昔からある種の憧憬を抱いて眺めてきた言語がふたつある。フランス語と中国語である。膨大な人文学的アーカイブを蔵し、古から現代に至るまであまたの知を生み出してきたこれらの言語は、私にとって「教養」そのもののように見える。とりわけフランス語は、圧倒的な覇権言語である英語の母語話者たちがほぼ唯一、一目置く大言語だと言ってよいだろう。20世紀の学術圏を席捲したフランス発祥のポストモダン思想がアメリカにおいては〈フレンチ・セオリー〉と称され、その実態はさておき、独自の発展と変容を遂げてきたこともよく知られている1。
そんな中国語とフランス語という東西の巨大な2つの言語を自家薬籠中のものとし、作家、詩人、書家として活躍する碩学がいる。その名はフランソワ・チェン。小説や詩のみならず、随想や美術評論、翻訳なども数多く手掛け、アジア人として初のアカデミー・フランセーズ会員に選出された類稀なる越境作家である。本稿では、主にチェンの自伝的文章「ディアローグ(対話) フランス語への情熱」およびインタビュー「縁組した言葉で作家になること:フランソワ・チェンに訊く」2を参照しつつ、その半生を覗いてみることにしたい。
フランソワ・チェンは、1929年、中国は山東省済南市の生まれ。中国名は程紀賢。筆名として程抱一という名もある。両親ともアメリカの大学に学んだエリートであり、知的に恵まれた環境に育った。1937年、日中戦争の勃発に伴い四川省へ逃れたが、その美しい自然はチェンの文学的感性の基調を形作った。15歳の頃には、キーツやシェリーなどイギリスロマン派の詩を通して文学に覚醒し、フランス文学やロシア文学などにも傾倒してゆく。チェンは戦禍の中「文学という一筋の糸だけが、個々人の生命をささえていた」と述べ、文学は娯楽や気晴らしではなく生きるのに不可欠なものであったと回想しているが(pp.142-143)、これは現在の人文学軽視の風潮にあって齝むべきことばであろう。また当時、トルストイやドストエフキーの翻訳者であった高植や漂泊の作家・艾蕪の講演に接する機会があり、文芸評論家の胡風が創設した「七月派」の詩人たちの姿を茶屋で見かけることもあったという。「みんな貧しい身なりをしていたが、尊厳をたたえる、燃えるようなまなざしが、詩人になるというわたしの決心をかためさせた」(p.143)との言は経済合理性の追求に汲々とする新自由主義時代の目にはむしろ新鮮にさえ映る3。その後、チェンは南京大学で英語を専攻し、さらに国共内戦最中の1948年、ユネスコの奨学金を得てフランスへと渡る。留学先の候補地としてはイギリスとフランスがあったが、フランスを選択した理由は、魅力溢れる文学、美食やワインなど洗練された日常生活、そして西欧の中心に位置するという地理的条件に在った。四方八方からの様々な影響が交錯する坩堝としてのフランスは普遍性の理想そのものであり、同じく普遍的文明を築いてきた中国に生まれ育った若きチェンにとってどうしても関心を抱かずにはいられない対象だったのである。
しかし、フランスでの生活は決して順風満帆なものではなかった。まず直面したのは言語の障壁である。チェンは渡仏時フランス語をひとことも知らなかった。その頃の自身と重ねつつ、亡命者一般について述べた次の一節は印象的である:
「亡命者ならだれでもまずあじわうのは、寄るべのなさや貧困や孤独の苦しみだ。過去の郷愁と現在の厳しい条件とに引き裂かれて、より「無言で」、より屈辱的な苦痛にさいなまれる体験する。養子縁組をした国の言語のごく初歩的な知識しかもちあわせていないので、だれの目から見ても幼稚な存在になってしまう。口ごもりながら発する単語や文章はときには正確さを欠き、明瞭で一貫性のある話をすることができず、思想のない、いや感情さえない存在にみえる。(…)亡命者は、言葉を奪われたすべての人びとの苦悩を身をもって知り、言葉というのがどれほど「存在の正当性」をあたえているかを実感するのである」(p.145)
ことばが不如意なことがいかに致命的な出来事であるか。日本社会の言語的マジョリティである日本語話者として生きているとつい忘れてしまうことだが、言語によって「存在の正当性」が担保されているという感覚にはもっと想像力が傾けられてよい。
