テツヤ先生の合言葉
テツヤ先生は張り切っていた。
朝の会が始まる前から廊下で待機していて、チャイムが鳴るのと同時に六年二組の教室に入った。
「今日から二週間、皆さんと一緒にがんばっていきます」
教壇から教室を見渡して、「二週間なんて、あっという間だと思います」と続けた。
声に微妙な寂しさがにじんでしまい、おっと、いけない、と咳払いした。
六年二組のクラス担任のナナコ先生が、しばらく介護休暇を取ることになった。田舎で一人暮らしをしているお母さんが倒れてしまったのだ。ナナコ先生にとってもクラスの子どもたちにとっても思いがけないアクシデント――なにしろ、いまは一月。小学校生活の締めくくりなのだから。
ナナコ先生は引き継ぎのときに「向こうが落ち着いたら、休暇を途中で切り上げるつもりです」と念を押していたし、子どもたちだって、卒業前の大事な時期に急に担任の先生がいなくなったら不安でしかたないだろう。一日でも早くナナコ先生に帰ってきてほしいはずだ。
それでも、テツヤ先生は胸を張って言った。
「短いお付き合いですが、少しでも皆さんの思い出に残るよう、一所懸命がんばります。これから、よろしくお願いします!」
おじぎをすると、クラスのみんなは拍手で応えてくれた。
テツヤ先生は先生になって一年目なので、まだクラスを持ったことはない。いままではベテランのホソカワ先生が担任する三年一組の副担任として、クラスのまとめ方を勉強してきた。今回のピンチヒッターは、卒業試験のようなものなのだ。
「それで、ぼくが担任をする二週間で、皆さんに一つ、お願いしたいことがあります」
教室がざわつくなか、テツヤ先生は小さな紙を配った。
「ぼくはいつも思っています。人間って、夢や目標に向かってがんばってるときが一番美しくてカッコいいんじゃないか、って。皆さんにも、それをぜひぼくに見せてほしいんです。二週間で、こんなことをやってみよう、こういう目標を立ててみよう……というのを、この紙に書いてください」
女子の一人が手を挙げて、「勉強のことだけですか?」と質問した。
「いや、なんでもOKだよ。遊びでもスポーツでも家のお手伝いでも、なんでもいいからね」
男子の一人が「目標を達成できなかったら?」と訊き、別の男子が「罰ゲームやろうよ」と続けると、教室は「えーっ」「いいじゃん、やろうよ」「そんなのヤだあ」……と、急に騒がしくなった。
テツヤ先生は手振りで教室を静かにさせると、「罰なんてないよ」と苦笑交じりに言った。「たとえ達成できなくても、目標に向かってがんばることが大事なんだ」
記入を終えた紙を回収すると、テツヤ先生は「あと、クラスの合言葉を決めたいと思います」と言った。「その前に、ぼくの自己紹介を聞いてください」
子どもの頃から学校の先生に憧れていた。大学生時代には塾講師のアルバイトに励む一方で、子どもたちと野外遊びをするサークルでも活動していた。就職活動も、当然ながら、教員採用試験一本に絞っていたのだが――。
「残念ながら、最初の年は試験に落っこちてしまいました」
肩を落とし、しょんぼりとうなだれるお芝居に、男子の元気のいい子たちが笑った。
「でも、ぼくは、先生になることをあきらめませんでした。たった一度の失敗で夢を捨てるのなんて、悔しいじゃないですか」
うつむいたまま、話を続ける。真剣な口調に、笑っていた子も静かになった。
「ぼくは大学を卒業したあとも就職しませんでした。塾の先生のアルバイトを続けながら、がんばって勉強しました。すると――」
顔をパッと上げて、満面の笑みになった。
「二年目の採用試験で合格したんです!」
両手でガッツポーズをつくる。クラスのみんなからも歓声があがった。
「だから、ぼくは思うんです。あきらめてはいけない。あきらめなければ、夢が……絶対にかなう、とは言いません。どんなにがんばっても夢がかなわないことはあります、はっきり言って」
その言葉に、数人がうなずいた。
「でも、あきらめなければ、その夢がかなう可能性はあります。たとえ0.00001パーセントでも、ゼロではないんです。そうだよね?」
今度は、もっと多くの子どもがうなずいた。
「あきらめてしまうと、ゼロです。可能性はまったくなくなってしまいます。これもそうだよね? ちょっと考えればわかるよね?」
全員がうなずいた。
