朝日出版社ウェブマガジン

MENU

答えは風のなか

テツヤ先生の合言葉


 テツヤ先生は張〔は〕り切っていた。
 朝の会が始まる前から廊〔ろう〕下〔か〕で待機していて、チャイムが鳴るのと同時に六年二組の教室に入った。
「今日から二週間、皆〔みな〕さんと一緒〔いっしょ〕にがんばっていきます」
 教〔きょう〕壇〔だん〕から教室を見渡〔わた〕して、「二週間なんて、あっという間だと思います」と続けた。
 声に微〔び〕妙〔みょう〕な寂〔さび〕しさがにじんでしまい、おっと、いけない、と咳払〔せきばら〕いした。
 六年二組のクラス担任〔たんにん〕のナナコ先生が、しばらく介〔かい〕護〔ご〕休〔きゅう〕暇〔か〕を取ることになった。田舎〔いなか〕で一人暮〔ぐ〕らしをしているお母さんが倒〔たお〕れてしまったのだ。ナナコ先生にとってもクラスの子どもたちにとっても思いがけないアクシデント――なにしろ、いまは一月。小学校生活の締〔し〕めくくりなのだから。
 ナナコ先生は引き継〔つ〕ぎのときに「向こうが落ち着いたら、休暇を途〔と〕中〔ちゅう〕で切り上げるつもりです」と念を押〔お〕していたし、子どもたちだって、卒業前の大事な時期に急に担任の先生がいなくなったら不安でしかたないだろう。一日でも早くナナコ先生に帰ってきてほしいはずだ。
 それでも、テツヤ先生は胸〔むね〕を張〔は〕って言った。
「短いお付き合いですが、少しでも皆〔みな〕さんの思い出に残るよう、一所懸命〔いっしょけんめい〕がんばります。これから、よろしくお願いします!」
 おじぎをすると、クラスのみんなは拍手〔はくしゅ〕で応〔こた〕えてくれた。
 テツヤ先生は先生になって一年目なので、まだクラスを持ったことはない。いままではベテランのホソカワ先生が担任〔たんにん〕する三年一組の副担任として、クラスのまとめ方を勉強してきた。今回のピンチヒッターは、卒業試験のようなものなのだ。
「それで、ぼくが担任をする二週間で、皆さんに一つ、お願いしたいことがあります」
 教室がざわつくなか、テツヤ先生は小さな紙を配った。
「ぼくはいつも思っています。人間って、夢〔ゆめ〕や目標に向かってがんばってるときが一番美しくてカッコいいんじゃないか、って。皆さんにも、それをぜひぼくに見せてほしいんです。二週間で、こんなことをやってみよう、こういう目標を立ててみよう……というのを、この紙に書いてください」
 女子の一人が手を挙げて、「勉強のことだけですか?」と質問〔しつもん〕した。
「いや、なんでもOKだよ。遊びでもスポーツでも家のお手伝いでも、なんでもいいからね」
 男子の一人が「目標を達成できなかったら?」と訊〔き〕き、別の男子が「罰〔ばつ〕ゲームやろうよ」と続けると、教室は「えーっ」「いいじゃん、やろうよ」「そんなのヤだあ」……と、急に騒〔さわ〕がしくなった。
 テツヤ先生は手振〔てぶ〕りで教室を静かにさせると、「罰なんてないよ」と苦笑交じりに言った。「たとえ達成できなくても、目標に向かってがんばることが大事なんだ」
  記入を終えた紙を回〔かい〕収〔しゅう〕すると、テツヤ先生は「あと、クラスの合言葉を決めたいと思います」と言った。「その前に、ぼくの自己〔じこ〕紹〔しょう〕介〔かい〕を聞いてください」
 子どもの頃〔ころ〕から学校の先生に憧〔あこが〕れていた。大学生時代には塾〔じゅく〕講〔こう〕師〔し〕のアルバイトに励〔はげ〕む一方で、子どもたちと野外遊びをするサークルでも活動していた。就職〔しゅうしょく〕活動も、当然ながら、教員採用〔さいよう〕試験一本に絞〔しぼ〕っていたのだが――。
「残念ながら、最初の年は試験に落っこちてしまいました」
 肩〔かた〕を落とし、しょんぼりとうなだれるお芝〔しば〕居〔い〕に、男子の元気のいい子たちが笑った。
「でも、ぼくは、先生になることをあきらめませんでした。たった一度の失敗で夢〔ゆめ〕を捨〔す〕てるのなんて、悔〔くや〕しいじゃないですか」
 うつむいたまま、話を続ける。真剣〔しんけん〕な口調に、笑っていた子も静かになった。
「ぼくは大学を卒業したあとも就職〔しゅうしょく〕しませんでした。塾〔じゅく〕の先生のアルバイトを続けながら、がんばって勉強しました。すると――」
 顔をパッと上げて、満面の笑みになった。
「二年目の採用〔さいよう〕試験で合格〔ごうかく〕したんです!」
 両手でガッツポーズをつくる。クラスのみんなからも歓声〔かんせい〕があがった。
「だから、ぼくは思うんです。あきらめてはいけない。あきらめなければ、夢〔ゆめ〕が……絶対〔ぜったい〕にかなう、とは言いません。どんなにがんばっても夢がかなわないことはあります、はっきり言って」
 その言葉に、数人がうなずいた。
「でも、あきらめなければ、その夢がかなう可〔か〕能性〔のうせい〕はあります。たとえ0.00001パーセントでも、ゼロではないんです。そうだよね?」
 今度は、もっと多くの子どもがうなずいた。
「あきらめてしまうと、ゼロです。可能性はまったくなくなってしまいます。これもそうだよね? ちょっと考えればわかるよね?」
 全員がうなずいた。
「だったら、あきらめちゃダメだ。簡単〔かんたん〕にあきらめてしまうのは、弱虫やひきょう者のやることだと、ぼくは思うんだ」
「弱虫」「ひきょう者」のところで何人かがひるんだ様子を見せたが、それは最初から織〔お〕り込〔こ〕み済〔ず〕みだ。少しぐらいキツい言葉をつかわないと子どもたちにはなかなか伝わらない。
 テツヤ先生はあらためて教室を見回して、「六年二組は、あきらめ禁〔きん〕止〔し〕!」と力強く言った。さらに黒板に大きく〈あきらめ禁止〉とも書いた。
「これをクラスの合言葉にして、二週間がんばっていこう。ちょっとみんなで声を合わせて読んでみよう」
 いち、にい、さんっ、と呼〔こ〕吸〔きゅう〕を合わせた。
「あきらめ、禁止!」
 みんなの声が――。
 違〔ちが〕った。
 口を動かさなかった子がいた。男子と女子が半々で、合計六人。さっき「夢〔ゆめ〕がかなわないことだってある」と言ったときにうなずいたメンバーだった。六人とも、困〔こま〕った顔をしていた。途〔と〕方〔ほう〕に暮〔く〕れているようにも、腹〔はら〕を立てているようにも見えた。
 ちょうどチャイムが鳴って、朝の会が終わった。テツヤ先生は教〔きょう〕卓〔たく〕に貼〔は〕った座〔ざ〕席〔せき〕表で六人の名前だけチェックして、教〔きょう〕壇〔だん〕を降〔お〕りた。
 思わず首をひねってしまう。
 なにかオレ、間〔ま〕違〔ちが〕ったこと言ったかなあ、そんなことないはずだけどなあ……。
 黒板を振〔ふ〕り向いた。日直の子が〈あきらめ禁〔きん〕止〔し〕〉の文字を消そうとするのを、「ちょっと待ってて」と止めて、あらためて合言葉を見つめた。
 うん、だいじょうぶ、間違ってない、あきらめたらおしまいなんだ、これ、すごく大事なことなんだから……。
 
