4. 呉のあみだくじ大散歩
私がどのようにして迷路な町を探しているかというと、ネット上で町歩きの動画を漁ってみたり、グーグルマップでいかにも迷路然としている町(道路が曲がりくねっているとかたくさん分岐したりしている)を探してみたりしているわけだが、ドンツキ協会代表の齋藤さんも有力な情報源である。
ドンツキ協会とは、協会ホームページによれば、
《「ドンツキ協会」は東京・向島に数多く存在する袋小路「どんつき」をまちの個性であるとして肯定的に捉え、観察、表現、郷土研究等により、「どんつき」と徹底的に向き合い、関わり合いながら「どんつき」の地位向上に勤めることを主旨としています。》
という団体で、なぜ袋小路の地位を向上させたいのか謎であり、だいぶどうかしている感があるが、『タモリ倶楽部』に出演したこともあるというから、間違いなくどうかしている。
ドンツキが多い町はほぼ迷路と言っていいので、ドンツキ協会のなかでも一番どうかしている代表の斎藤さんの動向をチェックすれば、迷路っぽい町がいくつも発掘できるわけである。
今回訪ねようと思った呉も、まさに齋藤さんが絶賛していた街だ。本人に確認すると、「呉を知らずに迷路を語るなかれ」と、私以外誰にも響かないであろう力強い言葉が返ってきた。齋藤さんの見立てによれば日本十大ドンツキ都市のひとつだとのこと。そこまで言われれば行かざるを得まい。
ネット上で呉の歴史をざっくり探ってみると、明治時代から海軍の鎮守府として開かれ、戦後は鉄鋼の街となって栄えたようだが、2023年に日本製鉄の製鉄所が閉鎖されてからは、街の経済を今後どう活性化させていくかが課題となっているようだ。
とはいえ私が気になるのは街の経済ではなく、そこが迷路かどうか、という一点で、そういう情報は公式にはどこにも書かれていないから、念のため街歩きイベントを開催している「くれ・ひと・まち情報応援団」の方々に事前に連絡をとり、案内をお願いすることにした。
「くれ・ひと・まち情報応援団」は、文字通り呉で活動する人を応援するために設立された一般社団法人で、2021年頃から積極的に街歩きイベントを開催しているようだ。
呉駅の集合場所へ出向くと、情報応援団の竹本さんと浦山さんが待っていてくださった。竹本さんは呉の街の生き字引のような人で、あらゆる路地を知り尽くしているそうである。迷路のようなところを重点的に案内してもらえるよう依頼したところ、総延長5.6キロの綿密なルートを組んでくれていた。そんな変な依頼をするほうもするほうだが、即座にルートを組んでくる情報応援団もマニアック過ぎる気がする。
事前に地図を見ると、呉の街は、海に面した南西側以外は、ぐるっと山に囲まれ、市街地の中心部がグリッド状に整備されているのに対し、山の斜面や山裾にあたる北側や東側は道路がうねうねと込み入って、迷路の匂いがぷんぷんしていた。

呉の地図(国土地理院)
水色が道。
中央は碁盤目状だが、その周囲は斜面にそってアメーバ状に道が分岐しており、
迷路になっている可能性が高い。
さっそく駅前からバスに乗り、向かったのは辰川という住宅地だった。辰川は呉の中心部から、北東方向にまっすぐ坂を上った先にある。
住宅街のなかの五差路に突然バスが停車すると、そこが終点の辰川バス停だった。バスを停めるには狭いし傾いているし、転回するのも大変そうだが、そこがいい。狭い道は迷路への期待を高めてくれる。
辰川バス停は『この世界の片隅に』にも登場する
(急坂で木炭バスが上がれず、すずさんたちは途中から徒歩で上った)。
道幅いっぱい使って何とか右折し、停車するバス。
まず向かったのは、呉を舞台にした大ヒット映画『この世界の片隅に』の原作者こうの史代さんの祖母が住んでいた家の跡地。今は「すずさん家(がた)」という愛称で、映画にまつわるスポットとして整備されている。
このあたりは相当標高が高いが、そのことから、呉の街が戦前から平地に収まりきらないほど、広範囲に広がっていたことがわかる。なかでもこの一帯は、幾筋かの街道が斜面に沿って上下方向に走り、それを扇の骨のようにして宅地が発達している。
「映画ではこのあたりの道で機銃掃射に遭ってますが、あれは本当にあったことです」
と竹本さんが教えてくれた。ここは軍港から結構離れていて、民間人しか通っていなかったと思うのだが、戦争中はそんな場所もいっしょくたに攻撃されたのだった。現在ののどかな道を見ていると、かえって戦争の恐ろしさが生々しく想起されるようだった。
と、不意に竹本さんが細い路地に曲がり、住宅と住宅の間へ入っていく。きたきた! さっそくの細道だ。とさっそく盛り上がったわけだけども、幾度か曲がると、やがて隣を走る街道に出て路地終了。数本の道が平行して走っているため、しばらく歩くと見通しのいい道に出てしまうのだ。その都度方向が分かってしまうのは、自分がどっちを向いているのかわからなくなりたい身には少し残念であった。

