第5回:イーユン・リー
中国語を母語とする英語表現作家イーユン・リー(李翊雲)は、1972年、中国は北京の生まれ。父親は核開発の研究者で、核開発研究所の施設の中で育った。母親は教師。文化大革命のさなかに出生し、17歳の頃に天安門事件が発生したことは彼女の人生に強い影響を与えたものと想見される。高校卒業後、北京大学に進んだ才媛だが、入学するや思想教育のために軍に入隊させられ、軍事訓練を受けることとなる。その後、アメリカのアイオワ大学大学院に進学して免疫学の修士号を取得、博士課程にまで進学したが、「本当は作家になりたい」ということにはたと気づき、同大学大学院修士課程創作科に編入して、修士号を取得する。在学中の2003年に「不滅(原題:Immortality)」という短編が『パリス・レビュー』に掲載され、翌年、プリンプトン新人賞を受賞、脚光を浴びた。「不滅」は代々宦官を宮廷に捧げてきた町そのものを〈主体=わたしたち〉とした物語であり、東アジア的共同体の曰く言い難い悲哀を時間縦断的に描き切っている。2005年にはデビュー短編集『千年の祈り(原題:A Thousand Years of Good Prayers)』を刊行し、フランク・オコナー国際短編賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ガーディアン新人賞などを受賞した。2009年には初の長編『さすらう者たち』を出版、2010年には『ザ・ニューヨーカー』誌上で注目の若手作家「40歳以下の20人」のひとりに選出され、同年秋には「天才賞」と呼ばれるマッカーサー・フェローシップの対象者にも選ばれている。爾来、『黄金の少年、エメラルドの少女』、『独りでいるより優しくて』、『理由のない場所』、『もう行かなくては』などの佳品を上梓し、篠森ゆりこの翻訳を通して、日本語圏でも多くの読者を獲得している。未邦訳だが、絵本やエッセイ集なども発表しており、また、2022年には長編The Book of Gooseを開板した。現在は、プリンストン大学の教授も務めている。2012年にはアメリカ国籍を取得した1。
まず、イーユン・リーについて論ずる上で着目したいのは、リーがすべての作品を英語で書いているという点である。非母語で書くということは、母語では書かないということを必ずしも意味しない。世界的に見れば、母語と非母語のあわいを
「私は中国に生まれ、自分の感情を表現できない言葉の中で育ちました。たとえば、私は生まれてから一度も中国語で「I love you」を意味する言葉を発したことがありません。一方で、英語では子どもたちが毎日のように言っている。そして子どもたちも私に、「I love you」「ママ、愛してるよ」と言ってくれる。しかし、絶対に自分の母語では言えないんです。そのことを認識したときに、中国語で書けば自己検閲してしまうと思いました」
「共感いただけると思いますが、作家にとって、決してよいことではないですよね。私たちはどんどん表現したいのですから、避けてしまう言葉が存在することは、その真逆にあります。中国語は言いたいことを言えなくしてしまう、独特の状況にあります。中国語で書くすべての作家が自己検閲しているとは思いませんが、私には中国語と心理的な距離があるということです」
「自己検閲」してしまうがゆえに生じる母語との
「英語で話すと話しやすいの。わたし、中国語だとうまく話せないのよ」
「自分の気持ちを言葉にせずに育ったら、ちがう言語を習って新しい言葉で話すほうが楽なの。そうすれば新しい人間になれるの」
しかし、「新しい人間」になることは、全き「別人」として生まれ変わることとは少し違う。「どれほど一貫性のない人物だろうと、その人は一貫してその人自身だ」とリーもエッセイに書き記しているように5、〈わたし〉は〈わたし〉であって、デジタル的に生き直すことはできない。国家からは転脱できても、自分自身を
「私はある種のとても極端というか強烈な、こんなことを書きました。中国語を捨て、英語で書くことはある種の自殺だと。それは過去を切り捨てることです。別の言語を選ぶことは、別の人間になるためではなく――私はまだ自分自身なので――それは人工的な始まりなのだと思います。ほら、生まれたときに、生まれたいと頼んだりしませんでしたよね。その始まりは私たちに与えられました。でも人工的な始まりは、私が私のものではない言語を使うことです。それを選びとって、書くために使うことです」
