第6回:グレゴリー・ケズナジャット
「鴨川ランナー」という中編小説がある。作者は、新鋭の日本語表現作家であるグレゴリー・ケズナジャット。「鴨川」と聞くと、韓国学研究者である私は、植民地期の詩人・
グレゴリー・ケズナジャットは、1984年、アメリカ合衆国サウスカロライナ州グリーンビル市に生まれた。イラン出身の父親は、英語とペルシャ語を話す。2007年、クレムソン大学を卒業し、外国語指導助手として来日。その後、同志社大学大学院に学び、2021年に「鴨川ランナー」で第2回京都文学賞を受賞してデビュー。同年、それに書き下ろし作品「
まず、本作は「名前」の物語であると言ってよいだろう。主人公は高校時代、日本語に初めて触れたとき、学習ノートの余白に自身の名前をカタカナで繰り返し書くが、その文字が自分の一部だという実感が随伴しない(p.9)。次の一節から見取れるように、日本語学習がある程度進んだ段階においても、それは同断だった。
「今でもカタカナで書かれたきみの名前を見ると、そこに自分のことを見出せない。そもそも最初からそこになかったのではないかという気がしてくる。そこにあったのは、もう一人の新たな自分だ。そして日に日に身につけている音と文字と会話例で、そのもう一人は着実に養われている」(p.19)
名前とはその人の表象そのものであるが、その表記がラテン文字からカタカナに転ずるだけでそこに「もう一人の新たな自分」を見出せるというのは興味深い。これは、本連載第2回で取り上げたグカ・ハンの名前をめぐる考察とも相通ずるところがある。作家の平野啓一郎は「個人(individual)」ならぬ「分人(dividual)」という概念を提唱し「私」の分割可能性を指摘したが1、それをさらに
一方で、名前の表記は、「日本人」として生まれた者との隔たりを鮮明に浮き彫りにもする。部屋の高さやドアの幅、洋服の丈や椅子の作りが、主人公の身体と微妙に合わないように(p.59)、名前が日本語向けにデザインされていないことも、彼に自らが「部外者」であることを強制的に意識させ、
「この人には漢字表記の名前があるんだ。生まれてからそんなものを持つのは、どんな感じなんだろう。美しくてバランスもよく、きみの長いカタカナの名前とは全然違う。その二文字を見て、きみは嫉妬と欲望の混じったものを感じる」(p.53)
そして、こうした
「日本語で話しかけてくれたら、たとえ幾分の意味が伝わらなくても、きみはなんとか対応できるはずだ。しかし今まで読んできた教科書の中に、この英語交じりの日本語への対策はどこにも載っていなかった」(p.34)
このスマートな
「インターナショナルパーティーに参加したら話し相手はいくらでもいる。英語を練習したい人、海外の文化に触れたい人、外国人と一夜を過ごしてみたい人。だがきみのような存在を進んで自分の生活に取り入れようとする者はいない。きみは常に一個人ではなく、英語なり海外なり漠然とした概念の代表とされてしまう」(p.60)
しかし、
こうして、主人公は京都でいろいろな経験を積み重ね、あるときは「この街に飽き」(p.60)、酔漢にからまれて
「日常生活では、きみが見る表情も、きみが聞く言葉も、あらゆる場できみ自身の存在によって歪められてしまう。きみの身体、きみのままならない発音、その異質性が常に邪魔になる。だが文字の世界だと、そのような異質性は綺麗に取り除かれ、自分がいない日本語の世界を楽しめる」(p.75)
何とも切ない記述だが、こうした状況も、私には容易に想像がつく。疎外感を与える「日本人」に苛立ちながらも、「自分のいない日本語のほうが、やはり美しい」(p.78)と断じてしまわざるを得ない異邦人の矛盾した悲しみに、私は
その後、彼は大学院で本格的に谷崎潤一郎研究を志し、勉励の末、東京の大学に就職する。そして、学会で再び京都へと赴く。ホテルのフロントで案の定、英語で話しかけられるが、彼はもう
「このようなやり取りが気になっていた時期もあった。英語を頼りにせず、必死に日本語を喋ろうと努力していたのに、相手がきみの顔を見て英語で喋りかけてくると、侮辱されたような気持ちになった。しかしそんな若々しい情熱はもはや、きみの胸に湧いてこない。考えてみると、良くも悪くも、いろんなことがどうでもよくなったような気がする」(p.95)
「手渡された領収書を取り出して、確認する。上の欄にきみの名前は全角のローマ字と、その上にカタカナで記されている。どちらもシステムに長過ぎたらしく、途中までしか印刷されていない。残りの文字はその隣にフロントスタッフの手で書かれた。さまざまなパーツが合わない、継ぎ接ぎの名前だ。それを見たきみに違和感はない」(p.96)
