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16の書店主たちのはなし

台風と参考書/つばめブックセラーズ(旧:「フクロウ堂」)

文・イラスト すずきたけし

 

タカシの髪が風で左から右へなでつけられ、雨に叩かれて頭に張り付いていた。

大声でなにかを言っている。口を開くたびに雨水を口から派手に吐き出している。雨音も、風の音も、そして色さえもなかった。まるで無声映画を見ているようだった。

雨が突き刺さるたびにタカシは目を瞬かせて笑っていた。そしてまた大きく口を開けてなにかを言った。声は聞こえなかった。

 

目を開けると自宅の天井があった。

シャワーに顔を向けて小さく息を吐き出した。体に打ちつける雫の一つ一つが感じられた。目頭にあたる。鼻先にあたる。頬にあたる。弾けた飛沫が肩や鎖骨に触れる。雫が背中に流れ落ちる。幾筋もの湯の流れが背中を伝う感触が気持ちを落ち着かせた。

 

 ・それではここで、台風十八号に関する情報をお伝えします。台風十八号は先ほど愛知県豊橋市付近に上陸しました。台風の影響で滋賀県と京都府、それに福井県では数十年に一度しかないような大雨となっているほか、東日本や北日本では急激に雨や風が強まる見込みで、気象庁は厳重な警戒と安全の確保を呼びかけています・

 

「今日は荒れそうよ」

ソファにもたれた妻のキヨミがテレビに顔を向けたまま言った。俺もキヨミの後ろでタオルで髪を拭きながらテレビに映った台風の予想進路図を見つめた。

「やっぱり私も行った方がいいんじゃない?」テレビに顔を向けたままコーヒーを淹れたコップを俺に差し出した。

「いや、高校時代の友達だから別にいいよ俺ひとりで」コップに口をつけた。

「まあ、それならいいけど。お友達、お葬式に台風なんて可哀想ね」

雨に濡れたタカシの顔を思い出した。

「コーヒー温いな」

「あなたのシャワーが長いからよ」

俺は残りのコーヒーを一気に喉に流し込んだ。

 

10時過ぎには葬儀場に着いた。黒々とした雲は重たそうに空を覆っていたがまだ雨を落とす気ではないらしく風も弱かった。車を駐車場に停めて車内でネクタイを締めると小走りで葬儀場へ入った。

ロビーには抑えた声が漂い、着慣れない喪服が体を締め付けた。

「よお、コウスケ久しぶり」

長身の男が声を掛けてきた。

「おおユウジか、久しぶりだなあ」

まるで水の中から空気を求めて浮上したように深く呼吸をして相好を崩した。

「久しぶり」と後ろからサトルが現れた。「おおサトル、久しぶり」俺はサトルの右腕を二度三度と叩いた。

 

遺影は俺の知らないタカシだった。彫りが深く、目元は窪んでいた。「老けたなあ」と思ったら可笑しくなった。すでにこの世にいないのに20年ぶりに見たタカシの老いを気にしたあと、もうタカシは歳をとらないのかと気付くと俺の前に唐突にタカシの死が現れた。自分と同じ歳の友人が死んだ実感がまだなかった俺は、そこで初めてタカシの人生はどんなものだったかを想像した。死んだ日、あいつは次の日が来ることを疑っていなかっただろう。次の週も、翌月も、翌年も、当たり前に訪れる未来がなくなることを想像した俺は同情よりも恐怖を感じた。

読経が終わり焼香を済ませると先に席に着いたユウジとサトルも表情が硬く青白かった。たぶん俺も同じだっただろう。

 

葬儀が終わるとタカシの母親が俺たちのところに挨拶をしに来てくれた。

「ユウジくん、サトルくん今日はありがとうね」

そして二人の後ろにいた俺にも「ありがとう」と言ってくれた。

 

 

三人で外に出ると雨はまだ落ちていなかったが、風が強まっていて駐車場を囲んでいるフェンスがカシャカシャと音を立てて揺れていた。しかし生暖かい風と全身を濡らす湿気がこの時は心地よかった。

