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優雅な貧乏生活

不安創出社会をぶっとばせ!

 

「優雅な貧乏生活」について「心・技・体」の3方面からお話していきますと、前回書きましたが、当分のあいだ「心」、すなわち考え方を中心に書いていきます。

今回のテーマは「不安創出社会をぶっとばせ!」です。

最初にサマリー(要約)を書いておきます。考え方の話など面倒だという方は、ここだけ読めば、概要はOKです。

 

マーケティングの流行によって、それまでの生産者中心主義から「消費者中心主義」に変化した。それとともに消費者の「欲望」をいかに喚起するかということが重要になり、欲望のない人にまで欲望を起こさせる「ニーズの創出」という手法も現れるようになった。

ニーズを創り出すためには、まず「不安」をあおる。不安のないところにも不安を創り出すという「不安の創出」が起こった。

それは、いわゆる商品に留まらず、さまざまな資格ビジネスや学校、病院などにも広がった。

さらに近年では、「終活」が流行語になったり(2010年)、あるいは老後には二千万円が必要だという試算が出たりして、「老後」の心配をする人が急増した。むろん、それには高齢者人口の増加もある。

しかし、日本には「生活保護」の制度がある。

「いざとなったら生活保護をもらっちゃおう」と決めれば、気は楽である。年々低くなる年金よりも、生活保護の方が高いこともある。

人が創り出した「不安」などに縛られていず、そんなものはぶっとばせ!

 

…というのが、今回のお話です。

 

「貧しい」ってどういうこと?

さて、まずは大廻りも大廻り、「貧しい」という語義から見ていくことにしましょう。

「貧しい」という語は、日本語の文献ではすでに『古事記』に登場しています。しかし、日本語の語源はあまりはっきりしないので、漢字の方から見ていくことにしましょう。

「貧」という漢字は、いん(商)や西周、春秋の時代には使われていません。戦国時代早期の「曾侯乙楚墓」の竹簡にはじめてあらわれます。なぜ戦国時代からなのかという話は、長くなるのでやめておきますね。

「貧」という漢字を見ると、下に「貝」があります。貝というのは当時のお金です。それを「分割」することによって金銭が少なくなることを「貧」といいます。

 

『論語』では「貧賤」というふうに貧しさは「いやしさ」とともに使われることが多いのですが、「賤」の方にも「貝」がついていることでわかるように、やはり金銭の少なさをいう言葉です。

 

物理的なとぼしさを意味する「貧」と「賤」が、やがて精神的な乏しさに使われるようになり、さらには地位の低さや態度の「いやしさ」にも使われるようにもなります。

しかし、あくまでも「貧」も「賤」も金銭の少なさをいう言葉であって、精神も地位も本来は無関係の言葉です。まずはこれをおさえておきましょう。

ちょっと個人的な話を……あ、今回は個人的な話が多いので、「安田の個人の話なんて聞きたくねえよ」という方はどうぞ、そこら辺は飛ばしてお読みください。あるいは冒頭のサマリーだけでもOKです。

さて、1980年代に友人が会社を作り、そこに「スタッフ」として関わるように求められました。ここでいうスタッフというのはヒエラルキーの縦型組織に属さない、社長直属の横の存在という意味でのスタッフです。会社にも行く必要はない。時々、社長や副社長とカフェで会って話をするだけです。

ちなみに給料はゼロ。

ただし、クレジットカードを一枚渡され、それを自由に使ってもいいと言われました。相手は友だちです。変な使い方はしません。しかし、マンションの賃貸料、食費、服、本やCD、映画、観劇、すべてカードで支払っていいというのです。食事は、できればひとりでするよりも複数でした方がいい。映画や観劇もそうです。もし、カードが使えない場合は、あとで支払いがなされます。

さすが80年代ですね。

「物理的」なお金は、ほとんど持っていない。すなわち「貧」であり「賤」です。でも、なんかリッチ。

あれ?

