電車の中のチマチョゴリ
自分の体から追い出される
ユニ・ホン・シャープさんは、在日コリアン3世として東京で生まれました。その後、2017年にフランス国籍を取得し、それ以降はフランスと日本を拠点にアーティストとして活動しています。つまり、ユニさんは、元在日コリアンです。今回は、ユニさんの国籍とアイデンティティティをめぐる旅について、身体論の立場から考えてみたいと思います。
え、国籍やアイデンティティは社会の問題じゃないの? 身体とは関係ないんじゃない?
私も、あるときまではそう思っていました。障害や病気こそ身体論のテーマであって、国籍のような社会制度的な問題は身体とは関係ない、そこから生じるアイデンティティの問題も、せいぜい社会学か心理学の領分だ、と。
けれども、国籍やアイデンティティの問題は体の問題でもある、ということを身をもって経験するできごとがあったのです。
あるアジアの都市を訪れたときのことです。滞在していたホテルが大通りに面していて、週末にそこを封鎖し、数百人規模の集会が開かれていました。ステージの上でマイクを持った人が演説し、横断幕が張られ、通行人にビラが配られています。私はその国の言葉は分からなかったので推測することしかできませんでしたが、どうやらその国のトップに批判的な人たちが開催している政治集会のようでした。
私は街を散策したかったので、その人だかりを避けるように歩道の脇を歩いて行きました。と、集会場の一画にモノクロの写真が展示されているコーナーがあり、そこに「Japan」の文字が見えます。そこだけ英語で説明がなされていたのです。私は特に深く考えず、何となくその仮設の写真展を見に行きました。
そこにあったのは、日本軍が戦争中に彼らに対して何をしたのかを示す写真でした。折り重なる遺体の山を写した写真、人が人を踏みつけている写真、人の首が5つも6つも木の枝のようなものにぶら下げられた写真……どれも目を覆いたくなるようなものばかりです。それらの写真の真偽のほどは私には判断できませんが、日本がかつてこの土地を支配していたことは事実であり、そのことに対する激しい憎しみと怒りが、その展示空間に満ちていることが一瞬で理解できました。
とっさに、私は強い恐怖を覚えました。私の服装や顔かたちは、この土地の大部分の人たちと大きくは違いません。おそらく見た目だけで考えれば、私はここにいる群衆に違和感なく紛れ込むことができるでしょう。でももし、何かのきっかけで、この集会に参加している人たちに、私が日本人であるということが知れたら? 例えば急に彼らの言葉で話しかけられ、答えられなかったら? それをきっかけにして私が、彼らに対してかつて加害行為をした日本という国の人間だということが分かったら?
もしそうなったら、この集会に満ちている憎しみと怒りのエネルギーが、自分という人間をめがけて一気に爆発するかもしれない。そう感じました。彼らの憎しみと怒りは、まるでそうなるきっかけを探しているように感じられたのです。彼らに非難され、告発されたら、私は日本人として何かを答えるなんてできないでしょう。そのことがいっそう彼らの感情に火をつけるかもしれない。言葉で責められるだけではなく、挙句の果てには車道に引きずり出されて暴力を振るわれるかもしれない……。ちょっと大袈裟かもしれませんが、そんな恐怖さえ感じたのです。
そのときに私が感じたのは、暴徒化しつつある彼らに対する恐怖であると同時に、自分自身の体に対する恐怖でした。彼らの憎しみと怒りの標的になる、この体を手にしていることが怖い。この状況から逃れる一番安全な方法は、幽体離脱でもして、この危険な体から一刻も早く逃げ出すことでしょう。でも、もちろんそんなことはできません。
と同時に、私は自分の体から自分が追い出されるような感覚にも襲われていました。自分が日本人であるというだけで、自分には直接身に覚えのない歴史や出来事の責任をとらされる。自分の名前や職業、これまでにしてきたことが無価値になり、私の存在がただ「日本人」というラベルとしてしか見られなくなる。自分のものであるはずの体に、私自身が安らっていられない。私はびくびくしながら、急いでその場を立ち去りました。
