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遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第五回 形而上学(メタフィジックス)

形而上学(メタフィジックス)

 もしここで、遊びとは何かが、探求できれば、「遊びとしての哲学」が実践できるかもしれないし、「遊びでしかない遊び」を遊ぶ子どもを理解できるかもしれない。だが、そうした願望は、ここで本当に遊ぶためには、捨て去らなければならない。というのも、そうした別の目的に目を向けていては、自己目的的な遊びは遊べないからである。私(たち)はここでも本当に遊びたい。ここでは遊びとは何かを哲学すること自体が目的なのである。

 たしかに、どんなことであれ、それとは別の何かにつながるかもしれない。なぜなら、私たちは世界(の出来事)を因果的に見てしまうからである。(これは私たち人間の自然な本性なのかもしれない[1]。)けれども、ここで遊びについて哲学することが、そうした結果につながる、と誰が言い切れるだろうか。哲学を遊べることも、子どもの遊びがわかることも、私たちの遊び(=遊びを哲学すること)自体でなく、その結果にすぎない。だが、どうして原因と結果の間に必然的な結び付きがあると言えるだろうか。たとえば、蛇口から水が出ている原因は、誰かがそれを開い(て閉め忘れ)たからだ、と考えられる。これまでは常に、蛇口を廻した結果、水が出てきたからである。しかし、今朝は、蛇口をひねっても、水が出なかったのである。すると、仮に私たちがここで遊びをうまく哲学できたとしても、――それらの間に必然的な結合がなければ、――そうした結果にはつながらないかもしれない。つまり、私たちがここで遊んだ結果、そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。

 いや、そもそも、本当に遊ぼうとするのなら、結果そうなると目論むことさえできない。(もちろん、仮に目論むとしても、結果そうなるとはかぎらないが。)そうした結果(として起こりうること)を目的とするなら、それは自己目的的な遊びでなくなるからである。では、どうしたら私たちはここで本当に遊ぶことができるのか。おそらく、そのためには、ただひたすらに遊ぶしかない。すなわち、子どもが本当に「(…)遊ぶ時には身もたまも遊びにうちこんでしまふ」[2]ように、「遊んで遊んで遊び惚れる」[3]のでなければならない。むろん、そうする理由はなく、したがって、それはしなくてよいことである。にもかかわらず、遊びそれ自体に入り込んで、それ自体をひたすらに遊ぶのである。そうすれば、きっと私たち(大人)も自己目的的な遊びを遊ぶことができる。

 さて、ここで私たちが遊ぶのは、むろん「遊びのメタフィジックス」である。ならば、ここで本当に遊ぶには、ただ――全身全霊をかけて「遊び惚れる」ほどに――ひたすらに遊びの形而上学(メタフィジックス)に打ち込めばよいはずだ。とはいえ、そもそも形而上学とは何なのか。それをするとは、どのようなことなのか。

 まず、(問いの順序と逆になるが、)形而上学をするということは、形而上学的な真理を探求するということである。なぜなら、形而上学は哲学の一分野であり、哲学(者)は真理を探求するからである。(形而上学がどんな分野であるのかは後で見る。)ここで哲学とは何かを詳細に論じることは難しい。しかし、ありうる誤解を予め晴らしておけば、ここで私たちが志す哲学は、どのように生きるべきかの教訓ではない。たしかに、たとえば「人生哲学」と言われるとき、「哲学」という語は人生訓を意味することがある。だが、(西洋)哲学の祖ソクラテスは、よき人生をアテナイ市民に(問い質しはしても)教え諭したのではなく、むしろ市民と共に探し求めたのである。そもそも、哲学者とは、知恵の愛求者(フィロソフォス)であって[4]、知恵の教育者ではない。この意味で私たちの哲学は哲学(説)の訓示ではない。そもそも私たちは遊びについての真理をまだ持ち合わせていない。だから、私たちの遊びの哲学は遊びについての真理の探求なのである。