「だったら、あきらめちゃダメだ。簡単にあきらめてしまうのは、弱虫やひきょう者のやることだと、ぼくは思うんだ」
「弱虫」「ひきょう者」のところで何人かがひるんだ様子を見せたが、それは最初から織り込み済みだ。少しぐらいキツい言葉をつかわないと子どもたちにはなかなか伝わらない。
テツヤ先生はあらためて教室を見回して、「六年二組は、あきらめ禁止!」と力強く言った。さらに黒板に大きく〈あきらめ禁止〉とも書いた。
「これをクラスの合言葉にして、二週間がんばっていこう。ちょっとみんなで声を合わせて読んでみよう」
いち、にい、さんっ、と呼吸を合わせた。
「あきらめ、禁止!」
みんなの声が――。
違った。
口を動かさなかった子がいた。男子と女子が半々で、合計六人。さっき「夢がかなわないことだってある」と言ったときにうなずいたメンバーだった。六人とも、困った顔をしていた。途方に暮れているようにも、腹を立てているようにも見えた。
ちょうどチャイムが鳴って、朝の会が終わった。テツヤ先生は教卓に貼った座席表で六人の名前だけチェックして、教壇を降りた。
思わず首をひねってしまう。
なにかオレ、間違ったこと言ったかなあ、そんなことないはずだけどなあ……。
黒板を振り向いた。日直の子が〈あきらめ禁止〉の文字を消そうとするのを、「ちょっと待ってて」と止めて、あらためて合言葉を見つめた。
うん、だいじょうぶ、間違ってない、あきらめたらおしまいなんだ、これ、すごく大事なことなんだから……。
「どうした? さっきから元気ないな」
隣の席のホソカワ先生が声をかけてきた。
「いえ、べつに……」
最初はごまかすつもりだったが、ホソカワ先生には、四月に新卒で着任して以来ずっとお世話になっている。三年一組の副担任をしていたときも、教わることばかりだった。
「三年生と六年生じゃあ、全然違うだろ」
ホソカワ先生はベテランらしく、すべてお見通しのような笑顔で言った。ふつうなら校長や教頭になっているはずの歳なのに、出世には背を向け、定年まで現場ひと筋でいく、と決めている。
「おとなになると歳が三つ上だろうが下だろうがたいして変わらないけど、小学生はまったく別だからな。はっきり言って、違う種類の生き物みたいなものだ」
テツヤ先生は「ですね」と苦笑した。確かにそうだ。三年生の背丈に慣れていたせいで、六年生の、特に女子の背の高さには戸惑ってしまう。
だが、いまのため息の理由は、六年生がおとなびているから、ではない。むしろ逆――予想だにしていなかった幼さに、戸惑っているのだ。
ホソカワ先生には相談してもいいか、と思い直して、事情を打ち明けた。
六年二組の子どもたちに、この二週間でがんばる目標を書いてもらった。朝の会のあとの休み時間に、その内容をざっと確認したら、「これはどうなのか」と言いたい回答がいくつか見つかったのだ。
「こういうのですけど……ちょっと見てもらっていいですか」
提出された用紙の中から、「問題あり」の二枚を選んでホソカワ先生に渡した。
一枚目は〈かぜをひかない〉――男子のユウタくんが書いた。
二枚目は〈髪をもっと伸ばす〉――女子のマナさんが書いた。
「……どう思います?」
「どう、って?」
「だって、二つとも目標としてはちょっとアレじゃないですか?」
ほかの子が書いた紙も見せた。
〈部屋のそうじを毎日する〉〈イヌの散歩をさぼらない〉〈算数の文章題を毎日一つずつやる〉〈中学に入ってこまらないように、英語の単語を一日五つおぼえる〉〈うでたてふせ毎日30回!〉〈牛乳を必ず飲む〉〈妹といっしょに遊んでやる〉〈集団登校で一年生の子と手をつないであげる〉……。
「みんな、ちゃんと目標になってますよね。それを達成するためにがんばるわけだから」
だが、ユウタくんとマナさんの書いたことは、ちょっと違う。
「かぜをひかないのは、もちろん健康のためには大切なんですけど、それを目標にするっていうのは違うんじゃないかなあ、って」
ホソカワ先生は、「なるほど」と一言だけ応えてうなずいた。
「マナさんのもそうですよね。髪の毛は、べつに目標にしなくても勝手に伸びるわけなんですから……」
二人が書いた紙を見たとき、正直に言って、ムッとした。こっちがピンチヒッターの新米教師だからバカにしたのか、と思ったのだ。