その後、母国中国においては知識人や芸術家に対する迫害が行われ、個人的な創造が一切不可能になったため、チェンはフランスへの永住を決意する。ソルボンヌ大学やコレージュ・ド・フランスの講義を聴講し文学を学びつつ、ヴィクトル・ユゴーなど、フランス詩の中国語への翻訳にも着手した。そうした中、チェンは中国学者ポール・ドゥミエヴィルと出会い、その紹介でセネガル生まれの哲学者ガストン・ベルジェと知り合うことになる。ベルジェは間もなく不慮の死を遂げるが、彼の葬儀の場で東洋学者アレクシ・リガロフと邂逅し、1960年、リガロフの牽引する高等研究実習院中国言語学研究所(社会科学高等研究院東アジア言語学研究所の前身)に職を得る。そして、初唐の詩人・張若虚の研究により、ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァ、ロマーン・ヤーコブソンといった第一級の知性たちの注目を浴びたことはチェンの人生にとって大きな転機となった。なかんずく、ジャック・ラカンと懇意な関係を結び、至大な影響を受けたことは特筆に価するだろう。さらに1970年代にはスイユ社からL'Écriture poétique chinoise(中国の詩的エクリチュール)、Vide et plein: le langage pictural chinois(空と充実:中国の絵画的言語)を上梓したが、これらの著作を通じてチェンは、ジル・ドゥルーズやエマニュエル・レヴィナス、アンリ・マルディネ、アンリ・ミショー4、フィリップ・ソレルス、シモン・レイスなどといった巨人たちとの交流の機会を得、フランスにおけるアカデミアの知識人としての地歩を固めていった。1974年には国立東洋言語文化学院(INALCO)の教員となる。
翻って、フランス語作家としての大成にはさらなる時間を要した。チェンがフランス語で公に詩集を発刊するのは、1980年代後半、50代も終わりが見え始めてからのことである。チェンが言うに、フランス語は「一連の要求のきびしさを本質的に内包」し、距離を置くことに秀でた言語である(p.149, p.208)5。情緒に逃げられぬ構造的な峻厳さがフランス語を〈理の言語〉たらしめている。そして論理的な文章では活かされるフランス語のこうした厳格さと正確さが詩作にとっては逆に障害になるのではないか。他方、中国語はすぐれて詩的な言語である。とすれば母語に帰還すべきではないか。そうしたジレンマがチェンの歩みを立ち止まらせ、中国語かフランス語かという選択の岐路に再び逢着させられることになる。熟思の末、チェンは創作言語としてもフランス語を引き受け直し、1998年には小説『ティエンイの物語』(原題:Le dit de Tianyi)によって、フランスの最も権威のある文学賞のひとつであるフェミナ賞を受賞した。
このようにチェンは中国語を母語としつつも、フランス語で旺盛な執筆活動を展開してきた書き手だが、彼にとって両言語はいかなる関係にあるのだろうか。チェンは次のように語っている:
「フランスに来てから少なくても二十年間、わたしの生活を刻みつけたのは、矛盾と分裂にみちた激しい奮闘だった。ふたつの言語のうちのひとつを創作の手段として選ぶにおよんで、この矛盾や分裂は、少しずつ同じくらい熱のこもった追究となっていった。だからといって、もうひとつ、つまり母語のほうがあっさりと消し去られたわけではない。母語はいわば弱音化されて、忠実にして密かな話し相手となった」(p.131)
忠実にして密かな話し相手――これは含蓄に富んだ表現である。母語はもはや己が身から離脱した他者と化した。しかし、その他者はいつも傍らに寄り添い、対話によって新たな身体へ影響を与え続けている。例えば、チェンの目にフランス語のローマン・アルファベットはしばしば意味を持って立ち現れる。Eは梯子(échelle)、Mは家(maison)、Sは蛇(serpent)のごとく。つまり、チェンはシニフィアンの劈頭を表す文字にシニフィエそのものを幻視しているのである。言語記号のかような有契性への感受性は、チェンが表語文字の漢字を用いる中国語を母語とするからこそ持ち得たものであって、それは彼の詩的創作を駆動する。分かりやすい例を挙げると、チェンは名詞goût《味わい》に愛着を感じると言うが、なぜならこの語を発音するには「喉または咽喉付近の舌と口蓋の粘膜を動員しなければならず、この部分が微妙にうごくと、口の中に唾を出させるから」である(p.171)。そこから連想は、gourmand《食いしん坊の》、goûteux《美味な》、goulu《大食いの》、goulûment《がつがつと》、gouleyant《口当たりのよい》、engouement《熱狂》、dégoulinant《したたる》、engoulevent《夜鷹》…のように果てなく拡がり、単語の小宇宙とでも呼びうるようなネットワークを形成する。そして、こうしたことばたちの際限なき連鎖はそれ自体が詩の原型となっていく。詩にあって語はおのおの独存しているわけではない。言ってみれば、パラディグマ(範列)が詩の可能性を開き、シンタグマ(連辞)が驚きを生む。チェン曰く「言葉と言葉の出会いまたは衝突から、詩は言葉の魔力をひきだす」のである(p.172)。ラマルティーヌやボードレールなど、特に19世紀以降燦然たる伝統を有するフランス語詩の世界に外部から参画することは決して容易いことではないだろう。その際、「弱音化」した母語が頼もしい伴侶としてかく創作の源泉を賦活したことは、文学論にとっても言語学習論にとっても重要である。
