朝日出版社ウェブマガジン

MENU

優雅な貧乏生活

芭蕉の俳諧的生活

 

意志的な貧乏生活

日本の古典文学の中には、優雅な貧乏生活をした人がたくさん登場します。

『方丈記』の鴨長明、『徒然草つれづれぐさ』の吉田兼好などの隠棲者はもちろんのこと、物語の主人公ですが、貴公子である光源氏ですら、須磨すまに流されてからは優雅な貧乏生活をしていました。そしてその貧乏生活は、リアル世界の貴公子、在原ありわらの行平ゆきひらしたものであることが『源氏物語』で語られます。

在原行平は、弟の在原業平なりひらとともに美男子として有名。そんな彼が、ある事件によって須磨すまに流されます。その時に行平は次のような歌を詠みます。

 

わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ

 

「もしかりに、私がどんな生活をしているのと尋ねてくれる人がいたら、須磨の浦で藻塩もしおの水がれるように涙を流しならばわびしく暮らしていると答えておくれ」というような意味です。

現代語にするとどうってことない歌になってしまいますが、この「藻塩たれつつ」というのが風流だとして、以後、須磨に住む人は「藻塩たれつつぶ」ような、侘び住まいをわざとするようになりました。

行平と関係のあった松風・村雨むらさめというふたりの姉妹が主人公の能『松風』でも「総じてこの須磨の浦に心あらむ人は我とも侘びてこそ住むべけれ(風流の心がある人ならば、この須磨ではわざと侘び住まいをするものです)」とうたいます。

「我とも」、すなわち自分から進んで侘び住まいをする、「意志的な貧乏生活」こそ古典的な風流人士の生き方でした。

日本人の美意識である「わび・さび」もここら辺から出ています。

余談ですが、私が学生時代を過ごした1970年代はまだこの風潮が残っていて、「かっこいいことはかっこ悪いことだ」と多くの学生は思っていました。ましてや裕福であることは唾棄だきすべきことであり、お金がある学生も、わざと貧乏くさい恰好かっこうをしていました。「意志的な貧乏生活」です。

そして、この「意志的な貧乏生活」の代表者のひとりが、江戸時代の俳人、松尾芭蕉ばしょうでした。

伊賀という「山家やまが」から出て来た松尾芭蕉は、俳諧はいかい師として成功し、江戸の日本橋に居を構えます。しかし、ある日突然、日本橋の住まいを捨てて、当時はまだ開発が充分に進んでいなかった深川ふかがわに住まいを移すのです。

これは六本木ヒルズに住んでいた人がそこを捨てて、WiFiもつながらないような土地に移るようなものです。芭蕉の門人たちもびっくりしました。

しかし、やがて芭蕉は深川をも捨てて、定住地を持たない漂泊ひょうはく生活、旅の生活に入って行くことになります。旅の生活の集大成である『おくのほそ道』が終わった翌春に芭蕉が詠んだ句があります。

 

こもを着て 誰人たれびといます 花の春

 

満開の桜の下、美しく着飾った人々が花見をしている。しかし、その総天然色の中にただ一点のモノクロームの人がいる。こもを着る人です。

こもとはむしろのこと。むしろを巻いて衣服とする乞食こじきのことを「おこもさん」というようになりました。ですから「こもを着る」人というのは乞食のことです。

色とりどりの華やかな人々の中にいる、モノクロームのこもを着る乞食。彼こそが「誰人」、まさに「この人」、「The Man」であると芭蕉を詠みます。

「誰人」とは芭蕉にとっての永遠のあこがれである西行さいぎょう法師の幻影だったかも知れません。あるいは、未完のおもいを残して亡くなった「残念」の霊魂と出会って、の人の成仏を助け続ける能の旅人かも知れません。

芭蕉の晩年は、上方を中心にはじまった華やかな元禄げんろく文化の時代です。それまでの文化が貴族や、あるいは貴族化した武士のものが中心だったのに対して、元禄文化は豪商、すなわち町民による文化です。

芭蕉も、元禄文化の恩恵を受けたひとりではありましたが、しかし豪商の金に任せた華美な文化の中で「こもを着る生活」、乞食としての生活を目指したのが芭蕉でした。

 

『奥之細道』上下巻 与謝蕪村[筆]より

 

子貢のコンプレックス

「薦を着る生活」を目指したといえば、アッシジの聖フランチェスコ(聖フランシス)を思い出す方もいらっしゃるでしょう。聖フランチェスコに関しては別の機会(貧乏列伝を予定しています)に書きますので、しばらくお待ちください。

