一通目の手紙:能町さんへ 森山至貴より
『慣れろ、おちょくれ、踏み外せーー性と身体をめぐるクィアな対話』では、何通か、著者であるおふたりが、お相手に宛てて書いた手紙を掲載しています。普段からもやもやと葛藤していて尋ねてみたいこと、この対話で一緒に話したいこと、考えたいことを伝えていただき、そこから対話がスタートします。
一通目の手紙は、2020年、編集部の仁科が森山さんへ対談本を作りませんかとオファーしたときに伝えた、「クィアの自分ごと化」(を目指したい)という言葉に対して森山さんが感じた戸惑いから始まります。この戸惑いは「クィア」というものの精神に深くかかわるものでした。
その後、何度も対話と執筆を重ねて出来上がった本書は「クィア」というものに関心のある方も、全くそうでなかった方々にも、広く深く、一人ひとりに響きつづける本になったと編集部では実感しています。書店で、ぜひお手にとってみてください(編集部)
第1章 私たち「その他」は壮大なんですけど?
LGBTQ+、分類して整理したあとの、その先の話 冒頭に掲載
対談をお引き受けいただき、ありがとうございます。対談に先立って、なぜ能町さんとお話ししてみたいと思ったのか、その理由を少し書かせてください。「迷い」と「気分」の話です。 担当の編集者の方から、対談をベースにした本を作りませんかというお話をいただいたときに、添えられていた言葉に対する迷いが、ずっと私のなかにあります。その言葉は「(クィアの)自分ごと化」です。クィア・スタディーズを大学で教え、時には大学の外でもこの言葉を掲げて話したり書いたりしている私にとって、もちろん多くの人がクィア・スタディーズについて知ったり、クィアという言葉に賭けられた思想を理解し、それに共感してくれることはとても重要なことです。だから、クィアという言葉を他人ごととして扱われたら、私としてはやっぱり憤慨するとは思います。 けれども、もしクィアという言葉を自分ごととして扱うということが、性に関する多数派に属する人までもがみな「私も実はクィアな人間だ」「私の考え方にはクィアなところがあると思う」と思ったり言い出したりすることだとしたら、それは素晴らしいこととは私には思えないのです。それではクィアという語の意味がずいぶんと薄められてしまっているのでは、と疑問に思ったり、不安に感じたりすると思います。 いや、この言い方は正直ではないですね。私には、クィアという言葉に関して「あなたがそれを使うな」と言ってしまいたいときがあります。そしておそらくその背後には、クィアという言葉が含む「世のなかに背を向ける」「仲間に入れてもらおうとしない」といった気分がある。他方で、クィア・スタディーズについて話し、書き、そうやってそれを広めようとさえしている、そしてそれが可能な立場にいる私など、むしろその意味ではクィアなんかじゃ全然ない、「体制側」の人間なのでは、という不安もある。あらためて考えてみると、私自身のクィアという言葉に対する位置取りも、なんだかおぼつかなくなってきます。 だからこの対談では、他者に遠ざけられたくないと思いながら近寄ってくるなと思いもする、そんな「気分」についても含めて、クィアという言葉、あるいはクィア・スタディーズについて考えてみたいのです。そのためには、多様な生き方をその根底の部分で肯定しつつ、しかし「こうしてみんなが幸せになりました」といった美談めいた結論には疑いの目を向けるだろう、そういう思考の「癖」のようなものをお持ちの方とご一緒したい。そう考えるなかで真っ先に思い浮かんだのが、能町さんでした。 私は能町さんの「癖」を見誤っているでしょうか? あるいは、私のクィアという言葉に対する理解が誤っていて、それゆえの混乱に能町さんを巻き込んでしまうだけになるでしょうか? たしかにそうなるかもしれません。ただ私には、それでもなお、能町さんとの対談がとても面白く、そして私自身にとってとても意義深いものになるだろう、という予感だけははっきりと感じられるのです。その予感を信じて、対談に臨みたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
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森山さんと能町さんの対談は、「クィア」という言葉を聞いたこと