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母語でないことばで書く人びと

第9回:ジェフリー・アングルス

 


 

韓国語研究者として詩の「翻訳」という問題をしばしば考える。例えば、金素雲キムソウン訳の『朝鮮詩集』。陶然とするような流麗なる日本語訳はもはや翻訳というよりも、翻訳的創作、すなわちポイエーシスである。あるいは、呉銀オウンのような「言語遊戯」を特徴とする詩人によって書かれた詩の修訳。

翻訳とは、ある言語を別の言語へと移し替えることだが、言語体系が異なる以上、形態素のレベルでさえ1対1の写像的反訳は現実的にはあり得ない。プラーグ学派の言語学者セルゲイ・カルツェフスキーが闡明せんめいしたように一言語内においてさえシニフィアン1とシニフィエは非対称的なのだから、それが言語を跨ぐこととなれば事態はさらに複雑怪奇化する。だとすれば、翻訳の本分は意味の移植であって、ゆえに、翻訳という行為は起点言語の大意の把握、すなわち「要約」をその過程に必ず内包する。しかしながら、詩は基本的に〈摘記てっき不可能〉である。何となれば、詩は目的から自由だからである。昨今、多くの人々にとって読書は目的論的な営みであり、目的が先行すると、本は約言された「あらすじ」として読まれやすくなる2。だが、詩はそうした手段としての読み方を峻拒しゅんきょする。詩は「作る」ものではなく、「生まれる」もの(若松英輔)であり3、そこに目途もくとや再現性はないと断じてよいだろう。文学批評の世界においては〈テクスト〉と〈ストーリー〉を区別するが、詩はストーリーに回収して読むことはできず、テクストが醸し出す滋味じみきくすべきテクスチャー=質感を感覚的に味到するほかない。その意味で、作家の姜信子が「詩は読み解くものではなく、生きるもの」と確言したのは肯綮こうけいあたっている4。「分析はいわば破壊である」とは英文学者の外山滋比古の言だが5、これは詩についても同断だろう。我々は「詩については、沈黙しなければならない」(髙塚謙太郎)のである6 

詩のかかる特殊性を考えたとき、詩は果たして言語を「越境」することができるのだろうか。自ずとそうした素朴な問いが胎生たいせいする。そして、その問いへの応答のように、境域で詩を紡ぐ人びとがいる。同時代の日本語圏であれば、田原でんげん、アーサー・ビナード、ジェフリー・アングルスといった詩人たち。本稿では、そのうち、ジェフリー・アングルスを紹介することにしたい。

ジェフリー・アングルスは、1971年、アメリカ合衆国のオハイオ州コロンバス市に生まれた。15歳のとき、高校の交換留学生として初めて来日。下関に3か月ほど逗留とうりゅうし、日本語を学び始めた。その後、オハイオ州立大学で日本語と国際関係学を専攻し、同大学大学院で日本近現代詩を研覈けんかくする。神戸松蔭女子大学にも学び、国際日本文化研究センター客員教授、西ミシガン大学助教授などを経て、現在は同大学の教授を務めている。2011年には東京大学客員教授として来日し、翻訳理論を講ずるが、東日本大震災によって帰国を余儀なくされ、その体験は「停電の前の感想」、「地震後の帰国」といった詩にも彫刻されている。『現代詩手帖』や『ミて』、『妃』などといった媒体に詩を発表し、詩集としては『わたしの日付変更線』がある。同書は第68回読売文学賞詩歌俳句賞を受賞しており、詩壇の評価も高い。日本文学の研究書としては、博士論文7をベースにした著書Writing the Love of Boysがあり、また、震災詩英訳アンソロジーThese Things Here and Now: Poetic Responses to the March 11, 2011 Disasters、さらには多田智満子、伊藤比呂美、新井高子などの英訳選詩集、折口信夫の『死者の書』や高橋睦郎の自伝小説『十二の遠景』の英訳を上梓するなど8、翻訳家としても精力的に活動している9