 もちろん、哲学的な探求が(結果として)何かの役に立つことはある。まず、明らかに、先哲たちの探求は私たちの哲学に役立っている。また、たとえば、ジャン=ポール・サルトルの『実存主義とは何か』が20世紀の若者に多大な影響を与えたように、哲学(思想)が個人の人生を救うこともあるかもしれない。あるいは、私たちの社会は、ピーター・シンガーの『動物の解放』が書かれなければ、動物への配慮をもっと怠っているかもしれない。とはいえ、哲学(者)の仕事は、真理の探求であって、それを人生や社会に役立てることではない。アリストテレスによれば、哲学の黎明期から、哲学者が真理を求めるのは、「(…)ただひたすらに知らんがためであって、なんらの効用のためにでもなかった」のである[5]。すなわち、ただ真理のために哲学(者)は哲学をする。これが哲学(者)の仕事である。真理を愛し求めることが哲学なのである。

 とはいえ、どうして私たちは遊びについて哲学しなければならないのか。たしかに、私たちは(特に子どもの)遊びについて真理が知りたく、哲学(者)は真理を探求するものである。だが、真理を探求するのは、哲学(者)だけではない。たとえば科学(者)もまた明らかに真理を探求する。では、どうして遊びの科学ではダメなのか。それは、私たちの探求が遊びの形而上学(メタフィジックス)だからである。すなわち、形而上学(メタ・ピュシカ)は、――もともとはアリストテレスの『自然学(ピュシカ)』の後に(メタ)置かれた著作の名前であったが、――自然(科)学(フィジックス)を超えて(メタ)世界の在り方を探求するのである。

 では、形而上学とは具体的にどのような分野なのか。これを知ってもらうには、(私たちの遊び研究にも関連する)形而上学の代表的なテーマをいくつか見てもらうのがよいだろう。

 まず、たとえば因果性は形而上学の伝統的なテーマの一つである。因果はもちろん原因と結果から成る。だが、それ(ら)はそもそも何なのか。それ(ら)は本当に世界に在るのか。たしかに、二つの出来事が原因と結果の関係でつながっている、と思われることはある。たとえば、雨が降って道が濡れたら、雨が降ったことが、道が濡れた原因である、(あるいは、道が濡れたのは、雨が降った結果である、)と言いたくなる。けれども、私たちはそこに因果それ自体を観察するわけではない。すなわち、私たちには原因と結果というものが見えるわけではない。なぜなら、因果には形がないからである。形のあるもの、つまり形而下のものであれば、私たちは見(たり触ったりす)ることができる[6]。しかし、形而上学的に探求される因果は、けっして感覚されないのである[7]。実際に私たちの目に入るのは、異なる二つの出来事――雨が降ることと地面が濡れること――でしかない。にもかかわらず、どうして、一方が原因とされ、他方が結果とされるのか。(あるいは、どうして逆ではないのか。)もちろん、原因とは結果を引き起こすものである、(あるいは、結果とは原因から生じるものである、)とは言える。しかし、もしそうだとすると、因果関係にある(と思われる)出来事の間には、それらを因果的につなげるような、何か不思議な力が働いているのだろうか。そんな目に見えない力が実は世界には在るのだろうか。

 おそらく、そんな不思議な力は(自然)科学的には研究されない。なぜなら、それは形而下のものではないからだ。しかし、――第二回の連載で述べたように、――(自然)科学は、ある出来事を究明するために、それと因果的につながる別の出来事を探求する。たとえば、子どもが遊ぶ原因は、あり余るエネルギーなのかもしれないし、私たちが遊ぶ結果、美は創造されるのかもしれない。あるいは、「なぜ幼児は遊ぶのか」と問われ、「感覚機能的実践の快楽のためだ」と答えるなら[8]、幼児の遊びは、機能的実践の快楽という結果から、因果的に説明されることになる。すると、(自然)科学的な研究は、――因果的な力ではないとしても、――因果(的な何か)を想定していなければならない。さもなければ、そもそも形而下の物事の因果的な解明が意味を成さないからである。

 だが、因果(的な力)は目に見えない。私たちに見えるのは、これまでは雨が降ったら道が濡れたということだけである。これまでは子どもの感覚運動の後に快楽が生じたということだけである。だとすれば、どうして私たちは因果(的な力)に頼れるだろうか。どうして、これからも因果(的な力)は発揮される、と言えるだろうか[9]