だが、授業中の態度は、二人ともまじめだった。二時間目の算数ではマナさんに、三時間目の国語ではユウタくんに、それぞれ質問して答えてもらった。どちらも正解。特にマナさんに出した問いは、かなり難しかった。「わかりません」「考え中です」と言われるのを覚悟していたのだが、マナさんは自信たっぷりに黒板に向かうと、正しい式と答えをさらさらと書いたのだ。ユウタくんも「えーと、あの、えーと……」が少し多かったが、そのぶん一所懸命に考えて答えようとする思いが伝わってきて、好感が持てた。
そんな二人が、どうして、こんな――。
「はっきり言って、どっちも目標としては失格だと思うんです。だって、髪が伸びるのも風邪をひかないのも、努力する必要なんてないじゃないですか。がんばらなくても自然とできることなんて、目標じゃないでしょう」
自分の言葉を聞きながら、そうだよな、オレ間違ったこと言ってないよな、と確かめた。
話し終えて、ホソカワ先生に「どうですか?」と訊いた。
ホソカワ先生は腕組みをして、眉間にしわを寄せた。「うーん……」と喉の奥を鳴らして、しばらく考え込む。すぐに同意してもらえるものだと思い込んでいたテツヤ先生は、困惑して「目標じゃないですよね、これ」と念を押して尋ねた。
すると、ホソカワ先生は「どうなんだろうなあ」と言った。腕組みをしたまま、眉間のしわはさらに深くなった。
「……どう、って?」
「二人とも、三年生と四年生のときにクラス担任だったから、よく知ってるんだ。こういうときにふざけたり、反抗したりするような子じゃない」
「ええ、わかります。だから、目標を立てるという意味を、ちょっと間違えてるだけだと思うから、それを教えてあげて、書き直してもらうつもりなんですけど……」
「いや、ちょっと待ったほうがいい」
「そうですか?」
「間違えてるかどうか、こっちの思い込みだけで簡単には決められないぞ」
「……はあ」
「目標を立てたあとは、どうするんだ?」
明日から朝の会で紙を配って、昨日の行動を振り返って書いてもらう。目標を達成するためにがんばったかどうか。そうすることで、一日一日の積み重ねが目標達成につながるんだというのが実感できるはずだ。
「目標を立てると、それだけで満足してしまう子どももいるじゃないですか。そうじゃなくて、ここからがスタートなんだよ、と教えたいんです」
テツヤ先生はきっぱりと、迷いなく言った。
先週、六年二組の担任になることが決まってから、ずっと考えてきたのだ。たった二週間の付き合いだとしても、子どもたちに「あの先生に大切なことを教わったんだな」と思っていてほしい。なにを教えよう、なにを伝えよう、なにを子どもたちの胸に刻み込もう……。そうやって選び抜いたのが、目標に向かってがんばることと、あきらめないことだったのだ。
もっとも、「そうか、なるほどな」とうなずくホソカワ先生の反応は、意外と薄かった。拍子抜けしたテツヤ先生が「なにかまだ足りませんか?」と訊くと、「いや、そんなことない」と答えたが、その言い方にも、微妙な煮え切らなさが覗いた。
「まあ、しばらくやってみて、様子を見ればいいさ」
「はい……」
無理やり話を終わらされた気がしないでもなかったが、ホソカワ先生の、なんでもお見通しの笑顔と向き合うと、それ以上は言えなくなってしまった。
「どっちにしても、子どもの決めた目標は、どんなものでも最大限に尊重しないとな。いい目標と悪い目標を、おとなが勝手に分けちゃダメだ。それだけは忘れないでくれ」
最後の一言は、少し口調が強かった。なんだか叱られているような気分になって、テツヤ先生の返事の声も沈んでしまった。
職員室に戻ったテツヤ先生が真っ先にチェックしたのは、やはりあの二人の紙――。
〈晩ごはん・ごはんのおかわり2回した。サラダも完食しました。朝ごはん・「めんえきが上がるよ」とママが言ったのでヨーグルトも食べた。おふろのあとはすぐにパジャマを着た。かしつきもつけた。家を出るときの体温は36.2度。せきはありません。鼻もつまっていません〉
ユウタくんは、びっくりするほど細かく書いていた。出がけに体温を計っているのも驚きだったし、免疫や加湿にも気をつかっているのには、驚きを通り越して唖然とした。
そこまで健康に気をつかうというのは、体にどこか悪いところがあるのか――?