母語とは〈回視の言語〉である。しかし、それゆえに、そこには陰性の記憶も焼き付けられているのが普通であろう。幸福度の濃淡こそあれ、純粋に幸せな記憶のみに彩られた生は、現実的にはあり得ないからである。我々は母語によって多かれ少なかれ傷つけられている。受傷機転が不明でも、母語が惹起する何がしかの
しかしながら、英語の世界の住人となっても、祖国たる中国は影のようにつきまとう。表現言語は英語でも、
リーの作品には、前述の「不滅」をはじめ、私には着想が奇抜に感じられるものが頻見される。ときに常軌を逸し、中には読後に
ところで、作家としての華麗な経歴とは裏腹に、彼女の私生活は困難に満ちたものだった。鬱病を患い、2012年には2度の自殺未遂をする。自殺の対人関係理論では、自殺企図に繋がる要素のひとつとして「所属感の減弱」が挙げられるが、「アウトサイダー」としての彼女の立ち位置と希死念慮や自殺未遂には何らかの関係があったのだろうか。2016年には師でもあり友人でもあった作家のジェームズ・アラン・マクファーソンとウィリアム・トレヴァーが相次いで幽明界を異にし、かてて加えて、2017年には16歳の長男が自殺した。そして、我が子の自死という筆舌に尽くしがたい悲しみの中、彼女は『理由のない場所(原題:Where Reasons End)』という小説を書き始める。息子が亡くなってわずか数週間後のことである。「自死した少年とその母親が生と死の境界を越えて会話を交わし、それを母親が小説として書く」という設定になっており、小説とはいえ、リー自身の姿とどうしても二重写しになる。そうした不幸の中でも執筆を続けるタフさと、国や言語のみならず、生死という究竟の境界をも文学の力で越えてみせる
リーの作品には〈孤独〉が渦巻いているというのはよく指摘されるところである。彼女は、〈孤独 solitude〉と〈寂しさ loneliness〉を区別している。前者は「常に一人でいることを自分で選び取るもの」で「楽しめるもの」だが、後者は「感情であり、楽しめるものではない」という11。哲学者のハンナ・アーレントも「ひとりでいること」を〈孤立 isolation〉、〈孤独 solitude〉、〈独りぼっちであること loneliness〉に鼎分しているが12、〈孤独〉と〈独りぼっちであること〉は、リーの言う〈孤独〉と〈寂しさ〉の区分と酷似している。アーレントは、孤独を「一者のうちにある二者」とも表現しており、それは自己内対話が生成される強力な磁場と言ってよい。これは、哲学者のモーリス・ブランショの「同じ1つのことを言うためには2人の人間が必要である」という言辞をも想起させるが13、要するに、〈書くこと〉は複数の〈わたし〉が行なう営為であり、そのためには〈孤独〉であることが要請されるということである。そしてそれは自らの中に他者を住まわせるということにほかならない。リーの場合には、「中国語を捨てた」とは言いつつも、思考のベースには中国語が伏流しており14、彼女の〈わたし〉はさらに重層的である。こうした〈多重分裂的なわたし〉によって〈書くこと〉が駆動されているのは、リーに特異的ではなく、すべての〈母語でないことばで書く人びと〉に共通した特徴であろうが、際立って〈孤独〉を感じさせる彼女の作風に接するとき、私はこの〈わたし〉の重層性を強く感じる。
最後に、特記すべきこととして、リーの作品群と他の作家のそれとの〈響き合い〉について触れておきたい。リーは、彼女の才幹を見出した辣腕編集者ブリジッド・ヒューズによるインタビューの中で、「物語を書いたら、その物語が外へ出かけていって他の物語と語り合うというふうに考えたいんです。私の物語が世に出て自立するための場をウィリアム・トレヴァーの物語が作ってくれたので、私の物語はたえずトレヴァーの物語と語り合っています」と述べている15。実際に例えば、「黄金の少年、エメラルドの少女」は、トレヴァーの「三人」という短編と語り合うような形で書かれている。つまり、彼女の紡ぎ出す物語は独存しているわけではなく、他の本たちと呼応し、共鳴し合っているということである。これは、詩人の管啓次郎の「本に「冊」という単位はない」ということば16を思い起こさせる。あらゆる書物はそれ自体では完結しておらず、常に他の書物群へと接続されている。書架に