「せっかくだからフクロウ堂に行ってみないか」とユウジが言った。

俺は驚いて「え、フクロウ堂ってまだあるのか?」と聞くと「まだあるよ、5年くらい前にツバメブックセラーズって洒落た名前に変わったけどね」とサトルが教えてくれた。

「コウスケどんだけこっちに帰ってきてなかったんだよ」

ユウジが笑いながら言ったが、その目を見るとどこか冷たかった。

 

俺たちはユウジの車に乗り込んだ。走行中も風が車体を叩き、ハンドルを両手でしっかり握ったユウジは「風でハンドル取られるわ!こんなに日に葬式すんなよタカシ!」と言って笑っていた。

 

高校三年になり同じクラスになった俺たちはお互い全く知らない間柄だった。受験を控え、参考書を探しに学校帰りにフクロウ堂に立ち寄るようになると、たまたまひとりで来ていたタカシとユウジとサトル、そして俺はそれぞれに顔を見合わせ、「同じクラスだよね?」と声を掛け合うと、それから一緒につるむようになった。

フクロウ堂は参考書しか置いていない本屋だったが、春休みともなると新入生も含めた全生徒がフクロウ堂へ教科書を買いに集まった。

 

フクロウ堂の駐車場に入ると、店の大きな三角形の赤い屋根は昔と変わっていなかったが、正面にあったフクロウのマークがツバメのシルエットに変わっていた。

「懐かしいなぁ建物は昔のままじゃん」

車を降りると頬に小さな雨が冷たくあたった。「あ、降ってきたか」と三人で足早に本屋へと向かった。店の窓は外側が湿気で曇り、ところどころ結露した雫の流れた跡が線を引いていた。

店に入ると冷気がすっと全身を引き締め、冷房と紙の匂いを嗅ぐと自分が久しく本屋に来ていなかったことを思い出す。入口すぐ正面の棚には仕事に関する本が並んでいた。右手のレジから「いらっしゃいませ」という気だるそうな男性の声が聞こえた。ユウジが俺のわき腹を肘でつつき「オノデラだよ」とささやいた。「うわマジで。まだいるのか」とチラリとレジの男性に目を向けた。オノデラとはこの本屋の店主の名前ではない。当時、物理の担任のオノデラという高齢の先生に似ているとタカシが言い出し、俺たちの間でその呼び名がついた。「歳くってますます似てきたな・・・」と俺が言うとサトルが「それ以上言うな」と笑いをこらえていた。20坪ほどの店内をぐるりと見渡すと、参考書は奥のほうに追いやられていた。「おい、マドンナ古文まだあるぞ」とユウジが参考書を手にとって言った。サトルが「マドンナ何年やっているんだよ」と言った。今度は俺が笑いをこらえる番だった。「速読英単語もあるし、即戦ゼミもまだあるんだな」「変わってないなぁ」と俺もサトルもつぶやきながら参考書を眺めていた。下に積んである本には「先輩オススメ」と書かれたカードが立っていた。「俺らもこれに騙されたよな」と俺は笑った。ユウジが「これこれ」と手招きをした。そこにはリクエストボックスがあった。この箱に欲しい参考書のリクエストを紙に書いて入れると店に並べてくれた。それが今でもあった。昔は段ボールでできていたが、今は小さな郵便ポストをそのまま柱に付けていた。下には小さなテーブルがあり、ペンとメモ紙が置いてあった。学校帰りに毎日この店に立ち寄った俺たちはリクエストボックスのまわりで陽が落ちるまでグダグダ立ち話をしていた。

「この店に来たの、卒業式が最後だったよな」とサトルが言うと「コウスケはもういなかったけどな」とユウジがすこし気まずそうに俺を見た。

 

