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答えは風のなか

タケオの遠回り(その1)


 最初は、コスモスを見たいからという理由だった。
 ぼくたちの小学校の学区内には、広い河原かわらのある川が流れている。その河原の一角がコスモス畑になっていて、花のさかりの時季はあたり一面が赤むらさき色にめ上げられて、とてもきれいなのだ。
「ヒロシ、見に行こう」
 タケオにさそわれた。
「まだいてるかなあ」と僕は首をひねった。コスモスが咲きはじめるのは九月の初めで、いまはもう十月のじゅんだった。
「だいじょうぶだよ、行こう行こう」
 僕とタケオは六年三組のクラスメートの中でも一番の仲良しで、家が同じ方角にあるので、学校の帰り道はいつも一緒いっしょだった。
「じゃあ、一回ウチに帰ってから……」
「そうじゃなくて、帰りに行こう」
り道?」
「うん、だってウチに帰ってまた出かけるのって、面倒めんどうくさいだろ」
「でも……」
 河原かわらに寄るのは、ずいぶん遠回りになってしまう。
 学校を出て、タケオと別れるさんまで、ふだんは商店街を通って帰る。一年生の子もいる朝のしゅうだん登校では歩道のある別の道を使っているけど、帰りは商店街を通ったほうが近道なのだ。でも、河原を回ると、三角じょうの二辺を歩くような格好かっこうになってしまう。十分足らずですむはずの道のりが、二十分……三十分以上かかるかもしれない。だったら一度ウチに帰ってから自転車で出かけたほうが早いし、楽だ。
「そうしない?」
 時間がかかるのを説明してから、もう一度いてみた。
 ところが、すぐに納得なっとくして、賛成さんせいするだろうと思っていたタケオは、急にげんになって、「じゃあいいよ、オレ一人で行くから」と歩きだした。
「わかったわかった、付き合う」
 あわてて追いかけた。びっくりした。ふだんのタケオはこんなに短気じゃないし、ワガママでもない。なにかオレ、おこらせるようなこと言ったっけ?
 学校を出ると、タケオはあっさり機嫌を直して、むしろふだんより元気におしゃべりをした。いつもとはちがう道を歩くのがすっかり気に入ったみたいで、「へえ、こんなところにパン屋さんがあったのか」「ここの公園、遊びやすそう」と声をあげた――もっとも、パン屋さんも公園も、学校帰りは初めてでも、自転車では、その前を何度も通りかかっていたのだけど。
 河原かわらのコスモスは、ピークの時季ほどではなかったけど、まだたっぷりいていた。
 もっとも、コスモス畑として区切られた一角をのぞくと、あたりはセイタカアワダチソウの黄色い花が咲きほこっていた。セイタカアワダチソウは、「セイタカ」という名前どおりにが高い植物だ。コスモス畑を管理する市役所は、畑のしゅうをレンガきにして、せっかくのコスモスの花がセイタカアワダチソウにかくされないように工夫していた。
「コスモス、きれいだよな。やっぱり来てよかっただろ?」
 タケオはうれしそうに、ちょっとまんするみたいに言った。
 ぼくはうなずいて、「でも――」と言った。「セイタカアワダチソウ、じゃだよな」
 あの黄色い花がなければ、きっとコスモスの花の赤むらさき色は、もっとあざやかに見えただろう。「知ってる?」と、僕は少し前にお父さんから聞いたばかりの話をタケオに伝えた。



