因果関係の外で
頭痛、倦怠感、めまい、耳鳴り、ブレインフォグ、過敏、呼吸困難感。谷田朋美(たにだ・ともみ)さんは、十五歳のころから三〇年近く、原因不明の体調不良とともに生きてきました。二十八歳のときに脳脊髄液減少症と診断されはしましたが、この病気は、まだ専門家のあいだでも見解が分かれる曖昧な病気です。「そんな病気はない」と存在自体を否定する医師もいるほどで、自分の病名としてよりどころにできるほど確固とした道標にはなっていません。
明確な診断がつかないということは、自分の体に起こっている不調の原因を特定できない、ということを意味します。現象はあるのに、原因がわからない。言うまでもなく、因果関係は、人間が複雑なものごとを理解するときに用いる、もっとも基本的な時間的枠組みです。法律も、制度も、科学も、みんなこの枠組みの上に成り立っています。
ところが、谷田さんの体は、求めても求めても原因にたどり着かない。つまり、原因―結果という理解の枠組みの外部に置かれている。その状態が長期にわたって続くことの不安定さは、想像を絶するものです。一年、いや一ヶ月でさえ、あらゆる手をつくしてもわからない原因不明の体調不良に苛まれていたら、多くの人は焦り、パニックになり、絶望してしまうでしょう。
その不安定さを、谷田さんは、どのように生きているのか。注目したいのは、谷田さんの時間感覚です。因果関係という時間的な枠組みに頼れないことによって、谷田さんは、社会や制度や科学がその上に乗っている時間とは異なる、「もう一つの時間」を見出しているように見えるからです。いわば、時間的に二足のわらじを履いているような状態。それは、原因が特定できないからこそ、逆説的にあらゆるものが潜在的な原因になりうるような時間です。
あ、息しなきゃ
先述のとおり、谷田さんは、両手に持ちきれないほどたくさんの体調不良の症状を抱えた状態で、長い時間を生きてきました。「常に疲れている」と谷田さんは、言います。
しかし気をつけなければならないのは、この「疲れている」という言葉は、「元気がない」という状態を表すための、かなりざっくりした総称にすぎない、ということです。「寝てもすっきりしない」「なんか体がだるい」「体が重く感じる」……。「疲れ」は、そんな「名前のない不調」を指し示すときに使われる、暫定的な呼び名です。仕方なく、そうとしか呼びようがないから呼ぶ。おそらく、谷田さんにとっても、この言葉は、体の状態を正確に言い当ててはいません。それはどんな疲れですか、と尋ねても、「それが本当に言葉にできなくて……」と口ごもってしまうからです。[1]
外から見ても、パッと見てすぐにわかる症状はありません。顔がパンパンに腫れているとか、片方にまひがあるとか、そういった特徴はない。それどころか、スラリとしているので、健康的に見えるくらいです。「そのおかげで生きてこられた」面もあると谷田さんは言いますが、明確な病名もなく、見た目にもわからないとなると、仮病なのではないか、さぼっているのではないか、と信じてもらえない経験をしてきただろうことは、容易に想像がつきます。
谷田さんの体は、他人から「見えにくい」のに加えて、本人にとっても「読みにくい」特徴を持ちます。現在、谷田さんは、休職や時短勤務などの制度を利用して、新聞記者として働いています。ただ、突然寝込んでしまうことも多く、体とのつきあい方は難しい。たくさん動いたあとに悪化したり、天気に左右されたりといった特徴はあるものの、その症状は「こうなったあとはああなる」といったような経験則が成り立ちにくいのです。
時間的な予測がつかないと、社会生活との両立は困難を極めます。谷田さんは言います。「仕事とかで忙しかったりすると、もうそれから数日ぐらい動けなくなったりっていうのはこれまでもあって。それからまたなんとなく、ちょっと動けるようになっていくっていう。それもわからないんですよ。上向いてくるタイミングが、未だにわからなくて」。
明確な診断がつかず、他人からも見えにくく、自分にとっても読みにくい体。この「不気味さ」は、谷田さんの体との関係をつくる本質的な特徴です。
そして、細かく話を聞いていくと、谷田さんの状態は「慢性的な疲れ」ではとても説明できない、かなりショッキングな症状を持っていることが明らかになります。それは確かに、想像以上に不気味な症状です。
