第9回:ジェフリー・アングルス
韓国語研究者として詩の「翻訳」という問題をしばしば考える。例えば、
翻訳とは、ある言語を別の言語へと移し替えることだが、言語体系が異なる以上、形態素のレベルでさえ1対1の写像的反訳は現実的にはあり得ない。プラーグ学派の言語学者セルゲイ・カルツェフスキーが
詩のかかる特殊性を考えたとき、詩は果たして言語を「越境」することができるのだろうか。自ずとそうした素朴な問いが
ジェフリー・アングルスは、1971年、アメリカ合衆国のオハイオ州コロンバス市に生まれた。15歳のとき、高校の交換留学生として初めて来日。下関に3か月ほど
詩集『わたしの日付変更線』について、アングルスは「自分の意識の中で交差し、縦横に動く複数の境界線を検討する実験」だと述べている(p.144)。しばしば聞見する「境界など存在せず、それはどこまでも人為的なものに過ぎない」といった類の言論を
〈ここでは 合掌をすると/手が少しだけ軽く感じる/前に進むと足は必ず躓かない/生まれた国を失っても/言語を失っていないことに/わたしたちは ここで気づく/どこの国でもない言葉が/意外に 口から流れてくる〉(pp.25-26) (「無縁という場」)
言語の連続性と混淆性については本連載の
〈二人のわたしはため息を漏らし/部屋は沈黙に戻ってしまう/シーツの上でおどおどして/お互いの手を取り/そしてしばらく天井を仰ぐ/やがて 抱きあい/赤の他人のように愛撫しあう/一個の完全な人格になれるように〉(p.34) (「翻訳について」)
〈その日が来る とあなたも既に推測している/だから あなたの皮膚に這い込むとき/あなたは 驚いたり怖がったりしない//そのときに わたしたちは ようやく/同じ顔で 同じ声で 話せる いつか/外というものがあったことさえ忘れる〉(pp.41-42) (「同居人」)
日本語固有の単語から着想を得て書かれた作品もある。例えば、「親知らず」という詩である。アングルスは生まれてすぐに養子に出されたため、44歳まで産みの母の名前も行方も知らなかったという。そのような彼の来歴と「臼歯の角度から先祖の出身国が読める」という歯科医の発言からこの詩は誕生した。「親知らず」は英語ではwisdom toothであって11、英語の発想からは到底生じないアソシエーションである。日本語だからこそ宿った出色の詩と判じてよい。このように、英語による創作では
「母語というのは、空気のようなもので、描写しようとしている事柄を、あまりに素直に述べることができてしまう。しかし、同じことを他言語でしようとすれば、絶妙なズレが生じたり、ぎこちなく聞こえたり、自分の想像していなかったニュアンスがふと入ってきたりする。そういうズレこそ、私は面白いと思う。」(p.144)
この一節は極めて重要である。母語の磁場には思考と言語の間の
現代の日本語文学にとって、ジェフリー・アングルスという詩人の存在は至極頼もしく、この事実は百たび強調されねばならない。終わりに、ほかならぬ「境界」と名付けられたアングルスの詩の印象的な一節を紹介して、筆を擱きたい。
〈見えないことは/いないことと/同じではない/いないからこそ/見る、感じるものがある/その静かに存在を/呼び起こす不在から/何かが生まれる〉(pp.128-129) (「境界」)
・書誌情報
『わたしの日付変更線』、ジェフリー・アングルス著、思潮社、2016年
・注
1「シニフィアン(能記)」とはもともとフェルディナン・ド・ソシュールの用語。「意味するもの」の意で言語記号の「音形」を指す。一方で「シニフィエ(所記)」は「意味されるもの」の意で言語記号の「意味」を指す。記号(シーニュ)はシニフィアンとシニフィエを併せ持つという二重性を有する。
2 批評家のマーク・フィッシャーは「まるでハンバーガーをほしがるような感じでニーチェを読もうとする学生もいる」と述べているが(フィッシャー、マーク(2018)『資本主義リアリズム』、ブロイ、セバスチャン・河南瑠莉訳、堀之内出版)、これは時代のシンボリックな指摘である。SNS時代にあって、即時回答、即時解決を日常とし、(対象関係論の術語を援用すれば)妄想分裂ポジション的な二元的思考を内面化して、〈躁鬱的ヘドニズム〉に浸りきった若者たちにいかなる処方箋を提示していけばよいのかは、私も教育者として日々模索し続けている問題である。
