言葉を結ぶ/文鳥堂
文・イラスト すずきたけし
わたしの顔の右ななめ前、距離にして5cm先におじさんの顔がある。女性であるわたしに気を遣っているのか、僅かに頭を傾けわたしの顔から距離を取ろうと頑張ってくれていた。視線をおじさんへ向けないようにしていたが、視界の脇からそのおじさんの顔を完全には排除できなかった。耳元の背後では別の男性がスマートフォンをコツコツとせわしなく叩いている音が耳から3cmの距離で鳴り続けている。背中にはだれだかわからない肩が時折電車の揺れに合わせて押してくる。左肩に触れている女性はスマートフォンを見ながら前髪を整えていて左手の動きがわたしの左肩に伝わってくる。左前方にはスーツの男性のつり革をつかんだ肘が顔の5cm先で視界の左半分を塞いでいた。いまのわたしをとりまく状況は時計回りで説明するとこんな感じ。
バッグを両手で持っていたわたしは周りからの圧迫に肩を縮め、さながら拘束具をつけているような格好になった。これが毎朝の通勤。何事も習慣化すればどうってことないと思っていたわたしは、満員電車も慣れるだろうと上京した時は気楽に考えていた。しかしいつまでも経っても慣れなかった。いつからかこの状況に慣れるのではなく折り合いをつけることにした。感覚を閉ざすことにしたのだ。そうすると目の前のおじさんも、スマートフォンを叩く音もさして気にならなくなった。いや見えなくなったといった方がいいかも。ただただこの電車内の時間に感情を無にする。これができるようになると通勤のことが記憶に残らなくなった。改札、ホームへ登る階段の矢印、2号車と書かれた乗車位置、電車内の立ち位置、毎日繰り返される朝の風景は上書きさえもやめた。電車を降りてもそれは続いた。駅通路のひし形のタイル、A4出口へと続く狭く急な階段、地上に出ると投げ捨ててあるタバコの吸殻や落ちている折りたたみ傘の袋。それら全てが見た瞬間から記憶から消えていく。昨日までは。
昨日、雪が降った。通勤の記憶が久しぶりに更新されたのはA4出口から外に出たときだった。
出口の庇の影になったところに左足を出した瞬間、左足がそのまま止まらず前方に滑っていった。右足は堪える事もなく力なく膝から折りたたまれて仰向けに倒れた。転んだというには静かに、そしてゆっくりと倒れた。誰かを驚かすこともなく、静かに、まるでフェードアウトするかのように人々の視界から消えていったわたしは思わず「はは」と声に出して笑ってしまった。わたしの存在が見えないかのように後ろから無言で避けていく人々を、わたしも見えないかのように気にせずにゆっくりと起き上がった。
「文鳥?」
思わず声に出した。
わたしは転ぶ前に視界に入った「文鳥」という文字を探した。あまりに唐突に「文鳥」という文字が視界に飛び込んできたのでその言葉の意味を探ろうと視線を泳がしてしまい、足元の凍った地面に気がつかなかった。
起き上がって自分のコートについた汚れを両手で払うと、「文鳥」の文字があった場所へと顔を向けた。
『文鳥堂』
小さな木製の扉と小さなガラス窓がある建物正面に看板が吊るされていた。
『文鳥堂 詩歌専門書店』
書店だった。こんなところに書店があることを2年も通勤していて気付かなかった。詩歌の専門書店ということは詩集や歌集のみ扱っているということなのだろうか。
「お足元お気をつけくださあい」とそばでヘルメットをかぶった誘導員が道路工事中の歩道の迂回路を誘導していた。けたたましくドリルの音が鳴り出した。わたしは出勤時間まで残りわずかだったことに気がついて慌てて会社へと向かった。
仕事が終わり、駅までの道すがら朝に見かけた「文鳥堂」がどんな本屋か気になった。べつに本に興味はなかったが、こんなところに本屋があったことに気付かなかったのが1日中頭の中に残っていた。
もうすぐ夜の七時になろうとしていた。街灯から下げられたクリスマスの飾りつけがヒラヒラと冷たい風に揺れていた。街路樹もライトアップされて今が12月ということを押し付けてくる。
地下鉄の入口に近づくと「文鳥堂」が見えた。軒先に近づくと朝にはなかった立て看板を店主らしき人が片づけようとしていた。閉店なのか、と諦めて地下鉄の入口へ向かおうと思った瞬間に、その人と目が合った。このまま踵を返すのも恥ずかしく「あ、もう閉店ですか?」とわたしから声をかけてしまった。
「あ、まだ大丈夫ですよ。どうぞどうぞ」
前髪が目にかかり大きな黒縁メガネをかけた今時の男性だった。
「すみません、閉店間際なのに」と言って近づくと男性が店の扉を開けてくれた。
「いえいえ、お客さんがあまり来ないので嬉しいですよ」と言ってどうぞどうぞと店内へ招き入れてくれた。あからさまに笑うのも悪い気がして表情も変えずに会釈だけして店内に入った。