ユニさんにお会いしたのは、そんな出来事があった前後でした。人が私としてではなく国籍として、あるいは人種として見られるという経験。それは社会的な問題であると同時に、個人の身体感覚として経験されるものです。それはいったいどのようなものなのか、ユニさんに聞いてみたいと思いました。
体がキュッってなる
ユニさんが生まれたのは1980年代です。家は東京都内の在日コリアンがたくさん住んでいるエリアにありました。小学校、中学校と総連系の学校に通学。つまり幼少期のユニさんは、日本人よりも在日の友達の方が多い生活をしていました。
大きな変化があったのは中学1年生のときです。入学してすぐ、当時ニュースでも大々的に報道されたチマチョゴリ切り裂き事件が起こります。チマチョゴリ切り裂き事件とは、朝鮮学校の女子生徒が制服として着ていた民族衣装チマチョゴリが、登下校中に電車の中などで何者かに切り裂かれるという事件です。全国で22件の被害届が出されましたが、そのほとんどにおいて犯人はつかまっていません。
当時、ユニさんはちょうど東京の郊外に引っ越していたので、学校への通学は長い時間電車に乗る必要がありました。他の学校の生徒から「中の肉もちょっと切れた」なんていう話が飛び交うなか、チョゴリを着ての通学にかなり恐怖を感じていたと言います。「そのころ北朝鮮のミサイルの発射もあったせいか、朝鮮学校へ嫌がらせの電話がかかってきたりとか、チョゴリが切られる事件があって、学校の中が警戒態勢に入っていた記憶があります」[1]。
日本においてチョゴリの制服を着るということは、言うまでもなく、自分が朝鮮学校の生徒であること、そして在日であることを公共の場で宣言することを意味します。それは、自らの文化に対する誇りを示す行為である一方、そのような事件が頻発する状況下では、刃物をもつ犯人に対して獲物の位置を自ら示すこと、少なくとも短期的には自らの体を危険にさらすことに他なりません。特に、最後まで在日としてのアイデンティティに確信が持てなかったユニさんのような人にとっては、「誇り」を深く実感できない分、恐怖の意味をいっそう強く感じることになりました。
それは一言でいえば、「この人は自分に敵対する人かもしれない」という前提で、あらゆる人と接しなければならないという状況です。たとえば電車に乗る瞬間。もしかしたら乗った車両のすぐそこに、たまたま排外主義的な思想をもった人間がいるかもしれません。わかりやすい運動家ではなかったとしても、在日に対してネガティブな考えを持っている人物が隣に立ってくるかもしれない。電車の車内は密室です。何かあっても、駅に着くまでは逃げられません。ユニさんは、電車という空間のどこに自分の体を置くと安全か、常に気を使っていたと言います。「チョゴリを着て電車の中に入った瞬間の、まわりの人の表情とかで、電車のどこに立つのか、端っこにいるのか、座るのか考えていました」。
空間のどこへでもずかずかとためらいなく入っていける人は、その社会におけるマジョリティです。一方、入っていける場所と入っていけない場所があったり、ここは自分がいて大丈夫な空間だろうかという不安とともに生きている人は、マイノリティです。ユニさんは、電車が混んでいるときは、席が空いても座ることにためらいがあった、と言います。「「朝鮮人なのに座っている」とか言われたら嫌だなとか思ってましたね」。とにかく常に周りに気を使い、身構えて、安全かどうかを確認しながら行動する。その緊張は非常に強く、怖くて通学中に頭が真っ白になってしまうこともあった。チマチョゴリ切り裂き事件をきっかけに、ユニさんはそのような行動様式を習慣として身につけるようになります。
そして、その習慣はチョゴリを着なくなってからも残り続けることになります。たとえば自己紹介で自分の名前を口にしたときの相手の表情の変化。インタビューのあいだ、繰り返し出てきたのは「体がキュッってなる」という表現でした。自分のバックグラウンドが知られるとき、相手がどう反応するか身構えて緊張する、その一瞬の「キュッ」です。「たぶん人の顔色を読むのがめっちゃ上手くなっていると思います。それもあまりよくないと思うんですけど、つい「怖い」という気持ちが先にたっちゃうので」。「在日もいろいろあるんですけど、私の場合は、怖さというか、身構えて、人の顔色を見て、大丈夫そうだったら進んでいく、みたいなのをチョゴリを着ていたときからずっとやっているんですよね」。