∗
 
 テツヤ先生は、昼休みの職〔しょく〕員室〔いんしつ〕で、深々とため息をついた。椅子〔いす〕の背〔せ〕に体を預〔あず〕けて天井を見上げると、「まいったなあ……」というつぶやきも口から漏〔も〕れた。
「どうした? さっきから元気ないな」
 隣〔となり〕の席のホソカワ先生が声をかけてきた。
「いえ、べつに……」
 最初はごまかすつもりだったが、ホソカワ先生には、四月に新卒で着〔ちゃく〕任〔にん〕して以来ずっとお世話になっている。三年一組の副担任〔ふくたんにん〕をしていたときも、教わることばかりだった。
「三年生と六年生じゃあ、全然違〔ちが〕うだろ」
 ホソカワ先生はベテランらしく、すべてお見通しのような笑顔で言った。ふつうなら校長や教頭になっているはずの歳〔とし〕なのに、出世には背〔せ〕を向け、定年まで現〔げん〕場〔ば〕ひと筋〔すじ〕でいく、と決めている。
「おとなになると歳が三つ上だろうが下だろうがたいして変わらないけど、小学生はまったく別だからな。はっきり言って、違う種類の生き物みたいなものだ」
 テツヤ先生は「ですね」と苦笑した。確〔たし〕かにそうだ。三年生の背〔せ〕丈〔たけ〕に慣〔な〕れていたせいで、六年生の、特に女子の背の高さには戸〔と〕惑〔まど〕ってしまう。
 だが、いまのため息の理由は、六年生がおとなびているから、ではない。むしろ逆〔ぎゃく〕――予想だにしていなかった幼〔おさな〕さに、戸惑っているのだ。
 ホソカワ先生には相談してもいいか、と思い直して、事〔じ〕情〔じょう〕を打ち明けた。
 六年二組の子どもたちに、この二週間でがんばる目標を書いてもらった。朝の会のあとの休み時間に、その内容〔ないよう〕をざっと確認〔かくにん〕したら、「これはどうなのか」と言いたい回答がいくつか見つかったのだ。
「こういうのですけど……ちょっと見てもらっていいですか」
 提〔てい〕出〔しゅつ〕された用紙の中から、「問題あり」の二枚〔まい〕を選んでホソカワ先生に渡〔わた〕した。
 一枚目は〈かぜをひかない〉――男子のユウタくんが書いた。
 二枚目は〈髪〔かみ〕をもっと伸〔の〕ばす〉――女子のマナさんが書いた。
「……どう思います?」
「どう、って?」
「だって、二つとも目標としてはちょっとアレじゃないですか?」
 ほかの子が書いた紙も見せた。
〈部屋のそうじを毎日する〉〈イヌの散歩をさぼらない〉〈算数の文章題を毎日一つずつやる〉〈中学に入ってこまらないように、英語の単語を一日五つおぼえる〉〈うでたてふせ毎日30回!〉〈牛乳〔ぎゅうにゅう〕を必ず飲む〉〈妹といっしょに遊んでやる〉〈集〔しゅう〕団〔だん〕登校で一年生の子と手をつないであげる〉……。
「みんな、ちゃんと目標になってますよね。それを達成するためにがんばるわけだから」
 だが、ユウタくんとマナさんの書いたことは、ちょっと違〔ちが〕う。
「かぜをひかないのは、もちろん健康のためには大切なんですけど、それを目標にするっていうのは違うんじゃないかなあ、って」
 ホソカワ先生は、「なるほど」と一言だけ応〔こた〕えてうなずいた。
「マナさんのもそうですよね。髪〔かみ〕の毛は、べつに目標にしなくても勝手に伸〔の〕びるわけなんですから……」
 二人が書いた紙を見たとき、正直に言って、ムッとした。こっちがピンチヒッターの新米〔しんまい〕教〔きょう〕師〔し〕だからバカにしたのか、と思ったのだ。
 だが、授〔じゅ〕業〔ぎょう〕中の態〔たい〕度〔ど〕は、二人ともまじめだった。二時間目の算数ではマナさんに、三時間目の国語ではユウタくんに、それぞれ質問〔しつもん〕して答えてもらった。どちらも正解〔せいかい〕。特にマナさんに出した問いは、かなり難〔むずか〕しかった。「わかりません」「考え中です」と言われるのを覚〔かく〕悟〔ご〕していたのだが、マナさんは自信たっぷりに黒板に向かうと、正しい式と答えをさらさらと書いたのだ。ユウタくんも「えーと、あの、えーと……」が少し多かったが、そのぶん一所懸命〔いっしょけんめい〕に考えて答えようとする思いが伝わってきて、好感が持てた。
 そんな二人が、どうして、こんな――。
「はっきり言って、どっちも目標としては失格〔しっかく〕だと思うんです。だって、髪〔かみ〕が伸〔の〕びるのも風邪〔かぜ〕をひかないのも、努力する必要なんてないじゃないですか。がんばらなくても自然とできることなんて、目標じゃないでしょう」
 自分の言葉を聞きながら、そうだよな、オレ間〔ま〕違〔ちが〕ったこと言ってないよな、と確〔たし〕かめた。
 話し終えて、ホソカワ先生に「どうですか?」と訊〔き〕いた。
  ホソカワ先生は腕〔うで〕組〔ぐ〕みをして、眉〔み〕間〔けん〕にしわを寄〔よ〕せた。「うーん……」と喉〔のど〕の奥〔おく〕を鳴らして、しばらく考え込〔こ〕む。すぐに同意してもらえるものだと思い込んでいたテツヤ先生は、困惑〔こんわく〕して「目標じゃないですよね、これ」と念を押〔お〕して尋〔たず〕ねた。
 すると、ホソカワ先生は「どうなんだろうなあ」と言った。腕組みをしたまま、眉間のしわはさらに深くなった。
「……どう、って?」
「二人とも、三年生と四年生のときにクラス担任〔たんにん〕だったから、よく知ってるんだ。こういうときにふざけたり、反抗〔はんこう〕したりするような子じゃない」
「ええ、わかります。だから、目標を立てるという意味を、ちょっと間〔ま〕違〔ちが〕えてるだけだと思うから、それを教えてあげて、書き直してもらうつもりなんですけど……」
「いや、ちょっと待ったほうがいい」
「そうですか?」
「間違えてるかどうか、こっちの思い込みだけで簡単〔かんたん〕には決められないぞ」
「……はあ」
「目標を立てたあとは、どうするんだ?」
 明日から朝の会で紙を配って、昨日の行動を振〔ふ〕り返って書いてもらう。目標を達成するためにがんばったかどうか。そうすることで、一日一日の積み重ねが目標達成につながるんだというのが実感できるはずだ。
「目標を立てると、それだけで満足してしまう子どももいるじゃないですか。そうじゃなくて、ここからがスタートなんだよ、と教えたいんです」
 テツヤ先生はきっぱりと、迷〔まよ〕いなく言った。
 先週、六年二組の担任〔たんにん〕になることが決まってから、ずっと考えてきたのだ。たった二週間の付き合いだとしても、子どもたちに「あの先生に大切なことを教わったんだな」と思っていてほしい。なにを教えよう、なにを伝えよう、なにを子どもたちの胸〔むね〕に刻〔きざ〕み込〔こ〕もう……。そうやって選び抜〔ぬ〕いたのが、目標に向かってがんばることと、あきらめないことだったのだ。
 もっとも、「そうか、なるほどな」とうなずくホソカワ先生の反応〔はんのう〕は、意外と薄〔うす〕かった。拍〔ひょう〕子〔し〕抜〔ぬ〕けしたテツヤ先生が「なにかまだ足りませんか?」と訊〔き〕くと、「いや、そんなことない」と答えたが、その言い方にも、微〔び〕妙〔みょう〕な煮〔に〕え切らなさが覗〔のぞ〕いた。
「まあ、しばらくやってみて、様子を見ればいいさ」
「はい……」
 無理やり話を終わらされた気がしないでもなかったが、ホソカワ先生の、なんでもお見通しの笑顔と向き合うと、それ以上は言えなくなってしまった。
「どっちにしても、子どもの決めた目標は、どんなものでも最大限〔さいだいげん〕に尊〔そん〕重〔ちょう〕しないとな。いい目標と悪い目標を、おとなが勝手に分けちゃダメだ。それだけは忘〔わす〕れないでくれ」
 最後の一言は、少し口調が強かった。なんだか叱〔しか〕られているような気分になって、テツヤ先生の返事の声も沈〔しず〕んでしまった。
 
