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しなくてもいいことしかすることがないーヒトとゲーム

Vol.6 それでも人は机を囲んでゲームをする

間が空いてしまいましたが「しなくてもいいことしかすることがない」第6回です。今回は「現実空間で、対面でゲームをするというのはどういうことなのか」を考えていこうと思います。

電子漫画の世界観をボードゲームで現実空間に

もともとこの話は、漫画家の西島大介さんからボードゲーム製作の依頼が来たことがきっかけで書こうと思ったことでした。西島さんとはアートの活動でご一緒することがありました。僕が参加しているパープルームという美術運動体の展覧会で絵画作品を出品してもらったり、パープルームの歌を作ってもらったりしています。その後の交流もありつつ、西島さんがこの連載を読んで僕の考えに興味を持ったとのことでした。

その依頼というのが少し複雑なので簡単にまとめると、西島さんが文化庁の『メディア芸術クリエイター育成支援事業』というプログラムで電子書籍専門レーベル『島島』を作るということになりましたが、西島さんは「実際の本だと回し読みや貸し借りができるけど、電子書籍だととても個人的な読書体験になってしまう。さらに、本なら書店の空間を使うことができるけど、電子書籍だとそれができないから何らかの方法で現実空間を埋めたい。」と考えたようです。そこで『世界の終わりの魔法使い』という漫画をもとにボードゲームを作れないか?という依頼が僕のところに来ました。「最近はボードゲームを扱っている書店もあるし、本ではない、空間への干渉の仕方もいいかもしれない。」という感じでした。詳細は西島さんも発信しているので、より詳しく知りたい方はそちらもご覧ください。

そして実際にボードゲームを作ることになり、共通の取引先でもあったワタリウム美術館のミュージアムショップ「オン・サンデーズ」でボードゲーム喫茶を模した展覧会『影の魔法と魔物たち』をすることにもなりました。もともと3/13〜4/15の会期で、ボードゲーム『影の魔法と魔物たち』の発売も4/25の予定でした。しかし、今現在も社会に影響を与え続けている新型コロナウイルス(COVID-19)によって予定が大きく狂うことになりました。

幸い、ワタリウム美術館は私設美術館なので東京の他の美術館が全て休館している間も工夫をしながら開館してくれて、ボードゲーム喫茶風展覧会も継続できました。

事実としての出来事はこのような感じです。

新作ゲーム《影の魔法と魔物たち》西島大介+アラン
西島大介の漫画『世界の終りの魔法使い』の世界観をゲームで再現し、原作の荒廃した様子や魔法の有用さとやりすぎた場合の取り返しのつかなさを体験しながら遊ぶことができる。ワタリウム美術館地下のカフェスペースでボードゲームカフェを模した展示を行った。




いまやゲームといえばオンライン対戦

ここからが本題ですが、今はコンピュータゲームではオンラインでの対戦や交流が一般的ですし、何を基準に計るかにもよりますが、遊ばれている頻度はネット環境を必要としないオフラインよりも、オンラインの方が上回っているように思います

具体例を挙げると「ポケットモンスター」ではストーリーをクリアして遊び終わる人よりも、オンライン対戦で見知らぬポケモントレーナーと手持ちを変えながら延々と対戦を繰り返す人の方が多いと思います。他にも「ストリートファイター」などでは、コンピュータとの対戦とオンライン対戦ではプレイ回数が天と地ほどの差があると思います。ボードゲームにおいても、「カタン」などいくつかのメジャーなゲームはオンラインで遊ぶことができるサービスもあるようで、対戦相手や遊び場を探すことは年々楽になってきていると思います。

1ゲームのプレイ時間が短いオンライン対戦はストレス無くマッチングすることが重要なので、一部の例外を除いて誰と対戦するかはほとんど関係無く、とにかくマッチングのしやすさを重視したシステムで運営されていることが多いと思います。

一方で、FPS(ファーストパーソン・シューティングゲーム)などのプレイヤー間のコミュニケーションが勝敗に大きく関わる、チームプレイを必要とするゲームでは知り合い同士や特定のリーダーのもとで、ある程度コミュニティを作ってプレイされることもあります。