「貧しい」って何でしょ? 貧しさによって生じる問題とはなんでしょう。

そのひとつに「不安」があります。いまお話したような生活を与えられても、「これがいつまで続くんだろうか」と不安になる人はいます。

一時期、「安心して老後を迎えるには二千万円の貯蓄が必要だ」などという話も出ました。老後に一文なしになり、住むところも追われ、食べるものもなくなったらどうしよう。そんな不安を感じている人も少なくないでしょう。

児孫じそんのために美田びでんを買わず」といいますが、自分でかせいだお金は自分の代で使い切るのが賢明なことだと古くから言われています。しかし、いまは老後になっても貯金を大切に守り、そのまま亡くなり、感謝をされるどころか、それがもとで残された家族の間に亀裂きれつが生じるということもよくあります。

それもこれも「不安」が引き起こします。

が、日本には「生活保護」という制度があります。いざとなったら、それに頼れば路頭に迷うことはない。横柄なお役人や自由が制限されるのが心配という人もいます。それはまた別の時に考えます。また、それで「みじめな生活になってしまう」ということをおそれる人もいます。それもまた考えていきますね。

生活保護を受ける受けないはともかく、それくらいの金額の中でいかに優雅に生きるか、それを考えるのが「優雅な貧乏生活」です。

その話はおいおいしていくとして、今回はまず「不安」について考えてみましょう。

 

『梅園草木花譜春之部』4より

 

不安創出社会をぶっ飛ばせ

いまの日本は、毎日、毎日、あちらこちらで不安が創り出されている「不安創出社会」といえるでしょう。

いい学校に行って、いい会社に入らなければ将来が心配だ。何才までにどんな人と結婚しなければ幸せになれない。老後のためには二千万円の貯金が必要……などなど。

死にのぞんですら、財産分与や税金のことをちゃんと考えておかなければいざとなったときに大変だとか、お墓だってどうするか……などなど。

生まれて死ぬまで、私たちは不安の中で暮らしています。

しかし、この不安の多くは作られた不安です。

1980年代に、中小企業診断士の試験を受けるためにマーケティングを学んだことがありました。そのときに「ニーズの創出」という言葉を聞いたときには驚きました。

「ニーズ」というのは、ふつうの欲求である「ウォンツ」よりも強い、根源的な欲求をいいます。たとえば子どもおもちゃを欲しいのは「ウォンツ」です。それに対して「ニーズ」というのは、赤ちゃんがおっぱいを欲しがるようなものです。これがなければ死んでしまうような欲求、それが「ニーズ」です。

それを「創出」する。びっくりでしょ。

セールスマンの研修では、よくこんなたとえ話がされます。

靴を売るセールスマンが、ある島に行って驚いた。島の人が誰も靴をいていない。

ひとりのセールスマンはこう考えます。

「誰も靴を履いていないところで靴を売るなんて不可能だ」

もうひとりのセールスマンは、こう考えます。

「誰も靴を履いていないんだから、これからたくさん売れる」。

そこで、後者のセールスマンは、まずは靴の必要性を島民に説きます。むろん、話だけではわかってくれません。靴を無料で配り、靴を履いて歩くことが、どんなに快適であるかを体験してもらいます。それを続けているうちに、島民の足裏はやわらかくなり、もう靴なしでは地面を歩くことができなくなった。

靴は、島民にとって「必要なもの(ニーズ)」になったのです。

セールスのセミナーなどでは、このセールスマンは「よいセールスマン」といわれます。しかし、本当にそうでしょうか。島民たちは、それまでは必要ではなかった靴をこれから買い続けなければならず、同時にそのためのお金を稼ぐという、かつてしたことのなかった行為をしなくてはならなくなりました。

お金は抽象です、記号です。ぴったりということはない。不足や余剰が生まれる。不足があれば、さらに働き、余剰が生まれれば、それを使って、別のものを購入する。すると、今度はそのものを買うためにお金を稼がなければならなくなり、不足があればまた働く。

やがて、日々のお金が足りないのではないかと不安になり、もっと働くようになる。

貯蓄ができれば、それが減ることが不安になり、未来に対しての不安がここで目出度く確立し、私たち、資本主義経済下で生きている人々の苦しみを彼らも味わうことになるのです。