詩集『わたしの日付変更線』について、アングルスは「自分の意識の中で交差し、縦横に動く複数の境界線を検討する実験」だと述べている(p.144)。しばしば聞見する「境界など存在せず、それはどこまでも人為的なものに過ぎない」といった類の言論を獅子吼ししくするのは容易たやすい。しかし、それがしんば共同幻想的な切り分けであろうと境界は少なくとも機能的な次元では実在する。「西へ」、「東へ」、「過去へ」、「現在へ」、「未来へ」という5つのチャプターから成るこの詩集は、言語によって時空を自在に往還し、境界の既在を確認しつつも、その自明性を揺るがさんとする壮図である。境界線をめぐる詩を通じたかような稽査けいさは、詩人であると同時に翻訳者として常に「きわ」に佇立ちょりつする彼にしか不能な営為だと言ってよかろう。詩人にして小説家の小池昌代は「二つの国、二つの言語のあいだを、詩人は行き来しながら書いている。だがこの人の本当の住処は、一編の詩のなかにあると言ってみよう。詩という土地で、ジェフリー・アングルスはようやく「一つ身」になる」と考説しており10、私もきっとそうに違いないと推察する。「人は国ではなく、言語に住んでいる(On n’habite pas un pays, on habite une langue)」とは『告白と呪詛』に出てくるエミール・シオランのあまりにも有名な言辞だが、言語の界面に身を置く者は往々にしてことばが命綱となり、それを自己のよるべとして生きていくものである。

〈ここでは 合掌をすると/手が少しだけ軽く感じる/前に進むと足は必ず躓かない/生まれた国を失っても/言語を失っていないことに/わたしたちは ここで気づく/どこの国でもない言葉が/意外に 口から流れてくる〉(pp.25-26) (「無縁という場」)

言語の連続性と混淆性については本連載の劈頭へきとう回でも論及したが、アングルスの詩を読んでいると、ことばが混じり合うイマージュがリアルに沸き起こり、それはあたかも生き物同士が漸近ぜんきんして合体する瞬間を目睹もくとするが如くである。

〈二人のわたしはため息を漏らし/部屋は沈黙に戻ってしまう/シーツの上でおどおどして/お互いの手を取り/そしてしばらく天井を仰ぐ/やがて 抱きあい/赤の他人のように愛撫しあう/一個の完全な人格になれるように〉(p.34) (「翻訳について」)

〈その日が来る とあなたも既に推測している/だから あなたの皮膚に這い込むとき/あなたは 驚いたり怖がったりしない//そのときに わたしたちは ようやく/同じ顔で 同じ声で 話せる いつか/外というものがあったことさえ忘れる〉(pp.41-42) (「同居人」)

日本語固有の単語から着想を得て書かれた作品もある。例えば、「親知らず」という詩である。アングルスは生まれてすぐに養子に出されたため、44歳まで産みの母の名前も行方も知らなかったという。そのような彼の来歴と「臼歯の角度から先祖の出身国が読める」という歯科医の発言からこの詩は誕生した。「親知らず」は英語ではwisdom toothであって11、英語の発想からは到底生じないアソシエーションである。日本語だからこそ宿った出色の詩と判じてよい。このように、英語による創作では胚胎はいたいし得ない思考を体現するためにアングルスは日本語で詩を物しているのだろうと想見されるが、詩人自身は日本語による詩作の理由を次の如く具述している。

「母語というのは、空気のようなもので、描写しようとしている事柄を、あまりに素直に述べることができてしまう。しかし、同じことを他言語でしようとすれば、絶妙なズレが生じたり、ぎこちなく聞こえたり、自分の想像していなかったニュアンスがふと入ってきたりする。そういうズレこそ、私は面白いと思う。」(p.144)

