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優雅な貧乏生活

三大悪癖その2 嘘をついてはいけない?

 

ちょっと間が空いてしまいました。すみません。

江戸時代の俳人、横井也有よこいやゆうの俳文集である『鶉衣うずらごろも』を前々回から読んでいます。

前回からは「遅刻」、「借金」、「嘘つき」という三大悪癖を取り上げ、まずは「遅刻」を横井也有がどう考えるかということを見てみました。

今回は「」です。

「嘘」は三大悪癖の中でも、もっとも由緒のある悪癖です。なんといっても仏教の五戒・十戒にも入っているほどです。嘘をついていはいけないという戒律は「不妄語戒ふもうごかい 」といってお釈迦様もしましめたほどの大変イケナイ悪癖なのです。

 

百鬼夜行絵巻より

 

ところが同じ十戒でも、モーセのそれには嘘は含まれません。

モーセの十戒の中で、不妄語戒に一番近いのは「隣人に関して偽証してはならない(共同訳:出20:16:לֹא-תַעֲנֶה בְרֵעֲךָ עֵד שָׁקֶר.)」ですが、これは「隣人に関して」であり、しかも「偽証」なので、仏教の「不妄語戒」とはだいぶ違うように感じます。※

なぜ、仏教の十戒には嘘をついてはいけないという戒律があり、モーセの十戒にはないのでしょうか。

それは両者の対象が違うためです。

モーセの十戒は、神がすべての人間(もとはイスラエルの民)に対して守るべき戒律として与えたものです。

それに対して仏教の五戒や十戒は、仏教に帰依した人たちが守るべき戒律です。在家にしろ、出家にしろ、仏教に帰依きえをしたら嘘をついてはいけませんよというのが仏教の五戒・十戒なのです。

仏教徒以外は守る必要のない戒律です。

そりゃあそうですよね。だいたい「嘘をついてはいけない」なんてことは普通の人にはなかなかできることではありません。人は(おそらく)だれでもみな嘘をつきます。そんな誰でも破るような戒律を、一般の人向けの戒律にしたら、ほとんどの人は罪びとになってしまい、反省しまくりの毎日で、ずだぼろに傷ついてしまいます。

心が汚れている大人だけではありません。純粋な子どもだって、この戒律を知った時点で、すでにかなりの嘘をついているはずです。

問題を解決するときに、力ではなく、言葉でと人類が決めたときから、嘘は必要なものとなりました。いや、ただ必要だけでなく、人間にとって嘘はとても大切なものになったのです。

 

自分を守るための嘘

まず、嘘は自分を守るために必要です。それは自分が必要以上に傷つかないためにも、また人間関係を壊さないためにも必要です。

自分を守るための嘘の多くは、とっさの嘘です。自分の身を守るために、人はとっさに嘘をつきます。

たとえば前回も扱った遅刻。その言い訳に、多くの人は嘘をつきます。入試の面接や最初のデートなど、大事な要件に遅刻をした。ヤバイ、ヤバイと思う。そんなときに、「私は正直を旨とするので、常に本当のことしか言わない」って人、むしろ変でしょ。あるいは、そんなことを言える人は、常に強い立場にいる人だけです。

そういう人は本連載を読まんでよろしい。

ほとんどの人は多かれ少なかれ嘘をつきます。それが人間です。

でも、これも考えてみれば、そんなに多くの人が遅刻で嘘をつかなければならないならば、問題は遅刻をする人よりも、それ以外にあるということですよね。多くの人が使うと怪我をするような機械があったら、それは使う人の問題というよりは機械の問題でしょう。

だから遅刻を責める制度、それ自体が問題なのです。

私は、神話などを上演するために「ノボルーザ」という団体を作っています。そこでは遅刻は一切とがめないことになっています。かりに本番にも間に合わないような遅刻だった場合は、直前でも台本を書き換えます。自由なクリエイトのためには、自由が何よりも大切だからです。

 

他人を守るための嘘

嘘は、他人を守るためにも必要です。

仏教、キリスト教(ユダヤ教)と続いたので、ここで儒教の始祖である孔子にご登場いただきましょう。東アジアの雄が嘘についてどうお考えなのか、そのお話をうかがいたいと思います。

 

"Life of Confucius" より(メトロポリタン美術館所蔵)

 

孔子や弟子たちの言行録である『論語』の中では、正直者のことを「」と言います。

哀公あいこうという王様が孔子に会いました。あ、ここでいう王様(公)は中国(周)の王ではなく、江戸時代でいえば藩主のような存在ですが、話をわかりやすくするために王様でいいですね。

さて、その哀公という王様が孔子にこう尋ねました。

「国民が私に心服し、そして従うようにするにはどうしたらいいだろうか」と。

孔子は、次のように答えられました。

「直(正直)」な人々をひきたてて、邪悪な人々(枉)よりも上の地位に置いてみてください。そうれば、人々はあなたに心服し、従うようになるでしょう。しかし、その反対に邪悪な人々(枉)をひきたて、「直(正直)」な人々よりも上位に置くようなことがあったならば、人々は心服もしなければ、従うこともないでしょう

そりゃあ、そうですよね。国民の税金を私利私欲のために使ったり、口から出まかせばかり言って「ごめんなさい」も言わないような人が高い地位についていれば、国民の心が離れるのは当然です。

特に上に立つ人にとって「直(正直)」はとても大切です。

…が、実はここで孔子がいう「正直(直)」は、私たちがイメージするいわゆる「正直」とはちょっと違います

どう違うのか。孔子が「正直(直)」について具体的な例を挙げて書いてあることがあります。そこを読んでみましょう。

今度の話では、葉公しょうこうという王様が登場します。

葉公は「うちの国には直躬ちょくきゅうという者がいる」と孔子に自慢をします。直躬という名前からしてすごいですね。「直(正直)」と「躬(身体)」ですから、正直を体現したというような名を持つ人です。むろん、これは固有名詞ではなく、そんな人、という意味かも知れません。

