朝日出版社ウェブマガジン

MENU

一番身近な物体

キツネのランピィ

 

緑色のキツネ

 

 ふわっふわの緑色の毛にとがった黒い耳。お腹の毛は生クリームみたいに真っ白で、近づくとほのかに柔軟剤のような爽やかな香りがする……。

 あるイベントで初めて対面でお会いしたとき、ばけもさんは、オリジナルの緑色のキツネのキャラクター「ランピィ」としてあらわれました。そう、足の爪から頭の先まで全身を覆う着ぐるみを着ていたのです。

 最初の印象は「わ、裸だ!」でした。もちろん着ぐるみを着てはいるのですが、ディズニーの多くのキャラクターのように服をつけてはいません。尻尾もあって動物のようではあるけれど、二本脚で立っているから人間にも見える。目は覗き込めないものの、声でのコミュニケーションはできます。そして何より毛並みが美しく、思わず手でふれたくなるような輝きを放っています。初めて感じるオーラを前にして、全身が覆われているにもかかわらず、なぜか何も身につけていない人を前にしたようにドギマギしてしまう――そんな混乱した印象が、私が感じたランピィの第一印象でした。

 ばけもさんは、よく「すがた」という言葉を使います。「わたくし、ばけもという名前で活動しております。で、今のすがたはランピィという名前がついています」。つまり、ばけもさんはいつもこの緑色の着ぐるみを着たランピィのすがたであるわけではなく、「草原のすがた」と彼が呼ぶ別のすがたのランピィになったり、はたまたヒトのすがたになったり、いくつかのすがたを行ったり来たりしているのです。「いろいろな名前やすがたかたちを複数もっている」とばけもさんは言います。[1]

 確かに、私たちは、生きて死ぬという生き物の営みとしては、たったひとつの物理的な体と紐づけられています。その体は私だけのものであって、臓器移植のような例をのぞけば、他の人がそれに紐づけられることはありません。家族や同僚のような親しい人も、この物体を私として認識しているし、初めて会ったコンビニの店員さんも、この物体を通して、私とコミュニケーションをとろうとします。

 一方「すがた」はどうでしょうか。髪型を変えたり、新しい服を着たりすると、私たちの見た目の印象は変わります。年をとることによるすがたの自然な変化や、妊娠や病気による急な変化もあるでしょう。さらにVTuberやメタバースなどバーチャルの世界となれば、実社会とは違う性別になれるばかりか、ロールケーキのすがたで友達と会ったり、スカイツリーとしてお出かけすることもできます。生き物としての「体」と「私」の関係は固定的かもしれないけれど、「すがた」と「私」の関係は、もっと可変的なものです。

 ばけもさんは、そんな「すがた」の可能性を探索している方です。しかも、あくまで物理的なレベルで探索している。バーチャルなアバター等を利用した変身ではなく、着ぐるみという物理的なすがたの変化にこだわっています。なぜなら、ばけもさんにとっては、着ているときの身体感覚の変化が、大きな意味をもっているから。身体感覚の変化を通じて、「現在のすがた」と「私」の結びつきがゆるみ、別のすがたに、そして複数のすがたを行き来する状態に、移行することができる。今回は、そんなばけもさんのすがたと身体感覚に迫ってみたいと思います。

 

擬人化ではなく擬獣化

 

 ばけもさんは、いわゆる「ケモナー」さんです。

 ケモナーとは、動物を擬人化したキャラクター=ケモノを愛好する人たちのこと。ただしケモナー=着ぐるみを着ている人というわけではなく、イラストや小説など楽しみ方はさまざまで、むしろ着ぐるみの方が新しい文化です。日本では1990年代にコミケなどの同人文化から生まれたとされていますが、広がりは日本だけのものではなく、むしろ北米やヨーロッパに多くのファーリーファン(Furry fandom)がいます。毎年夏にピッツバーグで開催されているファーリーのコンベンション「アンソロコン(Anthrocon)」には、2023年開催時で1万3000人以上の参加者があったと報告されています。

