40以上の言語に翻訳され、世界中で読まれたベストセラー『悪童日記』(原題:Le grand cahier1)の作者として著聞したアゴタ・クリストフ(クリシュトーフ・アーゴタ)2。本稿では、『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』(原題:L'Analphabète: Récit autobiographique)を参看しつつ、彼女の生涯について論じてみることにしたい3。
クリストフは、1935年、オーストリアとの国境に近い、ハンガリーの小さな村に生まれた。ナチス・ドイツと協調し、第二次世界大戦へと驀進していく剣呑なる時代の中で、彼女は幼少期を過ごした。定位家族は、両親と兄、そして弟。特に兄のヤノとは親密な兄妹愛で結ばれていた。父親は村でただ1人の小学校教師であり、かなりの読書家だったという。クリストフ自身もごく幼い頃から「ものを読まずにいられないという不治の病に罹」り、「あの子はこれといったことは何もしない。四六時中、本ばかり読んでいる」などと詰られるほどの、いわば「活字狂」の少女だった(pp.11-12)。母方の祖父母は近くの町に住んでいて、その家に行くたびに、彼女は近所の人々の前で新聞を音読させられ、祖父母はそれを自慢したらしい。こうしたエピソードに触れるだけで、彼女が生まれながらの〈読み手〉であったことが宛然と想像できる。
1944年、彼女が9歳のとき、クリストフ一家は、クーセグという、それまで居住していた村から近い国境の町へと移転する。そこは『悪童日記』において〈小さな町〉と称されている場所のモチーフでもあり、住民の4分の1がドイツ語を話す地域だった。ドイツ語は「オーストリアによるかつての支配を想い起こさせ」、しかも当時ハンガリーを占領していた「外国の軍人たちの言語」でもあったため、彼女はドイツ語を「敵語(langue ennemi)」と呼んでいる(pp.40-41)。そして、14歳の頃、「兵舎と修道院を足して二で割ったような」、「孤児院と少年院を足して二で割ったような」女子寄宿舎に入舎し、峻厳な集団生活と凍餒を強いられることとなるが、当時のハンガリーはソ連の強い勢力下にある共産党独裁政権が統べており、学校で正課となっていたロシア語についても「敵語」と見做す。寄宿学校での生活は、家族との別離という悲しみを齎したが、その中でも彼女は「何か読むものが手元にあるかぎり、街灯の明かりを頼りに読み続け」(p.29)、何よりも「ものを書きたい」という思いが生まれ出ずる契機となった。涙に自ずと詩が宿り、それに慰藉されたクリストフは、〈書くこと〉にも次第に覚醒していく。
大学への進学はかなわず、18歳で恩師の歴史教師と結婚。20歳で娘を出産した彼女は、1956年に勃発したハンガリー動乱時、生後4か月の娘を連れて、反体制派の夫とともに、オーストリアに脱出し、難民としてスイスへと亡命する。スイスでの生活も最初は艱難を極め、仲間の中には自尽した者もいたという。フランス語圏であるヌーシャテル州に居を定めて、工場労働に従事するが、そうした渦中でも彼女は書くことを忘れない。「詩を書くには、工場はとても都合がよい」とさえ叙述している。「作業が単調なので、頭の中では別のことを考えていられるし、機械の規則的なリズムが詩句の音節をうまい具合に区切ってくれ」、工場でメモした詩を夜にまとめてノートに清書していたとも述懐しており(pp.69-70)、〈書くこと〉への熱意がこうしたところにも垣間見える。「革命と逃走の日々の高揚のあと」の沈黙や空虚さを彼女は書くことで懸命に埋めようとしていたのかもしれない。「重要な何か、もしかしたら歴史を画することになるかもしれない何かに参加しているのだという、そんな印象を抱き得た日々へのノスタルジー」(p.71)などといった記述は、ラッセルの『幸福論』をいささか髣髴とさせ、祖国の家族や友人と会えない寂しさも、書く意欲を加速させていたのだろう。その頃の表現言語はもちろんまだ母語のハンガリー語であった。
しかし、クリストフは、26歳でヌーシャテル大学の夏期講座に登録し、フランス語の「読み方」を学び始める。「生存」のためのフランス語を話すことはできても、読み書きができなかった彼女はかくして「文盲」状態から解放され、再び〈読むこと〉へと開かれる。〈読むこと〉と〈生きること〉が同義だったような彼女にとって、音声言語への〈閉ざされ〉は、生の意味の剥奪であり、フランス語の厖大なテクスト群へのアクセスが可能となったことは、引き剝がされた〈世界〉を取り戻す、決定的な出来事だったにちがいない。それは単に「生存」するためだけの言語を、人生を装飾するためのものへと変転させることにほかならなかったと判じてよかろう。