 自然の出来事はすべて常に同じ秩序に従っている。そのように世界(の出来事)は在るのかもしれない。これは「自然の斉一性」と呼ばれる原理である。これを私たちはおそらく本性レベルで信じてしまっている。(さもなければ、どうして経験から未来が予測できるのか。)しかし、「自然の斉一性」はもちろん形而上学的な原理である。なぜなら、私たちはすべての出来事を見られない(が、「自然の斉一性」にはすべての出来事が含まれる)からである。たしかに、自然の諸現象には規則性があるように見えるので、自然現象は自然法則に従っている、と言いたくなる。けれども、私たちの見えないところでは、たとえば未来の世界では、どうだろうか。すなわち、これからは自然法則そのものが変わってしまうかもしれない。そのときには自然現象は私たちの知る規則性に従わなくなる。こうした世界(ないし自然)の在り方も形而上学的には可能である[10]。(あるいは、少なくとも論理的には可能である。なぜなら、そこには矛盾がないからである。)

 時間もまた形而上学の代表的なテーマの一つである。時間には三つの様相がある。現在と過去と未来である。これらのうち感覚できるのは現在(の世界)だけである。過去(の世界)と未来(の世界)はどちらも感覚できない。――あるいは、そもそも、時間というものは、それ自体で感覚されるものではない。私たちに感覚できるのは、現在の物事であって、現在それ自体ではないからだ。――たしかに、過去(の世界)については、想起できることもある。しかし、心(?)に浮かんだそれがどうして記憶であるとわかるのか。なぜそれは予期や空想でないとわかるのか。また、誰にも思い出せない過去(の世界)については、どうだろうか。たとえば、人類が誕生する以前(の世界)については、私たちの誰も思い出すことはできない。にもかかわらず、どうして7000万年前の日本にはハドロサウルス科の恐竜(カムイサウルス・ジャポニクス)が実在したとわかるのか。過去(の世界)が――今はないのに――在ったとわかるのはなぜなのか。(もちろん化石は今あるわけだが、問題は、なぜそれが――在るのは今なのに――過去(の世界)のものだとわかるのか、である。)

 未来(の世界)については、むろん想起もありえない。なぜなら、想起されることは何であれ、経験した●●ことでなければならないからである。もし仮に、10年後(の世界)が想起されるなら、それはすでに経験されているのである。さもなければ、どうしてそれを思い出せるだろうか。とはいえ、未来(の世界)についても予測はできる、と言いたくなるかもしれない。だが、未来(の世界)についての予測は、――今されるのだから、――未来(の世界)そのものでなく、したがって常に外れうるものである。たしかに、自然の諸法則がいつでもどこでも同じであるのなら、未来(の世界)についても知ることができるかもしれない。しかし、自然(法則)は本当に斉一的なのだろうか。世界には永遠不変の自然法則が存在するのだろうか。もちろん、存在する、と私たちは信じている。だから、私たちはこれまでからこれからを予想するのである。だが、未来(の世界)では自然(法則)が本当に変わるかもしれない。もしかしたら、10年後には生きたカムイサウルスが見つかるかもしれない[11]。あるいは、来年から急に地球が氷期に入るかもしれない。こんなことを信じている人はもちろんいない(だろう)。しかし、私たちはこんなことでさえ考えることができる。そして、私たちが(矛盾なく)考えることができることは、――むろん、それだけでは、科学的に可能なことにはならないが、――少なくとも形而上学的には可能なのである。そもそも、未来(の世界)についての予想は、未来(の世界)そのものではありえない。予想は今にあるが、未来それ自体は今はないからである。だが、未来(の世界)は本当にまだまったく存在しないのだろうか。まったくないものが、どうしてあるようになるのだろうか。

