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しなくてもいいことしかすることがないーヒトとゲーム

Vol.4 プレイされていない一手を打つ「現代アート」

今までゲームデザイナーとしてゲームについて書いてきましたが、僕の本業はアーティストになります。(ゲームデザインは僕の中の一種の表現であり、創作活動だと考えているので、別のことをしているという意識は無いですが、世間から見た業種としては別かなってイメージです)なので、今回は難解だといわれる現代アートについて、ゲーム的な視点で分析するとどうなるかを考えていきたいと思います。

人類にとって実用的でないのがアート

そもそもアートは人間が生存する上では全く実用的でないものです。作る人にとっても見る人にとってもそれは同じです。また、アートを知らないからといって普通は馬鹿にされることもありません。家電のように生活に便利さをもたらしてくれるものでもないですし、本やインターネットみたいに疑問を解決してくれるわけでもないです。

つまりアートは言ってしまえば役に立たないものです。(ただしアートの中には売れるものもあるので、お金を動かす役には立ちます)

かつてはアートがビジュアルで何かを伝えたり、考えを広めるためだったり、権力を誇示するためだったりと、明確に伝播の役割を持っていた時代もあります。具体的には解剖学やイコン、書物、家具装飾などでアートが用いられてきました。この時代のアーティストは言わば職人や科学者のようなものです。今ではアート自体はその役割を終えて、よりそれをするにふさわしい職人や科学者 や機械などに役割が移行しました。

《アムステルダムの織物商組合の見本調査官たち》1961/レンブラント・ファン・レイン
17世紀のオランダでは多くの商組合や市警が、役職者の記録と自身の権威を示すために、集団肖像画を画家に発注。現代の集合写真の役割を担っていた。

現代アートは最高の暇つぶし

とっくに役目を終えたアートがなぜ今でも続いているのかですが、僕が思うにそれは現代のアートが「ゲーム」であるからです。

現代は人類全体で狩猟や農耕をして、生存のために寿命のほとんどを費やす時代ではありません。また、災害や疫病で人類が全滅する時代でもありません。要するに、単純に生きるということのハードルが高い時代ではなくなりました。(今は今で生きるの大変だぞ!というツッコミがあるかもしれませんが……)そのため、ほとんどの人は死ぬまでの時間をもてあそんでいますが、その余分な時間を何に使うのかというのが人間にとっての永遠の命題になります。

余った時間を何もせずにダラダラして過ごす人もいるでしょうし、読書や筋トレに使う人もいるでしょうし、旅行などに使う人もいると思います。この余分な時間の使い道として存在するものの極め付けが「ゲーム」です。なぜかというと多くのゲームは、超えるべきハードルや達成すべき目標を次々と用意してくれたり、都度自分で設定することができるので、理論上無限に時間を費やすことができます。

同様に現代アートも、過去に作られてきた作品が何をクリアしていて何をまだクリアできていないかを探すゲームだと捉えると、取り組む課題を無限に用意することができるのです。

アートや美術と聞くと、美術館に展示されている印象派などの絵画や、神様などが描かれた宗教画、掛け軸や屏風に描かれた日本画などを思い浮かべる人も多いと思いますが、アートにはそのような古典だけでなく「現代アート」 というものが存在します。僕も現代人として現代アートをやっているわけですが、現代アートとは、上の例にあげた「美」を追求する既存の美術に対抗する形で生まれた、新たな概念や発想を提示する表現活動です。そのため、過去に先人たちによって何がなされてきたかという文脈を必ず読み解かなくてはいけない、一種の知性「ゲーム」なのです。  

その上鑑賞者にとっては、わざわざアートというメディアでの鑑賞活動をするということこそが余分な時間を使っていることになります。もし作者の考えや何かしらの 素晴らしい物事  がテキストに込められ、鑑賞者に伝われば、幾分かわかりやすく鑑賞できますが、それでは本末転倒なのです。程よく難解で考えがいがあればあるほど、アートは面白い時間を過ごす助けになるのです。

