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母語でないことばで書く人びと

第2回:グカ・ハン

 


 

2020年、『砂漠が街に入りこんだ日』(原題:Le jour où le désert est entré dans la ville)で鮮烈なデビューを果たしたグカ・ハンは、韓国語を母語とする新進気鋭のフランス語表現作家である。ファン・ジョンウンの『백의 그림자』(百の影)の仏訳、Édouard LevéのSuicide(自殺)の韓訳を手掛けるなど、翻訳家としても活動している。

グカ・ハンは、1987年、韓国・南原(ナムウォン)の生まれ。幼い頃から本に囲まれて育ち、同世代の子どもたちよりも早く文字を覚えた早熟な少女だった。ソウルの大学院で造形芸術を学んだのち、2013年の春、一度も行ったことのなかったフランスへと渡る。パリ第8大学修士課程文芸創作学科在学中に書いたLe jour où le désert est entré dans la villeは、フランスの出版社Editions Verdierから刊行され、「文学的大事件」と評されるなど、多くの読書人の耳目を引いた秀作である。8篇の短編からなり、そのいずれにも非現実と現実のあわいを揺蕩たゆたうような独特の浮遊感が感ぜられる。全体を通して乾質な文体に貫かれており、ときに冷淡で狂気すら触知される作品群は、不条理に満ちた社会への静かな抗いだと言ってよいだろう。 

韓国語を知る読者であれば、まず、グカ・ハンのハングルの綴りが気になるかもしれない。ハンが姓であることは容易に察せられるが、グカとは見慣れない名である。そもそも韓国語において[g]が語頭に立つことはない。実はグカをハングルで書くと국화[kukkhwa]、漢字では「国花」である。フランス語母語話者には難しい発音の名前だろう。それゆえ、フランス語ではGukaと書き、日本語でも「グカ」という片仮名にそのまま移している。フランス語では「グキャ」に近い発音になる。

『砂漠が街に入りこんだ日』所収の「雪」という作品の中に次のような一節がある。

「学期が始まったばかりの頃、彼らの大半が私の名前に戸惑った。中には殊勝にも正確にはどう発音するのか訊いてくる教師もいた。私はすべての音節を長引かせながら自分の名前を注意深く発音してみせたが、適切に発音できた教師はただのひとりもいなかった。自分の名前を何度も何度も発音するうちに、時には名前が私からはがれてしまうような気がした。まるで私の名前がもはや何の意味もなさず、私の人格とは一切関係のないただの音になってしまったようだった」(p.36)

これは、グカ・ハン自身の体験に由来するものかもしれない。実際、グカ・ハンは「渡仏後、私と私の名前の関係は大きく変わりました。フランスには、私の名前に意味があるということ、そしてその意味が花に関連する女性的なものであるということを知る人はいません。私の名前はただ発音しにくいだけの、いかなるイメージも呼び起こさない外国の名前にすぎません。フランスに渡るや、名前の意味は消え、その「殻」だけが残ったのです。私が自分の名前を軽やかに感じるようになったのは、そのときからだったかもしれません」と述べている1

軽やかさ――これは、グカ・ハンとフランス語との関係を考えるためのひとつの鍵鑰けんやくとなる。グカ・ハンにとって、韓国語は「重い言語」だという。その重さとは、言語の重さのみならず、韓国社会と関わっていることで双肩にのしかかる重圧でもある。一方で、フランス語は「軽い言語」であり、それは自身の経験や記憶と結びついていない〈中立地帯〉の言語だからである。かかる言語観は、私にとってある意味で衝撃的なものであった。何となれば、言語とは個人史の刻印であって、経験と記憶の束にほかならないとこれまで考えてきたからである。それは母語の習得過程を顧瞻こせんしてみれば分明である。我々は幼き日に両親をはじめ、親戚や近所の人、幼稚園の先生など、〈重要な他者〉(significant others)の声を聴きながら、母語を身体化させてきた。大人になって学んだ非母語であっても、他者との交わりによって身に付けていくという点で、事情はさほど変わらない。詩人の管啓次郎曰く、私とは「私がこれまでに耳をさらしたすべての音の集積」2である。そして、そのような「耳をさらした」声の集合がみな異なるがゆえに、我々は大なり小なり異なることばを話す。同じ言語を話す者はこの世に誰ひとりとして存せず、この確固たる事実は、各人の存在の〈唯一無二性〉や〈代替不可能性〉、〈ヘクセイタス〉(haecceitas)を強く支えるものでもある。リアルな言語とは、こうした人ごとに相違する歪な造形物であって、「ニュートラル」なことばなど、形而上学的な存在でしかない。