いや、しかし、引き継ぎのときにはナナコ先生にはなにも言われていないし、教室で見るユウタくんは元気いっぱいで、小太りの体はピチピチとしている。念のために個人調査票のファイルを確認してみたが、過去に大きな病気やケガをした記録はなく、アレルギーの欄も〈なし〉だった。
逆に、皆勤賞を狙って、卒業まで学校を休みたくないから……ということだろうか。しかし、出席簿を確かめると、一学期と二学期にすでに合計三日、風邪をひいて休んでいた。そもそも皆勤賞の可能性は消えているのだ。
一方、マナさんも、よくわからない。
〈一番長いところが31センチになったけど、まだ全部じゃないので、たりません。わかめスープを飲みました。ひっぱりすぎると抜けてしまって、元も子もなくなるので、注意しています。ママが「すいみん時間が長いと、髪が早く伸びる」と教えてくれたので、ゆうべは9時に寝ました〉
マナさんは髪を三つ編みにしている。ほどくと肩までかかりそうだ。三つ編みはよく似合っている。ただ、背丈とのバランスから見ると、これ以上長く伸ばすよりも、むしろ全体を揃えて、少しだけ切ったほうがいいような気もする。
だが、振り返りの文面では、もっと伸ばしたい様子だった。しかも、少しでも早く。三十一センチという長さには、なにかこだわりでもあるのか。「元も子もなくなる」というのはどういうことなのだろう。よくわからない。個人調査票を見ても、とりたてて髪の毛につながるような記述はなかった。
ホソカワ先生に「どうだった?」と訊かれた。「なにかヒントでも見つかったか?」
「いえ、全然わからなくて……」
振り返りの紙を見せた。
「二人とも確かに、目標に向かってがんばってるみたいなんです」
「そうだな、がんばってるな」
「いいかげんなことを書いたわけじゃないと思うんですよ」
「うん、オレもそう思う」
「でも、『風邪をひかない』とか『髪の毛を伸ばす』とか……なんなんでしょうね、いったい」
○か×かで分けるなら、×にはできない。けれど、すんなりと○をつけられるかと問われれば、「うーん……」と困ってしまう。
正直に打ち明けると、ホソカワ先生は「困るのは困るか?」と笑って訊いた。「いまの、日本語としておかしい言い方かもしれないけど、わかるよな?」
「はい……」
「困りたくないよな、誰だって」
「ええ、まあ……そうですね」
ホソカワ先生に打ち明けなかったことが、一つある。昼休みにユウタくんとマナさんと話し合って、二人の立てた目標を別のものに変えてもらおう、と思っていた。風邪をひかないのも髪の毛を伸ばすのも、本人ががんばるのならそれでいい。ただ、学校に提出するのは、やはり違う目標――五十メートル走で九秒を切るとか、図書室で毎日一冊借りるとか、努力がもっとはっきり見えるもののほうがいい。
だが、ホソカワ先生は、そんな胸の内を見抜いたかのように、さっきよりさらに笑みを深めて言った。
「困りたくないのは、きみの都合だ。子どもにはなんの関係もない」
「――え?」
「困ればいいじゃないか」
笑みが消えた。声の響きも、ぴしゃりと、叱りつけるようなものになった。
「自分が困りたくないから、子どもの決めたことや考えたことを否定する……そんなのは、よくないと思うぞ」
いえ、そんなことはちっとも思ってません、と言い返したくても、言えない。まさに図星だった。
返す言葉に詰まったテツヤ先生に、また笑顔に戻ったホソカワ先生は、椅子から立ち上がりながら言った。
「まあ、困るのも仕事のうちだ。しっかり困ればいいんだ」
なっ、とテツヤ先生の肩を軽く叩くのと同時に、授業が始まるチャイムが鳴った。ホソカワ先生はテツヤ先生の返事を待たずに「さあ、授業授業、がんばるぞー」と、まわりの同僚を笑わせながら席を離れた。
時計を確かめたわけではない。チャイムのタイミングが体に染み込んでいるのだろう。これがベテランの底力というやつなのか。テツヤ先生はすっかり圧倒されてしまい、ホソカワ先生の後ろ姿に無言で一礼するしかなかった。
ただし、ちょっと気になることがある。
元気のない子がいる。授業を受けていても心ここにあらずというか、途方に暮れたような顔をしている。視線が合いそうになると、逃げるようにうつむいてしまう。
一人だけではない。三人――昨日の「あきらめ禁止!」の合言葉に応えなかった子ばかりだった。
どうして――?
