朝日出版社ウェブマガジン

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しなくてもいいことしかすることがないーヒトとゲーム

Vol.7 ゲームとプレイヤーの主従関係

つい最近ちょっと衝撃的な事件があったようで、今回はその事件を知って考えたことを書いていきます。ネットニュースでたまたま見かけたのですが、詳細は何もわからないのでこの事件自体を取り上げるわけではありません。

簡単にどんな事件か説明すると、ボードゲームが趣味の男性がボードゲームの購入費や生活費のための借金を200万円以上していて、妻にそのことがバレて非難されたことをきっかけに殺害、死体遺棄してしまったというものです。

プレイヤーの中での自分の座標が昔より明確に

過去の連載でも近いことを書いてきていますが、ゲームは目の前や隣にいる人と遊ぶものから、どこの誰とでも遊べるように進化し、さらにはプレイヤーによって遊び方が工夫されるようになってきています。その結果、どこの誰がゲームで良い成績をあげているかまでは分からなくとも、そのゲームにおける自分のプレイヤーの中での立ち位置がある程度わかるようになってきています。それは具体的な数字で自分の立ち位置がわかる場合だけでなく、他のプレイヤーやイベント主催者が発信する全体のプレイ傾向の情報などによって、相対的な位置を想像することも可能です。

加えて、ゲーム自体や、ゲームに使う道具やデータにコレクション要素がある場合も少なくないです。単なる成績だけでなく、自分のコレクションや遊びっぷりがそのゲームコミュニティ内でどの程度の位置にあるかも想像することができ、ゲームの巧拙よりも、そちらを気にするプレイヤーやコレクターも間違いなくいます。例えば、囲碁や将棋では脚付きの碁盤、将棋盤でプレイしたい人はいるでしょうし、チェスなんかでも職人が作った駒にこだわる人もいます。100円ショップのものでも同じように遊ぶことはできますが、たいていはできる事ならより良い道具を使いたいことでしょう。

ポケモンカードや遊戯王カードをはじめとした国産トレーディングカードゲームでは、カードの内容が同じでも、イラストやカードの加工が豪華なものが用意されている場合があります。こちらも別に、簡素なものを使おうが、豪華なものを使おうがゲームそのものには何の影響もありませんが、プレイヤーの中には豪華で高額なカードで固めたデッキで対戦したがる人も多いです。カード以外にも、カードを保護するスリーブ、プレイしやすくするマット、カードをしまうデッキケースなど、こだわろうとすればどこまでもこだわることができます。これらのこだわりによって尊敬されるかどうかはわかりませんが、少なくとも「自分はこんなに入れ込んでいるぞ」というアピールにはなりますし、それら道具の良さが相手に伝わると嬉しくなり会話がはずんだりするものです。それ自体は悪いことではなく、そのタイトルは多様な楽しみ方ができるゲームコンテンツと考えることができるので、むしろ良いことなのだと思っています。

筆者のコレクションの遊戯王カード〈青眼の白龍〉
左から拡張パック「Spel of Mask ―仮面の呪縛―」のアルティメットレア(稀少カード)、「青眼の白龍伝説 -LEGEND OF BLUE EYES WHITE DRAGON―」Ver.、遊戯王オフィシャルカードゲームの初めての商品「STARTER BOX」Ver.。どれもゲームへの影響は同じだが、取引されている金額は天と地の差がある。ちなみに、さらに比べ物にならないほど貴重な青眼の白龍もある。

実際、今は自分がプレイヤーとしてゲームを楽しむだけではなく、YouTubeなどのゲーム実況で楽しんでいるプレイヤーを鑑賞するという楽しみ方も一般的になりつつあります。それを見て「自分も同じように楽しみたい」と思う人もいれば、他人のプレイを見るだけでも十分ゲームを楽しめていると満足する人も一定数いて、そのような動画はゲームコンテンツの盛り上がりに一役買っていることは否定できないと思います。