その後、1970年代に入ると、クリストフはフランス語で文芸作品を書き始める。彼女の筆になる戯曲が地元のビストロや劇場で上演されたり、ラジオドラマ化されたりもした。そして、大きな転機は、1986年に訪れる。クリストフは、自作の小説をフランスの三大文芸出版社であるガリマール社、グラッセ社、スイユ社に自ら郵送し、ガリマール社とグラッセ社からは撥無されたものの、スイユ社からは肯定的な回答を得て、初の小説が刊行されることとなる。それがあの『悪童日記』である。戦中・戦後の峭刻たる状況の中で、屏息することなく、むしろしたたかに生き延びていく双生児のノートを繙読していくようなスタイルの小説であり、同作とその続編として上木された『ふたりの証拠』、『第三の嘘』を合わせた三部作の作者として、クリストフは作家としての名声を博することになる。1995年には来日、他に『昨日』、『どちらでもいい』などの作品も残し、2011年に易簀した。
クリストフは、生まれながらの〈読み手〉であると同時に、天稟の〈書き手〉であった。しかし、「世界史」に翻弄された波瀾万丈の人生によって書くことへと嚮導されたのもまた事実であろう。書くことへの欲望は陰性感情に駆動される。一般に書く行為(筆記開示)が悲しみを癒す療治として機能することは精神医学や臨床心理学の知見が教えるところでもある。書かずにはいられない運命を受け入れ、亡命先の非母語たるフランス語を表現言語として引き受けたクリストフは、それでもフランス語を彼女にとっての侵略者の言語であったドイツ語やロシア語と同列に「敵語」と位置付ける。なぜならば、フランス語は自分で選んだ言語ではなく、たまたま「課せられた」言語であり、「母語をじわじわと殺しつつ」あった(p.43)からである。
非母語を学ぶ際、母語干渉(転移)、とりわけ負の転移が生じることについては言語教育の現場で強調されるが、一方で、非母語が母語を変形させていくことはあまり言及されない。私はむしろこうした母語の改鋳こそが非母語学習の妙味のひとつだと考えているが、クリストフにとってそれは歓迎すべき事態ではなかった。それもそのはず、人生の成り行きで身に付けざるを得なかったフランス語によって、祖国での追憶に満ちたかけがえのない母語が壊えてゆくのは由々しきことである。両親や兄弟との記憶はすべてハンガリー語で刻まれており、ハンガリー語は憶昔、憶郷のための言語でもあった。
そして、この、自ら積極的に選んだわけではなく、選ばざるを得なかった非母語によって執筆活動を展開したという点において、前回考察の俎上に載せたジュンパ・ラヒリなどとは大きな懸隔がある。非母語は〈選択不能な恣意性〉から自由だが、それはどこまでも原理論的な次元での話であって、現実にはクリストフのように、運命の操舵によって、〈引き受け〉を強制される非母語が規定されることも少なくない。つまり、非母語であっても、〈選択不能な恣意性〉を免除されるとは限らないのである。もちろん執筆の言語までをもフランス語としたのは彼女自身だが、ハーバート・フィンガレットの議論をパラフレーズしつつ、安冨歩が犀利に説いたように、「こうしよう」ではなく、「そうなってしまう」というのが決断の本質であって4、彼女のフランス語への道程はその色彩が極めて濃いように思われる。社会的状況によっては、母語は彼方へと追いやられ、非母語があたかも母語のように迫ってくる。それがよしんば疾視すべき敵の言語で、母語を脅かす存在だったとしても、受忍せざるを得ないこともままある。
かく思考を巡らせていくと、〈母語〉と〈非母語〉は地続きであって、本質的には変わらないことが鮮明に見えてくるだろう。世界中の諸言語が我々の母語となる可能性があった。このことは、私が言語学を探究する中で、ありとあらゆる言語を〈潜在的母語〉と称呼し、〈顕在的母語〉の特権化を論難してきた所以である。こうした思路は、ガヤトリ・スピヴァクの〈言語の等価性〉という概念とも響き合っていく5。