芸術作品は先人たちの棋譜

一見、芸術家やアーティストは自分の好きな表現を追求する自由奔放なものだと思われるかもしれませんが、みんながみんなのびのびと表現活動をしているわけではありません。「ゲーム」である現代アートには実は明文化されていない「ルール」があるのです。

先程、現代アートは「過去に作られてきた作品が何をクリアしたか巡るゲーム」だと書きましたが、つまりアーティストが作品を作る際には何かしらの目的があるはずなのです。例えば「肉眼で見たものをより正確に写しとる」「見た人にカタルシスをもたらす」「自分の快楽をぶつける」等、色々考えられます。それは過去のアーティストも同じで、アート作品はアーティストのプレイングを残したもの(棋譜)として現代に存在しています。現代アートはつまり、過去のプレイヤー(アーティスト)の棋譜から今までプレイされていない一手やより良い一手を読み解き、次なる一手を自分の作品に込めようとする活動だとも言えます。そして、アーティストは決して過去の人だけが対戦相手ではなく、同時代のアーティストとも競います。

同時代のアーティストとの競い合いでは「何をするのが最も有意義(と思われる)か」が外せません。これはつまり、現代の人々(アートに興味があるにしろないにしろ)がアートのどの辺りの人や作品や場所や時代などに興味を持っているか、もしくは持ち得るかを考え戦略を練るということです。例えば、1人のアーティストが自分で勝手に設定を作った世界のアートに興味を持ち、現実に存在しない文脈を受けて新しい作品を作っていたとしても、誰もその世界を観測できず理解する術が無いので、興味も持ちようがありません。さらに悪い例としては、自分のことが好きで自分についての作品を作る人がいるとします。ですが本人以外はその人にそれほど興味はないので、その人が作った作品にも興味を持つはずがありません(芸能人のようにもともと興味を持ってくれている人が大勢いるなら話は別ですが)。

簡単に言ってしまえば、アーティストの競技で重要なのはアート作品や活動の「テーマ」ということになりますが、僕はこれをプレイヤーが競技する「フィールド」と考えています。先ほど挙げた悪い例のように、自分の中だけで良し悪しが完結する競技のフィールドにはその本人しかいませんが、現実世界と結びついた競技においては、同じテーマを掲げるプレイヤーがフィールドに複数存在すると仮定できるからです。仮に独自のテーマが存在したとしても、一人で行われる競技は他人が観測することが不可能なので、近いテーマと統合するように自然と働きかけられます。なぜなら、アーティストは自分の作品や活動を認めてもらわなくては評価されないので、自分を近いものと同じジャンルに括りながら、その中で差異(強味)を示していくのが近道だからです。見る人にとってもその方が作品を理解する糸口が見つかるので都合が良いです。

僕が所属するパープルームの展示風景(2017、ワタリウム美術館「恋せよ乙女! パープルーム大学と梅津庸一の構想画」、Photo by Fuyumi Murata)この展示では、会期中メンバーは会場で生活をしていた。作品をアーティストの“キャラクターグッズ”と捉えていたりもするため、人前でのかしこまったアーティストの姿ではなく、普段の彼らの様子もパープルームはあえて開示している。

アートというゲームのルール

以上を踏まえて、現代アートという「ゲーム」の性質を僕なりに抽出してみました。

①アートは過去を受けての積み重ねによって成立し、
自分以外のアーティストがいなくなると終焉を迎えます。

②アーティストは自分がいるフィールドを明確にする必要があります。

③アート作品は何かしらの面白さを提供していなければなりません。

概ねこのようにまとめられるのではないかと思われます。

このままだとゲームとして機能しないため、ゲームのルールぽくなるようさらに言葉を少し変えてみます。

①プレイヤーは途中参加・途中退場自由であり、 プレイヤーは自分の手札をこれまでの盤面のどこかにBETし、残りプレイヤーが1人以下になるまで続きます。

②プレイヤーはゲームに参加するタイミングで自分の駒を盤上のどこかに見えるように置きます。
※他のプレイヤーがその駒を見ないのは自由です。

③プレイヤーは自分の手番で任意の対象に働きかけなくてはなりません。
※パスはX回まで

【補足】盤上にはNPC(not player character)もいます。 また、アーティストでないプレイヤーもいます。

このようになります。

ゲームのコンポーネントがあればなんとなく遊べなくもなさそうな感じになったのではないでしょうか?特に今から途中参加する場合、すでに他のプレイヤーによって作られたものが盤上にそれぞれ置いてあるはずなので、とりあえず始めやすいのは真似してみることからです。