 セイタカアワダチソウは外来植物だった。明治時代にアメリカから持ちこまれた。とても生命力が強かったので、この国の気候風土にしっかり馴染なじんではんしょくした。
 さらに、セイタカアワダチソウは、まわりの植物が育つのを邪魔する力を持っている。根っこから、他の植物の生長を邪魔する化学物質ぶっしつ分泌ぶんぴつするのだ。だから、もとからある草花をどんどん追いはらって、自分たちのなわりを広げていく。河原かわらや空き地、たがやす人のいなくなった田畑は、そんなふうにして、いまではすっかりセイタカアワダチソウの天下になってしまったのだ。
「お父さんの子どものころは、この河原も、もっとススキが生えてたんだって。でも、セイタカアワダチソウが来たら、どんどんれていっちゃって……」
 生存せいぞんきょうそうに負けたんだ、とお父さんは言っていた。動物でも植物でも、自然の世界は、ぼくたちが思っているよりもはるかに生きていくのがきびしいのだという。
「セイタカアワダチソウって、よそ者のくせに生意気だと思わない?」
 理科のとくなタケオだから、絶対ぜったいきょうを持つと思って話したのに、反応はんのうにぶかった。しゃべっている僕ではなく、河原のほうを見たまま、「うん……」と相槌あいづちを打って、それっきりだった。
 なにかヘンだ。絶対にヘンだ。いつものタケオとはちがう。気になっても「どうしたんだよお」と軽くはけない、訊いたら本気でおこりだす、そんなふん囲気いきが横顔やなかから感じられる――それが、なによりも、いつものタケオとは違うところだった。
 帰り道は予想以上に時間がかかって、さん叉路さろに着くまでに四十分以上もかかってしまった。まあ、一日だけならいいか……と思っていたら、別れぎわにタケオは「明日もコスモスを見に行こう」と言った。
「じゃあ、明日はウチに帰ってから自転車で行こうよ」
 今度もだめだった。タケオはまたムスッとした顔になって「帰りにる」と言いったのだ。「いやだったら来なくていいよ」
「……べつに嫌じゃないけど、寄り道したら帰りがおそくなるし、自転車のほうが楽だろ」
「もういい、オレ一人で行くから」
 怒って帰ってしまった。
 どうしたんだろう。ぼくたちはようえんころからの付き合いだけど、いつものタケオはほんとうに、もっと明るくて、おおらかで、自分の意見を無理やりし通すようなヤツじゃないのに……。

 次の日の放課後、タケオはやっぱり「河原かわらを回って帰ろう」とさそってきた。まよったけど付き合うことにした。コスモスはどうでもいい。タケオがどうして急にり道をするようになったのか、理由をさぐりたかった。
 学校を出るとタケオは昨日と同じようにごげんになって、寄り道のちゅうで目にする建物やがいじゅを「うおおっ、豪邸ごうてい! 億万長者のウチじゃないの?」「イチョウのだろ、これ。ギンナン拾えるよ、すげーっ」と、大げさすぎるほどほめたたえた。
 さらに、その次の日も――
 三日続けて付き合っても、タケオが河原にこだわる理由はわからないままだった。しかも、コスモス畑をあとにして土手道を歩いているときに「明日も行こうぜ」と誘われた。
 さん叉路さろで別れるときに、思いきっていてみた。タケオは「コスモスがきれいだから見たいんだよ」と言って、「もんあるのか?」とにらんできた。
 さすがにぼくもアタマに来て、にらみ返して言った。
「明日は用事があるから、行かない」
 タケオはいっしゅんほうれた顔になった。なにか言いたそうに口が動いたようにも見えた。でも、声にはならない。代わりに「べつにいいよ」とだけ言って、ダッシュで帰ってしまった。
 ちょっと待ってくれよ、どうしたんだよ、なにかあったのか――
 ぼくきたかった言葉も声にはならずに、まるくなったタケオのなかが遠ざかっていくのを、ただ見送ることしかできなかった。 
 
 
 もう、四十年以上も前のことになる。
 遠い昔の思い出話だ。
 ぼくおさななじみの少年と、子ども好きで気さくな惣菜そうざいさんについての話でもある。
 
 
 次の日、つまり四日目の昼休み、給食当番だったぼくは、コンビを組んだマサヤと二人で、食器のカゴを教室から給食室まで運んだ。そのちゅう、マサヤが「へいぎん看板かんばんり紙、どう思う?」といてきた。「すごいよなあ。昨日見て、びっくりしちゃったよ、オレ」
 僕とタケオがふだん学校帰りに通っている商店街のことだ。戦後間もないころにできたから、もう二度と戦争はしたくないという思いをめて「平和」と名付けられた。
「看板、って?」
「知らないの? ヒロシ、いつも平和銀座を通ってなかったっけ」
「うん……そうだけど、ちょっといま、別の道を通って帰ってるから」
 マサヤは理由まで詮索せんさくすることはなく、話を先に進めた。
 平和銀座のお店は、まとまりのよいことで知られている。みんなでお金を出し合って空きてん事務じむしょとして借り上げ、しょっちゅうり合いを開いて、商店街全体のセールやお祭り、新聞広告しんぶんこうこくなどを決めるのだ。
 その事務所に、新しい看板かんばんかかげられた。
『明るく健全な平和銀座を守る会』
 ワケがわからない。
 明るく健全な――あらためて言われなくても、そうだと思う。
 平和銀座を守る――ということは、いま、なにかのピンチなの?
 きょとんとする僕に、マサヤは「じゃあ教えてやるよ」と言った。クラスで一番勉強のできるマサヤは、おとなの世界の話にもくわしい。
「でも、食器を運んだあとだな。ろうで大きな声でしゃべると、だれに聞かれるかわからないし」
「聞かれるとだめなの?」
「人によっては、けっこうまずいかも」
 マサヤはそう言って足を止めた。
「念のために確認かくにんするけど、ヒロシの名前とかみょうって、ホンモノ?」
「……はあ?」
 口をぽかんと開けた。もっとワケがわからなくなった。
 でも、その反応はんのうがむしろ正解せいかいだったのか、マサヤは安心したみたいに笑って、「あとで教えてやるから」と歩きだした。