習慣化された作業
中国系ベトナム人難民の娘としてオーストラリアに生まれた哲学者のヘレン・ンゴ(呉莉莉)は、『人種差別の習慣――人種化された身体の現象学』(小手川正二郎、酒井麻依子、野々村伊純訳、2023年、青土社)において、人種差別を例にとり、差別がいかに「意志」のような意識的なものが問える手前、つまり身体レベルで起こる出来事であるかを論じています。差別は、する側にとっても、される側にとっても、身体の習慣、つまり無意識的な体の使い方のレベルにまで、深く組み込まれたものなのです。
同書では、たとえばエレベータでのエピソードが紹介されます[2]。元のエピソードはジョン・ヤンシーが自身の本で紹介しているものですが、おそらくアメリカの多くの黒人男性が経験しているものでしょう。ヤンシーはエレベータを待っています。エレベータが来てドアが開き、黒人男性のヤンシーがエレベータの中に入っていきます。すると、そこにすでに乗っていた白人女性がハンドバックをぐいっと自分のほうに引き寄せるのです。自分より体の大きな黒人男性と隣り合い、暴力や犯罪の予感から無意識的に身を守ろうとする白人女性。ヤンシーは当然、その一瞬の差別的な仕草に気がついています。相手の顔色をうかがい、どこに自分の体を置くかを調整しつづけるという点で、ヤンシーの経験はユニさんのそれに通じるものです。
人種のステレオタイプを当てはめられやすい人々は、自分に向けられる差別的なまなざしを先取りして、相手の警戒心を解除するための工夫をすることを強いられている、とンゴは言います。「人種化のたいていは平凡な性質ゆえに、こうした類の人種化してくる介入を頻繁に経験する人々は、特別でないときでも身体的な振る舞いに応じたり、それを予期したり、適応したりすることに熟達していくよう学習しなければならない」[3]。要するに、何か明確な暴力や衝突が起こっていなくても、差別的なまなざしに対応するようなふるまいが習慣化させられている、と言うのです。
そのような対応の例としてンゴが参照しているのは、「口笛でヴィヴァルディ」の事例です。シカゴに住むある黒人男性は、夜に街を歩くときに、自分とすれ違う人が恐怖を感じているのを見てとります。みな、目を逸らしたり、道の反対側に渡ってしまったりするのです。そこで、自分が「暴力沙汰を起こしがちな黒人男性」のステレオタイプに当てはまらないことを示すために、彼はいつしかヴィヴァルディの『四季』を口笛で吹きながら歩くようになるのです。ヴィヴァルディといえば、言うまでもなく、白人ハイカルチャーを象徴する作品です。それをあえて吹くことによって、自分が「そっち側の人間」であることをアピールするようにしていたのです。中には、すれ違いざまに微笑む人さえいたと言います。
恐怖をかきたてたという理由で銃を向けられたり、警官に羽交い締めにされて命を奪われることさえある社会では、相手を安心させるためのこうした戦略は、自分の身を守るために必要不可欠なものです。わざと大学のロゴ入りの服を着たり、体を小さく見せるために猫背で歩いたり……他にもいろいろな差別的なまなざしを解除するための「作業」を、黒人男性たちは日常的に行なっているとンゴは言います。それは一方的に強いられた不当な負担です。そして、まさに差別のような一見社会的な問題が、差別する側だけでなくされる側においても、習慣のレベルでその振る舞いを規定していることを示す好例だと言えます。
フランスのアジア人として生きる
ユニさんの話にもどりましょう。在日でありながら在日コミュニティの中でも居場所を見つけることができなかったユニさんは、高校からはコミュティの外に出ることを決意します。切り裂き事件ひとつとっても、朝鮮学校での捉え方と日本社会での捉え方の間にギャップがあると感じていたのです。「在日の世界ではこう言っているけど、日本ではこういう感じになっていて、本当はどうなんだろう」と揺り動かされる感じが常にあった。「不安定さに耐えきれない、つぶれちゃいそう、と感じていて。日本、朝鮮、韓国の亀裂……亀裂って言っていいのか分からないけど、そこに落ちて身動きがとれない感じでした」。