アランオリジナルのゲーム《コムニカチオ》(2018)をプレイする人たち[上]、ルールブック[下]
僕はゲームを現実世界を抽象化したものと考え、《コムニカチオ》では人間同士の協力や敵対、距離を置くといった振る舞いをそのままゲームでの世界観とし、仮想と実際の一致を追求したゲームを考えた。またボードゲームではあるが現実に即して、厳格なゲーム終了条件は定めなかった。

既存のアートプレイヤーはこのゲームをプレイしながら、自分を都合の良いフィールドに置いたり、もしくは細かいルールを作っていったということです。しかし、そのフィールドやルールはアート自体が定めた絶対的なものではないので、批判して撤回させることも可能となります。アーティストが作品を作ることは、この盤上に新しいオブジェクトを追加したり、既存のオブジェクトを破壊したり、動かしたりすることになります。アーティストでないプレイヤー(ギャラリスト、キュレーター、コレクターなど)も楽しむためだったり、利益や自分の考えの妥当性を示すためなどの目的を持っていて、アーティストがオブジェクトを配置するための場所を作ったり、オブジェクトの置き方を変えたり、オブジェクトやアーティストを他のプレイヤーに紹介したりするわけです。

もちろん、このゲームに参加せずに自分の表現をする人もいます。子どものお絵描きや趣味の創作活動などがその典型です。その方が自由なのであえてそうしている人もいるでしょう。ただし、ゲームに参加した方が自分の力を超えた活動ができる可能性もあるので、どちらが良いということはありません。自分に合う方をするのが良いです。

僕もまだ若手のアートプレイヤーなので、これが完全なるアートのルールだと言い切るつもりはないですが、それほど間違ってはいないと思います。

「現代アートってよくわからない」という人が多い理由がわかっていただけたでしょうか?そもそも、アートというゲームの「プレイヤー」以外の傍からは全くゲームの様相が掴めないようにできているのと、余分な寿命を使って遊ぶほどの手応えのためには難しくならざるを得ないからなのです。例えるなら、野球に全く興味が無い人が野球中継を見ても何が起きているのかわからなくてつまらないと感じるのと同じです。ただ、選手がイケメンだとかそういうのは野球に興味が無い人でも楽しめますよね?多くの人が見てきれいだと感じる絵が必ずしも評価されるとは限らず、一見意味不明なものが評価されることもあるのはそういうことです。

少なくとも日本では、アートはいつまでもスキャンダルのようなものでしか一般の人目を引くことができないでいます。ですが、僕はアートにはもっと遊べる余地は残されていて、例えばドラゴンボールやゼルダの伝説などにも負けないくらい多くの人を熱中させるものを作ることも可能だと考えています。そのために僕はアートをしていて、アートについて考えているのです。

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著者略歴

  1. アラン(三浦阿藍)

    1991年鳥取生まれ。アーティスト/ゲームデザイナー、美術コミューン・パープルーム予備校生。建築士である永禮尊大と、ゲーム制作チーム「Arquetendu(アーケタンデュ)」を結成。ゲームデザイナーとしてボードゲームを販売する一方、ゲームをテーマにした美術作品を制作。昨年は、コミュニケーションをテーマにしたボードゲーム作品≪コムニカチオ≫を来場者が実際に体験できる初の個展「communicatio - コムニカチオ(TAV GALLERY/東京)」が話題に。

    ⓒPhoto by KO-TA SHOUJI

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