メインの坂道のあいだを細いうねうねした脇道がいくつも通っている。
歩いているとあちこちで視界が開け、呉の市街地を見下ろすことができた。大槻さんはみるみる機嫌がよくなり、
「地形が斜めになってるときの、自分が飛び込んでいくような錯覚が好きです」と言う。よく趣味で山に行くのはそれを味わうのが目的だそうだ。私も高いところは好きだが、飛び込んでいこうとは思わない。
「落ちるとは思わないんですか」
「全然思いません。魂が入り込む感じがワクワクします」
「じゃあ、バンジージャンプとか好きなんじゃないですか」と訊くと、それは嫌という。大槻さんの性格にはいまだ謎が多い。
途中、鉄管道路という道を通った。竹本さんによると、これは近くの浄水場へ水を運ぶための水道管を埋設し、その上に通した道路で、斜面を横切るように約4キロ続いているそう。途中で尾根筋を貫いているので、その部分は長い階段を上がって下りる必要がある。西教寺というお寺の裏門から、宮地嶽神社まで169段上り、そこから安楽寺というお寺の裏まで174段下がるのだと教えてくれた。
われわれは階段は使わず、その尾根を下から迂回して体力を温存した。このあたりの道はいい感じに錯綜しており、高低差も結構あるので暮らすのは大変かもしれないが、迷路歩きとしては充実したゾーンだ。
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鉄管道路を通るには、尾根筋を貫く階段(中央)を上って降りなければならない。
かなり大変なので迂回した。
竹本さんは、地図も見ないのに、迷うことなくスタスタ歩いていく。本人によれば、呉の街はほぼすべて歩いているから、全部わかっているとのこと。
さすが生き字引と呼ばれているだけある。いただいた資料を見ても、土地の歴史や地元の功労者について非常に詳細に記されていて、その膨大な量の情報は読んでもとても覚えられない。寺社の造営から、碑石の由来、さらには地元の名手を八代にわたって生年まで詳述してあるほどである。街のすべてが調べ尽くされているのだ。
そんな郷土史家と言っても過言ではない方に、迷路みたいな道を歩きたいんです、と子どもみたいなお願いを打診した自分が恥ずかしくなるぐらいである。私もいい歳であり、歳をとればとるほど、子どもじみたことをしゃあしゃあと言えるようになるもので、ここにきて恥の感性が摩耗してきたのは便利といえば便利なことであった。
ところで、歩きながらわかってきたのは、呉の街は全体が市街地を底としたお椀のような地形で、川や道路が底に向かってほぼ直線的に通じているため、上下方向に迷うことは少ないということだ。逆に横方向つまりお椀の縁を周回するような方向に移動しようとすると、道が錯綜しはじめる。言ってみれば扇の骨を使ったあみだくじのような構造になっているのだ。
さらに、道自体はそこそこ幅があるため明るく、広く景色が見下ろせる場面も多くて、先日行った豊島の小野浦みたいに方向感覚が完全に失われることがない。その点、迷路としては物足りなさもあるものの、逆に面白いのは、そのあみだくじが延々とどこまでも続いていることである。呉市街の海に面した南側を除き、西北東側の3面がぐるりとあみだくじなのだ。
さらに愉快なのは、斜面に対して横方向に移動するというと、ずっと同じ標高をトラバースしていくイメージだが、そうはならず、鉄管道路のように小さな尾根や谷をいくつも越えることになって、横移動しながら上下動を余儀なくされる点だ。そのため、あちこちで階段に出会う。階段の多さは生活上は大変でも、迷路としては価値が高い。
県道174号線に出る手前に、味わいのある抜け道のような細い路地があり、そこから交差点に出たところで、向かい側にそそる階段が見えて、ワクワクした。上ってみたいと思ったが、竹本さんはまた違う道をぶいぶい進んでいく。