∗
 
 次の日の朝の会で、クラス全員に、昨日の振〔ふ〕り返りを書いてもらった。
 職〔しょく〕員室〔いんしつ〕に戻〔もど〕ったテツヤ先生が真っ先にチェックしたのは、やはりあの二人の紙――。
〈晩〔ばん〕ごはん・ごはんのおかわり2回した。サラダも完食しました。朝ごはん・「めんえきが上がるよ」とママが言ったのでヨーグルトも食べた。おふろのあとはすぐにパジャマを着た。かしつきもつけた。家を出るときの体温は36.2度。せきはありません。鼻もつまっていません〉
 ユウタくんは、びっくりするほど細かく書いていた。出がけに体温を計っているのも驚〔おどろ〕きだったし、免疫〔めんえき〕や加〔か〕湿〔しつ〕にも気をつかっているのには、驚きを通り越〔こ〕して唖〔あ〕然〔ぜん〕とした。
 そこまで健康に気をつかうというのは、体にどこか悪いところがあるのか――?
 いや、しかし、引き継〔つ〕ぎのときにはナナコ先生にはなにも言われていないし、教室で見るユウタくんは元気いっぱいで、小太りの体はピチピチとしている。念のために個〔こ〕人〔じん〕調〔ちょう〕査〔さ〕票〔ひょう〕のファイルを確認〔かくにん〕してみたが、過去〔かこ〕に大きな病気やケガをした記録はなく、アレルギーの欄〔らん〕も〈なし〉だった。
 逆〔ぎゃく〕に、皆勤〔かいきん〕賞〔しょう〕を狙〔ねら〕って、卒業まで学校を休みたくないから……ということだろうか。しかし、出席〔しゅっせき〕簿〔ぼ〕を確〔たし〕かめると、一学期と二学期にすでに合計三日、風邪〔かぜ〕をひいて休んでいた。そもそも皆勤賞の可〔か〕能性〔のうせい〕は消えているのだ。
 一方、マナさんも、よくわからない。
〈一番長いところが31センチになったけど、まだ全部じゃないので、たりません。わかめスープを飲みました。ひっぱりすぎると抜〔ぬ〕けてしまって、元も子もなくなるので、注意しています。ママが「すいみん時間が長いと、髪〔かみ〕が早く伸〔の〕びる」と教えてくれたので、ゆうべは9時に寝〔ね〕ました〉
 マナさんは髪を三つ編〔あ〕みにしている。ほどくと肩〔かた〕までかかりそうだ。三つ編みはよく似合〔にあ〕っている。ただ、背〔せ〕丈〔たけ〕とのバランスから見ると、これ以上長く伸ばすよりも、むしろ全体を揃〔そろ〕えて、少しだけ切ったほうがいいような気もする。
 