・書誌情報
『千年の祈り』、イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳、新潮社、2007年
『独りでいるより優しくて』、イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳、河出書房新社、2015年
『さすらう者たち』、イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳、河出書房新社、2016年
『黄金の少年、エメラルドの少女』、イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳、河出書房新社、2016年
『理由のない場所』、イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳、河出書房新社、2020年
『もう行かなくては』、イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳、河出書房新社、2022年
・注
1 イーユン・リーの経歴については、『千年の祈り』(新潮社、2007年)をはじめ、リーの邦訳の末尾にそれぞれ付された篠森ゆりこの「訳者あとがき」が参考になる。本稿の執筆においても参照している。
2 リー、イーユン×川上未映子(2016)「「孤独」でしか描けないこと」、『文藝』2016年秋季号、河出書房新社
3 サピア、エドワード(1998)『言語:ことばの研究序説』、安藤貞雄訳、岩波書店
4 リー、イーユン(2007)「千年の祈り」、『千年の祈り』、篠森ゆりこ訳、新潮社
5 リー、イーユン(2017)「友よ、私の人生から、あなたの人生を生きるあなたに書き送ります」、篠森ゆりこ訳、『文藝』2017年冬季号、河出書房新社
6 シンボルスカ、ヴィスワヴァ(2002)「一目惚れ」、『詩集 終わりと始まり』、沼野充義訳、未知谷
7 篠森ゆりこ(2020)「訳者あとがき」、リー、イーユン『理由のない場所』、篠森ゆりこ訳、河出書房新社
8 姜信子(2015)『はじまりはじまりはじまり』、羽鳥書店
9 中国語文学者の濱田麻矢は、リーのインタビューを参照し、次のように整理している:「リーは10歳で国を出たいと思ったが、それを両親にはひた隠しにして、まずは化学専攻というキャリアを積むことにしたという。16歳で『チャタレイ夫人の恋人』をよくわからないまま英語で読んだという彼女にとって、英語と英語文学は、自分の国/家への反抗の手段であったのだ。彼女の自述を言葉通りに受け止めてよいかどうかはともかく、かなり早くから彼女が誰にも言わずに出国の意思を固めていたのは間違いないだろう」(濱田麻矢(2015)「北京で語られるアメリカ像:宗璞の1949年、イーユン・リーの1989年」、『中国21』43、愛知大学現代中国学会編、東方書店)
10 リー、イーユン×川上未映子(2016)「「孤独」でしか描けないこと」、『文藝』2016年秋季号、河出書房新社
11 リー、イーユン×川上未映子(2016)「「孤独」でしか描けないこと」、『文藝』2016年秋季号、河出書房新社
12 アーレント、ハンナ(2017)『全体主義の起原 3 全体主義(新版)』、大久保和郎・大島かおり訳、みすず書房
13 内田樹(2012)『街場の文体論』、ミシマ社
14 それは例えば、作中に中国の諺や言い回しが登場することなどからも窺える。
15 篠森ゆりこ(2016)「訳者あとがき」、リー、イーユン『黄金の少年、エメラルドの少女』、篠森ゆりこ訳、河出書房新社
16 管啓次郎(2011)『本は読めないものだから心配するな(新装版)』、左右社
17 管啓次郎(2011:263)によれば、早世した編集者の津田新吾は「本の島」なるものを構想していたという。ここで私が「島嶼群」という表現を用いたのは、そこから着想を得ている。
18 インゴルド、ティム(2014)『ラインズ:線の文化史』、工藤晋訳、左右社
Illustration: Maiko Suzuki