たとえば、インタビュー時、谷田さんは現在の疲れの状態を、「200mとか300mとかをダッシュして疲れたみたいな体の重さ」と表現しました。もちろん、インタビューは、通常の椅子に座った状態で行われています。ところが、その姿勢でも「200mとか300mとかをダッシュして疲れた」みたいな体の重さがあると言う。「ダッシュした翌日の疲れ」ではなく「ダッシュした直後の疲れ」がずっと続いてるのです。
谷田さんがたとえとして「200mとか300mのダッシュ」をあげるのは、呼吸の苦しさがあるからです。いわゆる「呼吸困難感」と呼ばれる症状です。最初は過呼吸を疑いましたが、口に袋を当てて息をしても全然楽になりませんでした。
谷田さんは、口から空気を吸い込んでも、その空気が口の周りあたりでとどまってしまって、そこから先に行かない感じがする、と言います。つまり、空気が肺まで入っていってくれない。胸がふさがれて、圧迫されている感じ、と谷田さんは表現します。体がしんどくなると、とたんにこの症状が出ます。
空気が肺に入っていかないとは、想像しただけでパニックになってきてしまいます。まわりに空気がたくさんあるにもかかわらず、それにアクセスできず、窒息するのではないか。水中で酸素ボンベが空になったように、そのまま溺れてしまうのではないか。そんな不安を抑えるためにパニック障害の薬を飲むと、確かに不安感は消えるのですが、呼吸困難感自体はなくなりません。不安から呼吸困難感の症状が出ているのではなく、呼吸困難感が原因で不安が生じているのですから、当然です。
器官的な原因をうたがって、病院で調べてもらったこともあります。すると、肺の形が細長いことがわかった。医師に言わせると「換気が悪い肺」で、「昔だったら結核で死んでたタイプ」であるらしい。自分でも知らないうちに肺炎になっていた跡が見つかったりはしましたが、この形状自体が、呼吸困難感の直接の原因であるかどうかはわかりませんでした。
「普通に息をしても空気が肺まで入っていかない」ということは、言い換えれば、「空気を肺まで入れる努力をしないと息をしたことにならない」ということを意味します。健康な人であれば、通常は、呼吸は意識と無意識の間にある現象です。自分で意識して呼吸をコントロールすることもできるけど、放っておいても無意識的に息は続いていく。しかし、谷田さんの場合は、呼吸を放っておけない。つまり、意識と無意識のあいだにある呼吸という現象を、意識の側にとどめておく必要がある。
谷田さんは言います。「普通の人は多分呼吸のこととか考えないと思うんですけど、私は、『あ、息しなきゃ』っていうか、そういう感じなんですよ」。スマホで他のアプリを動かしている間に動画などを再生する機能を「バックグラウンド再生」と呼びますが、谷田さんの場合は、いわば呼吸をバックグラウンド再生したままにしておくことができないのです。話しているときも、食べているときも、バックグラウンド再生できないから、いちいち「あ、息しなきゃ」となる。これは、そうとう疲れることです。
自分が何をやらかすかわかんない
「息しなきゃ」と思わないと息が続いていかない。実際、谷田さんは、ふとした拍子に息をしていなかったことがある、と言います。瞬きもせず、目を見開いたまま、およそ一分くらい、息が止まってしまっていたのです。
自分にはそういうことが起こる、と自覚したのは、夫と電車に乗っているときでした。席に座っていたのですが、バリダンスみたいに目を見開いたまま、動かなくなってしまっていた。その様子はまるで抜け殻のようで、夫は「朋美がここにいない」と思ったと言います。それは不安というより恐怖を掻き立てる見た目でした。
そのときのことは谷田さんも覚えていますが、まさか夫を怖がらせているとは思わなかった。「私がいなくなったこの体に殺されるんじゃないかっていう恐怖を覚えたって言ってたんです」。家族である妻の体調を心配するより前に、自分が攻撃されるかもしれないという想像をしてしまう。そのときの谷田さんの見た目は、コミュニケーションをとることが到底不可能なほど恐ろしい存在に思えたのかもしれません。
思い起こせば、それまで普通に接してくれていた人が急に離れていく、という経験がこれまでもあったと谷田さんは言います。「そういう状態になった私を見て、ちょっとこいつやばいやつみたいに思われてたのかなとか思って」。自分では正常に見えていたと思っていたのに、そうはなっていなかった。「自分が何をやらかすかわかんない」という感覚がずっとある、と谷田さんは言います。