 両親によると、へいぎんぼくが赤んぼうころまではけっこう栄えていたらしい。でも、小さなじん商店がほとんどなので、品揃しなぞろえや安さでは大手のチェーン店に太刀打ちできない。駅前にデパートやアーケード街ができると、遠くから来るお客さんをあっけなくうばわれてしまい、よく言えば地元みっちゃくがた、正直に言えばさびれた商店街になってしまった。
 実際じっさい、空きてんを取りこわしたあとのさらが、この一、二年で何ヶ所もえた。学校帰りに通りかかっても、どの店もたいしてはんじょうしているようには見えない。
 ただ、そのぶんふん囲気いきがのんびりしていて、お店の人たちもみんな親切で気さくだった。毎日学校帰りに通っていると、名前は知らなくても顔なじみになって、「おう、お帰り」と声をかけてくれる人がたくさんいる。『コジマ薬局』のおばさんには夕立のときにかさを借りたこともあるし、お弁当べんとうやおかずを売っている『やまちゃん』のおじさんは、ときどきぼくとタケオをび止めて、「げすぎちゃったから、おやつにしろよ」と、イカのすり身を小さく丸めて揚げた名物料理の『やまちゃんボール』をごちそうしてくれる。
 そんな平和銀座で、もうすぐ大がかりな工事が始まる。さらはさまれたお店を買い取ってできた広い土地にビルが建つことになったのだ。
「でも、それで大騒おおさわぎになったんだ。商店街はみんな猛反対もうはんたいして、市議会の議員さんに相談したりして」
 教室のベランダからグラウンドをながめながら、マサヤが言った。
「なんで反対するの?」
 僕は首をひねっていた。「新しい店がえるのはいいことじゃないの?」
「中身によるだろ」
「中身って?」
「そのビルに入るの、どんな店だと思う?」
「……本屋さん、とか」
 人的じんてきな願望をめて言うと、マサヤは「そんなのだったらだれも反対なんかするわけないだろ」と苦笑して、答えを教えてくれた。
 十八さい未満、立ち入りきん――
 昼間よりも夜、それもおそい時間のほうがにぎわう――
 きれいな女の人を相手にっぱらいたい人や、勝負ごとで景品やお金をかせぎたい人が通いめる――
 新しく建つビルには、そういう店が何軒なんけんも入る。
「商店街のみんながおこって反対してる理由、わかるだろ?」
「うん……」
「まあ、反対するのは自由だし、ウチの母ちゃんも学区の中にそんな店があるのは迷惑めいわくだって言ってたから、べつにいいんだけど」
『明るく健全な平和銀座を守る会』の看板かんばんのまわりには、〈絶対ぜったい反対!〉〈ふうみだすな!〉などと大きな文字で書かれたチラシも、事務じむしょ外壁そとかべおおくすようにたくさんられていた。中には、ビルの建設けんせつ計画を進めている会社がいかにいままで悪いことをしてきたかを書いたものまであった。
 社長の名前もあった。
〈○○○こと、△△△社長は――
「名前が二つあるんだ。一つが、ふだん使ってるニセモノの名前で、もう一つが、みんなにはみつにしてるホンモノの名前」
 マサヤのお母さんはそれを見て、びっくりしていたらしい。
「あの会社、あっちの人がやってるんだ……って」
 あっち――
 となりの国のことだと、マサヤが教えてくれた。
 この国には、隣の国からうつり住んできた人が何十万人もいる。
「市内にも意外とたくさんいて、いろんな仕事をしてるんだ」
 でも、その人たちの多くは、隣の国の言葉を使ったホンモノの名前をかくしているのだという。
「だから、なかなかわからないんだけど……けっこう身近なところにもいるんだって。みんなたようなニセモノのみょうを使うから、れれば見分けられるって、父ちゃんが言ってた」
 ぼくはなにも知らなかった。
 だからすぐに「なんで?」といた。「なんで名前を隠してるの?」
「差別されるからだよ」
「なんで?」
「だって――
 マサヤは言いかけた言葉をみ、急にばたばたとしたそぶりになって、「あとは自分の父ちゃんとか母ちゃんに訊けよ」と早口に言った。「オレがしゃべったってこと、絶対ぜったいだれにも言うなよ、いいな!」
 なぜ口止めするのかわからないまま、僕はマサヤの剣幕けんまくに気おされて、うなずくだけだった。