 もっとも、動物の擬人化といっても、その度合いはさまざまです。人間のすがたに動物の耳と尻尾をつけたようなケモノ度が低いものもあれば、体毛や鼻口部を再現したもの、あんこ(詰め物)つきの着ぐるみで体型そのものを人間から遠ざけたものなど、ケモノ度が高いものもあります。しかし一般に「ケモノ」と呼ばれるのは、ケモノ度の比較的高いキャラクターのこと。ばけもさん曰く「よくケモ耳はケモノじゃないみたいな感じで言われたりする」そうです。

 その証拠に、ばけもさんは当初、「擬人化」ではなく「擬獣化」という言葉でケモノを説明してくれていました。つまり、動物を人間化するのではなく、人間を動物にすること、人間から離れることに、ケモノ文化の特徴があるのだ、と。服を着ていないことも、ランピィががあくまで動物であることのひとつの象徴でしょう。「ケモ耳を好きな人ってだいたいどちらかというと、いわゆる人間のキャラクターが好きで、その人間のキャラクターのかわいい要素の一つとしてケモ耳を捉えている人が多いと思うんですよ。で、ケモナーの人たちっていうのは、ちょっとこれは極端ですけど、人間は別に好きじゃない(笑)。動物のそのキャラクターが好きなのであって、人間は別に好きじゃないので、ケモ耳っていうところにあまり魅力を感じないことが多くて。結構差別化されていることが多いですね」。

 このようにケモノ度=人間からの離脱度に関してはある程度のコンセンサスがある一方で、実際の造形におけるケモノのリアリティに関しては、かなり自由度があるように見えます。アニメのキャラクターのように大きい目をした水色やピンク色のケモノを好む人もいれば、野山を駆け巡る野生動物さながらのリアルなケモノを好む人もいる。イメージとしては、ディズニー映画「ズートピア」に出てくるようなウサギやタヌキのキャラクターと、実物のウサギやタヌキが仲良く共存しているような感じでしょうか。また、ケモノといっても必ずしも毛が生えた哺乳類だけではなく、鳥類や爬虫類、中にはイルカのような水棲生物やドラゴンなどの架空のキャラクターを愛好している人もいます。ケモノの世界はかなり多様性に富み、包容力があるように感じます。

 そんなケモノの世界にばけもさんが最初に関心をもつようになったのは、中学生のときのこと。入り口は、好きだったゲームの音楽をアレンジする同人音楽のコミュニティに、ケモナーの人がいたことだそうです。特にケモノのイラストに興味を持ち、ネットで探すようになった。その後、高校生になるとコミケで同人誌を買うようになりますが、同人誌活動を介してケモナーたちと交流をしたり、当時日本でも開催され始めていた自作の着ぐるみで集まるイベントなどに参加することは、まだありませんでした。「ちょっと違う世界だなあっていうのがあった」とばけもさんはいいます。

 しかし、大学、大学院と進学し、博士課程に進んで研究で悩み始めたとき、「ただずっと勉強と研究しかやってこなかったので、逃げ場所がなくなっちゃった」ことに気づいた。そのときにばけもさんが救いを求めたのが、ケモナーの人たちでした。それで、ケモナーだけが集まるイベントに参加してみると、それまで「ちょっと違う世界」だと思っていたその場所が、「ぼくもその一人だ」と思える場所に変わっていた。「ケモノを好きだっていう中で、ケモノに対する憧れが出てくる人たちが一定数いて、ぼくもその中の一人で、ぼくもケモノのすがたになりたいって思うようになった」。

