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母語でないことばで書く人びと

第1回:「非母語という希望:言語論と文学の交差路へ」

 


 

「母語は、〈臨界期〉と呼ばれる時期を過ぎれば、取り換えがきかない」

許多きょたの人々はこの命題を素朴に信じているだろう。しかし、世には非母語をあたかも母語のように操り、非母語で創作活動を展開する作家たちがいる。いわゆる〈越境作家〉と称呼される書き手たちである。

私は、韓国語を専門とする言語研究者であり、言語教育者でもある。学部時代は、フランス語を専攻しつつ他の言語群とも多く戯れ、また、大学院博士課程在学中には、ソウルの大学で専任講師として日本語や日本語学を講じたりもした。かくして言語の森を一定期間、跋渉ばっしょうしてきたが、その際いつも頭の片隅にあったのは、〈他者の言語〉を〈自己の言語〉として〈引き受ける〉とはいかなる営為かという問いであった。私は、言語、とりわけ非母語とは〈習得する〉ものではなく、〈引き受ける〉ものであり、自身の実存に関わる意志的な選択だと考えてきた。言語を学ぶ者は常に可塑かそ的な存在で、言語学習は自分自身を変容させる動因そのものである。言語は混じり合うことをその本質とし、非母語を引き受けるとは、母語と非母語が脱境界的に混淆こんこうしたアマルガムを自らの中に宿すことである。

私が生まれたとき、日本語は既に十全なる形で存在していた。しかし、私の意志で日本語を母語として選んだわけではない。この点で、母語は〈選択不能な恣意しい性〉を帯びている。ややハイデガー風に言えば、気づいたときには、すべてに日本語が介在する世界に被投ひとうされ、日本語話者として在った。

翻って、母語ではない、他者の言語=非母語は、原理的には自由に選び取ることが可能である。選択不能だった母語に対して、選択可能な非母語はある種の希望と言ってよい。

私のフランス語の恩師であり、私の言語観、分けても〈他者の言語〉への構えに至大なる影響を与えてくださった、仏文学者にしてフランス語表現作家の水林章氏は、自伝的著作 Une langue venue d’ailleurs(Gallimard, 2011)の中で、『自死の日本史』などで知られるモーリス・パンゲ氏に「君のフランス語は5歳のころから話しているフランス語だ」と絶賛されたエピソードを披露している(p.18)。実際には、普通の大学生と同様に、18歳で初めてフランス語と接触したにもかかわらずである。モーリス・パンゲ氏のこのことばは、非母語に心酔し、母語話者を凌駕りょうがするほどの言語能力を獲得したいと渇求かっきゅうする者にとっては、最高の賛辞のように思われる。そうした水準にまで達するには、言語へのこの上なく熱いパッションと黽勉びんべん、そして、ゆうなる才能を要するだろうが、母語話者に比肩ひけんするレベルで、フランス語世界の総体を自家薬籠中の物とした、綺羅星の如き表現者の存在は、〈他者の言語〉を〈自己の言語〉としたい者にとっての大きな励みとなるだろう。韓国語の場合では、斎藤真理子氏のように、翻訳家でありながら、韓国語で詩を書く詩人もおり、志高き韓国語学習者たちの憧憬と羨望の的となっている。日本語の書き手であれば、リービ英雄氏や李琴峰氏などといった名が即座に浮かぶ。

私は、こうした、母語でない言語で執筆する書き手たちに予て興味を持ってきた。文学的な関心はもとより、一介の言語教師、一介の言語学習者として、語弊を恐れずに言えば、「究極の言語学習者」のようにも見える越境作家たちの生や言語への構えに接近することで、言語教育=言語学習に対する何らかの示唆を得ることができるのではないか。また、言語道具観が瀰漫びまんする、コミュニケーション傾斜の言語教育に馴致させられた若い学習者たちに、人文学的な関心を誘起させることができるのではないか。そんな思いから、「母語でないことばで書く人びと」というテーマで、筆を執ることにした。

もちろん、母語とは何かという根源的な問題もある。例えば、〈出自〉や〈移動〉などによって幼き頃から多言語にさらされてきた者たちにとって、母語とは、国家名や民族名が付された「なんとか語」ではなく、複数の相互浸透的なことばたちから構成される、容易に名づけえぬ存在である。例えば、温又柔氏の小説『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年)の「こうした子どもたちの「母語」は複数の言語から成っていると思う」(p.152)という箇所は注目に価する。「こうした子どもたち」というのは、台湾における「台湾出身者と外国籍所有者の間にうまれた」ダブルの子たち=〈新台湾之子〉のことであり、彼女ら、彼らにとっての母語とは、単一の言語から組成された均質なものでは決してないのである。また、いわゆる〈多言語社会〉に住む者たちにとっても、「母語はこれ」と指目しえないケースは多い。そうした論件についても、連載の中でいつか触れることがあろう。母語/非母語という牧歌的な二分法に疑義をていし、両者の連続性をめぐる思路を開くのも、またこの連載のひとつの目途となる。

本連載は、言語論的思考と文学の世界の交差路である。毎回、ひとりの越境作家を取り上げ、その人生や作品などを紹介しつつ、ことばを学ぶことや書くこと、そして、ことばと共に生きることなどについて考えていきたいと思う。

なお、紹介する作家の選定については、特に明確な方針に基づいてはおらず、私の偏った読書傾向が反映された、恣意的なものである。越境文学を体系的に俯瞰ふかんできるような見取図とは程遠い連載となることを予めご海容願いたい。

 


 

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著者略歴

  1. 辻野 裕紀

    九州大学大学院言語文化研究院准教授、同大学大学院地球社会統合科学府准教授、同大学韓国研究センター副センター長。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。誠信女子大学校人文科学大学(韓国)専任講師を経て、2012年に九州大学へ着任。専門は言語学、韓国語学、言語思想論。文学関連の仕事も。人文学一般、教育、医療、幸福、アートなどにも幅広く関心がある。著書に『形と形が出合うとき:現代韓国語の形態音韻論的研究』、共編著書に『日韓の交流と共生:多様性の過去・現在・未来』(いずれも九州大学出版会)がある。東京の神田神保町にある書店PASSAGE by ALL REVIEWSに「辻野裕紀の本棚」を展開中。音声プラットフォームVoicyで「生き延びるためのことばたち」という番組も配信している。

    Twitter:@bookcafe_LT
    Instagram:@tsujino_yuki

    Photo ©松本慎一

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