自分の体が信用ならない。似たようなことは、認知症状として現れることもありました。料理をしていて、皮と身を分けたあとで、皮をまな板へ、身をゴミ箱に捨ててしまう。いやいや皮がゴミ箱で身がまな板だよ、と頭では意識しているのに、どうしても逆のことをしてしまうのです。見ていた人も笑いだすのですが、何度も同じ間違いを繰り返してしまう。こうした認知機能の低下は大学生のころから感じていました。
谷田さんの分析では、そのような状況になってしまうのは、体が、「外面」を犠牲にしてでも「内側」の活動を守ろうとしているからではないか、と言います。つまり、表情を作ることや行為を遂行することに失敗してしまうのは、注意がおろそかになっているのではなく、健康な人が表情や行為のために払っている注意を、呼吸や瞬きのほうに割いているからなのではないか。
「自分の体の中があまりにも大変なので、疲れていて、自分はそっちにすごい集中している」と谷田さんは言います。つまり、「抜け殻」は症状ではなくて、体の中で起こっている困難に対応するなかで生み出された対処法(コーピング)なのではないか。「集中力がなくて認知症状が出ていると思ってたんですけど、集中力がないってわけじゃなくて、集中が内側に行っちゃってて、だけど体は自動でカバーしてくれたのかなと最近思うようになって」。
呼吸や瞬きのような非意識的な活動は、健康な人であれば「バックグラウンドモード」で遂行することができます。しかし、谷田さんの場合、これらのタスクをするにも過重な労力がかかる。ふいに呼吸が止まってしまうこともあり、そのような場合には、呼吸を再開するために、いわば体を再起動する必要があります。それは「体を固める」みたいな感じだと谷田さんは言います。そうやって「すでに起こっている状況に備える」。
体に起こるさまざまな現象は、見方によって「症状」にも「対処法」にもなり得ます。それを分ける最大の要因は社会生活に支障をきたすか否かです。たとえば発熱は、体の側から見れば、ウィルスが侵入してきたことに対する「対処法」ですが、仕事や学校に行くことをさまたげるという理由で、多くの場合は「症状」とみなされています。
谷田さんの「抜け殻」も、確かに対人関係にさしさわるという意味では「症状」かもしれませんが、体からすれば、内側に集中して状況に備えている「対処法」であるとも言える。谷田さんは言います。「だから〔体は〕信用ならないんですけど、ちょっとカバーもしてくれていて、でもカバーしきれてないから、ちょっと変な人間に見られてるっていうことがあるのかなと思って」。
正体不明の不気味さ/宙吊りの不気味さ
「疲れ」という言葉にはとうてい収まりきらない、谷田さんの体が経験している苦労。その原因は何なのか、谷田さんはこれまでさまざまな医療機関にかかり、検査を受けてきました。治る気があるなら原因をつきとめろ、という周囲からのプレッシャーもあったと言います。しかし冒頭に書いたとおり、現在でも、明確な診断名を得ることはできていません。それは、同じ病の仲間を見つけたと思って近づいていき、失望して離れていく経験の連続でもありました。
まず十五歳で不調を感じ始めたとき。頭痛や呼吸困難感がすでにあり、病院を受診しました。しかし血液検査で異常なし。受験で夜遅くまで勉強していたので、医師も「まあ、多分疲れているんでしょう」との診断でした。しかし、状態は高校、大学と進学しても良くなりません。それどころか、認知障害も出始めていました。心配になり、あちこちの病院に行きましたが、どんな検査をしても数値に異常はなく、医師には「たいしたことない」と言われる始末。痛みを感じているにもかかわらず、自分でも病んでいることに確信が持てなかったと言います。
大学を出て新聞社に就職しましたが、過労でうつ状態になり、神経内科に。そこで左半身に麻痺があると指摘され、多発性硬化症の検査をしますが、八〇%ぐらいの確率で違うと否定されます。そこで精神的な要因で麻痺が起こっているのではないかと指摘され、心療内科を受診しました。発達障害の検査を受けることになり、当時はまだIQ検査だけでしたが、やはり認知能力に問題があることがわかりました。そして、ADHDの可能性を指摘されます。