俺は三学期には三人と距離を置いていた。正確には冬休み前からだった。ある日タカシと喧嘩をしたのだ。喧嘩といっても殴り合うこともなくタカシの家で怒鳴り合っただけだったが、止めに入ったタカシのお母さんに向かって俺は「うるせえババア」と言ってしまった。それ以来連絡を取り合うことがなくなり、学校ですれ違っても存在を意識しないようにした。大人の今となって思えば苦笑いしか出ない喧嘩だったが、しかし結果として自分を追い詰めてしまった。コウスケとサトルの二人と俺は、タカシがいないと一緒に帰ることもできなかった。タカシがいたからこその四人だった。俺は孤立して、そのまま三人と会話もすることなく卒業し、進学とともに上京した。

 

 

ユウジがレジへ行きオノデラとなにやら話している。

ユウジがオノデラにお辞儀をすると、ニヤニヤして手招きしている。

サトルと俺はレジに向かうと、ユウジが「これ見てこれ」とオノデラの後ろの柱を指差した。

そこには一片の紙切れが額に入れられて掛けてあった。

「俺も、この店思い出して昨日来てみたら見つけてびっくりしたんだよ」とユウジが言った。

オノデラが「これはリクエストの箱に入ってたんだけど、長いこと本屋やっててこんなに嬉しいことなくてね、ついつい額に入れて飾っちゃったんだよ」と言って「そうか、君たちの友達だったのか」と続けた。

 

紙切れにはボールペンでこう書いてあった。

 

“フクロウ堂の参考書のおかげで自分と友達の4人全員が大学に合格しました。3年間ありがとうございました! 辻村タカシ”

 

フクロウ堂改めツバメブックセラーズから外へ出ると横殴りの雨と風に叩きつけられた。

三人とも駐車場の車まで走った。

 

車に着くと三人ともびしょ濡れだった。

車に入らず、雨に打たれながらそのまま俺たち三人は声に出して笑った。

叩きつける雨が口に入り、ユウジもサトルも顔を叩く雨粒で目を瞬かせた。

俺は二人から離れて両手を広げた。風が両手を揺さぶった。顔に雨粒があたる。ひと粒ひと粒が肌にあたり、顎に集まり首へと流れ、背中に落ちていく。懐かしく心地よい感触だった。

サトルが「何やってんだよ」と笑った。

「自転車で日光に行った時もこんなんだったじゃん」とユウジが大声で言った。サトルが「ああ、そうそう」と大きく頷いた。「いきなり三人で俺の家に来て『コウスケ、日光行こうぜ』って言われたやつな」

と俺は手で顔をぬぐった。「タカシがいきなり日光行こうぜって言い出したんだよ」とサトルが言うと「そう、で、タカシがコウスケも道連れにしようぜって言い出したんだよ、台風きてるのに」とユウジが笑った。

 

自転車で日光に行ったときも台風だった。

雨が降り始め風が叩きつけて進めなくなったとき、びしょ濡れになった俺たち四人は自転車を降りてそのまま笑い合った。停めた自転車が風に吹かれガシャガシャと倒れていき、それを見て俺たちは風と雨の音に抗うかのように大声で笑った。

道路の脇を雨が小川のように流れて俺たちの足を勢いよく洗い、身を挺して台風の只中に立つ天気予報のレポーターのように、俺たちは押し寄せる風に身を傾けながらいつまでも笑い続けた。

 

タカシが俺の前で笑い続けている。

タカシの髪が風で左から右へなでつけられ、雨に叩かれて頭に張り付いている。

タカシが目を細めて口を開いた。

 

「コウスケ、ごめんな」

 

そしてタカシはまた笑った。

 

 

 

 

 

 

※このお話はフィクションです。登場人物、物語などは実際の出来事ではありません。

 

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著者略歴

  1. すずきたけし

    1974年栃木県生まれ。書店員・洋式毛鉤釣師。『偉人たちの温泉通信簿』(上永哲矢著/秀和システム)挿画、『旅する本の雑誌』(本の雑誌社)、『まだまだ知らない 夢の本屋ガイド』(朝日出版社)に寄稿。

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