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優雅な貧乏生活

三大悪癖その2 嘘について、横井也有ならこういうね

 

前回は横井也有やゆうの『鶉衣うずらごろも』の文章を読む前に、嘘についていろいろと書いてしまいました。これからが本題、横井也有の嘘についての文章です。

横井也有の友人に、自分のいおりに「八百坊はっぴゃくぼう」という庵号あんごうを名づけた俳人がいて、その庵号について横井也有に何か文章を書いてくれと依頼しました。それを受けて「八百坊記」という文章を書きました。それをこれから読んでいきましょう。

 

二十五ヶ條といふものに、蕉翁の詞とて、詩歌連俳は、上手にうそをつく事也とぞ。翁は俳諧の祖師なり。詩歌連歌の人はいさしらず、俳諧師は是を守りて、我劣らじとうそをつけども、夫翁のうそかもしらず。あるは門人のうそにやあらむ。

 

まずは「詩歌連俳は、上手にうそをつく事也」という芭蕉の言葉を紹介します。詩歌や連歌、俳句というのは上手にうそをつくことだと芭蕉は言いました。

上手にうそをつくことが大事だというのは「詩歌連俳しいかれんぱい」だけではありませんね。

小説は、上手にうそをつく事也。

お芝居は、上手にうそをつく事也。

アニメは、上手にうそをつく事也。

ゲーム制作は、上手にうそをつく事也。

政治は、上手にうそをつく事也。

あ、これはまずいか。

それはともかく…。

「詩歌連俳」、すなわち漢詩・和歌・連歌・俳諧と書いてあるが、ほかの人たちはともかく特に芭蕉翁は俳諧はいかいの祖師なので、自分たちのような俳諧師はこれを守って、我先にと争って嘘をつくのだと也有はいいます。

いいですね。「我先にと争って(我劣らじと)嘘をつく」。

 

 百鬼夜行絵巻より

 

これで思い出すのは、『謀生種ほうじょうのたね』という狂言です。

この狂言は、伯父おじおいの嘘つき合戦の話です。片方が「俺は富士山に紙袋を着せた」といえば、もう片方は「いやいや、俺は琵琶湖びわこに茶をてて飲み干した」と応じる。どちらが大きなホラを吹いたかというのを争う狂言です。

こんな嘘つき合戦、ときどきやってみると創造性の開発にもつながりますし、気持ちも大きくなります。

でも、横井也有。この言葉をそのままは信じません。

だって、そんなことを言っている芭蕉が俳諧師なわけですから、これも嘘かもしれない。いや、門人の俳諧師の誰かが適当に書いた嘘かもしれないと。

すばらしい!

「クレタ人は嘘つきだ」のパラドクスにも似ていますが、横井也有はそんなに深刻には受け止めません。そして、でも、まあ、それはそれでいいやと話を進めます。ここら辺の気楽さが俳諧師です。

 

うそは乾坤に滿々たれば、我口にうそはつかねども、耳にはうそを聞ぬ日もなし。そもやつれづれ草に、うそ聞く人の品々を言たれども、うそつく人の品はいはず。うそに大うそあり、小うそあり。

佛のうそは人を救ひ、莊子のうそは人を教へ、傾城のうそは人を迷はす。只はいかいのうそばかり、人の為にいはず、身の爲にせず。跡なき雲の郭公、名のりかけてつくうそは、人をあやまる罪なしとて、うそ八百坊の額うちて、俳諧に遊ぶ人あり。

 

いで也有は「うそは乾坤けんこんに滿々たれば」といいます。嘘は乾坤、すなわち天地の間に満ち満ちている。だから、自分の「口」がうそをいわない日はあっても、「耳」に嘘を聞かない日はないと。

そして、「徒然草つれづれぐさ」にうそを聞く人の種類をいっているが、うそをつく人の種類はいっていないと書いています。これは『徒然草』第七三段の話です。うそにはどんなうそがあるかというその種類は書いてあるが、どんな人が嘘をつくかは書いていないというのです。

これ、也有のすごいところですね。「うそにはどんなうそがあるか」ということが書いてある、たとえば『徒然草』などの文章を読んだとき、それが詳細を極めていれば、「おお、そうか」と納得してしまい、それを片手落ちとはなかなか思うことができません。

書かれていないことを読む力、それを持っている人は少ないものです。也有はその力を持っている人なのです。ですから、也有はうそをつく人に注目します。

「うそには大うそがあり、また小うそがある。仏のうそは人を救い、荘子のうそは人を教え、女郎のうそは人を迷わすのである」という。

仏と荘子と女郎を一緒にするなんて聞く人が聞いたら怒ってしまいますね。まったく違う三者ですが、しかし「うそ」という点から見ると、同じだと也有は思っています。人を救うのか、教えるのか、あるいは迷わすのかの違い。この三者はまったく違うと思います。三者に共通するものがあります。それは他人に影響を及ぼすということです。