交差点の向かいに現れたこんもりした丘と細い階段。
ああ、そうなのである。呉のあみだくじ迷路は、広大すぎて、ワクワクしたからといっていちいち立ち寄っていたら、時間が足りないのだ。
広大なすり鉢状斜面のあちこちに、そそる細道が断片的に待ち構えているため、迷路を巡ろうとすると、一か所で集中して迷うというより、小さな断片的迷路を繋いでいくような散歩にならざるを得ない。呉は本来、もっと時間をかけてひとつひとつの迷路の断片を噛んで味わうように歩くべき街だった。
ここで思うのは、なぜ呉の街はこのような形に発展したのか、ということだ。
竹本さんに尋ねてみると、もともとは雑木林が広がっていたところに、海軍工廠ができて発展した街であり、海軍が来たために宅地がなくなり、埋め立て地を作って家を建てろと言われたが、それなら山のほうに住もうということになったらしい。この海軍工廠、当時は東洋一の造船所だったそうで、戦艦大和が建造されたことは有名だ。
だがそれだけで街があみだくじ状になるわけではない。同じように軍港から発展した迷路の街、横須賀はそうはなっていない。
どちらも一気に人口が増えたことで街が迷路した点は同じだ。その人口を支えるだけの平地が足りず、山を宅地開発したため迷路化した。平地がたまたま少なかったのではなく、船を隠す、もしくは、良質な入江を求めて、平地の少ない場所を選んだのだろう。大きな戦艦が接岸するには水深が必要であり、遠浅の海では無理となると、陸地側の地形もそれなりに急峻な場所を選ばざるを得ない。さらに山に囲まれた地形で戦艦を敵の眼から隠す必要もあったかもしれない。そうして、その結果として街が斜面に展開した。

斜面の上のほうには、昭和初期の海軍関係者の邸宅だったらしい、
石垣と装飾的な赤レンガ壁をもつ和洋折衷住宅がぽつぽつ残っている。
横須賀の野放図な迷路に比べて、呉が比較的全貌を把握しやすいあみだくじ型になったのは、横須賀が海岸線と並行に凸凹な断崖が続く地形だったのに対し、呉は地形がすり鉢状だったためと推察できる。しかも、そのすり鉢がそこまで急斜面ではなく、まっすぐ道を通せる程度の傾斜であった。
つまり、比較的緩いすりばち地形が、あみだくじ状迷路の街を作ったというのが、私の見立てである。
竹本さんの迷路散策コースは海軍墓地で終了となった。駆逐艦や巡洋艦、潜水艦ごとに碑が立っていて、それぞれに人のストーリーがあり、痛ましい歴史があるようだった。竹本さんから、第17駆逐隊の駆逐艦「雪風」が終戦まで無傷だった話や、軽巡洋艦「矢矧」の乗組員がシンガポールで上陸したためスペイン風邪に罹患し、48名も死者が出た話などを聞く。戦艦大和の戦死者の碑もあった。戦争の記憶が今も生々しく残っている街なのであった。
迷路探索を終えた後、もっと案内したい場所がたくさんある、と竹本さんがこぼしておられたのがよくわかる。呉の迷路は無数の断片となって、市街地の周囲に散らばっており、そのすべてを短時間で見て回るのは不可能なのだ。地図で見ると、今回歩ききれなかったすりばち北西側の内神町や、南東側の和庄方面にも、うにゃうにゃした味わい深そうな街路が見てとれた。
それだけではない。西側には、呉名物「両城の二百階段」もある。
昼食のあと、その二百階段も見に行った。平地からものすごい急峻な角度で台地が立ち上がって、そこにいくつもの階段がかかっているのが遠くから見えた。緩やかな斜面の多かった北側とずいぶん違う。「二百階段」のほかに「百階段」もあり、石段の細道が空へと続いていて、どれも見応えのある階段だった。時間がなく登れなかったのが残念だ。これこそ呉に来たら真っ先に登るべき階段だったかもしれない。機会あればいつか呉の全階段を制覇してみたいと思ったのである。

見上げるとそそり立つ垂直の壁のように見えるが階段なのである(右上の部分)。
要塞みたいでかっこいい。

何筋も階段が続く。
このあたりは古い住宅が密集してひな壇状に並んでおり、「階段住宅」と呼ばれている。
「くれ・ひと・まち情報応援団」の方々の案内で、迷路道の概要を歩くことができたが、いかんせん半日で回るには呉の街は広すぎた。途中いくつも分け入ってみたい道があり、心の中で再訪を誓ったのだった。


