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優雅な貧乏生活

孔子もイエスも貧乏だった


前回までは身の回りの話を中心にしてきましたが、今回はもう少し大きな視点から「貧乏」について考えてみたいと思います。孔子とイエス・キリストから「貧乏」について考えます。

考えてみれば当たり前の話ですが、世界三大宗教の創始者といわれる釈迦しゃかも孔子もイエスも貧乏でしたし、そして貧乏礼讃らいさん派でした。しかし、手放しで「貧乏はすばらしい」といったわけではありません。

誰でも貧賤(貧乏)はいやなものだ(貧と賎とは是れ人の悪む所のものなり:貧與賎、是人之所惡也)」

そう、孔子はいいます。これは、貧しい時代を過ごした孔子の実感から出た言葉です。

ここで孔子は貧乏ではなく貧賤という言葉を使います。この「貧」も「賤」も、『論語』の中に何度も現われます。「貧」と「賤」の漢字に関しては第2回でお話しましたが、今回はもう少し詳しくお話しましょう。

このふたつの漢字には大きな違いがあります。

」という漢字を分解すれば「分」と「貝(お金)」から成ります。「分」とは刀でものを分けること、減少していくことをいいます。すなわち「」とは、自分の持っているお金がどんどん減っていくこと、いままさに貧乏になろうとしている、そんな動的な貧乏状態をいいます。

それに対して「(賎)」の右側の「戔」は少ないことを意味する字なので、賤はいま「貧乏である」という静的な状態をいいます。これにサンズイをつければ「浅」という字になるように、「賤」とは、いまお金が少ない状態をいいます。

お金がだんだんなくなっていく「貧」と、いまお金がないという「賎」。似ているようでちょっと違います。

比較をすると両者の違いがはっきりします。

 

『梅園魚品図正』第1巻より

 

「貧」とはどういうことか

貧も賤もともに使う孔子ですが、主に孔子が問題とするのは「貧」の方です。

「貧」の人とは、正確にいうならば貧乏の人だけをいう言葉ではありません。「貧」とはお金がだんだんなくなっていく状態が原義なので、お金持ちの「貧」の人もいます

貯金はありながら、それが日々目減りしていくことが心配な人。そんな裕福な「貧」の人もいるでしょ。あるいは実際には、そんなに減ってはいないのに「いつかなくなってしまうのではないか」、そのように心配する人もいます。その人も「貧」の人です。

「貧」の人の問題はお金の有無でも多寡でもない。「お金がなくなってしまうのではないか」という不安であり、それを気にむことをいいます。

いまがそんな時代ですね。

いつまた緊急事態宣言が発出されるかわからない。かりに発出されなくても経済活動がこれから活性化されるとは考えにくい。それに拍車をかけるような前回書いた不安創出をあおるテレビCMや情報がちまたにはあふれる。

いまや世界中が「貧」の状態にあります。

孔子は「勇を好みて貧しきをむは乱なり(08-10)」といいます。

「疾」の古い文字を見ると、わきの下に矢が刺さった人間の姿として描かれます。

 

矢がわきの下に刺さっていれば、それは痛いし、気になってしかたがない。

「貧しきを疾む」とは、お金がなくなっていく「貧」の状態が、気になって、気になって仕方がない状態、なんとかしなければ不安で、不安で仕方がない状態をいいます。

そんな人が「勇を好む」人だったら乱暴な行為をしたり、乱を起こしてしまうおそれがあると孔子はいいます。

ちなみに「貧賤」と対に使われる言葉は「富貴」です。

「富」とは大きな酒樽の中に、そなえ物として酒がいっぱい入っている形です。

 

財産をたくさん持っている状態、それが「富」です。

財産をたくさん持っている「富」の人が「貧」を気に病み始めると大変です。この人は力を持っているので、その力を使って「貧」の状態を何とかしようとしてしまう。すなわち「乱」、世を乱すようなことをしてしまいます。