その疑問への答えは、思わぬところからもたらされた。
放課後、子どもたちが教室を出たのを見届けてから職員室に戻ると、机の上に伝言メモが何枚も置いてあった。
〈至急電話が欲しいとのこと〉
〈本日中に連絡がなければ、校長先生と直接話したい由〉
〈TEL クレーム? 応対の言葉づかい注意(録音の可能性あり)〉
それぞれ別口の電話だったが、どれも六年二組の保護者から――三人とも、授業中に元気がなかった子の親だったのだ。
タイミングもそうだし、攻めてくる方角も想像すらしていなかった。
電話をかけてきた三人のうち二人は、中学受験をする子の母親だった。ヒトミさんとコウスケくん。ヒトミさんはミッション系の大学の附属中学が第一志望で、コウスケくんは中堅どころの男子校を目指していた。
ところが、二人とも思うように成績が上がらず、冬休みの模試の結果が出た年明け早々に家族や塾の先生と話し合って、志望校のランクを下げることにした。その矢先に、テツヤ先生が「あきらめ禁止!」をクラスの合言葉にしてしまったのだ。
「せっかく本人も納得して志望校を変えたのに、いまさらそんなことを勝手に言われても困るんですよ! 子どもを無責任な言葉で迷わせないでください!」
ヒトミさんの母親は、甲高い声でまくしたてた。
そうか、と遅ればせながら気づいた。タイミングが悪かったな、とも悔やんだ。
この時期は私立中学の出願期間で、受験生は志望校を最終的に決めなくてはならない。夢や憧れをあきらめざるをえない子どもや親も、たくさんいるはずなのだ。
コウスケくんの母親は、口調こそヒトミさんの母親より冷静だったが、話の中身は深刻だった。コウスケくんはテツヤ先生が言った「弱虫」と「ひきょう者」をひどく気にして、いったん自分で決めた志望校変更に急に自信をなくしてしまった。そして今朝になって「やっぱり最初の志望校を受ける」と言いだしたのだ。
「本人は、たとえ落ちても後悔しない、中学は公立に行って高校受験でがんばるって言うんですけど……そんなの、先のことなんてわからないじゃないですか。もし、あとで振り返ってみて、あのとき志望校を変えていればよかった、となったら……先生、責任取ってもらえるんですか?」
そんなことを言われても――。
正直、困惑よりも、あきれた。揃って「責任」という言葉を口にした二人に、「教師にそこまで背負わせないでください」と言い返したかった。
それでも、ここで話がもつれてしまうと、ナナコ先生に迷惑がかかる。ひたすら低姿勢で、丁寧に、「あきらめ禁止!」の真意を説明した。あくまでも「簡単に」あきらめてしまうことを諫めたつもりだったのだ。親子や塾の先生と一緒に話し合ったのなら、それは決して「簡単に」あきらめてしまったわけではない……。
「じゃあ、それ、教室でちゃんと言ってください。説明不足ですよ」
ヒトミさんの母親に言われて、「わかりました、明日、必ず」と約束させられた。
コウスケくんの母親は、「弱虫」と「ひきょう者」にこだわって、「明日、みんなの前で取り消してください」と言った。「あと、謝罪もしてもらえますか」
「……謝罪ですか」
「だって、先生が子どもたちの人格を否定するのは、パワハラやアカハラになるんじゃないですか?」
さまざまなハラスメント――パワーハラスメント、アカデミックハラスメント、そしてセクシャルハラスメントについては、さんざん研修を受けてきた。男子を「くん」、女子を「さん」で呼ぶことすら、厳しい人なら「性的少数者への配慮が足りない」と非難してくるご時世なのだ。
確かに「弱虫」や「ひきょう者」はキツすぎたかもしれない。反省する。だが、それを人格否定とまで言われると、いくらなんでも大げさな……いや、反論はしないほうがいいだろう……。
