはお茶の香りを楽しみたいからであって、それと同じですよ、と。
さて、そういう話もしつつ、おいしさってなんだろうか、ということをこの本では色々考えてまして、それは実は2つの、はっきり分けられるベクトルに分解できるのではないか、と主張しています。
C感覚とF感覚と名付けています。Cがコンフォート。Fはフレーバーですね。さっきの話でいえば、旨味と風味。物を食べる時はこれは同時に与えられるわけです。ただ、生理学的には別々の器官で知覚している、ということがここ10年ぐらいの新しい常識になっています。(詳しくは本をご参照ください)
そして、僕らが物を食べて「美味しい」という時に、コンフォートとフレーバー、どちらかが主軸になっていることが多いのではないか、というのが僕の実感です。
例えばラーメン食べて「美味しいね」という時に、たんに舌で美味しい――甘さとか、ねっとり具合、それからコクなど、すべてのバランスがちょうどよくて「落ち着く」という美味しさを問題にしている場合と、フレーバーに特徴があって、興味深くて美味しいという場合がある。その異質なはずの2つが混同されてしまうと、会話が噛み合わなくなるんですよ。「これ美味しいじゃん」「いや、全然美味しくないよ」と。誤解の原因は、C(コンフォタブル=落ち着く)的な美味しさとF(フレーバー)的な美味しさを混同していることにあるのではないか、と考えているんです。
さらに敷衍すると、F感覚を尊ぶ人は、「異国の味」も当然好きである、と言える。興味深い、遠くの匂いを認識する楽しさですよね。食べ物の由来を認識する楽しさ。だからフォーリン(Foreign)のFでもある。
あとファンシー(Fancy)っていう言葉があって、英語圏では、食べ物の区分でよくファンシー/コンフォートって、対義的に使われるようなんです。小ネタですけれども、アメリカで1年暮らした時に、日本人ママが作成したのだというアメリカ生活のための心得のようなものを読んだんですが、その中に「アメリカ人の子供が来た時にファンシーフードを出してはいけない」っていう言葉があった。「誰も食べないから」と。だから腕によりをかけてちょっと変わったものを出してはいけない。そうではなくて、ひたすらフライドポテトを作ればよろしいっていう。
会場 (笑)。
稲田 ファンシーっていう言葉のニュアンスが面白いですよね。すごく複雑なんだけど、例えば「ファンシーなレストラン」と言うと、「お洒落で高級な」という意味になる。三浦さんの本で面白かったのは、「ケールのサラダを食うようなやつはファンシーだ」という(笑)。ファンシーって、いまの日本語に直そうとすると、「いきり散らかした」というのが最も近いのではないかな(笑)。
三浦 80年代とか90年代前半だったらピッタリ重なると思いますね。今だともうちょっと寂しそうな人っていうか。孤独に1人で食べているのがファンシーな振る舞い、みたいな……。
稲田 ますますやばくなった(笑)。
三浦 いきり散らかしてるっていう線では、やっぱり「ファッション・フード」ですよね、畑中三応子さんの名著がありますけど、新しいもの、新奇なものに飛びつくっていうのもF感覚です。 新しい風味が流行になる。ファッション(Fashion)のF。
こじつけを続けると、Fはディファレント(different)のfでもあります。違いの感知です。有名な話で、オレンジジュースとグレープフルーツジュースを鼻をつまんで飲むと、どちらも同じ甘酸っぱい水にしか感じないそうです。春の山菜なんかもきっとそうだと思うんですよね。ふきのとうなどにしても、一切鼻の感覚を遮断して匂いなしで食べたら、全部がたんなる「苦い草」でしかない、っていう。
稲田 なるほどなるほど。
三浦 山で車から降りて、肺いっぱいに空気を吸い込んで、吐き出した時に「わ~~!」という、「山だーっ」「森だーっ」という、空気の匂いの感動ってありますよね。山菜を食べるのも、そういう森林浴に近いものになっていくっていうのが、F感覚を突き詰めた境地だと思っています。
それに対して、C感覚は、安らぎとか、まろやかなおいしさ、旨味がちょうどいい、という方向を求めていく感覚で、コンサバティブ(Conservative 保守的)のCでもある。そしてクリーン(Clean)のC。綺麗な雑味のなさですよね。あと、コカコーラのC、というのもあるんですけど、つまり、世界を席巻したグローバルな規格品の代表ですよね。コカ・コーラにはたくさんのスパイスが調合されてるんだけれども、何1つ突出していない味である、と。規格品のカレールーも同様に、何ひとつとして突出しないことによる、C感覚のおいしさです。
稲田 ひとつひとつは非常にフレーバーなはずなのに、集合してバランス良くなることで実はコンフォートになっていくっていう。
三浦 そうです。一方、F感覚のほうにはエリックサウスがいるわけです。
稲田 たとえばね。まぁ、そういう意味では先ほどの4つの「利きだし」はCの要素は一様に満たしてるんだけど、Fの要素にはだいぶばらつきがあった。
三浦 そうそう。
究極のCとは?
