第13回 言わないことを言う
小説や演劇、映画、音楽、漫画や絵画など、あらゆる作品の「内容」はほとんど問題にせず、主に題名「だけ」をじっくりと考
第13回は、好きなことで生活していきたい人の指南書としてベストセラーとなった本と、子どもにも大人にも人気の絵本の題名です。(編集部)
テレビCMだったろうか。タレントの高田純次が美しい女優(佐々木希だった気がする)に向かって「(自分と)似てますよね?」と真顔で尋ねた。
女優は戸惑い、周囲も「なにをいってるんですか高田さん!」みたいなムードになるが、そこにすかさず言を重ねる。
「えー、だって目が二つあってここに鼻があって口でしょ?」と指で顔のパーツを示しながら。それでどっと笑いが起きる。
これは高田純次のとぼけた言い方や間の取り方が絶妙だから笑えるのではあるが、この説明の言葉だけを、彼の個性や技術と切り離したらどうなるだろう。
笑いはなくなったとしても、ある種の感銘を残すのではないか。言われれば我々は(みんな)たしかに「似ている」のだ。
解像度を著しく下げたり、過剰にズームインしたり、単純化したり、当たり前すぎるから言わない前提を言ってみたりすることで題名が輝くという例を今回はみていきたい。
1.『生きのびるための事務』坂口恭平のエッセイ集の題名
『生きのびるための事務』坂口恭平・原作/道草晴子・画(マガジンハウス)
自分の興味や好みから遠いのに、目に留まってずっと忘れないのだから、これはすごい題名だと認めざるを得ない。
これをたとえばこうしてみよう。
a 生きるための事務
すごく、当たり前だ。大袈裟である。なにをあらたまって、と言われそうだ。
b 生きるための呼吸
c 生きるための食事
こうすると、もっとだ。すごく普通のことをわざわざ言っていることになる。
「普通のことをわざわざ言うわけがない」と深読みした場合、bは人工呼吸器を取り付けられた重病の患者が、cには、粗末な、最低限度の食事というイメージが付く。嗜好性などなし、栄養だけという。「生きるための」とわざわざ言うことで、そうなる。
aだけ、深読みの先にイメージがない。cにおいて生じる「最低限の食事と豪華な食事」といった「差」が、(事務というものが一様すぎて)生じないから。あえて頑張って想像すると、実直に勤勉に事務作業をし続けているさまが浮かぶ程度だ。
次に、これらはどうだろう。
d 生きのびるための呼吸
e 生きのびるための食事
こうするともう深読みする前から、意味深な呼吸や食事に思える。なんだか修行中のようだ。
独特な、神秘的な呼吸であり(豪華で美味しいかはともかく)すごい食事なんじゃないか? と思わせる。なにかの
そもそも呼吸も食事も、生き(のび)るためのものだ。しないと死んじゃう。
でも普段そう言語化しない。目鼻口が女優でもそうでなくてもほぼ同じ位置にあるのと同じで、大前提すぎることは言語にしない。
なのに、このように言われると、そこに書かれた呼吸や食事はただのそれではないものに思えるはずだ。
でもほとんどの場合(実用的な本の題名としては)「五歳若返る食事」「ボケないための呼吸」などのような散文が採用されるだろう。
それ以上に神秘的でシリアスな仄めかしは、題にはあまり必要ない。
「生きのびる」には、前置きがある。
死なずに、無事に、という前置きが感じられる。つまり、危機を乗り越え、
我々は普段の日常で、そこまでキワキワの思いで生きていない。
意識としては「暮らす」「生活する」くらいだろう。「生き」ているのは素っ裸の、剥き身の生き物で、服を着て靴を履く我々の暮らしや生活には「健康」「ボケずに」とかそういった語のほうがはるかに身近だ。
自転車を漕ぐ人が、右足を踏み込んで左足が上まで来たら左足を踏み込んで、前をみてハンドルを左右に動かして……と言語化しながら自転車を漕ぐことはない。