 その日の放課後、タケオはぼくさそわず、一人で河原かわらのほうに向かった。
 僕も一人で帰った。へいぎんを通ると、ビル建設けんせつ反対のチラシは事務じむしょだけでなく、一軒いっけん一軒の店先や電柱にもってあった。同じ言葉のチラシはどれも文字の形がそろっているので、コピーを取っているのだろう。
 マサヤが言っていたとおり、社長の二つの名前を書いたチラシもある。それを見たとき、ランドセルを背負せおったかたがキュッとすぼまり、思わず「うそ……」と声がれそうになった。
 社長がふだん使っているみょうは、タケオの苗字と同じだったのだ。
 偶然ぐうぜんだよな、とかたの力をいて笑った。だってタケオのお父さんは会社づとめだし、市内に親戚しんせきがいるという話も聞いたことないし。
 でも、歩きだしてしばらくすると、昼休みにマサヤから聞いた言葉がよみがえった。
 みんなたようなニセモノの苗字を使うから――
 肩がまたこわばってきた。

 次の日、ぼくはまたタケオに付き合って河原かわらに回った。はっきりと仲直りしたわけじゃなくても、タケオが「オレ、またコスモス見て帰るけど」と言って、「じゃあオレも」と僕がこたえれば、それで元通り――僕たちはずっと、そんなふうに友だち付き合いをしてきたのだ。
 へいぎんのチラシの話は、僕からはなにも言わなかった。タケオも言わない。そもそも平和銀座の話題そのものを、まったく口にしなかった。
 タケオは河原を通る道をすっかり気に入って、「ここ、いいよ」「やっぱり川は景色がきれいだよな」と何度も何度もり返す一方で、僕がわざと「平和銀座、先週から全然通ってないな」と口にすると、たちまちげんが悪くなってしまった。
 だから、やっぱりそうなのかなあ、と思った。
 タケオはチラシを見たくないのだ。
 ということは、つまり……。
 そこで考えるのをやめた。ドアをバタンとめるように、思いをめぐらせるのを止めた。これ以上んではいけない。
 マサヤが急に話を切り上げた気持ちも、なんとなくわかった。よけいなことまで話してしまった、と気づいたのだろう。やめればよかった、とやんで、こわくなったのだろう。
 僕も怖くなった。失敗したあとで「いまのノーカン、ノーカン」と取り消すみたいに、最初からなにも聞かなかったことにしたい。
 なぜそう思うのか。理由は、よくわからなかったけれど。
 