二人の言いぶんをすべて受け容れた。全面降伏せざるをえない。
三本目のクレームの電話の主は、ヤストくんの父親だった。
「子どもの話に親が出るのはみっともないとは思うんだけど、ちょっとね、どうしても一言言っておかないと気がすまないんで」
喧嘩腰だった。まだ若いテツヤ先生相手に、最初から居丈高に出て、ずけずけと続ける。
「息子に聞いたら、先生、再来週までのピンチヒッターなんだってね」
「ええ……」
「どうせすぐにいなくなるから、いいかげんなことを子どもに吹き込んだわけ?」
「いや、あの……いいかげんって……」
「あきらめるなとか、あきらめたら可能性がゼロになるとか、世の中、そんな単純なものじゃないんだよ。自分で決められるんだったら、誰も苦労しないんだ。それくらいわからないのか」
ヤストくんは、地元のサッカーチームに入っていた。Jリーグのクラブの下部組織で、小学生対象のジュニアから中学生のジュニアユース、さらに高校生のユースと、年齢別にカテゴリーが分かれている。ただし、上のカテゴリーに進めるのは、将来性を認められたメンバーだけ――ヤストくんは、先週おこなわれたセレクションで不合格になった。残念ながら、ジュニアユースへの昇格がかなわなかったのだ。
「自分であきらめたわけじゃない。本人はやる気満々なんだよ。でも、チームがダメだって決めたら、従うしかないだろ? それがルールなんだから」
「……はい」
「まあ、親の目で見ても、あまり上手くなかったから、昇格は正直しんどいと思ってた。ジュニアユースになると練習もキツくなるし、試合も増えるし、学校の勉強も大変になるから、かえって、いい潮時だったんだ。いつまでもだらだらと夢を見させるより、スパッと切り替えさせてやるのも大事だ。チームとしての親心だよ、それも」
ヤストくん自身、さばさばと現実を受け容れていた。「中学ではサッカー部もいいけど水泳をやろうかな、バスケも面白そうだし」などと両親にも話していたらしい。
「難しいことなんて考えてないんだよ。もっと単純で、ケロッとして、ジュニアユースに上がれなかったのは悔しいし、残念だけど、しょうがないよね……それだけだったんだよ、先週は」
そこに、テツヤ先生が現れた。
「よけいなことを言われたわけだ。あきらめるなとか、夢をかなえる可能性を捨てるなとか……どうせ偉そうに言ってたんだろうな、そうだろう?」
「いえ……そんなつもりは……」
「まあいいや。とにかく、あんたによけいなことを言われて、息子はショックを受けたんだよ。ああ、もう、オレは夢をかなえる可能性がゼロになったんだ、って……やっぱりサッカーが大好きなのに、もうジュニアの仲間たちと一緒にプレイすることはできないんだ、って……いままで感じてなかった挫折感を味わわされて、落ち込んで……」
学校から帰ってきても、ずっと元気がなかった。しょんぼりとして、食欲もない。心配した両親が尋ねると、ぽつりぽつりと合言葉のことを話しだして、途中で涙ぐんでしまったのだという。
「ほんとに、よけいなことをしてくれたものだよ。先生の端くれだったら、自分の一言が子どもの心にどんな傷を負わせるかぐらいは自覚してもらわないと」
「傷」とまで言われなくてはならないのか――?
「新人だとかピンチヒッターだとか、言い訳はやめてくれよな。あんたが半人前だろうとなんだろうと、子どもから見れば、先生は先生なんだ。一言一言が重いんだよ。その重み、あんた、ちゃんとわかってるのか?」
わかっているつもりだった。
だからこそ、子どもたちの胸にいつまでも残るメッセージを与えたかった。
だが、それは、空回りを超えて、「傷」を与えてしまうようなものだったのか――?