私たちは、この島民たちを笑うことはできません。ニーズを創出するには、まずは「不安」を創出する、それがマーケティングの手法です。私たちも、この島民同様、日々創出される不安の中で暮らしています。

「英語ができなければ、これからの社会、生きていくことはできないよ」と英会話学校に行かなければならないようにき立てられる。しかし、英会話学校で学ぶ程度の英語は、5G回線で自動翻訳機が使えれば、機械が代用してくれます。高速で走る足を持たなくとも、自転車や自動車によって、速く、遠くに行けるように、その程度のことならば機械にまかせてもまったく問題ない。

テレビCMでは、特別なトレーニングプログラムによってスリムになった男女の姿が映し出されます。そのようになるとモテたり、会社でも出世することができるかのように錯覚する人も多いでしょう。確かに人は見た目が大事です。しかし、どんなに見た目がよくてもモテたり、出世したりできない人もいます。

東京大学では大学院入試がオンライン化されます。「Google検索を前提とした試験を作る」とか。家で辞書を引いても、Wikipediaで調べても、あるいは友人・知人に尋ねながら答えてもいい。今まで重視されていた「知識」中心の入試変革の第一弾です。

これが大学の学部の入試や高校入試まで広がれば、いまある受験産業のかなりがなくなるでしょう。

今回の新型コロナのおかげで、オンライン化もテクノロジーも長足の進歩をしました。東大の稲見昌彦いなみまさひこ先生は「ポスト身体社会」がはじまるとおっしゃっています。

そのような時代の変化のただ中にいながら、それでも私たちの不安は、日々、創出され、ニーズも創出されていくのです。

不安の多くが、誰かによって創られた虚妄きょもうであることに気づけば、不安の多くは消え去ります。

マーケターによって作られた不安なんて、ぶっとばせ!

 

『梅園草木花譜春之部』4より

* * *

不安というのは「今」と「未来」との間にあいた裂け目であるといった精神科医がいます。クレヴァスのような裂け目をのぞくと真っ暗闇。何があるかわからない。それが「不安」の正体です。

むろん、その不安が現実化することはあるでしょう。しかし、現実化した問題の多くも、不安によって引き起こされたものである可能性があります。

たとえばいい学校に行けずに、いい会社に入れなかった人をAさんとしましょう(ここでは「いい」の定義はしません)。逆にいい学校に行って、いい会社に行けた人をBさんとします。

このふたりの違いはなんでしょうか。一番の違いは、おそらく年収ですね。住むところも違うかもしれません。子どもが行く学校だって違う可能性もある。

しかし、どちらが幸せか。あるいはどちが不安が大きいかを比べたらどうでしょう。ひょっとしたら、Bさんの方が不安は大きいかもしれません。

ある小学校で4年生の子どもが泣いていました。そこの小学校は90パーセント以上の子が中学受験をするという学校です。親は高学歴・高収入の人が多い。教頭先生が「なぜ泣いているの」とその子に尋ねました。その子は次のように言ったそうです。

「自分は小学校受験に失敗して、この小学校に来た。だから中学受験のための勉強を一生懸命している。でも、中学受験も失敗しそうだ。自分の人生はもう終わりだ」

もう一度、いますが、彼は小学4年生です。まだ10才です。そんな彼に「自分の人生はもう終わりだ」と思わせ、そしてひとり廊下で泣かせる。それは、高学歴、高収入の親の不安が引き起こしたことかもしれません。

「不安」だけでなく、おそらくは「幸せ」ですらも、他人によって創り出された虚妄なのです。

さて、「不安」の話はこのくらいにして、次回は貧乏による「恥ずかしさ」の話から始めたいと思っています。

※Anxiety is the gap between the now and the then. 『Gestalt therapy verbatim(Frederick S. Perls)』

 

 

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著者略歴

  1. 安田登

    1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。 能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。 著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、 『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』(春秋社)など多数。100分de名著『平家物語』講師。
    https://twitter.com/eutonie

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