 
 えきしょうテレビの画面に、となりの国の人たちをくちぎたなののしりながら歩くデモ隊の様子がうつし出される。
 日曜日の夜のニュースだ。
 この日もまた、都内の大通りでヘイトスピーチがき散らされた。にごったぞうよどんだ悪意が、休日の午後の青空をズタズタに切りいてしまう。
 デモ隊で目立っているのは若者わかものたちだったが、それはカメラのり方のせいかもしれない。悪びれもせずに隣の国の人たちを虫けらばわりする若い連中のはいには、おどろくほど多くの中高年の姿すがたうつんでいた。
 ぼくと同世代の人は何人参加しているのだろう。もしかしたら知り合いがいるかもしれない。絶対ぜったいに、だんじて、なにがあってもいない――とは言えないのが、くやしくて、かなしくて、なさけなくて、こわい。
 が家のむすむすめは、すでに成人して社会に出た。この国ととなりの国とのれきも、国民同士のかんじょうも、隣の国からこの国にうつり住んだ人たちの置かれた立場も、移り住むにあたっての事情の数々も、一般いっぱんじょうしきはんないではあってもかいしているはずだ。
 ちがってもヘイトスピーチをする側に回るような人間にはなっていない――と、信じている。
「子どもたちには見せたくないね、こういうの……」
 つまがため息交じりに言うそばから、テレビカメラは、デモ隊を反対側の歩道から見つめるおさない女の子をうつし出した。まだ小学校に上がる前だろうか。おびえた顔をして、お母さんのこしきついていた。
「いまの子、もし隣の国の子だったらすごくかわいそうだし、そうじゃなくても、心のきずになっちゃうような気がする」
「うん……」
 ぼくはうなずいたあと、心の中で続けた。
 でもぎゃくに、見せられたために、わかることもあるのかもしれない――
 四十数年前の、ランドセルを背負せおった僕がかぶ。なあ、そうだよな、と声をかけると、あのころの僕はだまってうなずいた。
 
 
 タケオの遠回りは続いた。ぼくも毎日タケオに付き合った。
 半月ほどすると、河原かわらのコスモスの花はさすがにほとんどれてしまって、「コスモスがきれいだから見に行こう」という遠回りの理由がキツくなってきた。
 すると、タケオは「どんぐりがたくさん拾えるんだよ」と、ちゅうに小さなぞうばやしがある別の道を見つけてきた。今度の道も、へいぎんけた遠回りだった。
「たまたまだよ、たまたま通って見つけたんだ」
 何度も「たまたま」を強調していたからこそ、わかった。いったんたくしたあと、一人で自転車に乗って出かけて、新しい道をさがしたのだろう。
 さっそく二人でり道をして、雑木林でどんぐりをたくさん拾った。ミノムシも見つけた。



「どうだ? いいだろ、この道」
「うん、いいな」
「明日からもこっち通ろうぜ」
「うん……わかった」
 このルートなら河原に寄るほどの時間はかからない。秋が深まって陽がれるのが早くなったので、助かる。僕も付き合いやすい――いや、たとえ川をわたってしまうような、もっと長いきょの遠回りになったとしても、僕はタケオに付き合っただろう。
 六年三組の教室では、タケオについてのウワサ話が、タケオのいないところで広がっていた。
 平和銀座のトラブルは、もうみんなが知っている。ビルのオーナーの社長に名前が二つあることも、ニセモノのみょうがタケオの苗字と同じだというのも、ひそひそ声で教室中に伝わっていった。
 でも、だれもタケオにはちょくせつかない。「もしかして、タケオ、もう一つ苗字があったりする?」「タケオって、ほんとはとなりの国の出身なの?」――算数のじゅぎょうでわからないところを質問しつもんするより、ずっと簡単かんたんなのに。
 マサヤは「ヒロシが訊けばいいんだよ」とぼくしつけてくる。「だって帰りはいつも一緒いっしょだし、他のヤツがいないときのほうがタケオも正直に言いやすいんじゃないか?」
 正直に、という言葉にムッとした。タケオがうそをつくかもしれないとうたがっている。なんだよそれ、ともんをつけようとしたら、マサヤは先回りして話を続けた。
「まあ、でも、正直に言うとそんするから、言わないかな……」
 一人で答えを出して、「それはそうだよな、ふつう言わないよなあ」と一人で納得なっとくして、「くとかわいそうだもんな、タケオが」と笑った。
 正直に言うと損する――
 訊くとかわいそう――
 息苦しくなった。むねの入り口にふたをされたみたいだった。
 この国ととなりの国が昔どういう関係で、いまはどういう関係なのか、僕はまだしっかりとわかっているわけではない。
 でも、それぞれの国の人たちが相手に対してどんなかんじょういだいているかは、もう、なんとなく、わかる。
 だから、最近タケオのことを考えると、息が苦しくなってしまう。
 頭で知っていることに心が追いつかないせいなのか。それともぎゃくに、頭がかいできていないのに心がれ動いているからなのか。どっちなのだろう。
 マサヤに言われるまでもなく、ぼくだって学校帰りに何度もこうとしたのだ。たしかに二人きりのときだとタケオも話しやすいだろうし、なにより、僕たちはクラスで一番の仲良しなのだ。
 でも、訊けない。「あのさ、タケオ……」と話しかけるところまではできても、「なに?」とり向いて返されると、目をそらして、まったくちがう話をしてしまう。
 答えを知るのがこわい。
 怖いと思うことがそもそもちがいなんだと、頭では知っているのに心が追いつかない。
 どうして怖いと思ってしまうのだろう。説明できない。二つの国のことを僕はまだ知らなすぎる。頭ではかいできていないのに、心ははげしくれ動いて、止まらない。
 こうなったら、いっそ、タケオが自分から言ってくれればいいのに。やつあたりめいたことを思って、ふと気づく。
 もしもタケオがとなりの国の出身なんだと打ち明けたら――
 僕はどんな顔をして、どんな返事をすればいいのだろう。
 頭でも、心でも、わからない。