中学を卒業し、高校、大学と日本の学校に通いましたが、身動きがとれなくなる感じは続き、ユニさんは海外に出ることを決意します。そしてフランスに渡航。フランスにいれば、日本人だろうが韓国人だろうが在日だろうが、「アジア人」というざっくりしたカテゴリの中で、それらの違いは意識されなくなるからです。「だれも在日のことなんて知らないので、「みんなに紛れられるって楽」って思いましたね」。道で「ニーハオ」と声をかけられたらいやがる人もいるけれど、ユニさんは気にせず「ニーハオ」と答えていたそうです。
ただ、海外渡航する前に、ユニさんは籍を朝鮮籍から韓国籍に変更していました。これは少なくない在日の方が経験することですが、朝鮮籍だと海外に行くときの手続きが大変なので、家族みんなで韓国籍に変えるのです。念のため、朝鮮籍とは1910年の韓国併合によって日本国籍にされた人が、日本の降伏後も引き続き日本に居住するための便宜上の籍のこと。朝鮮半島分断以前の籍なので、北朝鮮国籍というわけではありません。
韓国籍の取得は、ユニさんにとっては「強いパスポートをとっていく」という事務的なもので、アイデンティティと結びついた決断ではありませんでした。つまり、「国籍が変わったからといって自分が変わるわけではない」という思いがあった。でも一方では、海外に行くことで、二つの国の間の亀裂にはまり、押しつぶされていた状況から脱出したいという思いもあった。自分のアイデンティティの問題に対して、軽さと重さという矛盾した感情が同居していた、とユニさんは振り返ります。
こうして韓国籍を取得したユニさんは、晴れてフランスに居を構えます。出産を経て今度はフランス国籍を取得し、名実ともに「在日であること」から解放されることに。そのときの気分を、ユニさんはこう話します。「私の気を楽にしてくれたフランス人になって、アイデンティティの問題なんて片付けた、くらいに思っていたんです。キュッてなることもなくなったし、韓国人の友達とも日本人の友達ともフランス語でしゃべれば、在日っていうことなんて別に気にしなくてもよくなったんですよね」。
体は片付いていなかった
ところが、2023年に初めてユニさんは韓国を訪れ、滞在するうちに、再びあの「亀裂」にスポンと落ちる経験をします。韓国訪問は、作品制作のためのリサーチが目的でした。私がユニさんにお会いしたのも、このユニさんの韓国滞在中でした。
ユニさんによれば「体にとっては終わってなかった」。アイデンティティの問題は、フランスにいるときに頭では片付けたと思っていたけど、韓国に来たら体がまたキュッと緊張するようになったのです。「体は片付いてなかったって思いました」。
たとえばこんなことがありました。リサーチのために、ソウルの植民地歴史博物館に行ったときのこと。受付で、ユニさんは何気なく「どこから来ましたか?」と聞かれます。受付の人は単にパンフレットを渡すために使用言語を確認したかっただけのようなのですが、ユニさんは頭の中が真っ白になってしまった。何も答えられなくなってしまったのです。「植民地歴史博物館という場所で、私は日本語をしゃべります、日本人です、っていうことを言う重さがまずあり、朝鮮語は読めるけど意味がよく分からない、昔韓国人だったけどそれはまた別、それでフランスから来ましたっていうのも、在日コリアンという過去があって、そのリサーチで植民地歴史博物館に来ているのでできない、日本語をしゃべりますって言って日本人と思われるのもいやだったんです」。
ぐるぐると頭のなかで考えているうちに、ユニさんはふたたびあの亀裂に落ちて身動きがとれなくなっていました。習慣として体に刻まれていたあの緊張感が、ちょっとしたことがトリガーとなって、また発動してしまったのです。結局、韓国語が理解できないと思われたのか、受付の人に渡されたのは英語のパンフレットでした。しかしユニさんは、その後わざわざ頼んで韓国語と日本語のパンフレットももらったと言います。「なんでこんなこだわり行動しているのかな」。アイデンティティの問題というと本人が意志によって選びとるもののようにとらえられがちですが、自分でも不可解なほど、ユニさんの体はユニさんを亀裂の底に引きずりこもうとしました。