 だが、振〔ふ〕り返りの文面では、もっと伸ばしたい様子だった。しかも、少しでも早く。三十一センチという長さには、なにかこだわりでもあるのか。「元も子もなくなる」というのはどういうことなのだろう。よくわからない。個〔こ〕人〔じん〕調〔ちょう〕査〔さ〕票〔ひょう〕を見ても、とりたてて髪の毛につながるような記〔き〕述〔じゅつ〕はなかった。
 ホソカワ先生に「どうだった?」と訊〔き〕かれた。「なにかヒントでも見つかったか?」
「いえ、全然わからなくて……」
 振り返りの紙を見せた。
「二人とも確〔たし〕かに、目標に向かってがんばってるみたいなんです」
「そうだな、がんばってるな」
「いいかげんなことを書いたわけじゃないと思うんですよ」
「うん、オレもそう思う」
「でも、『風邪〔かぜ〕をひかない』とか『髪〔かみ〕の毛を伸〔の〕ばす』とか……なんなんでしょうね、いったい」
 ○か×かで分けるなら、×にはできない。けれど、すんなりと○をつけられるかと問われれば、「うーん……」と困〔こま〕ってしまう。
 正直に打ち明けると、ホソカワ先生は「困るのは困るか?」と笑って訊〔き〕いた。「いまの、日本語としておかしい言い方かもしれないけど、わかるよな?」
「はい……」
「困りたくないよな、誰〔だれ〕だって」
「ええ、まあ……そうですね」
 ホソカワ先生に打ち明けなかったことが、一つある。昼休みにユウタくんとマナさんと話し合って、二人の立てた目標を別のものに変えてもらおう、と思っていた。風邪〔かぜ〕をひかないのも髪〔かみ〕の毛を伸〔の〕ばすのも、本人ががんばるのならそれでいい。ただ、学校に提〔てい〕出〔しゅつ〕するのは、やはり違〔ちが〕う目標――五十メートル走で九秒を切るとか、図書室で毎日一冊〔さつ〕借りるとか、努力がもっとはっきり見えるもののほうがいい。
 だが、ホソカワ先生は、そんな胸〔むね〕の内を見抜〔みぬ〕いたかのように、さっきよりさらに笑みを深めて言った。
「困〔こま〕りたくないのは、きみの都合だ。子どもにはなんの関係もない」
「――え?」
「困ればいいじゃないか」
 笑みが消えた。声の響〔ひび〕きも、ぴしゃりと、叱〔しか〕りつけるようなものになった。
「自分が困りたくないから、子どもの決めたことや考えたことを否〔ひ〕定〔てい〕する……そんなのは、よくないと思うぞ」
 いえ、そんなことはちっとも思ってません、と言い返したくても、言えない。まさに図星だった。
 返す言葉に詰〔つ〕まったテツヤ先生に、また笑顔に戻〔もど〕ったホソカワ先生は、椅子〔いす〕から立ち上がりながら言った。
「まあ、困るのも仕事のうちだ。しっかり困ればいいんだ」
 なっ、とテツヤ先生の肩〔かた〕を軽く叩〔たた〕くのと同時に、授〔じゅ〕業〔ぎょう〕が始まるチャイムが鳴った。ホソカワ先生はテツヤ先生の返事を待たずに「さあ、授業授業、がんばるぞー」と、まわりの同〔どう〕僚〔りょう〕を笑わせながら席を離〔はな〕れた。
 時計を確〔たし〕かめたわけではない。チャイムのタイミングが体に染〔し〕み込〔こ〕んでいるのだろう。これがベテランの底力というやつなのか。テツヤ先生はすっかり圧倒〔あっとう〕されてしまい、ホソカワ先生の後ろ姿〔すがた〕に無言で一礼するしかなかった。
 
∗
 
 二日目の授〔じゅ〕業〔ぎょう〕は、とどこおりなく進んでいった。ナナコ先生に比〔くら〕べると、テツヤ先生の授業の進め方はずいぶんぎごちなかったはずだが、何日も前から睡眠〔すいみん〕時間をぎりぎりまで削〔けず〕って準〔じゅん〕備〔び〕した甲斐〔かい〕あって無事に終えられた。話の合間に挟〔はさ〕むジョークも、ときどきスベってしまったものの、打〔だ〕率〔りつ〕は悪くなかった。
 ただし、ちょっと気になることがある。
 元気のない子がいる。授業を受けていても心ここにあらずというか、途〔と〕方〔ほう〕に暮〔く〕れたような顔をしている。視〔し〕線〔せん〕が合いそうになると、逃〔に〕げるようにうつむいてしまう。
 一人だけではない。三人――昨日の「あきらめ禁〔きん〕止〔し〕!」の合言葉に応〔こた〕えなかった子ばかりだった。
 どうして――?
 その疑〔ぎ〕問〔もん〕への答えは、思わぬところからもたらされた。
 放課後、子どもたちが教室を出たのを見〔み〕届〔とど〕けてから職〔しょく〕員室〔いんしつ〕に戻〔もど〕ると、机〔つくえ〕の上に伝言メモが何枚〔なんまい〕も置いてあった。
〈至〔し〕急〔きゅう〕電話が欲〔ほ〕しいとのこと〉
〈本日中に連絡〔れんらく〕がなければ、校長先生と直〔ちょく〕接〔せつ〕話したい由〔よし〕〉
〈TEL クレーム? 応対〔おうたい〕の言葉づかい注意(録音の可〔か〕能性〔のうせい〕あり)〉
 それぞれ別口の電話だったが、どれも六年二組の保護〔ほご〕者〔しゃ〕から――三人とも、授業中に元気がなかった子の親だったのだ。
 