 特にばけもさんがいいなと思ったのが、着ぐるみを着て、自分のすがたを変えて交流している人たちでした。すでに着ぐるみを持っている人にお願いして試着させてもらう経験を数回経て、2017年ついにオリジナルの着ぐるみを工房に発注します。ただし、ランピィくんにふさわしいきれいな緑色のフェイクファーがなかなか見つからなかったり、「着ぐるみバブル時代」とも言われる人気のせいで、ようやく完成したのはその2年後でした。いまでは無事にランピィくんのすがたを手に入れ、ケモノイベントに参加するどころか、その運営メンバーとしても活躍しています。ちなみに、着ぐるみの現在の相場は、大手の工房だと60万円、高いものだと200万円するものもあるそうです。

 

コミュニケーションの基本はハグ

 

 一度だけ、ばけもさんが運営に携わっているケモノイベントに参加したことがあります。会場は、とある地方都市の、結婚式場や会議場を備えた大きなホテル。到着すると、ゴージャスな館内はすでに色とりどりの着ぐるみを着た人たちでにぎわっていました。公式発表によれば、参加者はなんと約2000人。もちろん全員が着ぐるみを着ているわけではありませんが、ざっと半分くらいの人が、ケモノのすがたで参加していました。ふだんは新郎新婦が歩くのだろう中庭を、ふわふわの毛にくるまれたかわいいケモノたちが埋め尽くしている様子は圧巻。初心者の私はいつもどおりのすがたで参加しましたが、そんな「ヒト」でも排除されることはありませんでした。

 イベントの開催期間は3日間です。コンベンション形式で、大型の学会のように、朝から夜まで30分刻みでびっしりと企画が詰め込まれています。「着ぐるみダンス発表会」「イラストコンテスト」「メスケモファッションショー」のような発表会的な企画もあれば、ポージングや動画の作り方を教えてくれる初心者向けの企画、ファーを染めた実験結果や経済学の視点からのケモノ分析が聞ける「じゆうけんきゅう」など、その内容はもりだくさんです。これだけの大きなイベントを運営するのは、ヒトのすがたでも相当大変ですが、ましてや視界も手の動きも制限されるケモノのすがたでとなったら……大変さは数段アップするに違いありません。

 参加してみて何より新鮮だったのは、人(ケモノ)の多さに比べて会場が静かであることでした。特にケモノたちの交流の場になっている中庭は、当時の動画を見返しても、風の音とかすかなざわめき声しか入っていません。理由のひとつは、マイクや拡声器が使われておらず、またBGMもないこと。マイクや拡声器、あるいはBGMは、場を仕切ろうとする運営側の意図、場合によっては「力の誇示」の象徴にもなります。けれどもここにはそれがない。一回おとずれただけの表面的な印象でしかありませんが、フラットで優しい雰囲気がただよっていたことを覚えています。

 会場が静かだったもうひとつの、そしてより大きな理由は、着ぐるみすがたのケモノが、ケモノゆえに、あまりしゃべらないことです。もちろん全くしゃべらないわけではありませんが、コミュニケーションの基本は、言葉ではなく「ハグ」と「ジェスチャー」なのです。

 特に「ハグ」の文化は印象的です。初対面の人(ケモノ)でも、言葉を交わさずに、そっとハグしてくれるのです。ふと目が合ったような気がして、ヒトの私が「ハグしていいですか?」と訊くと、肉球のある大きな手で私の頭をなで、胸や太ももにアンコが詰まっていたりするもこもこした体で、私の体を包み込み、そっとゆさぶってくれるのです。ケモナーさんは比率としては男性が多いので、もともと私より背が高い人ばかり。それが着ぐるみのせいでさらに大きくなっているので、ハグしてもらうと全身が毛にうずもれるようでした。

 初対面の人とハグすることは、少なくとも日本ではあまり一般的な挨拶のやり方ではありません。会場にいるあいだ、私は5人くらいのケモノさんたちにハグしてもらいましたが、お互い着ぐるみなしのヒトのすがたであったなら、ハグしあうことにかなりの抵抗感があったでしょう。着ぐるみがあっても最初はちょっと恥ずかしいのですが(「ケモ見知り」と言うそうです)、慣れてくると、無言の触覚的コミュニケーションがなんとも心地よくなってくる。ケモノ同士でも、ケモノとヒト同士でも、あちこちでハグのコミュニケーションが行われていました。