 いや、未来(の世界)は、――今は経験することはできないが、――実は存在しているのかもしれない。このことは、空間的な隔たりにおいては、イメージしやすいと思われる。たとえば、誰でも自分の背後(の世界)は見ることができない。しかし、振り返ってそちらを前(の世界)にすれば、もちろん見えるようになる。あるいは、地球から遠く離れた月でさえ、そこに行けば、それに触れるようになる。でも、どうして前になると見えるのか。どうして月は行けば触れるのか。それは、後ろ(の世界)や月が、私たちの感覚とは独立に、もともと存在するからではないだろうか。世界(の物事)は、私たちの感覚を超えて、それ自体で実在するのではないだろうか。もし時間的な隔たりもこのように考えるなら、未来(の世界)もまた実在することになる。つまり、未来(の世界)は、私たちの経験とは独立に、存在するのである。そして、そこが現在(の世界)になるときには、経験されるようになるのである。すると、そもそも世界はまるごと実在するのかもしれない。もちろん私たちはそれを部分的にしか経験できない。しかし、私たちに経験されない世界も実はすべて存在するのではないか。

 では、(世界の)存在とはそもそも何なのか。(何かが)存在するとは、どのようなことなのか。存在(する)ということ自体が形而上学の中心的なテーマである。たとえば、背後(の世界)が存在することは、(なぜか)何となくわかる(気もする)が、明日(の世界)が存在するとは、どういうことだろうか。未来(の世界)は、――背後(の世界)が視認される前から実在するように、――経験される前から実在するのだろうか。たしかに、何かが存在するのかどうかと、それがどのようであるのかは、それぞれ別の問題である。だから、自然法則がすっかり変わってしまった未来(の世界)にも、何らかの自然現象はなお在るかもしれない。もちろん、私たちには、それがどのようであるのか、まったくわからない。しかし、それがどのようであるとしても、何かが存在するというわけである。

 すると、未来(の世界)でさえ、それが何であれ、何かが存在する、とは言えるかもしれない。そして、何かが存在するのなら、それが世界である。だから、未来(の世界)は、何もかもが無くなるのでなければ、必ず存在することになる。だが、――自然法則でさえ未来に変わりうるのなら、――どうして世界(ないし自然)はそもそも存在をやめないのか。世界(ないし自然)それ自体が無くなることは本当にありえないだろうか。たしかに、私たちには、世界が無くなるということが、どういうことなのか、よくわからない。もしかしたら、――自然法則の変化は考えられても、――世界の消滅は(少なくとも具体的には)考えられないのかもしれない。(けれども、考えられないことは起こりえない、とはもちろん言えない。)

 なぜ私たちに世界の消滅が考えられないのか。それは、おそらく、私たちが(消滅する)世界の一部だからである。では、もし仮に、世界に創造主がいたら、どうだろうか。世界の創造主たる神は、世界の一部ではないのだから、世界の消滅を見られるのではないだろうか。こうして神(の視点)が形而上学には入り込んでくる。そもそも神もまた伝統的な形而上学のテーマの一つである。なぜなら、神(の存在)は世界の在り方に根本的にかかわるからである。神の創った世界と、そうでない世界は、その世界の在り方が決定的に異なるのである。だが、もし仮に、私たちの世界に神がいるのなら、神(の視点)には、世界が無くなることも、世界が生まれることも、見えるはずである。つまり、(まるで)神が世界を眺め(るように考え)ることで、世界それ自体の在り方が明らかになる。世界が無くなるとは、どういうことか。そもそも、なぜ世界が在るのか。神様なら、きっと知っているはずである。こうした世界の在り方の探求が形而上学では可能なのである。