これを踏まえて現実空間で行われるゲームも見てみると、トレーディングカードゲームではカードショップでの小規模イベントから販売元による大規模イベントまで大小様々な遊ぶ機会が用意されていて、対戦はプレイヤーの意志が介入されることなく自動的にマッチングされています。つまり、誰かと対戦するための場所や機会をプレイヤーが自分で用意しなくても良いという点で、オンラインでのゲームプレイと大きな差はありません。そして運営主導のイベントだけでなく、プレイヤーたちがコミュニティを作って自分たちでイベントを企画、運営する例も少なくありません。しかもコミュニティの作り方は現実空間で会うだけではなく、SNSなどを通したものの方が多いかもしれません。

ボードゲームでは、トレーディングカードゲームほどではないにしてもボードゲームカフェの登場・普及によって、1人でフラッと立ち寄って知らない人と遊ぶことも不可能ではありませんし、積極的にそのスタイルで足を運ぶ人もいます。行きつけのお店で自動的にコミュニティが形成されて、次第に目標(次に遊ぶゲームなど)がそのコミュニティ内で共有されるなんて場合もあります。

そう考えるとプレイの頻度・機会・気軽さにはまだまだ差はあれど、マッチングシステムやインフラ整備という観点では、現実空間で行われるカードゲームやボードゲームも、オンラインの対人ゲームと大きな差は無いと思われます。

元々、雀荘や碁会所といった特定のゲームをするための場はありましたが、現実空間の様々なゲームは、近くにいる友達などと遊ぶものからいろんな人と遊ぶものへ。コンピュータのゲームもコンピュータと戦うものや、同じ画面を見ながら隣の人と遊ぶものからオンラインでいろんな人と遊ぶものへと変わってきています。発展の方向としては「人と遊ぶ確実性を高める」という同じ方を向いていると思いますし、それぞれ自分に無いもの(現実空間のゲームは気軽さ、オンラインのゲームは親密さ)を取り入れていこうとしているように思います。

それでも人はわざわざ移動して人を揃えてゲームをする

しかし、現実空間で行うゲームとオンラインで行うゲームの間には感覚的には大きな差があるということは否定できないと思います。もちろん、物体のやり取りなのかデータのやり取りなのかという違いはあります。ただ、今回はそれを置いておいて、別の要素から2つの違いを考えていきます。

先程、プレイの頻度・機会・気軽さに差があると書きましたが、これらが鍵になると考えています。言うまでもなく、一般的にオンラインの方がその3点においてボードゲームよりもハードルが低いと思います。ネット環境さえ整っていればどこからでもアクセスできて、営業時間も無いので場をそのために用意する必要もありませんし、遊び相手が物理的にその場に居なくてもネットなら誰かしら居るだろうと期待できるので相手を探す必要もありません。そして今の相手が満足してゲームを終えたとしても、続けたいならば別のプレイヤーがまた相手をしてくれるので、満足するまでゲームを続けることができます。

しかし、だからこそ現実空間のゲーム体験の方が「レアな体験として価値を持つのではないか」というのが僕の仮説です。価値とは何なのかという問いも発生しますが、ここでは「プレイヤーが1プレイのためにかけるコスト」とすることにします。1プレイのためのコストが大きくなればなるほどそれをプレイする難易度も高くなります。

具体例を挙げてレアリティと難易度を説明すると、「家のおじいちゃんとする将棋」と「タイトルマッチの将棋」はどちらも将棋の1プレイですが、それをプレイできる人の数には大きな差があります。当然タイトルマッチの方がレアな体験となります。そして一部のプレイヤーはそのレアリティの高いゲームをするため(かどうかはわかりませんが)鍛錬をしていると考えられます。

一般のプレイヤーでも場の用意、日程の調整、プレイヤーの確保が難しいほど、レアな体験を作ることができると考えられます。例えば「富士山頂」で「大晦日の夜」に「プロを招待して」ゲームをするとなるとかなりレアなことがわかると思います。プレイヤー視点で見た場合でも、いつも遊んでいる友達や家族ではない人と楽しく遊べそうな機会があれば遊ぼうと思うのではないかと思います。これを端的な言葉で表現すると「特別な体験をしたい」ということだと思います。無数に行われるゲームの中の1つではなく、今日この場でこのメンバーでしかできなかったゲームだと思いたい。ということです。そしてそのレアリティはオンラインよりもプレイ回数が少なくなりがちなリアルだとさらに高まります。ここでは実際にそうなのかどうかは問題ではなく、そのプレイヤーたちの気持ちとその共有が重要だと考えられます。