さて、直躬さん。どんな正直者かというと、彼のお父さんが羊を盗みました(あるいは羊の数をごまかした)。彼はそれを隠しもせずに「お父さんがズルをした」と証言したというのです。

それを聞いた孔子がいいます。

いやいや、わたしたちの国でいう「直(正直)」は、彼のとは少し違いますな。うちの方では、父は子のために隠すし、子は父のために隠す。その中にこそ「直(正直)」があります

「正直とはこうあるべき」という葉公と、身内を思いやる情愛の中にこそ正直があるとする孔子。孔子のこのような考え方は、いまでは法や規則というマニュアルの中に消えていってしまいがちですね。

でも、多いでしょ。直躬さんのような人。「これが正直だ」と思ったら、それでガシガシいく。特にこの頃は「自粛警察」とか「着物警察」とか…。

 

「礼」というブラックボックス

孔子はまた、「直(正直)」の人というのは「」の人、すなわち人の首を絞めてしまうような窮屈な人になりやすいともいいます。

本当のことを言って何が悪いの?」と、頼まれもしないのに人の欠点をあれこれ指摘するする人がいます。そういう人は、知らず知らずのうちに、相手の人の首を絞めていることに気づいていません。孔子はそういう人は「絞」の人といいます。

近くにそういう人がいたら、「ああ、この人は「絞」の人なんだな」と心の中で思いましょう。間違っても「あなたは「絞」の人だ」なんて言ってはいけません。相手と同じことをすることになりますから。

そして、その人は本人が気づかないうちに、周囲の人から嫌われています。

孔子は、こういう人が「絞」から脱却するには「」が必要だといっています。孔子のいう「礼」とは、いわゆる礼儀作法の「礼」ではありません。じゃあ、「礼」とは何なのか。

それについて書いていくと、長くなりますが、ひとことでいえば「魔法のブラックボックス」です。何かを「礼」というブラックボックス入れると箱の中でなんやかんやされて「いい感じ」のものに変えられて出てくる、それが礼です。特にネガティブを思われている性格を「いい感じ」の性格に変換するのが「礼」というブラックボックスなのです。

たとえば、ある人との関係がうまくいかない。なぜか自分は人に避けられているように感じる。そういう時には「礼」がうまく機能していないかもしれないとチェックしてみるといいですね。

『論語』では「礼」のブラックボックスの機能として、他にも「心労(労)になりやすい人」は礼の力で「人にもやさしく、自分もゆったりした人」になれる。「考えすぎの人」は礼の力で「どっしりと落ち着いた人」になれる。「乱雑で乱暴な人」は礼の力で「勇」の人になれる、とあります。

ただし、「礼」を身に付けるのは「こうすればいい」という簡単な方法は(残念ながら)ありません。トレーニングが必要なのですが、それに関しては本書の範囲を超えるので省略しますね。。

 

 

柴田是真"No Shadow in Any Nook or Corner"(メトロポリタン美術館所蔵)

 

裸の王様のその後

また、「本当のことを言って何が悪い」という「絞」の人は、だいたい弱い人に向かっていうことが多い。

いくら正直な人だからといっても、たとえば入社試験の面接官に対して「あなたのネクタイの色、変ですね」とか、ヤクザのような強そうな人に向かって「あなたのその顔、こわそうですよ。もう少しにこやかにできない?」なんて言わないでしょ。

むろん、そう言ってしまう人もいますが、その方の場合はまたちょっと問題が違うので、ちょっと措いておくことにして…。

もし、あなたの周囲に「本当のことを言って何が悪い」なんて人がいたら、「この人は自分のことを思って、正直に言ってくれている」なんて思わず、「こいつは自分をなめてるな」と思って、その方とはできるだけ疎遠になるように心がけるといいでしょう。なんならお付き合いを絶ってもいいと思います。

むろん、だからといって強者には何でも正直に言っていいというわけではありません。

たとえば『裸の王様』の話がありますね。あの話は「子どもは正直者だ」とか「本当のことを言わなかった大人はダメだ」などと語られますが、しかしよく考えるとおそろしい話です。

子どもに「裸だ」といわれた王様はそれからどうなってしまったのでしょうか。国民たちの心は王様から離れ、王様のいうことを誰も聞かなくなります。王様に裸だと伝えなかったということで、王様の側近も国民の信頼を失ってしまう。そうすると王様を中心とした王制は崩壊してしまいます。しかし、民主主義的心性が育っていず、王制しか知らない国民です。国自体がめちゃくちゃになるのは目に見えています。

国民は何をしたらいいかわからなくなり、国の力は弱くなり、隣国に侵略されて、国家そのものが崩壊するかもしれません。そうしたら、そんなことをいった子どもたちも奴隷にされてしまうかも…などと想像は悪い方、悪い方に向かいます。

正直が、無批判にいいというわけではありませんね。

おっと…横井也有の『鶉衣』に入る前に、いろいろと書いてしまいました。

さて、これからが本題。横井也有の嘘についての文章を読んでみたいと思うのですが、長くなりましたので、それは次回にすることにしましょう。

 

<第9回につづく>

 

※レビ記には「主を欺き、友人を偽る罪」(5:21)が出ているが、これも「友人」を偽る罪であり、「嘘をついてはいけない」というのとは少し違う。

 

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著者略歴

  1. 安田登

    1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。 能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。 著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、 『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』(春秋社)など多数。100分de名著『平家物語』講師。
    https://twitter.com/eutonie

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