 ビル建設けんせつをめぐるトラブルは、なかなかおさまらなかった。商店街の始めた反対運動は、近所の町内会や小中学校のPTAまでんで広がっていった。
 チラシが何種類もつくられて、街のあちこちにられたり配られたりした。ほとんどは生活かんきょうを守ろうとうったえたり、子どもへの悪影あくえいきょうを心配したりする内容ないようだったが、中にはひどいものもある。
 十一月の半ばに郵便ゆうびんけに入っていたチラシは、ビルのオーナーになる会社の社長が隣の国――「あっち」の出身だというのを、いかにも後ろめたいみつを持っているように書いて、だからあの会社は悪いんだと決めつけていた。
 会社から帰ってきた父がそれを郵便受けから取り出して、居間いまに入るなりおこった声で言った。
「反対運動は大事だけど、こういうやり方はだめだ、絶対ぜったいに」
 母は「り紙にはもっとひどいのもあるのよ」と言った。「今日PTAの見回りで見つけて、大変だったんだから」
 ぼくはテレビに見入っているふりをしながら、両親の話に聞き耳を立てた。
 母たちが見つけた貼り紙も、ひどい内容ないようだった。社長の国籍こくせきと、ニセモノの名前を使っていることを、とんでもない悪事をあばき立てるように書いたうえに、太いペンで〈早く出て行け!〉と書きなぐってあったのだ。
「さすがにPTAでも問題になって、商店街の事務じむしょに申し入れたのよ。こんなのを子どもたちが見たらどうするんですか、って」
 すると、事務所の人もこまり顔になって、内幕うちまくを教えてくれた。
 商店街の何人かが、「あっち」に特に悪いかんじょうを持っていて、事務所にだんでチラシをつくっている。そのチラシがとにかくひどい。ビルの計画に反対するという目的もわすれて、ひたすら「あっち」をののしり、社長だけでなく「あっち」から来た人すべてをぼう中傷ちゅうしょうする。〈早く出て行け!〉どころか、がいを加えるとおどしたチラシまであるのだという。
「おい、そんなのきょうはくだぞ。こっちのほうが警察けいさつつかまるんじゃないか」
「事務所の人も困って、その人たちと話をしてみたんだって」
「どうだった?」
「……だめだった」
 さとすどころか、反論はんろんされた。
「あっち」の出身者が昔からいかに悪いことをしてきたか、自分たちがどれほど迷惑めいわくをかけられ、だまされ、うらられてきたか……。切々とうったえる人もいたし、ごうでまくしたてた人もいた。話すちゅうくやしさがつのって号泣してしまった人までいたらしい。
「同じ商店街の身内でも、おたがいに初めて聞く話ばかりだったみたい。戦争の前も、戦争中も、戦争に負けてからも、『あっち』とはいろいろあったから……言いたくなかったんだって。でも、商店街に乗りんでくるんだったら、もうだまっていられない、って」
「いや、でも、その会社とちょくせつめたわけじゃないんだろ?」
「うん、それはそうなんだけど」
「だったら関係ないだろ。どこの国だっていい人もいるし、悪いヤツもいる。ひとまとめになんかできるわけない」
「まあ、正論せいろんを言えばそうなんだけど……」
 グループの一人は、「このままあまい顔をしてつけあがらせると、商店街を乗っ取られるぞ」とまで言って、「あっち」の出身者を、セイタカアワダチソウに重ねた。もともと河原かわらの主役だったススキが、外国からやって来たセイタカアワダチソウに追いはらわれてしまったように、へいぎんもこのままだと……。
 母の話に、息がまりそうになった。タケオと初めて河原にり道をした日、ぼくもセイタカアワダチソウの話をしてしまった。タケオはなにも言わなかった。でも、むねおくではどんなことを思っていたのだろう。
 結局、問題になったチラシは商店街そうかいしゅうしたりがしたりして、今度からは事務じむしょみとめないチラシは公共の場所にらないことになった。
「でも、自分の店に貼るって言うのよ、そのグループは。自分の店の中なんだからもんないだろう、って」
 事務所の人たちも、それ以上は強く言えなかった。
「あそこの商店街、パッとしなかったけど、みんな仲が良かったじゃない。でも、今度のことでバラバラになっちゃって……事務所の中でも、そのグループにどうじょうしてる人もいるし、そうじゃない人もいるし、ビルの計画が取りやめになったとしても、ずーっとしこりが残っちゃうような気がするけど」
 父は「こういうのは、いろんな価値かちかんがぶつかり合うからな」と言いながらも、最後の最後にくぎすように付け加えた。
「でも、考え方はどうであっても、『出て行け』って言われたほうはつらいよ。自分が言われるほうになったら……って、少しは考えればいいのになあ……」
 