「きみは橋の真ん中辺りに立ち、北を見る。この眺めがまるで御伽噺の世界のように見えた時期は確かにあった。だがあの頃きみの想像を搔き立てた空白は今や無数の記憶に充たされている」(p.98)
かくしてテクストの筆路を丁寧に辿っていくと、彼は長い日本生活の中で大きな内面的変化を遂げてきたことが分かるだろう。この意味において、本作はビルトゥングスロマン的な色彩を帯びている。畢竟、言語学習とは、諦念と喪失の過程である。自身の精神衛生のために市井の母語話者の鈍感な言動を
主人公はホテルのフロントで、差し出された用紙に東京の現住所を書き込みながら、次の如く内言する。
「それは今の住所だけど、十年間この街に住んでたよ。出町柳辺り、豆餅のふたばの近くにな。本当は、ここは僕の街でもあるんだよ」(p.95)
ここ(京都)は僕の街でもある――この
・書誌情報
『鴨川ランナー』、グレゴリー・ケズナジャット著、講談社、2021年
『開墾地』、グレゴリー・ケズナジャット著、講談社、2023年
・注
1 平野啓一郎(2012)『私とは何か:「個人」から「分人」へ』、講談社
2 こうした「日本人」の態度は、「異言」にも描かれている。例えば、主人公のマイケルが同棲している百合子に対して「ねえ、百合子、僕が日本語を喋ろうとするとき、なんでいつも英語で答えるの?」「でもさ、こうして一緒に住んでるし、僕はやっぱ、もうちょっと日本語を使いたくて、僕は、百合子と日本語で喋ってみたいなって思ってて」と訴えるシーン。それに対して百合子は次のように答える。「あなたにはボクが似合いませんよ」「わたしは、英語を喋るあなたが好きです。かっこいいです」(pp.147-148)。百合子自身にも海外留学経験があるにもかかわらず、この無神経な応答に私は驚く。これは後述する「外国人」の〈モノ化〉にも直結する問題である。なお、「ボク」のような人称代名詞の問題も、ケズナジャット文学の大切なテーマのように思われる。英語ではすべて「I」や「you」に回収されてしまう、日本語の豊かな人称は、英語とは異なり、文法範疇ではなく、どこまでも語彙的要素である。「鴨川ランナー」の中で、英会話学校の生徒のイマムラさんについて、「日本語だとどの一人称を使っているだろう。私? 俺?」と主人公が想像を巡らせるシーン(p.72)などは、人称の問題にとどまらず、〈翻訳〉の問題とも関わる。本稿で詳しく触れる余裕はないが、ケズナジャット文学にとって〈翻訳〉も重要な論点だろう。例えば、「オマモリがアミュレットになるとき、何かが失われてしまうのではないか」(p.14)という問題提起はそれ自体が〈翻訳〉なるものの営みへの根源的懐疑の表現である。
3 鈴木孝夫(1975)『閉された言語・日本語の世界』、新潮社。「鴨川ランナー」は小説とはいえ、1970年代に書かれた同書とさほど状況が変わっていない21世紀の日本社会を描出しており、私は愕然とせずにはいられない。
4 ブーバー、マルティン(1979)『我と汝・対話』、植田重雄訳、岩波書店
5 例えば、「異言」には、百合子とマイケルの次のような対話が出てくる:「その意味で、あなたがとても羨ましいです」、「羨ましいですか? なんで?」、「もとから英語が話せたからです。世界のどこに行っても、話が通じます。どこでもありのままの自分でいられます」(p.139)。さらに『開墾地』でも、イラン出身の父親が、ペルシャ語を習いたいという息子ラッセルに対して、こう言い放つ:「ラッセルは英語が話せる。きみはまだ分かってないだろうが、それは実はとても幸運なことだよ。外国語を勉強しなくてもどこにでも行ける。どこに行っても、言いたいことを言えない苦しさはない。だから、ペルシャ語なんか学ぶ必要はない。きみは自由だから」(pp.76-77)。
6 臨床心理学者の東畑開人は、「わかる」には2種類があるとし、ひとつは「知識に当てはめて、相手をパターンに分類していく「わかる」」、もうひとつは「内側から、相手がどのような世界を生きているかを「わかる」」だと述べている(東畑開人(2022)『聞く技術 聞いてもらう技術』、筑摩書房)。文学を読む快楽は、そのどちらにも跨っているが、「鴨川ランナー」を読みながら総じて私は後者のほうをより強く感じた。
7 トゥアン、イーフー(1993)『空間の経験:身体から都市へ』、山本浩訳、筑摩書房
Illustration: Maiko Suzuki