さて、「誰人」を目指す芭蕉ですが、美しく着飾った花見客の中の「薦を着る」人と、それを目指す芭蕉との間には大きな隔絶があります。前者は、本当に貧困の人です。それに対してそれを目指す芭蕉は、現実の生活ではそんなに貧窮していない。

この連載を読んでくださっている皆さまの中にも、今月の家賃が払えない、いや明日、食べるものすらない、という方もいらっしゃるでしょうし、そうじゃない方もいらっしゃるでしょう。

大変なのはもちろん前者ですが、後者は前者に対してコンプレックスを持ちます。

孔子の弟子の子貢しこうがそうでした。

子貢は、孔門十哲のひとりにも数えらえれるほどの高弟でした。しかし、孔子がもっとも期待した弟子は顔回(顔淵)でした。孔子は顔回に対して次のようにコメントをしています。

 

賢なるかなかいや。一簞いったん一瓢いっぴょういん陋巷ろうこうに在り。人はうれいにえず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。

賢だね、顔回は。食事といえば、竹のわりご一杯のご飯とひさごのお椀一杯の飲みものだけ。そして、せまい路地に住んでいる。他の人だったらそんなつらさにはたえられないだろうが、顔回はそれを楽しみ、またどんなに苦しんでもその楽しみを改めようとはしない。本当に賢だね、回は。

 

「賢」というのは、ただ賢いのではなく、「聖」に近いニュアンスを持つ言葉です。それほどまでに孔子から買われていた顔回は、少しの食事や飲み物にも困るというような貧困そのものの生活をしていました。そんな顔回をよしとする孔子の学団には、清貧せいひんを旨とするような風潮があったのではないでしょうか。

しかし、子貢は貧しくありません。子貢という弟子は歴史書である『史記』の「貨殖(お金持ち)列伝」にその名を連ねるほどにビジネスセンスもあり、さらにせいの宰相を歴任したともいわれるほどに政治的センスもあります。ビジネスマンとしても政治家として活躍をしていたのです。

そんな子貢が、顔回にコンプレックスを持っていたということを想像させるような章句が『論語』の中にはあります。「切磋琢磨せっさたくま」の話が載る章句です。

 

 子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧而樂道、富而好禮者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也、

子貢がわく、貧しくしてへつらうこと無く、富みておごること無きは、何如いかん。子ののたまわく、なり。いまだ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者にはかざるなり。子貢が曰わく、詩に云う、せっするが如くするが如く、たくするが如くするが如しとは、其れれを謂うか。子ののたまわく、や、始めてともに詩を言うべきのみ。れにおうを告げてらいを知る者なり。

(訓読は岩波文庫、金谷治による)

 

子貢がある日、孔子に尋ねます。

「貧しくても人に対してへつらうことがなく、また富んでいてもおごらないという人物はいかがですか」と。

孔子は「まあ、いいだろう」とまずいいます。そして、「でも、貧しくても道を楽しみ、富んでいても礼を好む人には及ばないな」と付け加えます。

清貧をよしとする孔子の学団において、多くの弟子は「富」はけがれたものだと思っていたかもしれません。むろん、孔子はそうは思ってはいなかったということは『論語』からもわかりますが、弟子たちは師匠の思いを勝手に増大させるものです。

孔子学団においては「富んでいる」ということは、ひとつの欠落だったのでしょう。

「富む」ということに関して本当に無頓着な人は、富むことはできません。富にはまったく興味がないという富裕者はいません。子貢が富んでいるのは、富に興味があったからです。子貢は顔回のように貧しさの中にはいられない。子貢は、富や成功を淡々と捨てることはできない。

だからこそ彼は、「富」という、手放せない欠落をもつ自分を何とかしようと努力します。「驕ることなき」を常に心にかけ、努力をしていたのです。そして、この「貧しくても人に対してへつらうことがなく、また富んでいても驕らないという人はいかがですか」という発言になります。

それに対して孔子は「可なり」といいます。それはそれでじゅうぶんにすごいし、正しい。

「しかし、ね」と、孔子は子貢に優しくいい、上記の言葉になるのです。これ、もう一度、見てみましょう。

 

貧しくても道を楽しみ、富んでいても礼を好む人には及ばないな

 

子貢の言葉は「へつらわない」・「驕らない」というように「~ない」という否定語・禁止語が使われているのに対して、孔子の言葉には「楽しむ」・「好む」という語が使われています。