今度もまた、平謝りするしかなかった。
電話口で謝る相手は父親でも、ほんとうはヤストくん本人に「ごめんな」を伝えたかった。ヤストくんだけではない。ヒトミさんにも、コウスケくんにも。
授業中の三人の顔が浮かぶ。キツかったんだろうな、と認める。確かに、よけいなことを言ってしまったのかもしれない。無責任だっただろうか。配慮が足りなかっただろうか。でも、オレ、そんなつもりは毛頭なくて、ただみんなに大切なことを伝えたかっただけなんだけど……言い訳は、やめよう……。
そこにホソカワ先生が外から戻ってきた。
この学校では、毎日『さよなら当番』という持ち回りの仕事がある。下校時間に数人の先生が校門脇に立って、学校をひきあげる子どもたちに「また明日!」「早寝早起きで明日も元気でね!」と声をかけるのだ。
発案者はホソカワ先生だった。たんにお別れのあいさつをするだけでなく、子どもたちの様子を見て、今日一日が楽しかったかどうかを確認する。中には先生に叱られたり友だちとケンカしたりした子もいる。前もって担任の先生から「今日はこんなことがあった」と聞かされていれば、特に気を配って、慰めや励ましのフォローをするし、逆に下校時の様子がおかしいと気づくと、担任の先生に報告しておく。そうやって、子どもたちのちょっとした変化も見逃さないようにしているのだ。
ホソカワ先生は、テツヤ先生宛てにクレームの電話が来ていることも知っていた。
「さっき、出がけに伝言メモをちらっと見たんだけど、もう、そっちのほうは――」
「……対応ずみです」
「なんとかなったのか?」
「ええ……まあ、いちおう」
明らかに元気のない受け答えだったが、ホソカワ先生は細かくは訊かずに、「まあ、こういうのも経験だ」と笑った。
ですね、とテツヤ先生がうなずくと、「それより、いいこと教えてやろうか」と、いたずらっぽい口調と表情で言った。
ユウタくんとマナさんのこと――。
「二人の立てた目標、オレもちょっと気になったから、訊いてみたんだよ」
最初にユウタくんが校門に姿を見せたので、ちょっとちょっと、と手招いた。クラス担任からはずれて二年たっていても、ユウタくんが素直に呼びかけに応じたというのが、ホソカワ先生の人望というものだろう。
「びっくりしたよ、そういうことだったのかあーっ、てな」
ユウタくんが風邪をひきたくない理由は、ひいおばあちゃんのためだった。
九十歳を超えたひいおばあちゃんは、年末から体の具合が悪くて入院している。ひいおばあちゃんに可愛がられていたユウタくんは今度の日曜日にお見舞いに行きたいのだが、病院には「発熱や咳のある人は面会禁止」というルールがある。
「だから、風邪をひかないことが、あの子の目標になったんだ。風邪をひかないように、いろんなことに気をつけて、がんばろう、って……立派な目標だよな、これ」
テツヤ先生は「ええ……そうですね」とうなずいた。
「きみの考えてた目標とはだいぶ違うかもしれないけど、オレは、いい目標だと思う」
「はい……」
確かに戸惑いはある。なーんだ、と拍子抜けした思いもないわけではない。
それでも、謎が解けると、自然と頬がゆるむ。そうか、そうだったのか、なるほどなあ、と首を傾げながら納得する。
ホソカワ先生は、マナさんにも目標を立てた理由やいきさつを尋ねていた。
「あの子、ヘア・ドネーションを考えてるんだ」
「ヘア・ドネーションって……がん患者の子どもにウィッグを贈るんでしたっけ?」
「そうそう、それだ」
抗がん剤や放射線によるがん治療は広くおこなわれているが、その副作用の脱毛で髪の毛を失ってしまった子も数多い。ヘア・ドネーションは、髪をなくしてしまった子どもたちにウィッグ、つまりカツラを贈る活動だった。
「あの子、そういえば四年生の頃から、ナイチンゲールとかシュバイツァーの伝記をよく読んでたんだ。あと、お母さんが長期入院の子どもと家族を支援するNPOのメンバーで、その影響もあるんだと思うけど、五年生になってから、小学校を卒業するときにはヘア・ドネーションをしよう、って決めたらしい」
ただし、それには条件がある。
髪の毛の長さが、最低でも三十一センチは必要なのだ。
「今朝、きみに見せてもらった振り返りの紙にも書いてあったよな。三十一センチの話」
「ええ……」
「卒業までに、なんとかその長さまで伸ばしたいらしい」
卒業式には、友だちにもなじみのある三つ編みで出席する。春休みのうちにヘア・ドネーションの窓口になっている美容院で髪を切って、四月からの中学校生活は、心機一転、ショートヘアで始めたい。だから、いま、髪の長さが気になってしかたないのだという。
「確かに、これも、まっとうな目標だよな。きみだって否定できないだろう?」
「ええ……もちろん」
否定など、とんでもない。むしろ褒めたたえたいほどだ。