俳諧の嘘はこの三者と次元を異にします。俳諧のうそは他人のためにも言わないし、自分のためにもいわない。誰にも影響を及ぼさないさしさわりのないうそです。

なるほど!と思うでしょ。それでも「仏様と遊女を一緒にするな」という人がいるかも知れない。

でも、仏教徒からすれば立派な仏様のおっしゃることでも、違う宗教の人からすれば「人をまどわす世迷い言」だと思うでしょう。イエス様の教えだって、江戸時代は邪教と思われていました。科学だって同じです。ガリレオは異端だと言われましたし、いまでも進化論を邪教だという人がいます。アポロの月着陸だって、あんなのは陰謀だという人もいる。信じない人からすれば、それがかりに学説でも、人を惑わす嘘になってしまうのです。

それは、その説が人に影響を及ぼすからです。

ところが俳諧の嘘は他人に影響を及ぼさない。しかも「名のりかけてつくうそ」、すなわち「これは嘘だよ」とはっきりとつく。だから、人をあやまる罪がないのです。

 

實も鼻のほどおどめきて、世路にうそつく人は、我はうそならずと偽り、みづからうそなりといひて俳諧する人は、それ則まことなれば、交を結ばむには、頼むべき友の一ッなるべし。

 

世間でうそをつく人は、鼻のあたりをひくひく動かしながら「自分は嘘をついてないよ」と言いながら嘘を言う。それに対して俳諧をする人は、自分から「これは嘘だから」と言う。考えようによってはむしろ「まこと」の人です。だから、俳諧師ほど信頼のできる(頼むべき)友はいない。

そんな也有の友人は「うそ八百坊」と、それを額をして庵にかけて、俳諧に遊んでいるわけなので、まさに頼むべき友なのです。

 

画本西遊記百鬼夜行ノ圖画本西遊記百鬼夜行ノ圖

 

されども麁忽そこつの者ありて、坊と屋の字を心得違て、茄子を大根をと求めに水らむに、是は青物賣る店にあらずと、あるじの答に不興して、さては家名にうそつきたりとつぶやかむ無風雅人は論ずるに足ざるべし。八百坊の記を請はる、我八百の意を問はれども、そのよる所を推量して、此一語を書て贈る。あるじの心まことあらば、よもや此記を捨べからず。

 

しかし、世の中にはいろいろな人がいるものです。「八百坊」と書いてあるのに、勝手に「八百屋」と読み違えるようなあわてものがいて、「茄子なすをくれ」とか「大根をくれ」とかいいながら買いに来る人もいる。

主人が「いや、ここは八百屋ではないよ」と言っても、その答えに機嫌を悪くして、「さては家名にうそをついたのだな」と、ぶつくさいうような人もいる。

こういう人は現代でもいますね。時代もののドラマをテレビで見て、「あれは事実と違う」なんて憤慨して投書をする人がいます。事実と違うのは当たり前。だってドラマですから。フィクションですから。事実と忠実でなければならないなら、まずはセリフから古語にしなければならない。それに対しては文句を言わない。自分の理解範囲で文句をいうわけです。

そういう人を也有は「無風雅人むふうがじん」といいます。風雅を理解しない人です。そんな人は「論ずるにざるべし」、相手にしないことにしようと。

そして、まとめです。

私は友人から「八百坊」についての記を求められた。友人がどんなつもりで「八百」という言葉を使ったか、それは知らないし、ことさら問わなかった。自分で勝手に想像して、この一文を書いて贈る。主人の心が嘘でなくまことがあるならば、よもやこの記を捨てることはあるまいと思う。

最後までユーモアあふれる也有です。

嘘についての也有の文章いかがでしたか。

大うそ、小うそというと、私は植木等うえきひとし主演の映画『日本一のホラ吹き男』を思い出します。

主人公の初等(はじめ・ひとし)は、ホラで出世した先祖、初等之助の自伝を見つけます。先祖のホラは「ホラにしてホラにあらず」。すなわち実現するホラはホラではないと知った初等は、自身もホラを吹きながら成功します。

ホラも吹けないようでしたら、大したことはできません。ホラを吹き続ければ、「あいつはホラ吹きだ」と評判が立つ。俳諧師と同じく、ホラだと言いながらホラを吹いているようなものです。

いま以上に過酷な労働環境であった高度経済成長期。人々は『鶉衣』の同時代版である植木等の映画を観ながら、現実を笑い飛ばしていたのでしょう。

ぜひ、皆さまも大ボラを吹きながら生きてください。

そうそう。もうひとつ。せっかくなので自分の部屋に名前を付けるといいですね。

私が育ったのは、目の前に海が広がる漁村。文化とは縁遠い田舎で育ちました。しかし、近所に小児麻痺の詩人の方がいらっしゃって、その方から詩や音楽を教えていただきました。その方のお宅には「人魚庵にんぎょあん」という表札がありました。「人魚庵」の窓からも太平洋が見えました。

「人魚庵」はロマンチックですが、嘘八百から取った「八百坊」というのはなんともふざけています。でも、このおふざけがさすが俳人です。皆さんなら、自分の部屋や家にどんな名前をつけますか。

 

 

北斎「人魚図」(椿説弓張月より)

 

 

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著者略歴

  1. 安田登

    1956年千葉県銚子市生まれ。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚める。 能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催する。 著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、 『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0』(春秋社)など多数。100分de名著『平家物語』講師。
    https://twitter.com/eutonie

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