否定や禁止、すなわち「べき(should)」によっては道に至ることはできない。そこに至るためには、楽しいことや好きなことからアプローチするのがいいよ、と孔子は子貢に教えました。むろん直接的にではなく…。なぜなら直接的に教えると「べき(should)」になってしまうから。

さて、ここが子貢のすごいところです。そんな間接的な孔子の言葉を聞いて、「おお、それこそが『詩経』の中の切磋琢磨の章句の意味なのですね」と気づきます。

すると孔子は、「そうだ! これではじめてお前と『詩経』について語ることができるな。お前は『往』を告げられて『来』を知る者だ」と喜ぶのです。

「あれ?」と思いませんか。私たちが知っている切磋琢磨の意味でこの章句を読むと、ちょっと不思議なやり取りです。まるで禅問答のようです。実は「切磋琢磨」は私たちが知っているのとは違う意味なのです。

これはいろいろなところで書いたので、それをお読みになられた方は「またか」とお思いになるかもしれませんが、重複をいとわず書いておきますね(書籍化の時にはここら辺、ざっくりと省略されるかもしれませんが)。

「切・磋・琢・磨」の四文字は、みな原石に加工を加えて付加価値のある製品を作る作業をいいます。そして各文字はみな違う原石への加工方法です。

「切」とは骨を削ることをいいます。

「磋」とは象牙を加工すること。

「琢」とは玉を磨くこと。

そして「磨」とは石を磨くことをいいます(貝塚茂樹)。

おのおのの素材には、それに合った加工の仕方があり、その方法で磨くというのが「切磋琢磨」です。せっかくいい象牙ぞうげがあっても、それを玉に対するような磨き方で加工したら台無しにしてしまいます。真珠を磨くのにダイアモンドの研磨機を使ったら、せっかくの真珠を破壊してしまいます。

人間には持って生まれた天性・天命があります。子貢ならば、富を得るという性、顔回ならば貧を楽しむという性です。富みを得る性を持つ子貢が、顔回にあこがれて、その性から離れたことをするのは天命に反する行為です。無理が起こります。

そんな無理をせずに、自分の「性」にあった方法で、自分の好きなことをする。楽しみながら道を探求する。それを孔子は勧めたのです。

そして子貢も、その真意を悟り、この詩の章句「切磋琢磨」を引用したのです。

 


『奥之細道』上下巻 与謝蕪村[筆]より

 

自由になるための俳諧的生活

話がちょっと横道にれてしまいました。芭蕉に戻りましょう。

芭蕉も子貢と同じく、花見客の中に混じる本物の乞食である「誰人」にコンプレックスを持っていたでしょう。

しかし、芭蕉のそれは子貢のコンプレックスとはちょっと違います。もっと切実でした。芭蕉には乞食を理想としなければならない切実な理由があったのです。

それは、彼が獲得した「自由」の維持のために必要だったのです。

そのことをお話しするために、芭蕉の生涯について少しだけ触れることにします。

先ほどもお話ししたように芭蕉が生まれたのは「山家やまが」と呼ばれた伊賀上野でした。山家というのは単に山深いところという意味だけではありません。山家には差別的なニュアンスもありました。芭蕉が生きた江戸時代初期、伊賀の山家出身者には出世の道が閉ざされていたのです。しかし、才気あふれる芭蕉です。さまざまな努力をします。しかし、不運も重ってなかなかうまくいかない。

そこで、彼はこの社会での出世を諦めます。士農工商という四民の社会での出世をやめ、四民の枠(方)の外、すなわち四民の方外で生きていくことを決めるのです。それが俳諧師として生きていくことでした。

士農工商などという堅苦しい身分制度の外で生きるのをやめた芭蕉は、はじめて自由を知ったことでしょう。

ちなみに江戸時代には、士農工商の四民の方外に生きる人は存外多く、医者、易者などいわゆる「者」が付く人の多くが四民の方外の存在でした。当時、四民の最高位にいた武士ですら、浪人になって能のうたいを教えたりすると、弾座衛門だんざえもんという非人頭の配下になり、四民の方外の存在になりました。

俳諧師もそうです。その職業によって四民という一般社会を捨てることになるのですが、そのぶん自由を獲得します。

芭蕉は、北村季吟きぎんという俳諧の師匠から俳諧師としての認可を得て自由を獲得しました。彼はさらなる自由を求めて、大都会・江戸に出ます。後年、俳聖と称せられるほどになる芭蕉のことです。俳諧師としての名はどんどん上がり、人気俳諧師になりました。彼は江戸のど真ん中、日本橋に住みます。