そこからユニさんは体調をくずしてしまいます。まず、言葉がしゃべれなくなってしまった。スーパーに言ってもうまく言葉が出ず、日本語を話しかけられても返せない。韓国語も日常会話くらいならできたはずなのに、発音がおかしい気がしてだまってしまう。英語もしゃべりにくい。まるで吃音の難発のような状況です。
加えて食がおかしくなった。ずっと、食堂に行けなかったのです。食堂は美味しいと聞いていたので、気持ちとしては行きたいと思っていたのに、どうしても入ることができない。カフェなら行けるのに、韓国料理を食べることができなかったのです。「なんか取り入れる気がしなかった。明確に分かっていたわけじゃなくて、だからトラウマ的なものとはちょっと違うんだと思うんですが、たぶん避けていたんですよね、韓国的なものを。それがなぜなのかっていうのは分からないけど、守ろうとしていたんですかね」。
そんな出来事が重なり、せっかくリサーチに来たにもかかわらず、ユニさんは引きこもりのような状態になってしまいました。明確な暴力や衝突がないときにも、体は自分を守ろうとしてさまざまな反応を示します。「取り入れる気がしない」。食は信頼と直結した行為です。食べて取り入れることは、相手を認めることでもある。それをしようとする瞬間に立ち上がる拒絶は、ユニさんが日本で感じていた、自分のバックグラウンドが相手に知られるときの「キュッ」という緊張感と通じているのかもしれません。
済州島と鷹男くん
ソウルでの混乱した引きこもり状況のなかで、ユニさんは、自らを回復させるための処方箋を作り出すことを考えます。それは、お爺さんの出身地である済州島に行くこと。
もちろん、済州島に何か病を癒す不思議なパワーがあるわけではありません。「済州島に行くこと」と「体調が回復すること」は論理的にはつながりません。でも、リサーチで済州島に行き、ここで回復するんだ、とユニさんは考えた。「回復できるストーリーを自分で作って、乗っていこうとしました」。「韓国で落ち込んでいたときは本当に訳が分からなかったので、どうにかしなければならないと思って、理由をあたっていました。それで、今自分がリサーチしている「植民地主義の暴力」が、もしかするとパーソナルな形で体に発露しているのかもしれない、と済州島に行く飛行機の中で思って」。
実際、済州島はユニさんにとってとても心地がよい場所でした。ユニさんが私に分かるように翻訳してくれた印象では、ソウルの滞在場所は「品川区のような高いビルのある灰色の場所」だったけど、済州島は建物が低くて「沖縄のような場所」だった。「ここだったらこの国と友達になれるかも、と思いました。それで、もしこの国が友達だったら友達が作ったもの食べたいよな、と思い込むことで回復しようとしていたんです」。ユニさんは済州島で食堂に行ってみることを決断します。すると、大して食欲もなかったのに、おかわりまでもらうことができた。それが大丈夫だと安心するきっかけになり、緊張がほぐれていきました。「フランスで大丈夫だってなったみたいに、済州島でほどけだして、回復のストーリー成功したなって(笑)。それでソウルに戻って、ちょっと不安だったけど、大丈夫でした」。
さらに、ユニさんの済州島の旅には、道連れの仲間がひとりいました。それは「呉鷹男くん」という少年。仲間といっても、大江健三郎の小説『叫び声』(1963)に登場する虚構のキャラクターです。ただし、大江の「呉鷹男くん」にはモデルがいました。下敷きになっているのは1958年に起こった小松川事件の犯人。彼は当時18歳の在日コリアンで、殺人と強姦致死の事件を起こし、その後裁判で死刑判決を受けます。裁判当時、主に知識人のあいだで、在日コリアンの置かれている貧困や差別の問題やその背景にある「日本人としての責任」を問う議論が巻き起こっていました。