稲田 僕は前々から食べ物の味というのは「純粋美味+マズ味」でできているということを言ってまして、実は似てるんですよね。C感覚が「純粋美味」と重なる概念で、F感覚の方がいわゆる「マズ味」と重なる感じなんだけども。「マズ味」というのは、臭みとか含めて、ちょっと変わった匂いとか苦みとか。なんとなく皆さん感覚的にわかりますよね。
例えば、カレー食べて、スパイス何が入ってるだろうっていう時に、食べてる間は「美味しいな」ぐらいで、ざっくりとしかわからない。むしろ、食べ終わって「ああ食った食った」となった後に、ふんふんって息をする、その瞬間が1番わかる。F感覚を楽しんでいる人は、そういう複雑な風味みたいなものを楽しんでいる。コンフォートは確かにそう言われると、がーっと食べて「うめー!」となって、そこがピークで、そこでストンとその快楽を終えてしまっている感じがします。
三浦 そうですね。カーボンハイドレード(carbohydrate 炭水化物)のCというのも思いつきます。Cは自分の体の中にすでにある、体を構成する組成ですよね、タンパク質とか炭水化物とか糖類とか。要するにFが「違い」だとすると、Cは「同じ」。味の素とかって、要するにアミノ酸じゃないですか。突き詰めて言うと、「近い」んですよね。自分の体にあるものをそっくりそのまま体に入れる。で、喜ぶ。異物感がない。舌の機能って、自分の体の中に入れてはいけないものを排除するものですよね。そして、これを最も突き詰めて言うと、たぶん母乳なのかな。
稲田 あ、究極のコンフォート。
三浦 そうです。オリジナル・コンフォート、OCは母乳である、という。
稲田 なるほどね。コンフォートな食べ物って言われてイメージするのって、やっぱり「乳化」。脂肪がたっぷりあって、なおかつ乳化している。カロリー高いんだけど、口当たりはマイルド。ベシャメルソースであったり、カスタードプリンであったり。そういうのが大好きだと言うと「子供舌」だと言われかねないようなタイプのもの。なるほどね。でもそれ母乳か。確かに言われてみればそう(笑)。
三浦 ただ純粋にCだと飽きちゃうから、本当に純粋Cの食品ってないと思うんですよ。何かしら混ざっていて。そこの間で食品会社とか料理人の皆さんは、FとCの間によきバランスを見つけるんだと思います。またリュウジさんのお名前を出してしまいますが、自分のレシピはファミレスやコンビニの味と同じで良い、と書いていらっしゃる。なぜなら、ある世代からは多かれ少なかれそういう味で育ってきていて、そこに心の故郷があり、そこにやすらぎがあるから。その感覚は僕にもすごくわかります。父がコカ・コーラ工場に勤務していたんでよく飲みましたし、いまもふと手が伸びます。
稲田 一方で三浦さんは、特にこの本に関しては、ぐぐっと、あえてFに寄せている。それは意図的に?