そういう意味では現代は怖い時代ですね。国家が貧にきゅうしたり、不安が増大したら他国に戦争をしかけたりします。

こわっ。

でも、「貧」というのは、世の中をどうにかしても解決できるものではありません。いま述べたように、その人自身の心の問題だからです。どんなに世の中が変わっても、不安は解消されません。

常に不安を持っているので、いつもガツガツして品がないのが「貧」の人です。自分や他人よりもずっと多く持っているのに、それでも欲しい欲しいとガツガツする。仏教でいえば「餓鬼」の人です。いまの日本の「偉い人」には、こういう人、多いですね。

これとは逆に、貧乏なのに貴人だという人もいます。その代表が孔子です。

「貴」という漢字は貝(お金)を両手で捧げている姿です。

 

この文字で大事なのはお金ではありません。丁寧に、うやうやしく取り扱うということです。

孔子は「吾れわかくして賎し。故に鄙事ひじに多能なり」といいました。自分は若い頃、「賎(貧乏)」だった、だからつまらないことに多能なのだと

孔子は「野合やごう」によって生まれたと『史記』には書かれています。野合というのがどのような意味かは、古来さまざまな議論がなされていますが、しかし祝福された出生ではなかったでしょう。不遇な出生に加えて知人もほとんどいなかった。そしてお金もなかった。だからこそさまざまな能力を身に付けたといいます。

孔子を「多能」たらしめたのは「」という、あらゆることを丁寧に、そして真摯に行う技法です。そして、それこそが「貴」なのです。

『論語』を読んでいると、その人が貴人であり、君子であるのは貧乏だからこそだと孔子が言っているように見えます。

それはイエスがいった「貧しい人々は幸いである(ルカ伝)」という言葉を思い出させます。そこで、イエスの言葉を『新約聖書』から読んでみることにしましょう。

 

梅園介譜』より

 

貧しい人々は幸いである

「山上の垂訓すいくん」でイエスはこういいます。

貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである(ルカによる福音書:6:20:新共同訳)

これってすごいでしょ。

「貧しい人々は、幸いである」というだけでなく、神の国は貧しい人たちのものだと言い切っているのです。じゃあ、貧しくない人はどうかということ、それはこのように言われます。

富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。

それだけではありません。

今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。(同。6:24~25)

「富んでいる人」「満腹の人」「笑っている人」はみな不幸なのです。だって、もういい目を見ているでしょ。そのような人たちは、死後の世界では悲しみますよ、泣きますよと言います。裕福な人、びっくりですね。

また、こんな話もあります。

イエスが旅に出ようとしたときです。ひとりの人がイエスの元にやって来て、ひざまずいて尋ねました。

「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。

この人は、子どもの頃からさまざまな戒律を守り続けている信心深い人でした。イエスは彼を見つめて、いつくしんで言われました。

あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々にほどこしなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。

「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」とはなんとも過激な提案です。たくさんの財産を持っていたこの人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去りました。そして、イエスは弟子たちを見回してこのように言われたのです。

財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか(略)。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい。(マルコによる福音書。10:17~25)

「金持ちは神の国に入れない」とまで言います。寄付がキリスト教文化圏では盛んなのもこのような理由からなのでしょうか。

それにしても、一部のキリスト教者を支持層にしている金持ちの某国大統領などは、ここら辺との折り合いをどうつけているのでしょう。興味深いところです。

また、「ルカによる福音書」には「金持ちとラザロのたとえ話」が載っています(16:19~26)。これも裕福な人と貧乏の人との対比なので紹介しましょう。

あるところにお金持ちの男と、貧しい男がいました。貧しい男の名前はラザロ。

金持ちは、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。彼の家の門前には、貧しい男、ラザロが横たわっていました。ラザロは、金持ちの家の食卓から落ちる物を食べたいとで思っていたからです。ラザロの体には「できもの」があり(ἑλκόω)、犬がやって来て、その「できもの」をなめていました。