古い木の匂いがした。そして図書館の匂い。目の前の本を見てこれが紙の匂いなのかと初めて気づいた。
店内は10坪ほどの広さでお世辞にも広いとは言えなかった。正面と左右3面の壁には天井まで伸びた本棚に本がポツンポツンと表紙をこちらに向けて並べてあった。入口の左手には小さな窓があり、通りのライトアップされた街路樹のわずかな枝先だけ店内から覗けた。
窓の下にはわたしの腰ほどの高さに木製の板が敷かれてその上にも本が並べてあった。
中央には小さなダイニングテーブルが置いてあり、そこにも本が並べてあった。
「たくさん本がありますね」と思わず声を漏らした。
「一応本屋ですので」と言って男性は笑った。
わたしは自分の言葉を振り返って顔を赤らめた。
「当たり前ですよね。すみません」わたしは軽く頭を下げた。
「こちらでいつから本屋をやっているんですか?」聞きたかったことをようやく声に出した。
「3年前の夏からです」
「そうなんですね・・・・毎日すぐそこを通っているのにまったく気が付きませんでした」
「来るお客さん皆さんそう言いますね。もっと派手な店構えにしたほうがいいのかなぁ」と言って男性は人差し指で頭を掻いた。
壁面の本を眺めながら「詩歌専門書店と看板にありましたけど詩集とかを専門に扱っているんですか?」と尋ねた。
「そうですね。詩とか短歌や俳句などですね。あと言葉に関する本なら」
「言葉ですか・・・わたしには縁がないなぁ」とわたしは笑い、腰の後ろで手を組みながら本棚を眺めた。
わたしは適当に目の前にあった本に顔を近づけた。
「あ、どうぞどうぞ、ご自由に手に取って見てください」
「あ、いいんですか中見ても?」
男性は一瞬目を丸くして「好きなだけどうぞ」
両の手の平をコートでかるく拭いて一冊の本を手に取った。
鮮やかなピンク色の表紙の中央に『桜前線開架宣言』と書いてあった。
「きれいな本ですね」とわたしはページをめくりながら言った。
「1970年から90年代までに生まれた歌人の歌を集めた現代短歌の本ですね。とても自由な歌ばかりで読んでいて楽しい本ですよ。短歌は好きですか?」
「実はわたしあまり本を読まなくて・・・恥ずかしいですが本屋にもあまり来たことがないんですよね」
男性は「そうなんですか。最近本屋も少なくなりましたからね」と言って背中の小さなレジカウンターに腰を預けた。
「短歌の本を楽しむには自分で短歌を作るというのもアリかもしれませんね」
男性は静かに笑った。
「わたしがですか?いやあボキャブラリーないんですよねえ・・・わたし」と言って痒くも無い頭を掻いた。
「もっと気軽に、その場で見たことでもいいので言葉にして結んでいけば短歌は楽しいですよ」
「言葉にして結んで・・・・さすが言葉が綺麗ですね」
男性はまた笑って「そんなことないですよ」
「たとえば?」慣れない本の話を切り上げたいわたしは余計な一言を男性に投げかけてしまった。
「たとえば?」
「いま短歌を作れますか?」そしてまた余計な一言。
「短歌ですかぁ。」男性は困ってうつむいて頭を掻いた。そしてうーんと唸って腕組みをした。
困らせてしまったと思ったわたしは「では、お題を出しましょう」とまた余計な一言。
「え?お題ですか?」
「この窓なんてどうですか?」わたしは先ほどの小さな窓を指差した。特に考えもない。ただこの場を取り繕うことにした。
「窓ですか?」
「お店を見たときからこの小さな窓が気になっていたんですよ。これでお願いします」
気になったのは事実だ。
男性は腕を組んで俯いたまま黙った。
「あ、もしかしてこういうお題みたいなのダメだったですか?」
「あまり無いですが、まあ、せっかく来ていただいたので」と言ってまた男性は頭を掻いた。
男性は組んだ腕の指先をとんとんとリズミカルに動かしながら窓を見つめていた。
余計なことを言って空気をどんどんと悪化させたわたしは、この気まずさをどうにか男性が作り出した短歌でこの悪い空気を吹き払って欲しいと図々しくも願った。
「オレンジの窓から漏れるひかりへと君が近づく閉店まぎわ」
男性は突然言葉にして「とか?」と付け足した。そして頭を掻いた。
動画サイトでいつか見た、白紙に絵が描かれていくハイスピード映像のように男性の言葉が頭の中でささっと風景に変わっていった。
「あ、もしかして君ってわたしのことですかね?」
「ええ、まあ、そのほうがしっくりきたので」また頭を掻いた。
「なんか照れくさいですね」わたしも頭を掻いた。
「ほんと恥ずかしいんですが・・・・」頭を掻いていた指がピタリと止まった。
「せっかくなのでお客さんも」
