Vol.1 石ころを投げる時、どこかを狙い始めたら「ゲーム」?
アーティストでゲームデザイナー
はじめまして。アーティスト・ゲームデザイナーのアランといいます。アーティストといっても音楽ではなく、日本語で言うところの美術の作家です。どんな作品を作っているかというと、トレーディングカードゲーム、そのサプライ(よりゲームをスムーズに遊ぶための付属道具)や周辺文化をモチーフにしたものや、駒と盤やカードなどを用いたオリジナルのゲームなどで、ほとんどがゲームにまつわるものです。またゲームデザイナーでもありますのでアートの方で発表したゲーム作品を商業用ボードゲームとして調整し、アートという文脈の外で販売することもしています。つまり最近よくある「ゲームをテーマにしたアート作品」を作っているアーティストともちょっと違う人間です。なぜそういう活動をしているのか、もしくは、自作についてはまたこの連載のどこかで触れたいと思います。
アブストラクト(抽象化)ゲーム《Zombie Master》はオセロを仮想敵として設計したアランの一作目。
相手の駒(ゾンビ)の動きによって、自身の駒の動きが影響・制限される。
ここでは「ゲームとは人間にとってなんなのか?」をはじめ、ゲームから派生した文化などについて書いていく予定です。「ゲームオタクが好きそうな内容かな」と思うかもしれませんが、特定のゲームについて細かく見ていくことはしない予定です。今回は第一回ですので読者のみなさんが「ゲームという概念をどのように捉えると今後の連載に接続し易くなるだろうか」ということを考えながら書いていきます。
「いたずら」と「ゲーム」の境目
まず、ゲームというものがどういうものを指すのかを読者の方と共有します。ただし、ここではゲームを定義するつもりはまだありません。「ほんとかよ」と思いながら読んでもらえればと思います。「ゲーム」と近い言葉は日本語にもいくつかあります。「遊戯」「賭博」「競技」大まかに分類するとこの3つくらいに分かれるかと思います。ただしこれらはゲームを利用した活動であってゲームそのものではないです。
スマートフォンのアプリゲーム、ニンテンドーSwitchやプレイステーションなどのビデオゲームなんかがゲームと聞いて真っ先に思いつく人が多いでしょうか?もちろんこれらはゲームです。それとあまりピンと来ないかもしれませんが、囲碁や将棋もゲームです。野球やサッカーのようなスポーツと呼ばれているものもゲームです。二人や二つ以上のチームで競うとゲームっぽい感じですが、ビデオゲームなどには一人用のものもあるので人数ではゲームかゲームでないかは判断できなさそうです。
カードゲームの始祖「Magic: The Gathering」のデッキをモチーフにした《Ad Storm/ANT》2015 /アラン
トレーディングカードの世界では、ゲーム内での「カード本体の強さ」と外から見た「カードのレア度」のバランスによって値段が決まる。需要量が増えた時に価値が上がるアート市場との類似性に着目した作品。
今度はどこからゲームになるのか考えてみます。例えば人が一人で走るとします。これだとゲームではなさそうに感じますが、走る距離を100mに決めてタイムを計ればちょっとゲームっぽく感じます。次は落ちている石ころを拾って投げてみます。これだといたずらみたいなものですが、その辺の電柱や空き缶なんかを狙い始めるとゲームっぽくなります。料理はどうでしょう。200円以内で何品作れるか、食べられそうにない見た目の珍しい魚をどうおいしく調理するか、ピーマン嫌いの子どもにバレずに食べてもらえるか。そんなことを考え始めるとちょっとゲームっぽいですね。
このままいくとなんでもかんでもゲームにしてしまうかもしれないのでここまでにしておきますが、ゲームというものがぼんやりと見えてきました。とりあえず「終わるまで達成できるかどうかが決まっていない、何かしらの目的が設定されているがやらなくても特に問題ない活動」といえそうです。もちろんまだまだ穴だらけで大きすぎる器ですが、この連載ではひとまずゲームをそういうものとして始めます。
ゲームは何をするものか、ゲームで何をするのかを分解した《ゲームのベクトル ver.20190324》2019/アラン
なぜ人はゲームをするのか
ゲームというものが少しづつ見えてきたような気がしますが、ここからはなぜ人はゲームをするのかを考えていきます。もちろんこちらもすぐに答えがわかるとは思えないので、少しづつ進みましょう。
ゲームは一般的には衣食住のように生きていくためや社会生活のために絶対に欠かせないものというわけではありませんし、お金を稼ぐ唯一の手段でもありません。ゲームなんか無くても困った状況に陥ったりはしなさそうです。むしろゲームなんてものがあるから困った状況に陥っている人も居るような気がします。例えば、マリオのステージを何回やってもクリアできないとか、アプリゲームのガチャでほしいレアが全くでないとか、プロのスポーツ選手になったはいいが全く活躍できずにいつもブーイングを浴びるとか、わざわざゲームをすることによってストレスをもらいに行くこともあります。また、ゲームにのめりこみすぎることで、生活を犠牲にしたり家族に負担を強いる人もいるかもしれません。このようなケースではゲームによって不利益を被っていると言えそうですが、逆に言えば、そうまでしてゲームがしたい人も少なくはないということでしょう。
なぜ人がゲームをするのかまだ答え出ませんが、少なくとも生存のためとは言えなさそうですし、必ずしも楽しいからとか幸せのためというわけでもなさそうです。これはこの連載で引き続き考えていきましょう。
《Magic: The Gatheringを通したアーケオロジーへのアプローチ》(2016〜 )を背に《投入堂のある台座》(2017)の上でプレイされる《Zombie Master》(2017) /アラン ―「パープルーム大学 尖端から末端のファンタジア」展より 歴史的建造物をモチーフにしたオブジェは人を惹きつけるが、その上でひとたびゲームが始まれば、人は作品よりゲーム内のやりとりに意識が向いてしまう。
このような感じでこの連載では人間とゲームとその周辺文化、もしかすると思想や哲学みたいなものにも手を出したりしながらあれこれ考えていきます。別にそんなことしなくても生活することやゲームを楽しくプレイすることに何の支障もありません。むしろ余計なことを考えてしまうようになったりして支障をきたすこともあるかもしれませんが、が、ぼくはこのように「ゲームと人間」について考えることはとても面白く、新しい価値を生み出すことができそうな営みだと考えていて、もっと多くの人が同じようにゲームについて考えれば世界を変えることができると思っています。(全人類がゲームのことばかり考えていたら滅ぶかもしれませんが)
それでは次回は「コミュニケーション」について考えていこうと思います。よろしく。