ある春の美術室/ピーコックアートブック
文・イラスト すずきたけし
美術室に入ると生暖かさとともに画材の甘ったるい匂いが僕の鼻を抜けていった。
滑る床の上を慎重に足を運びながら机の列をかき分けて教室の中央まで進んだ。授業などで画材の粉末や細かいゴミが落ちているために美術室の床は滑る。僕は美術部に入部した初日にこの床のせいで先輩たちの目の前で盛大に転んで右手首を骨折した。美術部員であるにもかかわらず半年間、絵を描くことができないまま美術室に顔を出し続けた。在籍はしているが一度も顔を出さない部員を幽霊部員というが、顔を出しても絵を描かない美術部員ということで先輩たちからは生き霊部員と呼ばれた。けど先輩たちにすぐに覚えられたので僕は悪い気はしなかった。
背負っていたバッグを適当な机の上に静かに置いてバッグの口を広げ中の荷物を覗いた。
三階の美術室の窓からは学校の正門が見渡せる。僕は少しだけ窓の外に視線を伸ばした。期末テストが終わった生徒たちが一斉に学校から吐き出されていた。彼らから見えないように僕は窓から少し離れてその様子をしばらく眺めた。
窓から差し込む午後の日差しが教室内を温室のように暖め、テスト終わりの解放感よりも気怠さのほうが勝った。教室の後ろの机を幾つか隅に寄せスペースを作った。空いたスペースの中央に一つだけ机を残す。壁面の棚の上に並んでいる数体の石膏の胸像からマルス像を静かに持ち上げ、残した机に静かに置いた。教室の隅に立てかけてあったイーゼルを抱えて石膏像の脇に立てると、窓際の棚から自分の名前が書いてある画板を取り出した。窓からそっと外を覗くと帰宅する生徒たちの姿はすっかり消え去り、春の淡い日差しで格子模様の影が校門から力なく伸びていた。
画板にクリップで画用紙をセットするとイーゼルに立てかけた。
背もたれのない木製の簡素な椅子に座るとイヤホンをポケットから取り出して両耳にねじ込んだ。そしてポータブルプレーヤーの画面をタップして音楽が耳に触れるまでのわずかな静寂で息を止めた。
音楽が始まると僕は静かに息を吐き出した。
筆入れから鉛筆数本とカッターを取り出し、机に敷いたティッシュの上で鉛筆を削る。僕は鉛筆の芯を削る時の音と感触が苦手だ。カッターの刃が芯の表面を上滑りして、黒板を爪でひっかくのと同じように刃が滑る。削る音は音楽で誤魔化せるが、感触はいつまでたっても慣れやしない。
机の上に置いたマルス像に椅子ごと体を向けた。少し斜め前にイーゼルを動かし、何度か細かく位置を変えた。
窓から差し込む日差しはマルス像を柔らかに包む。この春の日差しが僕は好きだ。夏のまっすぐな光でも、秋の流れるような光でも、冬のトゲトゲしい光でもない。柔らかく、包むような光。教室が光で満たされていくような感覚が春の日差しにはある気がする。
柔らかな陰影のマルス像を目でなぞりながら、僕はそっと画用紙に鉛筆を立てた。
2年生の部員は僕一人だ。
先日の卒業式で5人いた3年の先輩たちがいなくなった今、美術部は僕一人になった。
突然風が吹き、鉛筆の削りカスが机からこぼれ落ちた。
風の吹いてきた方向に顔を向けると、窓が全開になっていた。
「え、なにしてるんですか」僕はイヤホンを外しながら言った。
窓際に立って意地悪そうに笑っているサッコ先輩を見て僕は笑った。
「よくこんな臭い教室を締め切ってデッサンなんてやってられるね。鼻おかしいの?」
「サッコ先輩も元美術部員じゃないですか。匂いに慣れてないんですか」
「あたし鼻がいい方なのよね」
「ああ、柏木先生が近くにいると臭いでよく気づいてましたよね」
机の上の鉛筆の削りカスを手のひらで集めながら僕は言った。
「柏木って結婚してから柔軟剤使いすぎなんだね。あれ奥さんのせいだわ」
「そんなもんですかね」
ジーンズに白いパーカー姿のサッコ先輩は窓を背に棚に寄りかかっていた。制服以外のサッコ先輩を見たのは初めてだった。
窓際のサッコ先輩は逆光で輪郭が朧げで、陽に当たる姿はまるでエドワード・ホッパーの絵に描かれている女性みたいだった。
黒板の脇の美術教員室の扉が開く音がした。
「おー、清水、お前留年したんだっけ?」
顧問の柏木先生だ。
「お邪魔してまーす」後ろで手を組んだサッコ先輩は先生に向かって軽く頭を下げた。
先生は嬉しそうだった。