 コミュニケーションの方法でもうひとつ多いのは写真です。カメラやスマホを構えて「いいですか?」と訊くと、たいていは応じてポーズをとってくれます。尻尾が大きくて段差をあがるのに一苦労しているケモノさんがいたり、仲良し同士でとなりに座って膝枕してもらっているケモノさんがいたり……静かななかだからこそ、小さな出会いと親密な喜びにひたることのできる空間でした。

 すがたが変わることでコミュニケーションが変わり、コミュニケーションが変わることで他者との距離感が変化する。ケモノさんにハグされるたびに、ヒトとして生きていたときの緊張感が徐々にゆるんでいき、親密でやさしい、信頼ベースの触覚的な関係に変化していくのを実感します。その過程は、なんとも言えない開放感を感じると同時に、ふだんの人間関係がいかに無意識の緊張と敵対性をはらんだものであるかを実感する瞬間でした。そしてそれはとりもなおさず、物理的な「すがた」の力を実感する出来事でした。

 

ファーソナとキャラクター

 

 そもそもなぜ、一部のケモナーさんたちは着ぐるみを着るのでしょうか。擬獣化によって獲得した動物のすがたと、とはいえ人間である自分は、どういう関係にあるのでしょうか。

 ばけもさんによれば、「すがた」と「自分」の関係は大きく分けて二つのタイプがあるのではないかといいます。ひとつめのタイプは、「別の自分のすがた」として着ぐるみを着ている人。つまり「自分=着ぐるみ」である人。もうひとつのタイプは「別個のキャラクター」として着ぐるみを着ている人。つまり「自分≠着ぐるみ」の人。ばけもさん自身は、このうち前者のタイプだそうです。

 二つのタイプの違いを理解するうえで手がかりになるのが、ケモナーさん界隈では有名なファーソナという概念です。「ファーソナ fursona」とは、「毛 fur」と「人格 persona」を組み合わせて作られた造語。もともとは海外のファーリー・ファンダムから生まれた言葉ですが、日本のケモナー界でも頻繁に登場するようになっています。意味としては、その人が動物のすがたであらわれたもの。つまり、「自分=着ぐるみ」タイプの人にとって、着ぐるみを着たすがたは、自分のファーソナである、ということになります。

 ポイントは、「自分=着ぐるみ」タイプの人にとって、着ぐるみをきたすがた=ファーソナはあくまで自分であり、自分の延長であるということです。ばけもさんの例で言うなら、ばけもさんにとってランピィはばけもさん自身のファーソナ、「ばけもさんの別のすがた」なのであって、決して「パートナー」や「友達」ではない、ということです。ばけもさん曰く、ばけもさんとランピィは、あくまで「同一の存在」なので、「同じように暮らしをするし同じようにしゃべるしっていうかたちを崩さない」そうです。

 一方、「自分≠着ぐるみ」タイプの人にとって、着ぐるみを着たすがたは、その人のファーソナではありません。彼らは、むしろ自分とは違う別の存在になるために着ぐるみを着ているのであって、ばけもさんの整理によれば、それは一種の「コスプレ」です。着ぐるみを着たすがたは、その人の動物的あらわれとしてのファーソナではなく、ひとつの別個のキャラクターなのです。いわば、「憧れを形にしたもの」と言えばいいでしょうか。もちろん、既存のアニメの登場人物のような誰もが知っているキャラクターを演じるわけではなく、オリジナルのキャラクターを形にしているので、一般的なコスプレとは少しイメージが違うかもしれません。ばけもさんの表現によれば、「自分の憧れのキャラクターを世の中に生み出したいから着ぐるみを着る」というモチベーションがその背後にあるようです。