この一節は極めて重要である。母語の磁場には思考と言語の間の斥力せきりょくが足りない。翻って、非母語の場合はそれが強力に働く。そして、斥力に抗しながら書くことはある種のハプニングを生み出す。さらに、こうしたハプニングは、母語、非母語を問わず、詩を書く際には必然的に発生するものである。使い古されていない非日常的なシンタグマ(連辞)によって生成される偶発的な響きと情調、差延。不確定性と一般抽象性をその特性とする詩というジャンルにあって12綴文ていぶんする言語が非母語であればこそ、より一層書き手の意図との複層的な懸絶けんぜつが生じ、それは当該言語を編み直し、その輪郭自体をきしませることにも繋がっていく。

現代の日本語文学にとって、ジェフリー・アングルスという詩人の存在は至極頼もしく、この事実は百たび強調されねばならない。終わりに、ほかならぬ「境界」と名付けられたアングルスの詩の印象的な一節を紹介して、筆を擱きたい。 

〈見えないことは/いないことと/同じではない/いないからこそ/見る、感じるものがある/その静かに存在を/呼び起こす不在から/何かが生まれる〉(pp.128-129) (「境界」)

 


・書誌情報
『わたしの日付変更線』、ジェフリー・アングルス著、思潮社、2016年

 

・注
1「シニフィアン(能記)」とはもともとフェルディナン・ド・ソシュールの用語。「意味するもの」の意で言語記号の「音形」を指す。一方で「シニフィエ(所記)」は「意味されるもの」の意で言語記号の「意味」を指す。記号(シーニュ)はシニフィアンとシニフィエを併せ持つという二重性を有する。

2 批評家のマーク・フィッシャーは「まるでハンバーガーをほしがるような感じでニーチェを読もうとする学生もいる」と述べているが(フィッシャー、マーク(2018)『資本主義リアリズム』、ブロイ、セバスチャン・河南瑠莉訳、堀之内出版)、これは時代のシンボリックな指摘である。SNS時代にあって、即時回答、即時解決を日常とし、(対象関係論の術語を援用すれば)妄想分裂ポジション的な二元的思考を内面化して、〈躁鬱的ヘドニズム〉に浸りきった若者たちにいかなる処方箋を提示していけばよいのかは、私も教育者として日々模索し続けている問題である。

3 若松英輔(2023)『光であることば』、小学館

4 姜信子(2023)「訳者あとがき:ああ、なんてこと、キム・ソヨン!」、キム・ソヨン(2023)『数学者の朝』、姜信子訳、クオン

5 外山滋比古(2015)『大人の思想』、新講社

6 髙塚謙太郎(2023)『詩については、人は沈黙しなければならない』、七月堂

7 「少年愛」をテーマに、村山槐多や江戸川乱歩などを関説したもの。

8 アングルスは、日本の詩人や小説家の英訳を数多く手掛けているが、伊藤比呂美と高橋睦郎を一番よく翻訳しており、とりわけこのふたりの影響を強く受けているという。そして、「影響とは一種の愛であり、自分の考え方と声とを根本的に変える可能性を提供してくれる」と述べている(アングルス、ジェフリー(2023)「愛とA・I」、『現代詩手帖』66(10)、思潮社)。こうした〈ミメーシス的感染〉は言語習得においても創作においても非常に重要だと愚考する。日本語で詩を書き始めるきっかけも伊藤比呂美の勧めだったという。詳細は柴田元幸+ジェフリー・アングルス(2017)「境界線を越える詩の旅へ:『わたしの日付変更線』をめぐって」(『現代詩手帖』60(5)、思潮社)を参看されたい。