クリストフは、「自分が永久に、フランス語を母語とする作家が書くようにはフランス語を書くようにならないことを承知している」と述べている(pp.90-91)。非母語話者であるがゆえの〈ことばの結滞〉とでも呼ぶべき、ある種の「不整」はかえって当該言語をよりふくよかなものにしてくれると私は愚考するが、彼女は「自分にできる最高をめざして書いていくつもりだ」と高らかに宣言する(p.91)。そして、自身を倦むことなしに何度でも辞書を引く「熱烈な辞書愛好家」と呼んでいる(pp.90-91)。フランス語に対するこうした謙虚さと熱心さは鑽仰に価するが、言語教育者として、若い読者のために、若干の注釈を付しておきたい。母語話者ではないから辞書を引くのではない。辞書を引くのに、母語話者か非母語話者かは一切関係がなく、もし日本語母語話者で日本語の辞書(国語辞典)を引く習慣がないという人がいるとすれば、それは母語話者としての倨傲さか単なる懈怠癖によるものである。クリストフも決してフランス語の辞書とだけ戯れていたわけではないだろう。母語も非母語も「目的なし」に一生学び続けるものである6。言語を学ぶことはatelic(非限界動詞的)な営為であって、そこにあるのは過程のみである。telos(目標、目的)の設定は、自身の潜在的可能性の狭隘化に繋がり、むしろ有害とさえ私は考えているが、多くの人々はこうしたことにあまりにも無自覚である。どこかに限界点があると誤想しているような言語教育においては、学びは必ず手段へと縮減され、知層は肥厚しない。マックス・ウェーバーの社会的行為論の術語を援用すれば、学びは〈価値合理的行為〉であって、目的合理的な学びへの構えには全く共感し得ない。
さらに言えば、クリストフは作家である。カリブ海のグアドループの作家マリーズ・コンデが「作家にとっては、母語も植民地化の言語もありません。あらゆる言語は作家にとって外国語です。作家はそれら外国語を解体して、自分だけに固有の小さな音楽を鳴り響かせるのです」7と喝破したことを想起しよう。これも〈母語〉と〈非母語〉の連続性を表現したものであって、母語か非母語かという、古色蒼然たる二極思考に亀裂を入れる名言である。
最後に、ここまでの記述から分かる通り、彼女はいわゆる「インテリ」ではなかったことも特筆すべきであろう。この点で、例えば、同じ中欧からフランスに亡命したミラン・クンデラなどとは異なる。〈母語でないことばで書く〉というと、日本語圏では新渡戸稲造(Bushido: The Soul of Japan)や岡倉天心(The Book of Tea)のような昔の知識人のイメージがあるためか、「インテリ」が連想されやすいが、実際には必ずしもそうではない。〈母語でないことばで書く営み〉は「インテリ」の専有物ではなく、なんぴとに対しても開かれていて、それはまさにほかならぬアゴタ・クリストフという傑出した世界的作家の存在が克明に証している。
・書誌情報
『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』、アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳、白水社、2014年
・注
1 直訳すると、「大きなノート」の意。
2 「アゴタ・クリストフ」はフランス語での発音を片仮名で表記したもの。ハンガリー語では「クリシュトーフ・アーゴタ」である。ハンガリー語の名前は「姓+名」の順になる。写真家の「ケルテース・アンドル」(ハンガリー語)が「アンドレ・ケルテス」(フランス語)とも表記されることを思い出されたい。
3 アゴタ・クリストフの生涯について知るには、堀茂樹「解説(訳者あとがき)」(『悪童日記』、早川書房、2001年)が日本語で読めるものとして至便である。本稿の執筆にあたっても、参照している。
4 安冨歩(2008)『生きるための経済学:〈選択の自由〉からの脱却』、NHK出版
5 スピヴァク、ガヤトリ・C(2011)『ナショナリズムと想像力』、鈴木英明訳、青土社
6 私が「外国語教育」という表現を厭忌し、「言語教育」という呼称を一貫して用いているのも、母語も非母語も本質的には変わるところがなく、母語も非母語と同一の平面上に据えて生涯学ぶべき対象であるという思想に基づいている。
7 コンデ、マリーズ(2001)『越境するクレオール:マリーズ・コンデ講演集』、三浦信孝編訳、岩波書店
Illustration: Maiko Suzuki