 両者の違いが明確に出るのは、「着ぐるみの貸し借り」の場面です。ばけもさんのようにファーソナとして着ぐるみを着ている人にとって、なにしろ着ぐるみは自分そのものです。ですから、それをおいそれと他人に貸す、ということはありえません。ばけもさんは明確に否定します。「ぼくにとってランピィは自分そのものなので他の人に着せるっていうことは考えられない」。

 一方、キャラクターとして着ぐるみを着ている人にとって、着ぐるみを貸すことは、ばけもさんのような意味での抵抗感は生じさせません。キャラクターは、本人とは「完全に切り分けられている」のであり、極端な言い方をすれば、「中の人は(イメージ通りの動きをしてくれるのであれば)だれでもいい」からです。実際、本人の意思で、他の人に着ぐるみを着てもらうという人もいるといいます。ばけもさんによれば、「自分がそのキャラクターに会いたいからという理由で他の人に着せる」人もいるそうです。

 

慣れていく時間/離れていく時間

 

 とはいえ実際には、ファーソナとしての着ぐるみと、キャラクターとしての着ぐるみは、常に明確に区別できるものではないのかもしれません。というのも、ファーソナとして着ぐるみを着ているばけもさんでさえ、最初からランピィが当たり前の存在として、つまり幼いころから常にそこにいる存在として一体化していたわけではなく、ある時点でランピィを見出し、ランピィと出会っているからです。そして、最初は距離があったランピィという存在が、しだいに自分と一体化するというプロセスを経験しているからです。

 そもそも、ランピィはどのようにして生まれたのでしょうか。ランピィのモデルは、シマギツネという、カリフォルニア沖の島に住んでいる耳の大きな小型のキツネです。ばけもさんの場合、自分にあった動物をいろいろ探すなかで、シマギツネと出会ったときにようやく「この動物だ」と思えたそう。

 理由は、まず離島に住んでいるから。「ばらばらで育っていて、かつちょっと他の人がいないような人里離れたようなところで暮らしているっていうところ」に惹かれたと言います。さらに「キツネがもっているちょっとずる賢いとかひねくれているというようなイメージ」も自分にあっていると感じたと言います。つまり、見た目というより特性に関して、ばけもさんはシマギツネと自分のあいだに類似性を感じた。

 しかし、実際のシマギツネとランピィのあいだには、まだかなり差があります。色だけ見ても、シマギツネの毛色は灰色とオレンジと白ですが、ランピィは緑と黒と白。顔の形や目鼻立ちも、生身の動物とヒトを擬獣化したケモノでは違いがあります。

 ランピィの場合、最初はまず二次元の絵から生まれました。つまりいきなり着ぐるみとして誕生したわけではなく、まずはランピィというキャラクターが誕生しているのです。絵を描いたのは、ばけもさんのことをよく知っているイラストレーター。「ぼくをイメージしてシマギツネモチーフでキャラの絵を描いてくれないか」といって、描いてもらったそうです。その後、その絵を着ぐるみの工房に持っていき、何度かやりとりを重ねて、納得のいくランピィのかたちを決めていったそう。[2]

 興味深いのは、ばけもさんが頻繁に「生まれる」あるいは「生まれてくる」という動詞を使っている点です。つまり、ばけもさんの実感としては、ランピィは決して自分に似せて「作った」わけではないし、「デザインした」ものでもないのです。ばけもさんは言います。「ぼく自身がもしファーソナの姿を取るとしたらどういう生物だろうなっていうのをいろいろ考えた結果、このシマギツネっていうのがぼくにふさわしいんじゃないかっていって、まず生まれてきて」。

 ここにあるのは、求めていたものが得られると向こうからやってきたように感じるという、能動が受動に転じるパラドクスです。ファーソナを探す作業は、無くした消しゴムを探すのとは違って、自分でも何を探しているのか分からないまま探す作業です。だから、見つかったときに初めて、自分が探していたものが何だったか分かる。そこには、「自分らしい」という納得感と、「そうか、求めていたのはこれだったんだ」という発見の驚きがあるはずです。もしかするとこれは、あらゆる自分さがしに共通した感覚なのかもしれません。