三浦 そうですね。だってその方が楽しいじゃんっていうか、もしかしたら体質のようなもので、サメみたいに止まると死んじゃう。変わり続けたい、という衝動のようなものもあるかもしれないですね。知らない風味を摂取できていれば、自由の気持ちに浸れるというような。ただ、そのあたりは個人差があると思いますし、いいバランスで人それぞれやるといいのではないか、という主張なんです。
ラーメン二郎問題
稲田 ちょっと問題提起したいことがあって、それは「FとCにおけるラーメン二郎問題」という(笑)、僕の中でもいまいち答えが出てないんですが。
ごく単純に、Fの食べ物とCの食べ物みたいなものがあるわけですね。そして三浦さんの本や、自分の『ミニマル料理』とか、酒徒さんの本は、基本的にはF側にいる。僕の言葉で言えば、この人たちは「周縁の民」だと。それに対して、ラーメンってぐーっとC寄りじゃないですか。ぐぐっと「最適解」に近づいていく。要するに食べやすい味わいで、満足感があり、旨味も強く、食べ慣れた味。でも、ラーメン二郎は……あれはあれで、また真逆の「周縁」だったりするじゃないですか。
会場:(笑)。
稲田 ラーメンという世界において、コンフォートな、旨味とか食べやすさ、コク、知ってる味みたいなのを、ひたすら突き詰めていたはずなのに、二郎はいつの間にか周縁の味になっていた。これをどう解釈しますか。
三浦 いやあ、面白いですね。僕、ひさびさに昨日行ってきたんですよ。稲田さんが二郎の話をするかもしれないと予告されていたから。驚いたのが客層の幅広さ。いかにも体を使っている若者だけではなくて、おじいちゃんみたいな人がいたんですよね。笠智衆みたいな人。
稲田 おお(笑)。
三浦 それで、マシマシ、ニンニクとか言って、どーんと来て、食べてるわけです。なんかそれに感動っていうか。女性もいたし。
基本的にはCですよね。炭水化物。凄まじい量の麺を食べさせる。それが食べられる。こんなに食べられるはずがないものをなぜか胃に収めてしまう。それはニンニクフレーバーと豚の油と、すべてが総動員されて、人がどれだけ物を食べられる生き物かを再確認させるレベルの何かになっている。その面白さ、エクストリームさなのかな。
稲田 なるほど。では、そんな二郎、「最適解」のなかにあると思いますか。それとも「周縁」だと思いますか。
三浦 周縁ですかね……。たくさん食べさせるためという目的ではあれど、ニンニクと油が狂った量じゃないですか。あれだけの生ニンニクフレイバーは、二郎に行かないと摂取しない。
稲田 旨味と油とかもあそこまでの量になると、もう完全に「最適解」の範疇を超えてるってことですよね。
この話を以前したときに、ある方が面白いことを言っていて、最適解と周縁、これは実はドーナツ型の構造なのではないかと。
わかります? だいたい世の中の食べ物というものは、特にコンビニとかファミレスではコンフォートを目指すわけです。そうやって中央の「最適解」に向かって開発を続けていく。ところが、中央には実は小さな穴がある……。
会場:(笑)。
稲田 コンフォート値を増やせば増やすほどいいかっていうと、そんなことなくて、増やすとブラックホールに落ちてしまう。だから落ちないようにふつうは気を付けるんだけど、二郎は全く気にせず、ブラックホールに自ら飛び込んでいった存在なのではないか。そして、どこかわけのわからないホワイトホールからピョンっと出てきて、周縁に至ったのが二郎なのではないか、という。
三浦 なるほど、けっこう納得しました。コンフォート・フードって、その多くは、グローバル産業が作り出す商品なわけですよね。『フードトラップ 食品に仕掛けられた至福の罠』という本がありますが、ある特定の味を組み合わせると、脳に快楽物質が出てきて至福になり、食欲が増進し、結果として食べ過ぎてしまう。これは健康を害す可能性があるんだけど、そういう商品こそが、スーパーマーケットでの競合相手よりも一歩抜きん出る。
とはいえ、そういったものはその真実を隠しながら……(笑)「毒じゃないよ」と装っているわけですね。ところが二郎はある意味で自分が毒であることを隠さない。欺瞞はやめだ、と。コンフォート・フードを突き詰めたらどうなるかを体験させる。ある意味では「闇金ウシジマくん」のようなダークヒーローというか(笑)、これがお前の欲しいものだ、際限なく食べてみろ、みたいにとことんまでやる、それが時代を照らすっていう感じじゃないでしょうかね。
会場:(笑)。
稲田 なるほど、やっぱりそうか。二郎における潔さ、爽やかさみたいなものは、ごまかそうとしないところにある。ありのままをさらして、あとは好きにしてください、俺も好きにやる、みたいな感じなんでしょうね。それはいいな。
なんとなく二郎が見えてきた。まさかこの本の話から二郎に行くとは思わなかったけど(笑)。
<了>
三浦哲哉『自炊者になるための26週』
本書は自炊の入門書です。
・大方針は、「風味の魅力」にみちびかれること。
「風味」=味+におい。自由に軽やかに、においを食べて世界と触れ合う。
最新の科学研究だけでなく、哲学、文学、映像論の重要テクストを手がかりに、知られざる風味の秘密に迫ります。
・目標は、素材から出発して、ささっとおいしいひと皿が作れるようになること。
蒸す、煮る、焼く、揚げる「だけ」のシンプル料理から、「混ぜる」「組み合わせる」、さらに魚をおろして様々に活用するまでステップアップしていきます。
日本酒とワインの新しいあり方、家事分担も考えます。
1週に1章、その週の課題をクリアしていけば、26週=半年で、だれでも、すすんで自炊をする人=自炊者になれます。