それと同様に、生きている人は生きる最中に「生きてる」「生きのびる」という言語化をしない。本で知りたいのも、生きのび方よりも健康のほうだ。
でも、我々は本当は生きのびているのでもある。服を着て「生活して」いても、素っ裸の生き物が服を着ているのだから。病気や事故や災害に「たまたまあわずに」生きのびているのだ。
だから「生きのびるための」という前置きは、我々とまるで無関係ではない。
一方の「事務」についても考えよう。
これは完全に服や靴の側の、世俗の言葉だ。呼吸や食事と言った生命活動の根源からはとても遠い。だから取り合わせにまず違和感が生じる。
今度はこうしてみよう。
f 生きのびるための営業
g 生きのびるための投資
どうだろう。先と同様の深読みができる。
企業間の「競争」や、なんなら「ゲーム」のようなイメージがみえてくるのではないか。
「生きのびる」の「普段」から遠い大仰でシリアスな言い方が、ドラマ性を生むからだ。
でも「事務」はどうだ。「営業」とかなり近似したというか、同じ「職種」を指す言葉なのに、妙な違和感がないだろうか?
なにが違うのかと言うと、競争の有無だ。
営業や投資には競争や成功・失敗があるのに対し事務には競争がない(ように感じる)。
営業は、他社のみならず、社内でさえ同僚間での成績を露骨に問われたりする。漫画やドラマでも怒られてハッパをかけられているのは大抵、営業だ。
フィクションでない、筆者の乏しい就職経験を思い返しても、社内の営業は「A社(ライバル社)をぶっつぶせ!」と物騒なスローガンを作って壁に掲げていた。
だからfやgはとてもすんなりと受け入れることができるが、本の題名としてはとても凡庸ということになる。なにしろ営業には競争が、投資にはリスクがあると皆が思っているのだから、君たち、生きのびたいだろう? と指南書が題してくるのは、当たり前すぎる。
もうとっくに、同工異曲の書物があふれている気がするし、題名から少しの新味も感じない。勝ち残るとか、さらに繁栄するといったプラスのイメージが薄いことも(それこそ)得がみえず、訴求しないだろう。
で、「事務」にはそういう競争などのイメージが全然ない。
だが、事務をしない会社はない。しないとたぶん倒産しちゃう。死ぬのだ。
ハンコ捺しやエクセルの入力やホチキス留めといった地味な仕事の膨大な集合がないと、死ぬ。
フリーランスだって個人商店だって、確定申告や納税手続きを「する」。ひいひい言いながら。誰しもに事務がある。
ここで「生きのびる」というシリアスな脅しが未知の作用を及ぼす。
まず、事務は絶対にある。のみならず、どんなクオリティでも漫然と事務してさえいればいいのではないぞと仄めかしているのだ。実は優劣や効率があって、やりようがまずければ生き残れないぞ、と。
それは多くの人が、この題において「初めて」された脅しではなかろうか?
(本書がどういった内容なのかは未読につき分からないものの、インボイスとかマイナンバーなどといった事務的作業を伴うものが不意にいろいろ世に出てきて、不安を感じる個人事業主が増えていたことも、本書のような題の書物を生んだ一因だろうかと思う)。
h 生きのびるための経理
i 生きのびるための福利厚生
(もう考えなくてもいいのだが)hiも考えてみた。
hにはフックがある。営業は外に向けた、他と比較しうる行いなのに対して経理は内側のことだ。だから競争がなさそう。
でも、金銭がからむことは会社の生死には直結しているから「経理」と「生きのびる」は無関係ではない。さらに、営業やなにかに比べれば生死の重要度が薄い(気がする)ところをヒヤリとさせてくるので、題としてはfよりも効果的に思える。
iは面白い……だが、さすがに、脅しが少しも効いてないなー。
壮行会や温泉の割引券はないと寂しいが、別に「死なない」からな。筆者は買うが、売れない一冊だろう。
2『もう ぬげない』ヨシタケシンスケの絵本の題名
すっぽんぽん、もしくはその寸前ということだろうか?