そこで谷田さんは、発達障害の当事者の集まりに参加し始めます。確かに、集中力がないように見えたり、頭の中も家の中もごちゃごちゃしていたりするので、発達障害の当事者の人たちが語る困難に共感できる部分もある。けれども「疲れ」という言葉を出すと、どうもみんなと話が合わなくなります。「まあ、疲れたりはする」とは言うけれど、仕事が大変でバタンと倒れてしまうような「クラッシュ」はないと言う。「やっぱり発達障害の人たちとも私は困りごとがちょっと違うな」。谷田さんは、集まりから離れていきます。
脳脊髄液減少症と診断されたのは二十八歳のときでした。脳脊髄液とは、脳と脊髄、およびこれらを包んでいる膜のあいだを満たしている無色透明の液体のこと。要するに、脳がその中に浮いている液体のことです。脳の水分含有量を調節し、脳の形を保つ役割があると言われています。ところが、交通事故などで膜が傷つくと、脳脊髄液が外部に漏れるため、内圧が下がってしまうことがある。これが脳脊髄液減少症です。
確かに身体的な疾患だと認められたことで、説明がつきやすくなり、楽になった部分もあると谷田さんは言います。しかし、冒頭に書いたように、この病気はその存在自体がまだ専門家のあいだでも議論されているような病気で、医学の枠組みの中で確立されていない。加えて、同じ脳脊髄液減少症の人と話しても、いまいちすっきりとわかり合えない、という実感もありました。
さらに追い討ちをかけたのは、脳脊髄液減少症の検査自体がもたらしたネガティブな影響でした。腰に注射針で造影剤を入れるRIシンチ検査を受けたのですが、これが負担となり、不調が増大してしまったのです。少し体を動かすだけで激しい頭痛やめまいを感じるようになったり、顔面の痙攣や皮膚の焼けるような痛み、認知障害など、これまでなかったような不調もかかえることになってしまいました。
仲間をさがして、慢性疲労症候群の患者会に参加したこともありました。慢性疲労症候群はコロナ後遺症で以前より知られるようになりましたが、かつては医師からも「詐病」と言われて信じてもらえなかった。加えて、疲れだったら何とかなるだろうとみなされ、社会の注意もより「重い」ようにみえる症状のほうに奪われてしまいます。同じようで違う、わかったことにされる、軽んじられる。あらためて「疲労」という言葉のやっかいさを感じる事例です。
しかし問題は、そのやっかいさが患者会の中でも反復されていたことでした。つまり、患者どうしでも「あの人は慢性疲労症候群だって言ってるけど、本当は違うんだ」といったやりとりがなされていたのです。患者会は困りごとを共有できる貴重な場ですが、「希望と分断のお薬」の回でも触れたように、希望を持ちたいからこそその反証になる人を攻撃したり、症状の重さによって序列が生まれたり、「本物の患者」探しに走ったり、分断が生じる可能性も孕んでいます。谷田さんも、結局患者会の活動からは離れていきました。
「全部診断つかないんですよね」と谷田さんは言います。この診断のつかなさは、「病気の原因がわからない」という過去に向かっていく通常の意味での診断のつかなさに加えて、「今後発症するかもしれない」という未来に向かっていく診断のつかなさをも含んでいます。いま抱えている疲れの症状が、何か別の病気につながっていくかもしれないし、疲れそのものが悪化して、寝たきりになってしまう可能性もある。さらに、疲れの他にも、発症するリスクがあると言われている病気があり、しかしこれもいつ発症するかがわからない。「時限爆弾を抱えているみたい」と谷田さんは言います。「異常が出ない限り診断されないし、診断されたからといって対症療法しかないのでどうしようもない」。
技術の発達によって、さまざまな病気のリスクを知ることは容易になりました。しかし、それは裏を返せば、不確実性を抱え込むということを意味します。リスクを知らなければ、発病するまでは知ることがなかった悩みが、技術のおかげで、前倒しで悩みが始まることもある。手を打つことのできる病気であれば、事前に知ることは意味がありますが、手の打ちようがない病気であれば、まさに「いつ来るか、いつ来るか」と怯えて待ち構えるような時間を生きることになります。「私ももう四〇過ぎたので、なんかそういう意味でも怖いなって。だから今のうちにできることをしておこうみたいな気持ちはあって」。