とすれば、経験と記憶が不在な言語の創作実践など果たして可能なのか。これは言語論的に本質的な問題である。しかし、グカ・ハンは「慣れ親しんだ母国語は執筆するのに十分な条件ではなく、むしろ障害である。ある意味、この韓国語という言語のせいで、私の想像力は阻害され、息が詰まってしまう。外国語で執筆することでようやく、私は物語を個人的な体験から切り離して構築することができる」と断じている(p.151)

考えてみると、非母語を学ぶとは〈外部〉を持とうとすることである。外部としての非母語は、栓塞せんそくされた母語からの避難所となり、ときにさらなる外部への通路としても機能する。非母語は〈逃避のための言語〉と言ってもよい。グカ・ハンにとっても、渡仏は韓国を離れることが目的であり、フランス語は遁走とんそうするための道具であった。自由を希求する者にとって、母語の放擲ほうてきは、最もラディカルな自己の解放なのかもしれない。

かくして、母語のイドラを峻拒しゅんきょし、敢然かんぜんと母語の外部へと飛び出したグカ・ハンは、しかしながら、作品の随所に母国の影を潜ませる。例えば、冒頭作「ルオエス」(LUOES)はSEOULの「逆さことば」であり、読者はルオエスの中にいつしかソウルを幻視してしまう。また、「真珠」はセウォル号沈没事故、「放火狂」は崇礼門放火事件を連想させるものである。「家出」に出てくる「のど自慢コンテスト」は明らかにKBSの番組がモチーフだろう。このように、フランス語で〈どこにもない場所〉を描きつつも、どうしてもそこには韓国が透けて見える。語られる言語は非母語であっても、そこから立ち上がる世界は母語のトポスの変奏曲の如くである。

こうしたありようは、生まれ長じた場所や母語の繋縛から我々は容易には逃れられないことを示している。人間が時間の流れを生きる連続的な存在であることを考えれば、それは当然とも言える。断絶された〈離散的な生〉というのはあり得ない。グカ・ハン自身も、本書の執筆について、「韓国語で暮らしていた私の過去が消えるわけでは」なく、「存在する過去を、経験していない言語で再び見てみようとする」試みだと言う3。しかし一方で、時間性に身を浸すことは、過去を背負いながらも、おもむろに変態していくことでもある。今は「軽い言語」だと言明するグカ・ハンにとってのフランス語も、それに纏わりつく経験と記憶が倍加するほど、質量を増し、「重い言語」へと移変していくだろう。この意味で、向後、グカ・ハンのフランス語も、それによって書かれる内容もまた漸次的に変容していくにちがいない。次作を翹望ぎょうぼうする次第である。 

因みに、今年1月、本書の訳者である原正人氏によって、『ソクチョの冬』(早川書房)という小説が日本語に翻訳され、発兌はつだされた。著者のエリザ・スア・デュサパンは、フランスと韓国にルーツを持つスイス人女性である。こうして、範疇化が困難な、韓国に関わる作品がまた日本語で読めるようになったことは、一韓国研究者としてとても嬉しい。


 


・書誌情報
『砂漠が街に入りこんだ日』、グカ・ハン著、原正人訳、リトルモア、2020年


・注
1 グカ・ハン(2022)「母語でない言語で書くということ:言語の重さと速度、そして距離」、辻野裕紀・金兌妍訳、森平雅彦・辻野裕紀・波潟剛・元兼正浩編『日韓の交流と共生:多様性の過去・現在・未来』、九州大学出版会

2 管啓次郎(2005)『オムニフォン:〈世界の響き〉の詩学』、岩波書店

3 グカ・ハン×辻野裕紀(2022)「《対談》フランス語のほうへ/から:母語として存在しない〈物語〉をめぐるダイアローグ」、辻野裕紀訳、森平雅彦・辻野裕紀・波潟剛・元兼正浩編『日韓の交流と共生:多様性の過去・現在・未来』、九州大学出版会

 

Illustration: Maiko Suzuki

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著者略歴

  1. 辻野 裕紀

    九州大学大学院言語文化研究院准教授、同大学大学院地球社会統合科学府准教授、同大学韓国研究センター副センター長。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。誠信女子大学校人文科学大学(韓国)専任講師を経て、2012年に九州大学へ着任。専門は言語学、韓国語学、言語思想論。文学関連の仕事も。人文学一般、教育、医療、幸福、アートなどにも幅広く関心がある。著書に『形と形が出合うとき:現代韓国語の形態音韻論的研究』、共編著書に『日韓の交流と共生:多様性の過去・現在・未来』(いずれも九州大学出版会)がある。東京の神田神保町にある書店PASSAGE by ALL REVIEWSに「辻野裕紀の本棚」を展開中。音声プラットフォームVoicyで「生き延びるためのことばたち」という番組も配信している。

    Twitter:@bookcafe_LT
    Instagram:@tsujino_yuki

    Photo ©松本慎一

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