ゲームをたくさん持っているだけのスネ夫はもうたいしたことない

いろいろ書きましたが、ここで伝えたいことはつまり、「クラスで一番ゲームが上手いやつ」(出木杉)とか「いろんなゲームを持ってる金持ち」(スネ夫)といった狭い組織内での優位性は限りなく無力化されていて、大抵の物事は世界基準で語られるようになったということです。

言い換えると「井の中の蛙はもはや存在していない」という感じです。

「上には上がいる」なんて言葉があるように、ゲームの上手さ(プレイ時間/テクニック)やコレクションの豊かさ(資産/富)でより上を目指そうとすればいくらでも目指すことができます。それ自体は問題ないですが、「身の程知らず」という言葉があるように、世界のどこかにいる一流のプレイヤーやコレクターの真似をして、無茶な買い物や生活を破綻させるほどゲーム漬けの暮らしをすると、冒頭のニュースを思い出してみても大抵良いことは無いです。

ですが難しいのは、ゲームは人と競う要素があり、それこそがゲームを頑張る動機の大部分を占めるということです。面白いゲームや魅力的なゲーム、そのアイテムには人をのめり込ませるだけの力を持っていると思います。なかにはその力になす術もなく沼に沈んでいくだけの人もいるでしょう。それは仕方がないことかもしれません。

ゲームが原因で身を滅ぼす事例はたまにあります。トレーディングカードゲームの偽造カードを作って捕まるとか、カードショップに盗みに入るとか、ギャンブル依存症みたいになるとか、単に買い過ぎるとか、そんな事件や話をSNS上でたまに見かけます。

ゲームを作る立場からすると、そんなにのめり込んでくれる人がいて羨ましいと思う一方で、自分のゲームが原因で破滅する人を見たくないとも思います。

ゲームは道具であり、目的ではない

思ったことばかり書いても仕方がないので、どうしていけば良いのかも考えています。

このような事態になる原因の一つは「提示されたゲーム」にそのまま入り込むからだと思います。といっても、本来は純粋に楽しんでもらって問題無いんですが、それは大人に管理され、経済的にすぐ限界がくる子どもだったらばの話です。ゲームには必ず作った人や組織がいます。そしてそのゲームを作った意図や狙いがあるはずです。純朴なところから具体例を挙げると、「楽しんでほしい」「盛り上がってほしい」とかから、大人の事情で言うと「3人用のゲームはあまりないから意外と需要があるんじゃないか」「小中学生を取り込みたい」「こういうゲームが今流行ってるから同系統のを作ろう」「追加コンテンツをバンバン出して課金してもらおう」や「新しいシステムを使わないと勝てないようにしてみんなに買ってもらおう」とか、いろんな意図が考えられます。さらにゲームの制作に複数人が関わっていた場合はこのような意図が複雑に絡み合って一つのゲームができていると思われます。

プレイヤーにはこれらの制作者の裏の意図を読み取る必要は全くありませんが、仮に製作者たちの思い通りに自分はまんまとゲームをプレイさせられているとしたらどうでしょうか?そう言われるとなんとなく嫌な気がすると思います。ゲームも道具である以上、製作者にはその道具を作る目的があります。その目的が楽しんでもらうことを中心にしていればプレイヤー的にはありがたいのですが、上に挙げたように金儲けなどプレイヤーから搾り取ることを目的にしている可能性もあるわけです。その結果、多くのプレイヤーに喜ばれていれば問題はないかもしれませんが、プレイヤーが離れていく結果を生み出してしまうのなら、なんとか抵抗していかなければならなかったりします。

実はゲームは、同じゲームをプレイしている相手だけが対戦相手なのではなく、少し視野のレイヤーをずらすと、いろんな対戦相手や協力プレイを想定できるのです。デザイナーは楽しんでもらえることが勝利であり、販売者は売れることが勝利、プレイヤーは楽しむことが勝利だったり、自分の好きなゲームをみんながやってくれることが勝利だったりするわけです。