やがて、この貧しい人は亡くなります。亡くなったラザロは天使によって天の宴席に運ばれます。与えられた席はユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとってはもっとも大切な預言者であるアブラハムのすぐそばでした。

同じころ金持ちも亡くなりました。金持ちは「陰府よみ」の炎の中に入れられてしまいます。仏教でいえば焦熱地獄ですね。

金持ちは大声でアブラハムに懇願します。

父アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。

それに対してアブラハムはこう答えます。

子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きなふちがあって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。

貧しい人と金持ちに対する考え方がここにも現れています。

 

イエスにとっての「貧しい」とは

さて、『新約聖書』の中の「貧しい」は、『新約聖書』が最初に書かれた言語であるコイネー(古典ギリシャ語の一種)では「プトーコス(πτωχός)」と書かれます。

「プトーコス(πτωχός)」というのは、ただ金銭が少ないという意味ではありません。それは身体が屈曲した状態をいう言葉です。背筋が曲がって、まっすぐに立ち上がれない状態、それが「プトーコス(πτωχός)」です。

これは身体的な屈曲だけでなく、比喩としての身体の屈曲も含みます。人から迫害され、さげすまれ、足蹴にされ体を屈曲させて身を守っている姿、それが「プトーコス(πτωχός)」です。私たちも何かにうちひしがれたときに、そのような姿を取るでしょ。

また、この場面は「マタイ伝」では「心の貧しい人々は幸いである」と書かれます。心の貧しい人々の「心」はコイネーでは「プネウマ(πνεῦμα)」と書かれます。

この「プネウマ(πνεῦμα)」は、心であり、魂であり、そして「息」でもあります。苦悩の中でうちひしがれている人が、地面にひざまずいて身体を折り曲げ、そのために呼吸すらできない、そのような人々を「心の貧しい人々」といいます。

そして、イエスは「天の国」とは、ほかならぬそのような人々のものであると明言するのです。

 

 『梅園魚品図正』第2巻より

 

コイネーの「プトーコス(πτωχός)」、すなわち屈服した姿をあらわす漢字は「君(尹)」です。君子の「君」です。

孔子のいう君子とは、身体的、あるいは精神的な欠陥を持った聖職者をいいます。

お金からも、社会からも、親しい人からも見放され、孤独の暗闇の中でひざを抱え、体を曲げ、息すらもできない人。その人のためにこそ天国はあるとイエスはいい、そういう人こそ君子であると孔子はいいます。

「年収いくら以上の職場じゃなけりゃイヤだ」という人がいます。あるいはそういうところから放り出されると、将来の不安に悲観する人もいます。

それこそ、まさに「」の人です。

孔子のように「お金はない。友だちもいない。社会的地位もない。だからこそたくさんのことをすればいい、できるようになればいい」、そう思えれば、お金なんてなくても、あってももう「貧」の人ではなくなります。

そして、そう思うことができるのは「貧しき人(賤)」だからこそだと孔子はいいます。

だからこそ大切なのは心の持ちよう、「優雅さ」なのです。

ちなみに私はよく「屈服」します。

「屈する」のは案外好きですし、議論などでは毎回のように屈します。根性がないとも言われます。もっとまじめにやれとも言われます。

特にお説教をされると、すぐに「すみません」といって自説を引っ込めます。

「お説教には頭が下がる。頭下げればお説教は頭の上を通り越して行く」という某ドラマの感じでスルーします。相手の言葉は頭の上を通り過ぎていきます。身に染みません。

からだは小さく、心はでかく!です。

みなさまもぜひ!

さて、次回からは『鶉衣(うずらごろも)』という江戸時代の古典を読みながら、優雅な貧乏生活について考えていくことにしましょう。

 

 

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著者略歴

  1. 安田登

    1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。 能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。 著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、 『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』(春秋社)など多数。100分de名著『平家物語』講師。
    https://twitter.com/eutonie

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