9 アングルスの翻訳家としての仕事は主に日本語から英語への翻訳だが、英語から日本語への翻訳も端麗である。例えば、雑誌『すばる』に掲載された、アングルスによるエミリー・ディキンソンの詩の試訳の格調の高さには唯々唸るほかない:〈望みとは 羽あるものなり/たましひの中に宿りて/言葉なき節を/絶えず 歌ふ//風強ければ 最も美し/その多くの心を暖めたる/小鳥をば 傷つける嵐あれば/なんと惨きものなるか//寒き国にも 未知の海にも/その声 われは聞きしことあれど/小鳥は戸惑ひても われに一度も/少しの口餌も 頼みたることなし〉(柴田元幸+管啓次郎+ジェフリー・アングルス(2013)「鼎談 翻訳という怪物」、『すばる』35(2)、集英社)。また、石内都の写真集『肌理と写真』(求龍堂、2017年)に寄稿されたアングルスの写真評「歴史のシミ」も興味深いので、一読を勧めたい。

10 小池昌代(2016)「ミシガンの冬の匂い」、柴田元幸・小池昌代・高橋睦郎(2016)『ジェフリー・アングルス詩集『わたしの日付変更線』栞』、思潮社

11 フランス語でも「親知らず」はdent de sagesseであり、「知恵の歯」の意。日本語にも「智歯」という語はあるが、日常的には「親知らず」が一般的であろう。因みに韓国語では「サランニ」《愛の歯》という。

12 一般に詩は、現代詩作家の荒川洋治も言う通り、詩人各人の持っている個人的なことばで、説明抜きに書かれるものである。この点で詩は小説とは大きく異なる。詩とは「特定しない一般的な言葉を丸ごと読者の前に投げだすことによって、金沢が郷里の人も福井生まれの人も、赤い花を好きな人も白い花がお気に入りの人も結びつけ」るものである(荒川洋治・伊藤玄二郎(2000)「対談:賢い人間を育む文学」、伊藤玄二郎編『言葉は踊る』、かまくら春秋社)。つまり、詩に綴られることばは一般抽象性が高く、読み手の想像力を掻き立てるもので、読み手ごとに多様なイメージを湧出させるものである。これは個々人の存在、経験、記憶の蓄積(すなわち個人史)が唯一無二であるということとも強く結びついている。詩人の管啓次郎が「言葉というものはもともと確定力が弱くて(たとえば「犬」と書かれてもどんな犬かすら特定できない)その弱さに立って書かれるのが文学作品の貧しさ」と述べているように(管啓次郎(2013)『ストレンジオグラフィ』、左右社)、言語というものは本来的に不確定性や一般抽象性を有しているが(この点で言語芸術はジャンルを問わず多かれ少なかれ詩的言語である)、この不確定性、一般抽象性が極限にまで高められたものが詩という文学形態であると言えるだろう。同時に、抽象性の高さが齎す「分からなさ」も詩(延いては文学全般)にとって重要であり、管啓次郎は「文学という精神的態度の本質は「理解できない」/ということにあるので/いろいろなことを理解できる人は/どんどん文学から脱落していい」と断言しているほどである(管啓次郎(2021)「文学とは何か」、『詩集 PARADISE TEMPLE』、インスクリプト)。

 

Illustration: Maiko Suzuki

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著者略歴

  1. 辻野 裕紀

    九州大学大学院言語文化研究院准教授、同大学大学院地球社会統合科学府准教授、同大学韓国研究センター副センター長。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。誠信女子大学校人文科学大学(韓国)専任講師を経て、2012年に九州大学へ着任。専門は言語学、韓国語学、言語思想論。文学関連の仕事も。人文学一般、教育、医療、幸福、アートなどにも幅広く関心がある。著書に『形と形が出合うとき:現代韓国語の形態音韻論的研究』、共編著書に『日韓の交流と共生:多様性の過去・現在・未来』(いずれも九州大学出版会)がある。東京の神田神保町にある書店PASSAGE by ALL REVIEWSに「辻野裕紀の本棚」を展開中。音声プラットフォームVoicyで「生き延びるためのことばたち」という番組も配信している。

    Twitter:@bookcafe_LT
    Instagram:@tsujino_yuki

    Photo ©松本慎一

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