表紙絵をみるに、子供の体で服がつっかえている、ということが分かるが、題名のみ聞いた際には状況が少ししか分からない。
いや、「少し分かる」のが面白さのポイントになっている(正解が分かるのでなく、なんとなくそうじゃないかと思わせる余地がある、という意味)。
『はだか』という詩集はある(谷川俊太郎作)。これは端的だし、もちろん100%「分かる」。
『すっぽんぽんのすけ』という絵本もある(もとしたいずみ作)。これも分かるし、人物の名前になっていることで、キャラクターだって浮かぶ。
どちらもバーンとした、気持ちのいい脱ぎっぷりの題名だ。
「もうぬげない」は、裸を著しく予感させながら、断言できない、視界の悪さを伴っており、そのことが、裸の潔さとは逆のベクトルのフックを作っている。
当連載11回で触れた「題の中を時間が」流れている題名でもある。たった六文字、六音で、まだ脱げた過去と脱げない現在が暗に示されている。「もう」の短い詠嘆に、何枚も脱いできたか、一枚に何分も格闘してきたかの、時間の厚みも感じ取ることができる。
題名は作品の入り口なので、誰かの不満やトラブルを思わせることも(その解消を本文に期待させる)効果を挙げている。
それから、主語が省かれているのに、主体が分かる(気がする)。
筆者はこの題を聞いた瞬間に、幼い子供の言だとすぐに思った。
表紙に子供がいるからではなく、絵本だからでもない。
「すべて平仮名」で表記されている「もうぬげない」が目に飛び込んできたとき、幼い子供しか言わない言葉だと思ったのだ(これは、正解かどうかが問題なのではなくて、「そう思わせる」言葉選びだということ)。
大人は(大人ではなくても、ある程度育った子供は)、着るものをすべて脱いで裸になっても「もう脱げない」と思わないし言わない(小さい服がつっかえて脱げなくてもだ)。
栗やバナナを剥き終えたとき、もう剥けないと言葉にしないように。剥いたら、食べるという次の目的に意識が向かう。
人は、服を脱ぐとか皮を剥くという行為を人生で何度も繰り返す。必ずそのことに慣れ(飽きて)いくし、また次の目的とも紐づいていく中で、「剥き終わり」「脱ぎ終わり」を意識しなくなる。
なにか大変な事情で拘束具を着せられた大人が「脱げない」と「言う」状況はありうるが、「もうぬげない」と詠嘆付きで言語化することはないだろう。
人生経験が少ない、あらゆる行為に慣れていない子供だけが、行為の先の目的を捉えず、脱げる脱げないを素朴に言語にする。よくその一語を掬い上げて、しかも題名まで運んだな、と思う。
同じ作者のヒット作『りんごかもしれない』も、「言わない」ことを言う感覚を活かしている。りんごがりんごであることを人(大人)は疑わない。疑わないことは当然「言わない」。
疑っていたら言語化できるし、その疑いは現実世界では無用のものだが、「題名」の世界では優れたものになる。
『もう ぬげない』は、それに加えて、状況のどんづまりの面白さがある。
りんご「かもしれない」のは、だったらそれはなんなのか、という風に想像が膨らんでいく放射状の面白さだが、否定の「脱げない」は、先を断ち切っている。違うベクトルで二種の異なる面白さが発揮されているのだ。
ヨシタケシンスケの絵本はとても分かりやすい。ユーモアやあたたかみと同時に、言いたいことを伝えるための機能的な絵作り、筋運びができている。
題名にもそれを感じる。ほかにも『わたしのわごむはわたさない』『それしかないわけないでしょう』といった題には優れた「機能性」を感じる。それも、ユーモアやあたたかみと両立させているのがさらにすごい。
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