「病気の原因がわからない」という意味での過去に向かっていく診断のつかなさが、名前を与えられないことによる正体不明の認知的不気味さだとすれば、「今後発症するかもしれない」という意味での診断のつかなさは、いつ来るかわからないという宙吊り状態がもたらす時間的な不気味さです。「先が見えないから[戦略を]立てられない。でも一方ですごい考えないと生きられないから立てないといけない」。それはまるで、現在を未来の人質にとられたような時間です。
記憶したことのない記憶
脳の血流が増加しているから、頭痛が起きる。自律神経のバランスが悪いから、めまいが起こる。たとえばこんなふうに、特定の原因によって、いま自分に起こっている現象を説明することができたなら、少なくともただただ痛みに襲われている状態に比べれば、私の体に対する理解は向上しています。確かに、私自身は、血流増加や神経の情報伝達に関する生化学的なメカニズムは理解してないかもしれない。重要なのは、私の痛みのメカニズムを説明する言語が、科学の中にあるということです。説明がつくということは、私の体が、科学の枠組みの中に場所をもつということを意味します。
一方、谷田さんの体は、ここまで見てきたように、少なくとも現時点においては、科学の枠組みの中に場所をもっていません。谷田さんの体は科学の言語によって説明がつかず、因果関係の外部に置かれています。このことが、谷田さんの体を不気味なものにし、社会制度的にも居場所がないものにしています。
この体をどこに置けばいいのか? 体調が悪くなるたびに、原因を求めて果てしなく考えをめぐらせてしまうと谷田さんは言います。「医学的には原因を解明することで治すっていうのが合理的なやり方だって思われてるんですけど、それ以上にさかのぼっていくと、うん、何考えているんだろうみたいなことになってきて。うまく診断がストップをかけてくれているものが、ストップがかけられないからずっと考えちゃうんですよ」。
興味深いのは、その思索の範囲が、通常の「原因」の範囲をはるかに超えて、時空間的に広がっていくことです。「幼少期の経験」であればまだわかる。しかし診断という「ストップ」がかけられていない想像力は、谷田さんの生まれる前までにもさかのぼっていき、一〇〇年以上前の「一族の歴史」や「広島の原爆」と、谷田さんの現在の体を結びつけて理解するような網目を形成していくのです。谷田さんの言葉を引用します。
原因がわからないんで、逆に原因をめちゃくちゃ考えちゃうんですよ。普通だったら、まあ、切ったら血が出て、それで怪我ですねっていうところで終わるところが、なんかその臓器の異常がわかんないので、いろいろ考えてしまって。私の父とか、祖父とか、自分の家の歴史とか、あと私広島出身なんですけど、原爆の影響とか、そこまで考えてしまって。なんか、痛みの話をするときに、一族の歴史と土地の歴史とが一緒に何かこう……私の体がいろんなことで生まれる前から傷ついていて、生まれてからも、いじめにあったりとか、そういうことまですごい自分の幼少期をたどって原因探しを相当していて。あのときこういうことがあった、ああいうことがあった、とかいうことを、体調が悪くなるたびにそれ全部思い出すんですよ、全部。
「体調が悪くなるたびにそれ全部思い出す」という言葉は、この原因探しの旅が、谷田さんの中で何度も繰り返され、なかば自動化した観念連合となっていることを意味しています。幼いころ、いじめをうけていた。あのときに受けた精神的な傷が、今の不調の原因なのではないか。父の影響はどうだろう。父は、曾祖父が事業に失敗して没落し、アルコール依存症になった祖父のもとで育った。「それで父が傷を負って、その父の影響で、私が……」。そして広島という土地。原爆の影響が、世代を超えて私の体に宿り、それが原因不明の体調不良という形で現れているのではないか……。
確かに、生物としての私は無から誕生したわけではなく、父と母の存在を前提としています。その意味では両親の人生が、物理的に、自分の存在に折り込まれているとも言える。さらにその父と母にもそれぞれ父と母があり、その父と母にもそれぞれ父と母があり……といった世代の連鎖を考慮に入れるならば、私の存在には、すでに生まれる前から、多数の先祖たちの人生が書き込まれています。