新型コロナウイルス感染拡大防止の施策としてワタリウム美術館は予約制で営業。その状況下でもわずかながら遊びに来てくれる人がいた。展示を見た後、コーヒーなどを飲みながらゲームで遊べたのだが、2人用ゲームなので実際に遊んだ人がどれくらいいたのかは不明。

ゲームを行う難易度やそのプレイのレアリティが高ければ、気持ちの入ったゲームになりやすく、1ゲームに対する満足度が高くなるというのが、僕が考える「現実空間で人とゲームをする意義」であり、プレイヤーは意義を高めるために努力をするのだということです。

ただ、ここで補足しなければならないのが、オンラインのゲームプレイは“コモン”で“イージー”なのかというと必ずしもそうではないということです。現代では動画配信サイトでの「ゲーム実況」という文化が根付いています。その配信で、リアルタイムで困難なミッションを成し遂げるなど、プレイヤー(配信者)にとっても視聴者にとっても特別な体験を作り出すことは可能です。そして配信者はその特別な体験を作り出すことがエンターテイメントだと考え、ゲーム実況に工夫を凝らしているのだと思われます。

結論としては、オンラインで行うゲームよりも現実空間で行うゲームの方が特別な体験をしやすいが、現実空間でのゲームにしてもオンラインでのゲームにしても、コストをかけ、特別な体験を作り出そうとすればそれを実現することは可能ということです。つまり、現実空間でゲームをするということは、むしろ「手軽に特別な体験をする」ということなのです。

もう一つ補足すると、オンラインのゲームではそのゲームをプレイしたい人しかプレイしませんが、現実空間のゲームでは、そのつもりが無かった人も人数合わせやなんとなくでプレイする可能性があります。その人にとっては初めての体験だったり、一生に一度の体験かもしれません。

ゲームを遊んで特別な体験をする

ここから先はまた考えたいと思う仮説ですが、ゲームとは「特別な体験をするための装置」であり、その体験が特別でなくなるか、その期待が持てなくなったことを「ゲームに飽きる」と言うのではないでしょうか。そしてプレイの頻度が高くやや気軽さのあるコンピュータゲームは飽きられやすいために進化し続けているのではないか。そして飽きられもせずずっと遊ばれている一部のボードゲームは進化の必要を見出しておらず、同じ形を保ち続けているのかもしれません。トランプを使ったゲームのルールも多くが昔からほとんど変わっていませんよね。

今もまだ新型コロナウイルス感染拡大防止のために「遊び場」を奪われたままの人が多く、緊急事態宣言は解除されたものの、もはや日常となってしまった退屈な日々に我慢できなくなってきた人もいると思います。自粛によって非日常的体験を制限された人はゲームに特別な体験を求めたのではないでしょうか?実際に、ニンテンドーSwitchが品薄になったりもしました。

しばらくはオンラインのゲームで十分満足できるかもしれませんが、逆にそれしか満足できる体験が無いとなると今度はそれが普通のこととして刺激の無い体験になってしまうかもしれません。自粛しなくても良い世界が戻ってくることが何よりですが、この縛りの中でどのように特別な体験を作り出すのかを工夫していくことも必要になるのかもしれません。

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著者略歴

  1. アラン(三浦阿藍)

    1991年鳥取生まれ。アーティスト/ゲームデザイナー、美術コミューン・パープルーム予備校生。建築士である永禮尊大と、ゲーム制作チーム「Arquetendu(アーケタンデュ)」を結成。ゲームデザイナーとしてボードゲームを販売する一方、ゲームをテーマにした美術作品を制作。昨年は、コミュニケーションをテーマにしたボードゲーム作品≪コムニカチオ≫を来場者が実際に体験できる初の個展「communicatio - コムニカチオ(TAV GALLERY/東京)」が話題に。

    ⓒPhoto by KO-TA SHOUJI

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