3 若松英輔(2023)『光であることば』、小学館
4 姜信子(2023)「訳者あとがき:ああ、なんてこと、キム・ソヨン!」、キム・ソヨン(2023)『数学者の朝』、姜信子訳、クオン
5 外山滋比古(2015)『大人の思想』、新講社
6 髙塚謙太郎(2023)『詩については、人は沈黙しなければならない』、七月堂
7 「少年愛」をテーマに、村山槐多や江戸川乱歩などを関説したもの。
8 アングルスは、日本の詩人や小説家の英訳を数多く手掛けているが、伊藤比呂美と高橋睦郎を一番よく翻訳しており、とりわけこのふたりの影響を強く受けているという。そして、「影響とは一種の愛であり、自分の考え方と声とを根本的に変える可能性を提供してくれる」と述べている(アングルス、ジェフリー(2023)「愛とA・I」、『現代詩手帖』66(10)、思潮社)。こうした〈ミメーシス的感染〉は言語習得においても創作においても非常に重要だと愚考する。日本語で詩を書き始めるきっかけも伊藤比呂美の勧めだったという。詳細は柴田元幸+ジェフリー・アングルス(2017)「境界線を越える詩の旅へ:『わたしの日付変更線』をめぐって」(『現代詩手帖』60(5)、思潮社)を参看されたい。
9 アングルスの翻訳家としての仕事は主に日本語から英語への翻訳だが、英語から日本語への翻訳も端麗である。例えば、雑誌『すばる』に掲載された、アングルスによるエミリー・ディキンソンの詩の試訳の格調の高さには唯々唸るほかない:〈望みとは 羽あるものなり/たましひの中に宿りて/言葉なき節を/絶えず 歌ふ//風強ければ 最も美し/その多くの心を暖めたる/小鳥をば 傷つける嵐あれば/なんと惨きものなるか//寒き国にも 未知の海にも/その声 われは聞きしことあれど/小鳥は戸惑ひても われに一度も/少しの口餌も 頼みたることなし〉(柴田元幸+管啓次郎+ジェフリー・アングルス(2013)「鼎談 翻訳という怪物」、『すばる』35(2)、集英社)。また、石内都の写真集『肌理と写真』(求龍堂、2017年)に寄稿されたアングルスの写真評「歴史のシミ」も興味深いので、一読を勧めたい。
10 小池昌代(2016)「ミシガンの冬の匂い」、柴田元幸・小池昌代・高橋睦郎(2016)『ジェフリー・アングルス詩集『わたしの日付変更線』栞』、思潮社
11 フランス語でも「親知らず」はdent de sagesseであり、「知恵の歯」の意。日本語にも「智歯」という語はあるが、日常的には「親知らず」が一般的であろう。因みに韓国語では「サランニ」《愛の歯》という。
12 一般に詩は、現代詩作家の荒川洋治も言う通り、詩人各人の持っている個人的なことばで、説明抜きに書かれるものである。この点で詩は小説とは大きく異なる。詩とは「特定しない一般的な言葉を丸ごと読者の前に投げだすことによって、金沢が郷里の人も福井生まれの人も、赤い花を好きな人も白い花がお気に入りの人も結びつけ」るものである(荒川洋治・伊藤玄二郎(2000)「対談:賢い人間を育む文学」、伊藤玄二郎編『言葉は踊る』、かまくら春秋社)。つまり、詩に綴られることばは一般抽象性が高く、読み手の想像力を掻き立てるもので、読み手ごとに多様なイメージを湧出させるものである。これは個々人の存在、経験、記憶の蓄積(すなわち個人史)が唯一無二であるということとも強く結びついている。詩人の管啓次郎が「言葉というものはもともと確定力が弱くて(たとえば「犬」と書かれてもどんな犬かすら特定できない)その弱さに立って書かれるのが文学作品の貧しさ」と述べているように(管啓次郎(2013)『ストレンジオグラフィ』、左右社)、言語というものは本来的に不確定性や一般抽象性を有しているが(この点で言語芸術はジャンルを問わず多かれ少なかれ詩的言語である)、この不確定性、一般抽象性が極限にまで高められたものが詩という文学形態であると言えるだろう。同時に、抽象性の高さが齎す「分からなさ」も詩(延いては文学全般)にとって重要であり、管啓次郎は「文学という精神的態度の本質は「理解できない」/ということにあるので/いろいろなことを理解できる人は/どんどん文学から脱落していい」と断言しているほどである(管啓次郎(2021)「文学とは何か」、『詩集 PARADISE TEMPLE』、インスクリプト)。
Illustration: Maiko Suzuki