例えば、プレイヤーはデザイナーによるゲームの改悪(と思われる変更)を受け入れられないのであれば、それを無視して遊び続けることも可能な場合があります。そしてその遊び方が多くのプレイヤーに受け入れられたとしたらどうでしょう?あまり無いことですが、もしかしたらデザイナーにとっても無視できない存在になるかもしれません。

少し昔の話になりますが、遊戯王オフィシャルカードゲームで「04環境」という遊び方が流行ったことがありました。遊戯王の2004年ごろ流行していたデッキを調整したもの2つを用意してミラーマッチ(同じタイプのデッキ同士での対戦)をするという遊び方です。

マジック・ザ・ギャザリングでも大手ショップによって「フロンティア」という非公式フォーマットが作られました。スタンダードという最新の2年間分のカードが使えるプレイ人口の多いフォーマットと、モダンという2003年のカードデザインが一新された頃から最新のセットまでのすべてが使えるフォーマットの中間として、フロンティアは作られました。というのも、スタンダードは古くなってしまったカードが使えないし、モダンでは古いカードが高くなりすぎてなかなか始められないという問題があり、それを解決するフォーマットとして考案されました。フロンティアがどれくらい人気だったか詳しく知りませんが、のちに公式で「パイオニア」というフロンティアに近いフォーマットが制定されました。

 
五目並べ(左)と囲碁(右)
多くの人が知っていると思われる五目並べ(連珠)は囲碁の道具を用いて行うゲーム。囲碁に不満があって生み出されたのかどうかは不明だが、五目並べは囲碁と比較してルールが分かりやすく子どもでもほとんど問題なく遊ぶことができる。


遊びの「ルール」はプレイヤーの手で

話がそれましたが、「もの」のゲームを物理的に操れるのは目の前にいるプレイヤーでしかないのであれば、ルールはあくまでも「設定」なだけで、遊び方を自ら生み出すことも可能ということです。

今はゲームをしている多くの人がゲームを単に遊ぶだけで満足していたり、いくら遊んでも満足できずに遊び続けたりするわけですが、同時に、周りのプレイヤーたちがどのように遊んでいるのかがある程度わかる時代でもあります。誰かが考案した面白い遊び方やレギュレーションを真似して遊ぶことから始まり、実例が現れるにつれて選択肢も増えます。そしてそのようになれば一方的に与えられたゲームによって身を滅ぼす人も減るかもしれません。

ルールというものは従わされるためにあるのではなく、問題が起きにくいようにとりあえず設定されているものです。ルールのせいで問題が起きているのなら、そのルールを変える人や別のルールで活動できるような人が増えたりすると、面白いゲームに溢れた世界になるかもしれないと思います。しかし、自分でルールを変えたり、新しく作ったりすることはとても難しいので、みんなにやれと言っているのではありません。この世界にはゲームを作りたくて仕方がない人や、自分の考えたルールで誰かに遊んでもらいたくて仕方がない人というのが確実に存在しています。もし今やっているゲームについていくことを苦痛に感じ始めたのなら、無理についていくよりも新しいゲームを探してみる方が良いかもしれません。

最後に、ゲームは相手がいなくては成立しないことが多いものです。みんながみんな自分ルールで好き勝手し始めるということではなくどっぷりはまってしまう前にそのゲームは自分が乗れるゲームなのかどうか一度考え、自分が面白いと思ったゲームはどんどん周りに伝えて一緒に楽しめる仲間を増やしていくことが大切なのです。

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著者略歴

  1. アラン(三浦阿藍)

    1991年鳥取生まれ。アーティスト/ゲームデザイナー、美術コミューン・パープルーム予備校生。建築士である永禮尊大と、ゲーム制作チーム「Arquetendu(アーケタンデュ)」を結成。ゲームデザイナーとしてボードゲームを販売する一方、ゲームをテーマにした美術作品を制作。昨年は、コミュニケーションをテーマにしたボードゲーム作品≪コムニカチオ≫を来場者が実際に体験できる初の個展「communicatio - コムニカチオ(TAV GALLERY/東京)」が話題に。

    ⓒPhoto by KO-TA SHOUJI

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