∗
 
 不意打ちをくった。
 タイミングもそうだし、攻〔せ〕めてくる方角も想像〔そうぞう〕すらしていなかった。
 電話をかけてきた三人のうち二人は、中学受験をする子の母親だった。ヒトミさんとコウスケくん。ヒトミさんはミッション系〔けい〕の大学の附〔ふ〕属〔ぞく〕中学が第一志〔し〕望〔ぼう〕で、コウスケくんは中〔ちゅう〕堅〔けん〕どころの男子校を目指していた。
 ところが、二人とも思うように成績〔せいせき〕が上がらず、冬休みの模試〔もし〕の結果が出た年明け早々に家族や塾〔じゅく〕の先生と話し合って、志〔し〕望校〔ぼうこう〕のランクを下げることにした。その矢先に、テツヤ先生が「あきらめ禁〔きん〕止〔し〕!」をクラスの合言葉にしてしまったのだ。
「せっかく本人も納得〔なっとく〕して志望校を変えたのに、いまさらそんなことを勝手に言われても困〔こま〕るんですよ! 子どもを無〔む〕責任〔せきにん〕な言葉で迷〔まよ〕わせないでください!」
 ヒトミさんの母親は、甲高〔かんだか〕い声でまくしたてた。
 そうか、と遅〔おく〕ればせながら気づいた。タイミングが悪かったな、とも悔〔く〕やんだ。
 この時期は私〔し〕立〔りつ〕中学の出願期間で、受験生は志望校を最終的に決めなくてはならない。夢〔ゆめ〕や憧〔あこが〕れをあきらめざるをえない子どもや親も、たくさんいるはずなのだ。
 コウスケくんの母親は、口調こそヒトミさんの母親より冷静だったが、話の中身は深刻〔しんこく〕だった。コウスケくんはテツヤ先生が言った「弱虫」と「ひきょう者」をひどく気にして、いったん自分で決めた志望校変更〔へんこう〕に急に自信をなくしてしまった。そして今朝になって「やっぱり最初の志望校を受ける」と言いだしたのだ。
「本人は、たとえ落ちても後悔〔こうかい〕しない、中学は公立に行って高校受験でがんばるって言うんですけど……そんなの、先のことなんてわからないじゃないですか。もし、あとで振〔ふ〕り返ってみて、あのとき志望校を変えていればよかった、となったら……先生、責任〔せきにん〕取ってもらえるんですか?」
 そんなことを言われても――。
 正直、困惑〔こんわく〕よりも、あきれた。揃〔そろ〕って「責任」という言葉を口にした二人に、「教〔きょう〕師〔し〕にそこまで背負〔せお〕わせないでください」と言い返したかった。
 それでも、ここで話がもつれてしまうと、ナナコ先生に迷惑〔めいわく〕がかかる。ひたすら低〔てい〕姿〔し〕勢〔せい〕で、丁寧〔ていねい〕に、「あきらめ禁〔きん〕止〔し〕!」の真意を説明した。あくまでも「簡単〔かんたん〕に」あきらめてしまうことを諫〔いさ〕めたつもりだったのだ。親子や塾〔じゅく〕の先生と一緒〔いっしょ〕に話し合ったのなら、それは決して「簡単に」あきらめてしまったわけではない……。
「じゃあ、それ、教室でちゃんと言ってください。説明不足ですよ」
 ヒトミさんの母親に言われて、「わかりました、明日、必ず」と約束させられた。
 コウスケくんの母親は、「弱虫」と「ひきょう者」にこだわって、「明日、みんなの前で取り消してください」と言った。「あと、謝罪〔しゃざい〕もしてもらえますか」
「……謝罪ですか」
「だって、先生が子どもたちの人格〔じんかく〕を否〔ひ〕定〔てい〕するのは、パワハラやアカハラになるんじゃないですか?」
 さまざまなハラスメント――パワーハラスメント、アカデミックハラスメント、そしてセクシャルハラスメントについては、さんざん研〔けん〕修〔しゅう〕を受けてきた。男子を「くん」、女子を「さん」で呼〔よ〕ぶことすら、厳〔きび〕しい人なら「性的〔せいてき〕少数者への配慮〔はいりょ〕が足りない」と非〔ひ〕難〔なん〕してくるご時世なのだ。
 確〔たし〕かに「弱虫」や「ひきょう者」はキツすぎたかもしれない。反省する。だが、それを人格否定とまで言われると、いくらなんでも大げさな……いや、反論〔はんろん〕はしないほうがいいだろう……。
 二人の言いぶんをすべて受け容〔い〕れた。全面降伏〔こうふく〕せざるをえない。
 三本目のクレームの電話の主は、ヤストくんの父親だった。
「子どもの話に親が出るのはみっともないとは思うんだけど、ちょっとね、どうしても一言言っておかないと気がすまないんで」
 喧〔けん〕嘩〔か〕腰〔ごし〕だった。まだ若〔わか〕いテツヤ先生相手に、最初から居〔い〕丈〔たけ〕高〔だか〕に出て、ずけずけと続ける。