谷田さんの言葉を借りるなら、体はすでにして「記憶したことのない記憶」とともにあります。それは単に遺伝情報というだけではありません。谷田さんの体は、谷田さんのライフスパンを超えて、先祖たちが何十年何百年も前に経験したことや、環境からうけた影響をも記憶している。その記憶が、体調不良となって出てきているのではないか。その記憶は意識によって想起することはできないけれど、確かにそれが刻まれていることを体は痛みを通して想起している……。原因探しの旅は、自分の体がさまざまな「記憶したことのない記憶」とともにあることを確認する作業でもあります。
こうした観念連合に飲み込まれることは、「自傷行為みたいなところがある」と谷田さんは言います。なぜなら、記憶したことのない記憶を探すことは、自分の体に、あらかじめ刻まれていたかもしれない「傷」を感じることだからです。それは、感じる必要のない痛みを感じることなのかもしれない。興味深いのは、谷田さんは「〇〇のせい」と犯人探しをしないことです。あくまで自分の不調の原因を、自分の体に刻まれた傷として感じる。でもだからこそそれは「自傷行為」に近づき、「自家中毒」になってしまいます。
原因―結果の外側にある居場所
こうした果てしない原因探しの旅は、谷田さんにとって決して楽しいものとして始まったものではないかもしれません。けれども、その際の想像力の広がりを具体的に知ると、原因が特定されないことによって、むしろ「関係しうるもの」が増えていっているようにも見えます。この場合の原因探しとは結局、原因―結果という単線的な関係の枠組みを超えて、もっと複雑でもっと多数の関係の網目のなかに、自分の体を置く作業なのではないか。「記憶したことのない記憶」を介して、さまざまな傷との連帯の網目を形成することにつながっているのではないか。
そう考えたくなるのは、谷田さんの想像力が、「先祖」のような因果関係を仮定できるような存在だけでなく、明らかに血縁のない他者にまで広がっていくからです。
それは、谷田さんの友人の恋人が三〇歳の若さで癌に罹患し、亡くなったときのこと。一度も会ったことがないにもかかわらず、「その彼女のことが、私はその友人よりもなんかすごい友達のように」感じたと言います。幼少期に虐待を受けるなど、もともと苦しんでいた人だった。ちょうど同じ年頃だったこともあって、その人のことを非常に近くに感じた。「なんでそんな気持ちになったかわからないんですけど、その人が幸せになれるんだったら、自分は何でもするから、みたいな気持ちになったんです。あれなんだったんだろうって、不思議なんですけど」。
あるいは、記者になってから聞いた、戦争に行った人の話。谷田さんは祖父が出征していますが、本人からはそのときの経験について詳しく聞くことはできなかった。でも祖父に近い経験をした人の話を聞くことによって、それがどんなものだったか知ることができた。「単純に圧倒された」と谷田さんは語ります。「原因をもとめて過去を遡る中で救われたものがなんかある気がします」。
「自分の体を牢獄のように思っていた」と谷田さんは言います。すでに傷があって、そこから逃れることができず、ずっとついてくるもの。でも、「友人の恋人」や「祖父のように出征した人」のことを知り、つながりを感じることによって、そのつながりの中に自分の体を位置付けることができるようになった。それは体が単体ではないということ、自分の体が他の体とともにある、ということを発見する経験でもあった。「なんかそういうもの〔他者の感情〕が入ってきたときにちょっとその牢獄から出られた感じがしたんですよ」。もちろん、彼らの傷は谷田さんの傷とは違うものですが、谷田さんは絶えず、「傷を受けた人たちがどう生きているのか」に関心を持ちつづけてきたと言います。
こうした心の動きが、「他者の痛みへの同情」ではなく、「連帯の形成」だととらえたくなるのは、谷田さんが、他者の痛みを自分のもののように感じながら、同時に自分がその他者ではないことをも確認しているからです。体は自分を閉じ込める「牢獄」でありつつ、でも同時に他者の感情が入ってくることから自分を守る「防波堤」でもある、と谷田さんは言います。「私ってすごく自分の体を牢獄のように思っていて、この体から逃れられないと思ってたんですけど、普段はその体が逆に言うと、防波堤になってて、そういう人の感情とか、そういうものを入れないようにしてくれてて」。