 しかしここで注目したいのは、「生まれる」「生まれてくる」という瞬間の、その「発見の驚き」の感覚です。なぜなら、そこには、出会いの感覚、つまり自分自身と、見出されたファーソナのあいだとの「距離」があるからです。実際、ばけもさんはこう語っています。「生まれてきた当時はやっぱりちょっと差があるんですね。でもだんだんその姿をとっていくうちに、やっぱりどんどん一致してくるみたいな感覚もありました」。

 つまり、今その人がファーソナだと思っているケモノも、最初からファーソナとして自分と一体化しているわけではなく、徐々に「なじんでいく」過程、あるいは「育っていく」過程がある、ということです。もちろん、キャラクターのように最初から最後まで自分とは異なる存在として対象化されているわけではないにしても、ファーソナとて一体であることが自明であるわけではない。「自分」と「着ぐるみ」の関係は固定的ではなく、おそらく「自分=着ぐるみ」と「自分≠着ぐるみ」のあいだに、両者の中間状態がスペクトラムのように広がっているのでしょう。そもそも「自分」という存在だって、固定的なものではなく、変化しています。

 実際、ばけもさんの知人で、自分で作ったファーソナを着ぐるみにして、4-5年それを着ているうちに、だんだん合わなくなってきてしまった、という人がいるそうです。「作った当時はもうちょい若かった。今ちょっと歳を取ってきて、なんかだんだん幼すぎるな、このファーソナが、幼すぎて自分とうまく合わない部分が出てきちゃっている」。「こういうふうにやっぱり人間成長する、歳を取ると、ちょっとずつ変わっていくので、それに合わせてペルソナもそうですし、ファーソナももちろんちょっとずつ変わっていくということはあるのかなと思います」。

 あるいは逆に、キャラクターのつもりで着始めたけれど、だんだんそれが自分の一部になってくるということもあり得るでしょう。自己認識は、年齢や意識の変化のように内発的なものだけではなく、まわりの人が自分をどう扱うかによっても変化していくものだからです。初対面の相手であれば、その人がファーソナとしてその着ぐるみを着ているのか、キャラクターとして着ているのか、外見上は区別がつきません。ハグは相手との接触面を通して自分の身体の輪郭の変化を確認する作業でもありますから、社交と通じて自己イメージが変化してく、ということもありそうです。

 

拘束ゆえの拡張

 

 さて、そんな「生まれてきた」ランピィに対し、ばけもさんは徐々に一体感を感じるようになります。ばけもさんにとって、この一体感を養ううえで重要な役割を果たしたのが、着ぐるみを着ているときの物理的な身体感覚でした。つまり、「自分=着ぐるみ」という等号は、「ファーソナ」という心理的かつ観念的な要素のみならず、着ているという感覚が最終的になくなるような身体の同化、ランピィの体こそ自分の体なのだと思えるような物理的な一致の感覚によってもまた、支えられているのです。

 「着ている」という感覚がなくなる。そう聞くと、一般にイメージされるのは、体に対する負担の少ない、さらっとしていて着心地のよい衣服かもしれません。しかし、ここでの話題は着ぐるみです。重さや通気性を考えても、「さらっとしていて着心地のよい」とはいきません。

 確かにばけもさんは、発注に際して、体への負荷が少ない着ぐるみを得意とする工房を選んでいます。「ぼくはファーソナとして着ぐるみを着たいというのがあったので、長く着られる、快適さを求めたんですね」。造形に関しても、なるべく動きやすいように、つめるあんこを3つだけにして、すらっとした体型にした。とはいえ全身スーツですし、頭にはかぶりもの、手足にも大きな肉球がついたグローブとスリッパで覆われています。基本は「拘束」の度合いが非常に大きい衣服です。