弱音化した母語には当然ながら文化も練り込まれている。とりわけ、ギリシア文明とキリスト教信仰を背景とし二元論的思考が優勢な西欧と、「陰」「陽」に加えて「沖気」を立てる道教的三分法に基礎づけられた中国とでは思想もおのずと相異なる。例えば、チェンは生死や美などをめぐる観想を綴った随筆を何篇も発表しているが、その中には「魂(âme)」について詳論したものがある6。魂とは〈身体-精神〉という二元論を超える第三の審級であり、近代以降の西洋では時に忽略されてきた概念である。そして、かかる東方的な弁証法がその実、筆名・抱一にも克明に刻まれていることは特記されてよいだろう。抱一とは『老子』に見える「載営魄抱一、能無離乎」という一節、すなわち心身の「統一」を指すことばに由来するとのこと7。洋の東西を問わぬ博引旁証で編まれたチェンの哲学的文章群は終始静謐な筆致を保ちつつ、読む者に思索の喜悦をこれでもかと与えてくれる。
最後に再び言語について。チェンにとって言語は「意思疎通をはかるための客観的な手段」ではない。言語とは「自己をつくりあげ、性格、思考、精神を形成し、感覚や感情や願望や夢に動かされる内的世界を構築する」手段である(p.133)。つまり、言語を学ぶ営みは「コミュニケーションのツール」などといった、巷間に流布した生易しい表現で語るべき対象ではなく、自らを高みに導き、知情意のすべてを打ち鍛えるための最も厳しい方途である。惰性が利かない非母語へ全身全霊を傾け、自己の運命のすべてをかけること――そこまでの情熱を傾注してこそ、感得し得る境地があることを、チェンは身をもって挙証している。
AIが長足の発達を見せる中で、言語を学ぶことの意義は奈辺に在るのか。大学で言語を教え学ぶ者として、こうした問いを日々突き付けられている。学ぶことは自己目的的な行為なのだから、テックの台頭とは無関係に言語学習は素晴らしいのだ――私はこう答えることにしているが、それだけではややもすると思考停止にも見えてしまう。学問一般に話を拡張しても、知識を常時参照可能なクラウドへと外部化することが可能となり、記憶という営為に価値を置かない21世紀型知性に、博覧強記などといった評価はもはや意味を失いつつある。とすれば、知に対する動機づけはいかにして可能か。そんなことを漠然と考えていたとき、私はフランソワ・チェンを知った。知的装飾のためではなく、好奇心の単なる充足のためでもなく、〈ほんとうに何かを学ぶ〉とはどういうことか。チェンの実存とその真摯なことばは、あるべき学びへのひとつの道標をはっきりと示してくれているように私には感ぜられる8。
・書誌情報
『さまよう魂がめぐりあうとき』、フランソワ・チェン著、辻由美訳、みすず書房、2013年
・注
1 アメリカにおけるフランス現代思想の受容やその消長については、フランソワ・キュセの大著『フレンチ・セオリー:アメリカにおけるフランス現代思想』(桑田光平・鈴木哲平・畠山達・本田貴久訳、NTT出版、2010年)が参考になる。
2 いずれもチェン、フランソワ(2013)『さまよう魂がめぐりあうとき』(辻由美訳、みすず書房)に収められている。
3 チェンは『死と生についての五つの瞑想』(内山憲一訳、水声社、2018年)において「生涯の長さなどはどうでもいい。自分のものである死を迎える、つまり詩人として死ぬならば」(p.26)とも記していることをここに付け加えておこう。常に死と隣り合わせだった彼の思春期は同書の深奥な考察へと繋がっている。
4 アンリ・ミショーについては1984年にHenri Michaux, sa vie, son œuvre (アンリ・ミショー、生涯、作品)という書籍も出版している。
5 フランス語が他の言語に比べて明晰な言語であるなどといった主張に対し、私は言語学徒として容易に肯うことはできない。ただし、かつてのフランス語学習者としてチェンの言わんとすることは直感的に分かる気がするのも事実である。学生時代に座右に置いて参照した鷲見洋一氏の『翻訳仏文法 上』(筑摩書房、2003年)には「フランス語は抽象性の強い言語である」「フランス語の書き言葉にはとびぬけたカリスマ性がある」(pp.44-52)などといった記述があったことを懐かしく思い出す。
6 『魂について:ある女性への七通の手紙』(内山憲一訳、水声社、2018年)。なお、チェンはクリスチャンであり、1969年に洗礼を受けている。1971年にはフランスに帰化するが、その際戸籍上の名とした「フランソワ」は聖フランチェスコから採っている。
7 「死と生、そして魂:「解説」にかえて」(内山憲一、前掲書所収)参照。
8 なお、「ほんとうに何かを学ぶとは」という問いを立てたとき、私は同じくフランス語表現作家の水林章氏も思い起こす。氏の重厚な思想に触れるには、『日本語に生まれること、フランス語を生きること:来たるべき市民の社会とその言語をめぐって』(水林章、春秋社、2023年)が必読書である。