そして、マナさんに対してもユウタくんに対しても、努力しなくてもできる目標なんて……と思ってしまった自分が、いまさらながら、恥ずかしくてたまらない。
黙り込んでしまったテツヤ先生に、ホソカワ先生は言った。
「子どもってのは、なんでも斜め上だよ。とんでもない受け止め方をしたり、ありえないような発想で答えたりする。予想できないし、無理に予想しても、絶対に裏切られる」
テツヤ先生は無言のまま、うなずいた。
「子どもと付き合うっていうのは、そういうことだ」
さらにまた、うなずく。
ホソカワ先生はそれ以上はもうなにも言わず、手早く事務仕事を片づけると、「じゃあお先に」とひきあげた。最後に、テツヤ先生の肩を、ぽん、と叩く。テツヤ先生は、黙って、ただうなずくしかできなかった。
ユウタくんは、ひいおばあちゃんが五月に亡くなるまで、何度も何度もお見舞いに出かけた。風邪をひいて面会が中止になることは一度もなかった。そのおかげで、眠るように穏やかに逝ったひいおばあちゃんとのお別れを、すっきりした思いで迎えられた。
ヒトミさんとコウスケくんは、一時は志望校を元に戻すかどうか迷ったものの、結局、両親のアドバイスどおりに安全圏の学校を受験して、みごとに合格した。「もしも初志貫徹で、あきらめずに第一志望の学校を受験していたら、どうだっただろう」と考えることは、入学してしばらくの頃までは、ときどきあった。わずかな後悔も、ないわけではなかった。それでも、入学した学校で友だちができて、勉強や部活が忙しくなると、もう、そんな「もしも」は、ごく自然に頭の中から消え去ってしまった。
ヤストくんは中学校で陸上部に入った。最初はサッカーで鍛えた脚力を活かせる短距離走に取り組んでいたが、顧問の先生が跳躍の才能を見抜いて、走り幅跳びに転向させた。すると、めきめきと頭角を現して、三年生の秋の大会では県の三位にまで入った。
さらに歳月が流れ、みんな、おとなになった。それぞれの人生を、それぞれのペースで一所懸命に生きている。
小学校の卒業間際の二週間だけピンチヒッターで担任をした若い先生のことは、五人とも覚えている。けれど、名前は忘れた。顔もぼんやりとしか浮かばない。その先生の一言で落ち込んだり迷ったり、目標を紙に書いて提出したりしたことは、もう誰も、言われなければ思いだせない。
テツヤ校長が苦笑交じりに言うと、廊下を並んで歩くオオタ先生は「えーっ、そうなんですか。ひどいなあ」と、まともに受けて顔をしかめた。
やれやれ、とテツヤ校長は別のニュアンスの苦笑いを浮かべる。まじめな新人だ。特に今日は緊張もして、軽く受け流す余裕などないのだろう。
「まあ、でも、そういうものなんだよ。小学生と付き合うっていうのは」
「はあ……」
「同じことをオレも先輩に言われたんだ」
先輩――ホソカワ先生は、定年を迎えるまで現場のヒラ教師をまっとうした。十数年前に亡くなったときには、引退してもうだいぶたっているというのに、昔の教え子がたくさん参列した。その人数以上に、誰の目も真っ赤に潤んでいたことに驚き、感動して、尊敬の念を新たにする一方で、自分が死んだらどうだろう、と苦い思いを噛みしめたものだった。
いまのテツヤ校長は、出会った頃のホソカワ先生よりも年上になった。現場ひと筋のヒラ教師をまっとうするわけにはいかなかったものの、理想とする教師の姿は、やはり、ホソカワ先生だった。
だからこそ――。
「子どもの発想や受け止め方は、オレたちの考えることの斜め上をいくからな」
ホソカワ先生に言われたことを、何十年ぶりに繰り返す。
「たくさん困ればいい」
笑って、これもまた、繰り返す。
オオタ先生は「はい……」とうなずいた。どこまで本気でわかっているかは怪しいものだったが、最初はそういうものだろう。ここからなのだ、すべては。
オオタ先生は、今日から六年生のクラスを担任する。もともとのクラス担任が急病で入院したので、別の学年の副担任としてクラス運営を勉強していた彼を、ピンチヒッターとして抜擢したのだ――かつての自分のように。
職員会議では「だいじょうぶですか?」という意見も出た。それを「なにかあったら私が校長として責任をとりますから」と押し切ったのは、四十年近く前の自分自身とオオタ先生とを重ね合わせたからだった。
「まあ、なんでも経験だから、しっかりがんばって」
六年一組の教室の前で、言った。校長として付き添うのはここまで。教室に入ったら、オオタ先生が一人で仕切らなくてはならない。
心細そうな顔になったオオタ先生に、だいじょうぶだいじょうぶ、と笑ってうなずき、さあ入って、と手振りで示した。
オオタ先生もこわばった顔でうなずき、意を決して、ドアを開けた。
ざわついていた教室が静かになる。
「皆さん、おはようございます」
オオタ先生の声が廊下にも響く。
がんばれよ、とテツヤ校長は無言でエールを贈って、歩きだした。
(了。『答えは風のなか』は2021年秋以降の刊行を予定しています)