 ばけもさん曰く、「単純にまずひとつ、暑い、息苦しい、手足が不自由っていうことがあって、慣れない人はまずうまく呼吸ができないので、長く着ていられないですね」。ばけもさんも、しばらくは着ぐるみに慣れるための練習が必要だったそうです。「ランピィは……最初慣れるために、家で無駄に1日1時間着てみるとかそういうことを試行錯誤していって、徐々に自分の体に慣れていったっていう感じですね」。

 拘束されるということは、身体の可動域や、外界から入ってくる情報が、ふだんより大幅に制限されるということです。その制限された状態で、道を歩いたり、人とおしゃべりをしたりする(ちなみにばけもさんが最初に着ぐるみを着て企画したイベントはダーツ大会だそうです。わざわざ「ダーツを投げる」という細かい作業……)。重要なのは、ただ着るだけではなく、着た状態で行動をすることによって、拘束がまた違った意味を持ち始める、ということです。

 それは、「限られた情報を最大限活用し、ふだんと違う体をいかに使いこなすか」というタスクが生まれるということ。特に大きな変化は視覚です。

 着ぐるみを着た状態だと、視覚情報がほとんど入ってきません。たとえば小さい子供が足元にやってきたりすると、完全に死角に入ってしまい、子供の姿を見ることができなくなってしまう。それでも、その見えない状態で、触覚などの情報を頼りに、頭を撫でてあげたり、背中をさすったりしてあげなければなりません。「あまり視覚に頼らない、頼らなくなっていく」とばけもさんは言います。

 その証拠に、着ぐるみに慣れてくると、夜の明かりがないところでも、平気で歩けるようになると言います。「ぼくは近所に公園があったりして、たまに友達が来た時に、人がいないはずなので、人通りが少ないということで夜間に屋外撮影みたいな感じで、着ぐるみを着てふらふら歩いていくときがあるんですけど、照明のないところではまじで何も見えなくて。何も見えない中で進むのは結構慣れが、慣れがって言っちゃうあたりだいぶもう歩ける」。ランピィの足裏は薄くできているので、視覚よりもむしろ足の裏で感じる地面の感覚を頼りに歩くといいます。まるで、足の裏をサーチライトにして進む、目の見えない人の歩き方のようです。

 確かに、先述のイベントに行ったときにも、着ぐるみを着てダンスを踊っている人たちがいました。客席に対して顔を正面に向けるだけでもかなり難しいのではないかと思いますが、中にはかなりアクロバットな動きをしているケモノさんたちも。体の条件が変わった状態で動くことで、いつもと違う感覚が研ぎ澄まされ、どの情報に注意を払うかというリソースの配分が、「ヒト」のときとはだいぶ変わっているのではないかと思います。

 視覚から離れるという意味では、聴覚にも面白い変化が起こっています。かぶりものをしているので、生身の耳のあたりは覆われています。すると、頭の上にあるランピィのとがった耳のあたりから、音が聞こえるような感じがする、とばけもさんは言います。「音を聞く時になんかこの辺(頭の上の方)を使っているなっていう気がすごいするんですよね。抽象的に言うとなんか、むずむずするようなっていう感じですかね」。

 同じように、一体感が強い時には、着ぐるみの手の先で何かをさわると、まさに爪の先のところで触っている感じがする、とばけもさんは言います。それはまさに、自分の手がケモノの手になったように感じる、ということでしょう。あるいは何かをくぐるときに、耳の先がぶつからないように自然に頭を下げることができるようになったりする。身体イメージが変化したことで、情報の入り方も、その書き換わった身体イメージの上に再配置されています。

 興味深いのは、ばけもさんが、耳や爪といったランピィの体の「末端」に多く言及していることです。ばけもさんの表現を借りるなら、「尻尾の先から世界につながる」感覚。それはむしろ「拡張」である、とばけもさんは言います。拘束されているにもかかわらず、感覚としてはむしろ体が拡張していくのです。着ぐるみを着てしばらくすると起こる変化について、ばけもさんはこう語っています。