「おまえ、卒業しても後輩いじめにきてんのか」
「そんなわけないじゃないですか! 一人残されたカワイイ後輩が心配で心配で卒業してもこうして様子みに来たってわけですよ」
「よく言うよ」
「よく言いますね」
先生とぼくはハモった。
「佐伯、俺先に帰るから戸締り忘れんなよ」
「はい」僕よりも先にサッコ先輩が返事をした。
「ちちくりあってないでお前らも早く帰れよ」
「はーい」僕とサッコ先輩は返事を重ねた。
返事を聞くと先生は教室から出て行った。
サッコ先輩が抑えた声で「ちちくりあうとか今どきフツー言う?」とくくくと笑った。
サッコ先輩のこの笑い方がとても好きだ。なぜか僕も誘われて笑い出してしまう。
するとガラッと教室の戸が開いて柏木先生が顔だけを教室に出した。
僕とサッコ先輩は同時に先生のほうに振り向いた。
「あと清水、柔軟剤な、あれ俺が選んでるんだよ」
そう言って扉を閉めた。
サッコ先輩は大声で笑い出した。
僕もつられて笑い出した。
「いるならいるって言ってよ! 聞こえてたし!」
「先輩鼻がいいんじゃないんですか?」
「教室の臭いが邪魔してたね。間違いない」
と言ってまたくくくと笑った。
つられて僕も笑い出した。笑い疲れて息を吐き出したあと、良いタイミングだと思って笑顔を残したまま僕は聞いた。
「今日はなんで来たんですか?」
もしかすると僕は真顔になっていたかも。
「そうそう」
サッコ先輩はトートバッグから紙の包みを取りだした。
「誕生日おめでとう」
差し出された包みを僕は凝視した。
「去年あたしの誕生日にくれたじゃん。そのお返し。いまさらだけどね」
僕は表彰状を受け取るように右手を添え、左手を添え、そして両手で静かに包みを受け取った。
「あけていいですか?」
「いいよ」
サッコ先輩は大きくうなずいた。
僕はクラフト紙の包みをゆっくりと剥がしていった。ラッピングが雑なところがサッコ先輩らしい。
包みの中身は本だった。
『エドワード・ホッパー 静寂と距離』
「佐伯、エドワード・ホッパー好きじゃん。画集だと持ってるなと思って、読み物とかでどうかなと思って。持ってた?」
「いやいや、持ってないです!」
持ってるけど持ってないです。
「ピーコックで見つけたんだ。それ」
学校の最寄駅の中にあるピーコックアートブックという本屋のことだ。アート系の本を専門に扱う本屋で、画材も扱っているので昔からうちの学校の美術部員御用達になっている。併設している小さなギャラリーでは毎年9月に美術部の展覧会が催されて部活動の中では大きなモチベーションにもなっていた。
美術部員は僕一人になってしまった今年は展覧会も無くなりそうなんだけれど。
「ありがとうございます」
僕は表彰状を受け取るように本をサッコ先輩に捧げるように両手を持ち上げて、頭を目一杯下げた。
顔を上げると、窓際に寄りかかったサッコ先輩は何も言わず、ただ笑顔を見せた。陽の光がサッコ先輩の周りを満たしていた。
だから春の日差しが好きなんだ。
「そろそろ帰るわ」
窓際の戸棚から勢いよく離れたサッコ先輩は荷物を肩に背負った。
「あ、じゃあ僕も帰ります」
「え、いいよデッサンやっていきなよ」
「大丈夫です。今日は特別な日なのを思いだしたんで」
「まあ誕生日は特別だけど、佐伯ってそんなキャラだっけ」
「キャラとかじゃないですよ」と僕は言って石膏像を運び始めると、サッコ先輩も机を元の位置に運び始めた。
「あ、いいですよ、僕がやりますから」
僕が石膏像を抱えながら言うと、「いいって。もう卒業した身だし」とサッコ先輩は笑った。
◇
駅までサッコ先輩と並んで歩いた。
「もう学校来なくていいって羨ましいですね」
僕たちのまわりを風が勢いよく通り過ぎた。
前髪を手で押さえたサッコ先輩は「そお? もっと学校に来たかったけどな」と言った。
「あ、部活だけかな」
サッコ先輩は笑った。
「佐伯は学校好きじゃないの?」
「好きとか考えたことないです。来なきゃならないから来ているって感じで」
「部活も?」
「部活は絵を描けるので好きですけど」
「だよねぇ。骨折しても部活来てたしね」
「生き霊部員ですから」
僕は足元ばかりを見ていた。
「そう、あの時はびっくりだよね。初日で自己紹介終わった佐伯が私の前でおもいっきり転んでさ」