「息子に聞いたら、先生、再〔さ〕来週までのピンチヒッターなんだってね」
「ええ……」
「どうせすぐにいなくなるから、いいかげんなことを子どもに吹〔ふ〕き込〔こ〕んだわけ?」
「いや、あの……いいかげんって……」
「あきらめるなとか、あきらめたら可〔か〕能性〔のうせい〕がゼロになるとか、世の中、そんな単純〔たんじゅん〕なものじゃないんだよ。自分で決められるんだったら、誰〔だれ〕も苦労しないんだ。それくらいわからないのか」
 ヤストくんは、地元のサッカーチームに入っていた。Jリーグのクラブの下部〔かぶ〕組〔そ〕織〔しき〕で、小学生対〔たい〕象〔しょう〕のジュニアから中学生のジュニアユース、さらに高校生のユースと、年齢別〔ねんれいべつ〕にカテゴリーが分かれている。ただし、上のカテゴリーに進めるのは、将〔しょう〕来性〔らいせい〕を認〔みと〕められたメンバーだけ――ヤストくんは、先週おこなわれたセレクションで不〔ふ〕合格〔ごうかく〕になった。残念ながら、ジュニアユースへの昇〔しょう〕格〔かく〕がかなわなかったのだ。
「自分であきらめたわけじゃない。本人はやる気満々なんだよ。でも、チームがダメだって決めたら、従〔したが〕うしかないだろ? それがルールなんだから」
「……はい」
「まあ、親の目で見ても、あまり上手くなかったから、昇格は正直しんどいと思ってた。ジュニアユースになると練習もキツくなるし、試合も増〔ふ〕えるし、学校の勉強も大変になるから、かえって、いい潮時〔しおどき〕だったんだ。いつまでもだらだらと夢〔ゆめ〕を見させるより、スパッと切り替〔か〕えさせてやるのも大事だ。チームとしての親心だよ、それも」
 ヤストくん自身、さばさばと現実〔げんじつ〕を受け容〔い〕れていた。「中学ではサッカー部もいいけど水泳をやろうかな、バスケも面白そうだし」などと両親にも話していたらしい。
「難〔むずか〕しいことなんて考えてないんだよ。もっと単〔たん〕純〔じゅん〕で、ケロッとして、ジュニアユースに上がれなかったのは悔〔くや〕しいし、残念だけど、しょうがないよね……それだけだったんだよ、先週は」
 そこに、テツヤ先生が現〔あらわ〕れた。
「よけいなことを言われたわけだ。あきらめるなとか、夢をかなえる可能性を捨〔す〕てるなとか……どうせ偉〔えら〕そうに言ってたんだろうな、そうだろう?」
「いえ……そんなつもりは……」
「まあいいや。とにかく、あんたによけいなことを言われて、息子はショックを受けたんだよ。ああ、もう、オレは夢をかなえる可能性がゼロになったんだ、って……やっぱりサッカーが大好きなのに、もうジュニアの仲間たちと一緒〔いっしょ〕にプレイすることはできないんだ、って……いままで感じてなかった挫〔ざ〕折〔せつ〕感を味わわされて、落ち込〔こ〕んで……」
 学校から帰ってきても、ずっと元気がなかった。しょんぼりとして、食〔しょく〕欲〔よく〕もない。心配した両親が尋〔たず〕ねると、ぽつりぽつりと合言葉のことを話しだして、途〔と〕中〔ちゅう〕で涙〔なみだ〕ぐんでしまったのだという。
「ほんとに、よけいなことをしてくれたものだよ。先生の端〔はし〕くれだったら、自分の一言が子どもの心にどんな傷〔きず〕を負わせるかぐらいは自覚してもらわないと」
「傷」とまで言われなくてはならないのか――?
「新人だとかピンチヒッターだとか、言い訳〔わけ〕はやめてくれよな。あんたが半人前だろうとなんだろうと、子どもから見れば、先生は先生なんだ。一言一言が重いんだよ。その重み、あんた、ちゃんとわかってるのか?」
 わかっているつもりだった。
 だからこそ、子どもたちの胸〔むね〕にいつまでも残るメッセージを与〔あた〕えたかった。
 だが、それは、空回りを超〔こ〕えて、「傷」を与えてしまうようなものだったのか――?
 今度もまた、平〔ひら〕謝〔あやま〕りするしかなかった。
 電話口で謝る相手は父親でも、ほんとうはヤストくん本人に「ごめんな」を伝えたかった。ヤストくんだけではない。ヒトミさんにも、コウスケくんにも。
 授〔じゅ〕業中〔ぎょうちゅう〕の三人の顔が浮〔う〕かぶ。キツかったんだろうな、と認〔みと〕める。確〔たし〕かに、よけいなことを言ってしまったのかもしれない。無〔む〕責任〔せきにん〕だっただろうか。配慮〔はいりょ〕が足りなかっただろうか。でも、オレ、そんなつもりは毛頭なくて、ただみんなに大切なことを伝えたかっただけなんだけど……言い訳〔わけ〕は、やめよう……。
 