 

今でも着ぐるみを着たらすぐそういうふうになるっていうわけではなくて、だんだんだんだん一体化してくる、自分の体が拡張していく。拡張、もしくは変化していくっていうのがあって。その感覚が忘れられないから何度でも着ぐるみを着るみたいなところがあったりしますね。

 

 限られた情報と可動域で行動することで、いつもと違う種類と場所の感覚が敏感になり、体が拡張したように感じる。この節の冒頭で指摘したように、「自分=着ぐるみ」の等号は、物理的制約を介して、ヒトであるときとは違う感覚―運動パターンに移行するという身体感覚の変容によって支えられています。その移行が、身体が大きくなるという物理的な拡張に加えて、もとの身体を離れるという意味での解放をもたらしています。

 一体化がすすんだ最近のばけもさんは、ランピィが写った写真を、「鏡を見ているのと同じ感覚で見られる」と言います。着ぐるみを着はじめた頃は、ランピィの写真を見ると、「なんだろう」という不思議な感覚になっていた。しかし近頃では、「何の不自然もなく、「ぼくが動いているだけじゃん」と感じるようになった」。まさに、心理的にも物理的にも、内面的にも外面的にも、「自分=着ぐるみ」の等号がぴったり一致している状態です。

 

着ぐるみを脱ぐ

 

 しかし、この等号は永遠ではありません。着ぐるみを着られる時間にはどうしても限界があるからです。ばけもさんによれば、ヘッドを外して水を飲んだりすれば、5-6時間は着ていられますが、完全な姿で連続して着ていられるのは2時間ほど。トイレに行くタイミングではどうしても脱がなくてはなりません。

 そんな「脱ぐ」ときの感覚について、ばけもさんがためらいがちに語ったのは「引き剥がされるような感覚」でした。「自分が自分のいたいすがたでいることを、着ぐるみの制約によって止められてしまうということを、ものすごく苦痛だなと思っていて。理想は、なりたい時になって、ならなくていいかというところでやめるっていう。そういうことができるのが良いな」。おそらくは、脱ぐことのできないはずのものを、脱ぐことのできないはずのタイミングで無理やり脱がされている、ということなのでしょう。着るときに一体化するまで時間がかかったように、しばらくは身体感覚がランピィのパターンに拡張したまま、宙ぶらりんになってしまいそうです。

 物理的な身体感覚にも依拠しているからこそ、ばけもさんの「私」と「すがた」の関係は、繊細かつダイナミックに変化します。そこには、物理的なすがたが身体感覚を作り、作られた身体感覚がすがたを私のものにするという関係がある。敷衍して考えれば、人は伝統的に仮面や衣裳といった身体的拘束具を用いて、別の存在へと変身する方法を編み出してきました。しかし一般に、「化ける」ことはイメージの問題であって、生身の体はそこでは邪魔なもの、消去されるべきものだと思われがちです。ところが、実際にはそうではないのではないか。ばけもさんの言葉は、そんな「化ける」体に起こっていることに、鋭い光を当てているように思います。

 

 

[1] ばけもさんの言葉は、伊藤によるインタビューと、登壇者として同席したイベントのアーカイブ動画から引用しています。

動画:展覧会『よそおうのこれから』関連トークイベント、伊藤亜紗 × 津野青嵐 × ばけも/ランピィ「身を変えて生きる術」(2022年8月22日実施)アーカイブ

 

[2] ただし、ばけもさんによれば、このような作り方はあまり一般的ではないとのこと。というのも、着ぐるみをファーソナとしてとらえている人は、自分で着ぐるみを作る人が多いからだそう。

バックナンバー

著者略歴

  1. 伊藤亜紗

    東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。専門は美学、現代アート。主な著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)〔のちに『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)〕、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)、『感性でよむ西洋美術』(NHK出版)など多数。

ジャンル

お知らせ

ランキング

閉じる