 
 父は、この国が「あっち」を併合へいごうしていた時代に生まれて、父親――つまりぼく祖父そふの仕事の都合で、おさなころに「あっち」にうつり住んだ。でも、この国は戦争に負けてしまい、父の家族もこのまま「あっち」でらすわけにはいかなくなって、両親やきょうだいとともに何ヶ月もかけて、大変な思いをして、この国に帰ってきた。
 当時の父は十二さいだった。いまの僕と変わらないとしだ。五人きょうだいの二番目で、「あっち」からもどってくるちゅう、末っ子の妹を栄養失調でくしてしまった。
 その頃のことを、父はほとんど話さなかった。自分から切り出すことは決してなかったし、母や僕がいても、断片的だんぺんてきにしか答えてくれない。食い下がって訊くと、「もうわすれた」で話を終えてしまう――七十さいしょうがいじるまで、ずっと、そうだった。

(「タケオの遠回り」その1、了。その2につづく)

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著者略歴

  1. 重松 清

    1963年生まれ。早稲田大学教育学部卒。出版社勤務を経て執筆活動に入る。ライターとして幅広いジャンルで活躍し、1991年に『ビフォア・ラン』(ベストセラーズ/幻冬舎文庫)で作家デビュー。1999年『ナイフ』(新潮社)で坪田譲治文学賞、『エイジ』(朝日新聞社)で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』(新潮社)で直木賞、2010年『十字架』(講談社)で吉川英治文学賞、2014年『ゼツメツ少年』(新潮社)で毎日出版文化賞を受賞。
    著書に『流星ワゴン』(講談社)、『疾走』『とんび』『木曜日の子ども』(KADOKAWA)、『みんなのなやみ』(理論社/新潮文庫)、『その日のまえに』(文藝春秋)、『きみの友だち』『青い鳥』(新潮社)、『希望の地図』(幻冬舎)、『赤ヘル1975』(講談社)、『ひこばえ』(朝日新聞出版)など多数。2013年に『きみの町で』(ミロコマチコ氏との共著)を小社から刊行。

  2. ミロコマチコ

    画家・絵本作家。1981年大阪府生まれ。生きものの姿を伸びやかに描き、国内外で個展を開催。絵本『オオカミがとぶひ』(イースト・プレス)で第18回日本絵本賞大賞を受賞。『てつぞうはね』(ブロンズ新社)で第45回講談社出版文化賞絵本賞、『ぼくのふとんは うみでできている』(あかね書房)で第63回小学館児童出版文化賞をそれぞれ受賞。ブラティスラヴァ世界絵本原画ビエンナーレ(BIB)で、『オレときいろ』(WAVE出版)が金のりんご賞、『けもののにおいがしてきたぞ』(岩崎書店)で金牌を受賞。その他にも著書多数。第41回巌谷小波文芸賞受賞。
    展覧会『いきものの音がきこえる』が全国を巡回。本やCDジャケット、ポスターなどの装画も手がける。2016年春より『コレナンデ商会』(NHK Eテレ)のアートワークを手がけている。2013年に『きみの町で』(重松清氏との共著)を小社から刊行。
    http://www.mirocomachiko.com

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