わたしの頭を掻いていた指が止まった。
「え? わたし? いやいやいや今は無理ですよ」
「簡単ですよ、言葉を結べば」
「またそれ」とわたしは頭を掻いていた指で男性を指さした。
「ええと五七五でしたっけ?」
「それは俳句です。五七五七七です」
「ああ五七五七七ですね。えっと季語は?」
「それも俳句です。短歌に季語はいりません」
「あ、そうですか・・・」
「では同じ窓でどうぞ」
「はい・・・・」
わたしは頭が真っ白になりただ窓を見つめていた。
頭のなかで言葉を浮かべ「んんんんん」と声に出さずに指折り言葉を数えた。
「えええー、じゃあいきますよ」
わたしは指を折りながら歌った。
「窓からはイルミネーションあざ笑うみたいに覗く明日も仕事」
言い終えると店内には車のクラクションと遠くで聞こえるサイレンの音が小さく届いた。
「いいですね。短歌ですよ」と男性は言った。
「そうですか?思ったことを並べ・・・・“結んだ”だけですけど」
「それ短歌ですよ。ただごと歌っていう短歌の、まあジャンルみたいなもんです」
「あ、いいんですかこんなので」
「もう歌人ですね」
「わたし歌人ですか」
「ええ歌人です」
あっという間に歌人になったわたしは『桜前線開架宣言』を購入して「文鳥堂」を後にした。
ヒラヒラと街灯の灯りの下で揺れているクリスマスの赤い布を見て立ち止まった。
指を何度も折りながら言葉の数を数えた。
「ク、リ、ス、マ、ス・・・・はためく飾り・・・・」
なんかしっくりこないな。とまた「ク・リ・ス・マ・ス・・・・聖夜の・・・あとに・・・あとの・・・」
日が暮れて暗くなった歩道わきで指折り数えてブツブツ一人ごとを言っている女性は傍目にかなりアブナイと思われそうだったが、自分の頭の奥から言葉がほんの少し顔を覗かせてくるのをうまく掴んで引っ張りだそうと格闘した。
「クリスマスいらないか」と独り言を呟き、「聖夜・・・・かな」とまた呟いた。
そして指を折りながら一気に声に出した。
「あと数日聖夜のあとの街飾り思い出すまでまた一年後」
快感だった。頭の中で言葉が結ばれた瞬間、全身が震えた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、メモアプリに歌を忘れないうちにメモして歩き出した。
「工事中白い息吐くヘルメットおじさん湯気と団子に見える」
道路工事の誘導員のおじさんを見ながらわたしはメモアプリに言葉を残した。
地下鉄の入り口に来ると今朝転んだ原因の地面を覗いてみた。今は湿っているだけで氷は張ってない。
階段を降りながら指折り数え、頭の中に現れる言葉を摘んでは並べ、入れ替え、消してはまた摘んだ。
「短歌とのわたしの出会い鳥持った本屋の灯り世界の灯り」
なんちゃってなぁ。短歌はダジャレを入れてもいいのだろうか?とひとりで笑いながら改札を通った。
言葉を探して駅構内を見回した。ゴミ箱、チラシ置き場、観光ポスター、まるで初めて見るかのようだった。ホームへ向かう階段の壁のタイルの模様がこんなに鮮やかだったことにいま気が付いた。見上げると鳥が羽ばたいているタイルアートが天井一面に配してあった。いつも階段の足元を見ながら登り降りをしていて全く気づかなかったのだ。
電車はいつもの満員だった。わたしは感覚を閉ざすのをやめ、視界から言葉を探した。
「指かけるつり革揺れる隣人とダンスのように右左右」
つり革もよく眺めるとなかなか可愛いいじゃないか。
「泣きボクロオヤジは何に泣いている拭えぬ涙はこの世のために」
わたしの顔から5cmの距離のおじさんから言葉を結んでも気持ちは晴れなかった。
自宅最寄りの駅に降りると引き続き言葉を探そうと街の景色に視線を泳がした。
折りたたみ傘のカバーが落ちていた。雨が降ると必ず落ちているやつだ。
その場で頭の中の言葉を摘み出した。
「雪解けの水にあなたは想うだろう傘を畳めば傘の寂しさ」
言葉の結び目が噛み合った瞬間の気持ち良さにたまらなく嬉しくなった。
駅前のロータリーに出て顔を上げると視界を夜空が満たした。
昼間の雲はすでに消え失せて空には星が見えた。
オリオン座の真ん中の三つ星を探した。
ビルの灯りが被っていて冬の大三角は見えなかったがオリオン座の三つ星を見つけた。
わたしは頭の中で星と星に線を引いた。
夜空を見上げながら自分の吐く白い息が繰り返し夜空に溶けていった。
わたしは指を折りながら頭の中の言葉を摘んだ。
「ビル灯りに消されそうでも光ってる名も無き星なんてないんだよこのヤロー」
この日からわたしは世界が見えるようになった。
◎短歌監修 橋爪志保
※このお話はフィクションです。登場人物、物語などは実際の出来事ではありません。