 
∗
 
 ひたすら謝〔あやま〕った甲斐〔かい〕あって、クレームが校長や教育委員会にまで及〔およ〕ぶ事〔じ〕態〔たい〕は避〔さ〕けられたものの、ぐったりと疲〔つか〕れきってしまった。電話を終えたあとも、椅子〔いす〕から立ち上がる気力がわかない。
 そこにホソカワ先生が外から戻〔もど〕ってきた。
 この学校では、毎日『さよなら当番』という持ち回りの仕事がある。下校時間に数人の先生が校門脇〔わき〕に立って、学校をひきあげる子どもたちに「また明日!」「早寝〔ね〕早起きで明日も元気でね!」と声をかけるのだ。
 発案者はホソカワ先生だった。たんにお別れのあいさつをするだけでなく、子どもたちの様子を見て、今日一日が楽しかったかどうかを確認〔かくにん〕する。中には先生に叱〔しか〕られたり友だちとケンカしたりした子もいる。前もって担任〔たんにん〕の先生から「今日はこんなことがあった」と聞かされていれば、特に気を配って、慰〔なぐさ〕めや励〔はげ〕ましのフォローをするし、逆〔ぎゃく〕に下校時の様子がおかしいと気づくと、担任〔たんにん〕の先生に報告〔ほうこく〕しておく。そうやって、子どもたちのちょっとした変化も見〔み〕逃〔のが〕さないようにしているのだ。
 ホソカワ先生は、テツヤ先生宛〔あ〕てにクレームの電話が来ていることも知っていた。
「さっき、出がけに伝言メモをちらっと見たんだけど、もう、そっちのほうは――」
「……対応〔たいおう〕ずみです」
「なんとかなったのか?」
「ええ……まあ、いちおう」
 明らかに元気のない受け答えだったが、ホソカワ先生は細かくは訊〔き〕かずに、「まあ、こういうのも経験〔けいけん〕だ」と笑った。
 ですね、とテツヤ先生がうなずくと、「それより、いいこと教えてやろうか」と、いたずらっぽい口調と表情〔ひょうじょう〕で言った。
 ユウタくんとマナさんのこと――。
「二人の立てた目標、オレもちょっと気になったから、訊いてみたんだよ」
 最初にユウタくんが校門に姿〔すがた〕を見せたので、ちょっとちょっと、と手〔て〕招〔まね〕いた。クラス担任〔たんにん〕からはずれて二年たっていても、ユウタくんが素〔す〕直〔なお〕に呼〔よ〕びかけに応〔おう〕じたというのが、ホソカワ先生の人望というものだろう。
「びっくりしたよ、そういうことだったのかあーっ、てな」
 ユウタくんが風邪〔かぜ〕をひきたくない理由は、ひいおばあちゃんのためだった。
 九十歳〔さい〕を超〔こ〕えたひいおばあちゃんは、年末から体の具合が悪くて入院している。ひいおばあちゃんに可愛〔かわい〕がられていたユウタくんは今度の日曜日にお見舞〔みま〕いに行きたいのだが、病院には「発熱や咳〔せき〕のある人は面会禁止」というルールがある。
「だから、風邪をひかないことが、あの子の目標になったんだ。風邪をひかないように、いろんなことに気をつけて、がんばろう、って……立派〔りっぱ〕な目標だよな、これ」
 テツヤ先生は「ええ……そうですね」とうなずいた。
「きみの考えてた目標とはだいぶ違〔ちが〕うかもしれないけど、オレは、いい目標だと思う」
「はい……」
 確〔たし〕かに戸〔と〕惑〔まど〕いはある。なーんだ、と拍〔ひょう〕子〔し〕抜〔ぬ〕けした思いもないわけではない。
 それでも、謎〔なぞ〕が解〔と〕けると、自然と頬〔ほお〕がゆるむ。そうか、そうだったのか、なるほどなあ、と首を傾〔かし〕げながら納得〔なっとく〕する。
 ホソカワ先生は、マナさんにも目標を立てた理由やいきさつを尋〔たず〕ねていた。
「あの子、ヘア・ドネーションを考えてるんだ」
「ヘア・ドネーションって……がん患者〔かんじゃ〕の子どもにウィッグを贈〔おく〕るんでしたっけ?」
「そうそう、それだ」
 抗〔こう〕がん剤〔ざい〕や放射線〔ほうしゃせん〕によるがん治〔ち〕療〔りょう〕は広くおこなわれているが、その副作用の脱毛〔だつもう〕で髪〔かみ〕の毛を失ってしまった子も数多い。ヘア・ドネーションは、髪をなくしてしまった子どもたちにウィッグ、つまりカツラを贈る活動だった。
「あの子、そういえば四年生の頃〔ころ〕から、ナイチンゲールとかシュバイツァーの伝記をよく読んでたんだ。あと、お母さんが長期入院の子どもと家族を支〔し〕援〔えん〕するNPOのメンバーで、その影〔えい〕響〔きょう〕もあるんだと思うけど、五年生になってから、小学校を卒業するときにはヘア・ドネーションをしよう、って決めたらしい」
 ただし、それには条〔じょう〕件〔けん〕がある。
 髪の毛の長さが、最低でも三十一センチは必要なのだ。
「今朝、きみに見せてもらった振〔ふ〕り返りの紙にも書いてあったよな。三十一センチの話」
「ええ……」
「卒業までに、なんとかその長さまで伸〔の〕ばしたいらしい」
 卒業式には、友だちにもなじみのある三つ編〔あ〕みで出席する。春休みのうちにヘア・ドネーションの窓口〔まどぐち〕になっている美〔び〕容院〔よういん〕で髪〔かみ〕を切って、四月からの中学校生活は、心機一転、ショートヘアで始めたい。だから、いま、髪の長さが気になってしかたないのだという。
「確〔たし〕かに、これも、まっとうな目標だよな。きみだって否〔ひ〕定〔てい〕できないだろう?」
「ええ……もちろん」
 否定など、とんでもない。むしろ褒〔ほ〕めたたえたいほどだ。
 そして、マナさんに対してもユウタくんに対しても、努力しなくてもできる目標なんて……と思ってしまった自分が、いまさらながら、恥〔は〕ずかしくてたまらない。
 黙〔だま〕り込〔こ〕んでしまったテツヤ先生に、ホソカワ先生は言った。
「子どもってのは、なんでも斜〔なな〕め上だよ。とんでもない受け止め方をしたり、ありえないような発想で答えたりする。予想できないし、無理に予想しても、絶対〔ぜったい〕に裏〔うら〕切〔ぎ〕られる」
 テツヤ先生は無言のまま、うなずいた。
「子どもと付き合うっていうのは、そういうことだ」
 さらにまた、うなずく。
 ホソカワ先生はそれ以上はもうなにも言わず、手早く事務〔じむ〕仕事を片づけると、「じゃあお先に」とひきあげた。最後に、テツヤ先生の肩〔かた〕を、ぽん、と叩〔たた〕く。テツヤ先生は、黙〔だま〕って、ただうなずくしかできなかった。
 
∗
 
 マナさんは卒業式の翌日〔よくじつ〕、髪〔かみ〕をばっさり切った。マナさんの髪でつくったウィッグを使った子は、きっと、大変な闘〔とう〕病〔びょう〕生活に少しでも彩〔いろど〕りを得〔え〕ることができただろう。
 ユウタくんは、ひいおばあちゃんが五月に亡〔な〕くなるまで、何度も何度もお見舞〔みま〕いに出かけた。風邪〔かぜ〕をひいて面会が中止になることは一度もなかった。そのおかげで、眠〔ねむ〕るように穏〔おだ〕やかに逝〔い〕ったひいおばあちゃんとのお別れを、すっきりした思いで迎〔むか〕えられた。
 ヒトミさんとコウスケくんは、一時は志〔し〕望校〔ぼうこう〕を元に戻〔もど〕すかどうか迷〔まよ〕ったものの、結局、両親のアドバイスどおりに安全圏〔けん〕の学校を受験して、みごとに合格〔ごうかく〕した。「もしも初〔しょ〕志〔し〕貫徹〔かんてつ〕で、あきらめずに第一志望の学校を受験していたら、どうだっただろう」と考えることは、入学してしばらくの頃〔ころ〕までは、ときどきあった。わずかな後悔〔こうかい〕も、ないわけではなかった。それでも、入学した学校で友だちができて、勉強や部活が忙〔いそが〕しくなると、もう、そんな「もしも」は、ごく自然に頭の中から消え去ってしまった。
 ヤストくんは中学校で陸上部に入った。最初はサッカーで鍛〔きた〕えた脚〔きゃく〕力〔りょく〕を活かせる短距〔たんきょ〕離〔り〕走に取り組んでいたが、顧〔こ〕問〔もん〕の先生が跳〔ちょう〕躍〔やく〕の才能〔さいのう〕を見抜〔みぬ〕いて、走り幅〔はば〕跳〔と〕びに転向させた。すると、めきめきと頭角を現〔あらわ〕して、三年生の秋の大会では県の三位にまで入った。
 さらに歳月〔さいげつ〕が流れ、みんな、おとなになった。それぞれの人生を、それぞれのペースで一所懸命〔いっしょけんめい〕に生きている。
 小学校の卒業間〔ま〕際〔ぎわ〕の二週間だけピンチヒッターで担任〔たんにん〕をした若〔わか〕い先生のことは、五人とも覚えている。けれど、名前は忘〔わす〕れた。顔もぼんやりとしか浮〔う〕かばない。その先生の一言で落ち込〔こ〕んだり迷〔まよ〕ったり、目標を紙に書いて提〔てい〕出〔しゅつ〕したりしたことは、もう誰〔だれ〕も、言われなければ思いだせない。
 