それは、当時の俳諧師の仕事の中心が、お金持ちの素人が作る俳諧の添削てんさくだったからです。それで芭蕉は多くの謝礼を得たでしょう。山家出身の彼が、江戸という日本一の都会で超有名人になったのです。

しかし、順風満帆の上潮の波に乗る芭蕉ですが、ここではたと思ったに違いありません。

今の生活は、俺が本当に望んでいた生活だったのか

時には、大してうまくもない俳諧をほめなければならないこともあったでしょう。高額な謝礼をくれる豪商や武士におべっかを使う必要もあったかもしれません。そんな男芸者のような生活に彼は嫌気がさします。

そこで大都会の生活を捨てて深川に移るのです。

これは紅白に出るような歌手が「俺、事務所やめてやめてストリートミュージシャンになるわ」というようなものです。マネージャーもびっくりです。

しかし、それを強行した芭蕉は、それでもまだ満足しません。なぜなら彼の俳諧師としての存在を保証しているものが、彼を俳諧師として認めてくれた師匠からの認可だからです。この仕組みの中にいる限り「俳諧界」に閉じ込められているし、しがらみだっていろいろある。そこで、そこからも自由になるために旅の生活に入るのですが、これをお話していくと長くなりますし、いままで何度も書いてきたので、ここでは省略しますね。

 

『奥之細道』上下巻 与謝蕪村[筆]より

 

さて、四民から飛び出て俳諧師になった上に、その俳諧の世界からも飛び出した芭蕉は、既存のあらゆるシステムから自由になろうとしました。四民という幕府が作ったシステムも否定し、俳諧師のシステムをも否定する。これであらゆるものから自由になった芭蕉ですが、このような既存の社会のシステムに依存しない生き方は、薄い刃の上を歩むような毎日です。いつその地位から落ちて、リアルな貧窮生活者になるかわからない。

毎日続く危機的状況、ドキドキですし、不安でギクギクです。この不安を解消する方法はたったひとつしかありません。その刃から飛び降りてしまうこと、あるいはその刃から落ちたらどうなるのかをちゃんとシミュレートすることです。

それが「薦を着る生活」です。裸一貫、乞食になった状態をヴィヴィッドに脳裏に描く。生活もそれに近づける。それを本当の貧困になる前にする。それこそが芭蕉の「薦を着る生活」だったのです。

一度でも貧窮生活を経験した人にはわかっていただけると思うのですが、貧窮生活の渦中にいると「優雅」なんて考えられなくなります

私たちは危機的状況に陥ると認知システムが劣化します。リラックスした状態ならばさまざまな可能性を考えられるのに、貧窮生活の真っただ中では考え得る選択肢が極端に減ります。しかも、なぜかその中で最悪の選択をしてしまいがちになります。そして、さらなる貧窮状態におちいる。

孔子が外地で食べるものもなくなり、従者も病気になり立つことすらできなくなるほどの窮地に陥ったことがありました。その時に弟子の子路が「君子も窮地に陥るのですか」といきどおりをこめて孔子に問いました。

そのとき孔子は「君子だったもちろん窮するよ。ふつうの人はここでみだれてしまうけどね」と答えるのです。

ふつうの人は貧窮状態になったら、心も生活も乱れます。貧窮生活を楽しめるなんて人はほとんどいない。しかし、君子はそうはならない。だからこそ顔回が「賢」なのです。

おそらく何度も貧窮に陥った芭蕉はそれを知っていたに違いありません。だから、貧窮状態ではない今こそ、「薦を着る生活」を目指し、「意志的な貧乏生活」を企図しておくことが必要だと気づいたのです。

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という山本常長は『葉隠』の中で次のように書いています。

 

毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身しにみになりてる時は、武道に自由を得、一生越度おちどなく、家職を仕果しおほすべきなり

 

毎朝、毎晩、死の予行演習をする。常に自分が「死身」でいる。そのときにはじめて武道に「自由」を得ると常長はいいます。

芭蕉も同じだったのでしょう。常住じょうじゅう「薦を着る生活」の中にいることによって、人生に自由を得ることができる。その決心をしたときに、芭蕉は自身の生活のかてである俳諧から、薦を着ながらでも優雅に生きる方法を発見するのです。

「俳諧的生活」です。

 

(第6回に続く)

バックナンバー

著者略歴

  1. 安田登

    1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。 能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。 著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、 『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』(春秋社)など多数。100分de名著『平家物語』講師。
    https://twitter.com/eutonie

ジャンル

お知らせ

ランキング

閉じる