谷田さんの語りには、変な言い方になりますが、体を「不気味な味方」と捉えるような視点があるように感じます。もちろん体は、逃れようのない傷によって人生の可能性を制限する牢獄としての側面も多分にあるのですが、同時に谷田さんを保護し、新たな可能性に開いてくれる側面もある。ただしその味方としての働きは、谷田さんにとっては意識を超えたところで起こっていて、不気味さも伴っている。血縁のない相手に対して自己とのつながりを感じる想像力そのものが、この「不気味な味方」としての体の働きであるようにさえ感じます。
ありえたかもしれない歴史
原因―結果という科学的理解の枠組みの中に居場所がないからこそ、より多様な関係の可能性に開かれた谷田さんの体。
思い出すのは、フィリピンの詩人パオロ・ティアウサスさんが語っていた、歴史に対するアプローチです。
フィリピンの歴史について語るのに、植民地の経験を外すことはできません。フィリピンは、三〇〇年以上の長きにわたって他国の支配を受けてきました(そもそも、「フィリピン」という国名自体が、スペイン皇太子の名前に由来しています)。その始まりは、一五二一年のマゼランの一団によるセブ島への上陸。そこからスペインの長い支配が始まり、一八九八年にはようやく独立を宣言してスペインを追い払うのですが、国がアメリカに売り飛ばされていたことが明らかになります。アメリカの支配が終わったあとは一九四三年には日本がやってきて一九四五年まで占領を続けました。
パオロさんは、こうした「大文字の歴史」に対して、ありえたかもしれない別の歴史を描きだします。パオロさんが手がかりにするのは「笑い」です。たとえばマゼランがやってきたとき、彼は軍服を着て、頭にはヘルメットをかぶっていたはずだ。でも、当時のフィリピンの人はヘルメットなんて見たことない。たぶん、最初にマゼランを見たフィリピン人は、「なんであいつ、頭から鍋をかぶっているんだ?」と思ったのではないか。あるいはスペイン人の宣教師がミサを行うとき、そのラテン語がわからないフィリピンの人は、断片的に聞こえてきた言葉を頼りに、空想で違う話を作っていたのではないか――。
現在のフィリピンの人たちの笑いは、しばしばSNSなどでも話題になるほど有名です。洪水がやってきてもとりあえず飛び込んで泳ぐ、お葬式の場でも笑いが起きるなど、困難な状況を笑いとばすその不謹慎なほどのタフさには、驚いてしまいます。もっとも、それが問題の先送りにつながる可能性もあるので、手放しで喜ぶことはできない習慣かもしれません。そのことも踏まえつつ、でもパオロさんは、この現代のフィリピン人の代名詞とも言える特徴をレンズにして、国の歴史をさかのぼっていく。そして、大文字の歴史には描かれていない、可能性の歴史を描きだします。
原因―結果という「大文字」の枠組みの外側で谷田さんが行なっているのも、パオロさんと同じように、ありえたかもしれない別のつながりを描き出すことであるように思います。パオロさんの場合は笑い、谷田さんの場合は傷、とレンズは違いますが、居場所を求めて「もうひとつの時間」を作り出しているという意味では共通しています。
もしかしたら、それは文学が伝統的に行なってきた役割にも通じるかもしれません。血のつながり以外のつながりが私の体に影響していないなんて、誰が言うことができるのだろう。人間は、閉塞状況をうちやぶるために、いつも可能世界を探索してきました。それは、現実ともフィクションともつかない領域です。
血縁を超えたつながりを広げる谷田さんの旅路は、国境を超えてティモールや西パプアの紛争地まで拡張します。谷田さんが大学生だった二〇〇〇年代初頭、インドネシアとその周辺地域は、国状が不安定な状況にありました。谷田さんは文字通り命懸けで、現地へと向かいます。「正直、死ぬ覚悟で、先が全然見えないので、先が見えないんだったら本当に先が見えない人たちがどうやって生きているのかを知りたいって思って」。
現地では、軍が街を包囲してあわてて立ち退いたり、酋長会議で憲法やルールを作っている様子を見せてもらったりしたそうです。実はそこで、谷田さんの将来の職業も決まりました。「「君、何もできないただの学生だってわかってるけど、でも伝えることはできるでしょう」っていうことを言われて」。西パプアの人に投げかけられた言葉を、そのまま実践して記者になってしまう谷田さんの行動力には圧倒されてしまいます。でもそのことはまさに、通常の因果関係の外側に、谷田さんが自分の体の置き場所を見出したことを証明しているのかもしれません。
[1] 谷田朋美さんへのインタビュー全文は、こちらで公開しています。