∗
 
「……卒業から三十年後の同窓会〔どうそうかい〕で、みんなほとんど覚えていないと知ったときには、さすがにガクッとなったんだ」
 テツヤ校長が苦笑交じりに言うと、廊〔ろう〕下〔か〕を並〔なら〕んで歩くオオタ先生は「えーっ、そうなんですか。ひどいなあ」と、まともに受けて顔をしかめた。
 やれやれ、とテツヤ校長は別のニュアンスの苦笑いを浮〔う〕かべる。まじめな新人だ。特に今日は緊〔きん〕張〔ちょう〕もして、軽く受け流す余〔よ〕裕〔ゆう〕などないのだろう。
「まあ、でも、そういうものなんだよ。小学生と付き合うっていうのは」
「はあ……」
「同じことをオレも先輩〔せんぱい〕に言われたんだ」
 先輩――ホソカワ先生は、定年を迎〔むか〕えるまで現〔げん〕場〔ば〕のヒラ教〔きょう〕師〔し〕をまっとうした。十数年前に亡〔な〕くなったときには、引退〔いんたい〕してもうだいぶたっているというのに、昔の教え子がたくさん参列した。その人数以上に、誰〔だれ〕の目も真っ赤に潤〔うる〕んでいたことに驚〔おどろ〕き、感動して、尊敬〔そんけい〕の念を新たにする一方で、自分が死んだらどうだろう、と苦い思いを噛〔か〕みしめたものだった。
 いまのテツヤ校長は、出会った頃〔ころ〕のホソカワ先生よりも年上になった。現場ひと筋〔すじ〕のヒラ教師をまっとうするわけにはいかなかったものの、理想とする教師の姿〔すがた〕は、やはり、ホソカワ先生だった。
 だからこそ――。
「子どもの発想や受け止め方は、オレたちの考えることの斜〔なな〕め上をいくからな」
 ホソカワ先生に言われたことを、何十年ぶりに繰〔く〕り返す。
「たくさん困〔こま〕ればいい」
 笑って、これもまた、繰り返す。
 オオタ先生は「はい……」とうなずいた。どこまで本気でわかっているかは怪〔あや〕しいものだったが、最初はそういうものだろう。ここからなのだ、すべては。
 オオタ先生は、今日から六年生のクラスを担任〔たんにん〕する。もともとのクラス担任が急病で入院したので、別の学年の副担任としてクラス運営〔うんえい〕を勉強していた彼〔かれ〕を、ピンチヒッターとして抜擢〔ばってき〕したのだ――かつての自分のように。
 職〔しょく〕員〔いん〕会議では「だいじょうぶですか?」という意見も出た。それを「なにかあったら私〔わたし〕が校長として責任〔せきにん〕をとりますから」と押〔お〕し切ったのは、四十年近く前の自分自身とオオタ先生とを重ね合わせたからだった。
「まあ、なんでも経験〔けいけん〕だから、しっかりがんばって」
 六年一組の教室の前で、言った。校長として付き添〔そ〕うのはここまで。教室に入ったら、オオタ先生が一人で仕切らなくてはならない。
 心細そうな顔になったオオタ先生に、だいじょうぶだいじょうぶ、と笑ってうなずき、さあ入って、と手振〔てぶ〕りで示〔しめ〕した。
 オオタ先生もこわばった顔でうなずき、意を決して、ドアを開けた。
 ざわついていた教室が静かになる。
「皆〔みな〕さん、おはようございます」
 オオタ先生の声が廊〔ろう〕下〔か〕にも響〔ひび〕く。
 がんばれよ、とテツヤ校長は無言でエールを贈〔おく〕って、歩きだした。


(了。『答えは風のなか』は2021年秋以降の刊行を予定しています)

バックナンバー

著者略歴

  1. 重松 清

    1963年生まれ。早稲田大学教育学部卒。出版社勤務を経て執筆活動に入る。ライターとして幅広いジャンルで活躍し、1991年に『ビフォア・ラン』(ベストセラーズ/幻冬舎文庫)で作家デビュー。1999年『ナイフ』(新潮社)で坪田譲治文学賞、『エイジ』(朝日新聞社)で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』(新潮社)で直木賞、2010年『十字架』(講談社)で吉川英治文学賞、2014年『ゼツメツ少年』(新潮社)で毎日出版文化賞を受賞。
    著書に『流星ワゴン』(講談社)、『疾走』『とんび』『木曜日の子ども』(KADOKAWA)、『みんなのなやみ』(理論社/新潮文庫)、『その日のまえに』(文藝春秋)、『きみの友だち』『青い鳥』(新潮社)、『希望の地図』(幻冬舎)、『赤ヘル1975』(講談社)、『ひこばえ』(朝日新聞出版)など多数。2013年に『きみの町で』(ミロコマチコ氏との共著)を小社から刊行。

  2. ミロコマチコ

    画家・絵本作家。1981年大阪府生まれ。生きものの姿を伸びやかに描き、国内外で個展を開催。絵本『オオカミがとぶひ』(イースト・プレス)で第18回日本絵本賞大賞を受賞。『てつぞうはね』(ブロンズ新社)で第45回講談社出版文化賞絵本賞、『ぼくのふとんは うみでできている』(あかね書房)で第63回小学館児童出版文化賞をそれぞれ受賞。ブラティスラヴァ世界絵本原画ビエンナーレ(BIB)で、『オレときいろ』(WAVE出版)が金のりんご賞、『けもののにおいがしてきたぞ』(岩崎書店)で金牌を受賞。その他にも著書多数。第41回巌谷小波文芸賞受賞。
    展覧会『いきものの音がきこえる』が全国を巡回。本やCDジャケット、ポスターなどの装画も手がける。2016年春より『コレナンデ商会』(NHK Eテレ)のアートワークを手がけている。2013年に『きみの町で』(重松清氏との共著)を小社から刊行。
    http://www.mirocomachiko.com

ジャンル

お知らせ

ランキング

閉じる