済州島にいるあいだ、ユニさんは、その「鷹男くん」と話していたといいます。もちろん実在する人ではないので、文字通りの対話はできませんが、ユニさんは、「鷹男くんがここにいたらどうかな」と想像しながら旅していた。鷹男くんはユニさんに重なる分身でありつつ、同時にユニさんとは違う存在でした。「彼が犯した罪は罪ですけど、孤独だったんだろうなあとか、当時の在日コリアンが置かれている状況は劣悪だったから辛かったのかなあとか。刑務所の中で、彼はもう僕は死刑でいいですと言っていて、恩赦を強く求めることはなかった。その彼の孤独感に自分を重ねていました」。
この連載では回復についてたびたび扱ってきましたが、そこには常に、凝り固まった常識をふっと踏み外すような出来事が起こっています。ユニさんの場合は、自分で回復のストーリーを作り、ある意味で自分に暗示をかけながら、そこに自ら乗っていくことによって回復していっています。そのストーリーは、たまたま機能したけれど、科学的な根拠も歴史的な裏付けもない、信用できない物語です。しかし回復が、これまでの自分ではない自分を発見することなのだとしたら、自分を自分で実験台にするような、半信半疑の態度から出発するのがむしろ有効なのかもしれません。
鷹男くんの存在は、ユニさんが立てたこの回復の仮説の行末を、ともに見守り、ときに支えてくれる存在だったのかもしれません。ユニさんにとって鷹男くんは、「リサーチの対象」ではなく「一緒にいる相手」だと言います。自分が新しい自分になるための、そのゴールも足元も見えない未開の土地に踏み出すための、いわば杖のような存在。
思い出すのは、弱視の研究者であるジョージナ・クリーグにとってのヘレン・ケラーの存在です。クリーグは、『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』(中山ゆかり訳、フィルムアート社、2020年)のなかで、ヘレンと架空の往復書簡を交わしています。ヘレンはもう亡くなっているので、鷹尾くんと同様、じかに手紙を交わすことはできません。そこで、「ヘレンだったらこう感じるだろう」という内容をクリーグが想像して、手紙を書いているのです。
クリーグがヘレンに向けて書く手紙の基調は「怒り」です(そもそもこの本の原題は「Blind rage(盲目的な怒り/盲人の怒り)」)。というのも、クリーグは、そしておそらく多くの視覚障害者は、ヘレン・ケラーの偶像に苦しめられて育ってきたからです。「ヘレンは目も見えず、耳も聞こえないのに、あんなに立派なことをした、あなたもがんばりなさい」。本の冒頭で、クリーグははっきりとこう述べています。「私がこの本を書いたのは、ヘレン・ケラーという名の、私個人にとっての悪霊を追い払うためだ」。まさにクリーグも、自らがとらわれている呪縛から回復するために、ヘレン・ケラーをその旅の不可欠な道連れとして召喚しているのです。
怒りは、当人を不安定にする感情です。この往復書簡に登場する怒りは、クリーグのヘレンに対する怒りであると同時に、そのクリーグの怒りに挑発されて解放されたヘレン自身の怒りでもあります。常に聖人君子として振る舞うことを要求されてきたために、外に出すことが許されなかった怒りの感情。それをヘレンから引き出すことで、クリーグは偶像の向こう側にいるヘレンに出会い、そして和解しようとします。
クリーグ自身は、この往復書簡の試みを、「創造的ノンフィクション」と呼んでいます。クリーグの場合は、完全な想像でヘレンの手紙を書いているわけではなく、資料にもとづきつつ、対話や描写といった文学的な手法を用いて、その内容をありありと描き出しているからです。ただし、フィクションとノンフィクションの境界はつねに曖昧です。クリーグがヘレンと同じ視覚障害者だからこそ想像できる事実というものも、もちろんあるでしょう。つまりクリーグは「ありえたかもしれない現実」を描きだしています。クリーグもここで、自ら回復のストーリーを作りだしています。
ユニさんと鷹男くんの関係は、まだ現在進行形で動いているようです。実在の人間と架空の人物のあいだにも人間関係があります。ここでは結論めいたことは言わず、その結末を静かに待ちたいと思います。
[1] ユニ・ホン・シャープさんへのインタビューの全文はこちらで読むことができます。
[2] ヘレン・ンゴ(小手川正二郎、酒井麻依子、野々村伊純訳)『人種差別の習慣――人種化された身体の現象学』、2023年、青土社、pp. 51-53
[3] 前掲書、p. 148