「あの時を思い出すとスローモーションですよ」
「でしょ?」
サッコ先輩は僕を指さした。
スローモーションで目の前の景色が足元に流れていった。
気がつくと白壁に影が差し込むホッパーの絵が見えた。けどすぐにそれは蛍光灯カバーの影が伸びた教室の白い天井だと気づいた。耳鳴りがしてくぐもった声が遠くで聞こえた。白い天井を遮って僕を覗きこんだのがサッコ先輩だった。ピントの合わない視界の中で、春の日差しがサッコ先輩だけをくっきりと浮かび上がらせていた。「大丈夫?」そう言ってサッコ先輩は笑った。
「あの時はいきなり転んだ佐伯を見てびっくりしてつい笑っちゃったんだよ。ごめんごめん。けどギプスしながらもよく部活来てたよね。感心したよ。偉い」
僕は返事をしなかった。
右手が使えないのに部活に通い続けたことをサッコ先輩には他人事のように褒められたくなかった。
「絵、続けるんですか?」
一番聞きたかったことを僕はようやく口に出せた。
「うーん。どうだろう。大学は絵と関係無いところだしね」
その言葉に僕は黙ったままだった。
それから駅まで僕とサッコ先輩は黙ったままだった。
風が静かに足元を通り過ぎた。ほのかに桜の匂いがした。
サッコ先輩も気づいただろうか。
哀しいときにはいつも桜の匂いがしている気がした。
◇
「ピーコック寄っていきますか?」
もちろんとサッコ先輩が言ってくれて僕は安心した。
ピーコックアートブックは駅ナカの通路を挟んで本と画材売り場、向かい側にギャラリーが設けられている。
「お、いらっしゃい」僕たちに気づいた真中店長はレジから笑顔で迎えてくれた。
「今日2度目だね」
店長の言葉にサッコ先輩は笑顔で返事をした。
一人で写真集の棚に向かうサッコ先輩の後ろ姿を見た僕は、小さくため息を吐きながらいつも立ち読みしている絵画のコーナーに向かった。
僕は『エドワード・ホッパー アメリカの肖像』という本を手に取った。
数ページをめくってお目当の絵のところでページをおさえた。「カフェテリアの日差し」。
カフェの大きな窓から差し込む日差しのもとで女性が静かに座り、その隣で男性が女性になにか語りかけているような絵。柔らかく包み込むようなこの絵の光は春の日差しだと僕は思っている。
その本をレジに持って行った。
駅のホームに出ると僕は1番線の電車を、サッコ先輩は向かい側の2番線の電車をお互いに待っていた。
平日午後の気怠い時間、ホームに人影はまばらだった。
屋根で覆われたホームの外には春の日差しが満ちていたが、僕たちの足元までは届いていなかった。
「佐伯、なに買ったの?」サッコ先輩は訊いた。
“まもなく1番線に電車がまいります”
アナウンスが鳴った。
僕は手に持った紙袋をサッコ先輩へと差し出した。
「ちょっと早いですけど、先輩の明日の誕生日のプレゼントです」
驚くようなそぶりも見せず、サッコ先輩は「ありがと」と言ってやさしく笑った。
1番線に電車が滑り込んできた。僕の背後で風が舞った。
サッコ先輩は袋からホッパーの本を取り出した。
「それ僕の一番好きな本なんです」
「知ってる。持ってるもん」
背後で電車のドアが開き、乗客が降りてきた。そして発車のメロディが流れる。
ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出した。
電車はホームの雑音も一緒に乗せて行ったかのように僕たちのまわりに音はなかった。
サッコ先輩は微笑んだ。
「特別な日なんだね」
そう、今日は僕にとって特別な日なんだ。
僕とサッコ先輩が1日だけ同い年になる日。
僕は胸を張って言った
「絵、続けてよ」
2番線の電車はサッコ先輩を残して通りすぎていった。
暖かな風が桜の匂いとともに僕らを撫でるように包んだ。
春の柔らかな日差しを背にしてサッコは笑った。
桜の匂いは僕にとって喜びの匂いに変わった。
<建築|デザイン|芸術|音楽|芸能 専門書店「ピーコックアートブック」今回のはなしの2冊>
『エドワード・ホッパー 静寂と距離』青木保 著(ISBN:9784791772346)
『エドワード・ホッパー アメリカの肖像』ヴィーラント・シュミート 著(ISBN:9784000089876)
※このお話はフィクションです。登場人物、物語などは実際の出来事ではありません。