 ようするに、世界それ自体の在り方についての真理を形而上学(者)は探求する。むろん形而上学的な真理だけが哲学の真理ではない。というのは、世界の私たちへの現れ方についても哲学(者)は探求するからである。たとえば、因果性は、世界に実在する力でなく、私たちの習慣的な思い込みであるかもしれない。すなわち、私たちは、これまでは雨が降ると道が濡れたから、これからも雨が降れば道が濡れる、と何となく信じ込んでいるだけなのかもしれない。あるいは、過去(の世界)も未来(の世界)も、それ自体で実在するわけでなく、私たちの想起や予期(から推論される世界)でしかないのかもしれない。すなわち、たとえば、7000万年前に存在したカムイサウルスとは、私たちが今(化石などから)推論しうるかぎりでの7000万年前のカムイサウルスにすぎないのである。また、バークリの言うように、「(…)事物もの存在する●●●●とは知覚される●●●●●ことである」[12]のかもしれない。すると、たとえば、私たちの背後(の世界)の物は、誰もそれを見たり触ったりしていないのであれば、存在していないことになる。しかし、私たちがそれを振り返って見るなら、もちろんそれは存在するのである。さらに、世界の創造主である神でさえ、私たちが考えているだけの神であるかもしれない。もしそうだとすれば、私たち人間こそが世界のクリエイターであることになる。

 このように、私たちに現れるように、世界を眺めるのなら、形而上学的な探求はいらないのかもしれない。私たちは、世界それ自体の在り方を探求しなくても、世界の私たちへの現れ方を記述できるからである。だが、そのような世界(の眺め方)は、けっして私たちに馴染みのあるものではない。たとえば、カムイサウルスは、2017年に全身化石の五割以上が確認されたから[13]、7000万年前に実在した(ことになった)のではない。カムイサウルスは、仮に化石が発見されなくても、7000万年前の北海道に実在したのである。そして、7000万年前に実在したカムイサウルスの化石が、2017年に確認されたのである。あるいは、私たちが振り返って見るから、後ろの物が在るのではない。そうではなくて、そもそも、後ろに在る物しか、振り返っても見えないのである。私たちに慣れ親しんだ世界は明らかに後者である。

 だが、そのような慣れ親しんだ世界は、実は多くの形而上学的な原理に支えられている。たしかに、「形而上学」と聞いても、何のことだか、よくわからないし、形而上学的な探求は、正当な根拠のない、机上の空論に見えるかもしれない。しかし、私たちは、日々の暮らしの中で、実は形而上学的な原理を何の根拠もなく信じている。たとえば、天気予報のように、未来(の世界)についての私たちの予想は、外れることがある。明日の天気を雨と予測しても、実際には快晴になることがある。私たちが予想する未来(の世界)とは別に、本当の未来(の世界)が来るからである。だが、予想が外れたとき、間違ってしまったのは、一体どちらであるのか。つまり、私たちの方が間違って雨と予測してしまったのか、それとも、世界の方が間違えて快晴にしてしまったのか。ここで後の選択肢を選ぶ人はまずいない。なぜなら、私たちは、何の根拠もなく、「自然の斉一性」を信じているからである。もちろん「自然の斉一性」は形而上学的な原理である。あるいは、私たちが何の感覚(も記憶も)なく眠っている間、世界(の存在)はどうなっているだろうか。その間は世界は存在しない、と信じる人もまずいない。世界は、私たちが目覚めるときに、眼前に存在し始めるのではない。そうではなくて、私たちに何の感覚も(記憶も)なくても、(過去の)世界は存在するのである。少なくともそのような世界の在り方が私たちに馴染みのあるものである。私たちは(過去の)世界の実在を信じているのである。もちろんこれも形而上学的な信念である。また、そもそも、(神を考える)私たち自身が、神の被造物である。私たち人間は世界の一部だからである。だとすれば、私たちはもちろん世界のクリエイターではありえない。

 かくして、形而上学的な信念なしには、私たちの慣れ親しんだ世界は保てない。私たちは実は日頃から形而上学的な原理を暗に受け入れている。因果性も「自然の斉一性」も過去の実在も信じている。こうした信念(の根拠)はどれも私たちの経験を超えている。その意味で形而上学的なものである。もちろんこうした原理は盲信してもよいかもしれない。しかし、もし私たちが、――まさに知恵の愛求者(フィロソフォス)のように、――世界それ自体の在り方について、真理を知りたいのであれば、形而上学的な探求はもちろん可能である。たしかに世界の私たちへの現れ方は大切かもしれない。というのも、世界を見るのは私たちだからである。だが、たんなる見かけよりも本当のことが知りたいことはある。すなわち、世界それ自体の在り方について、本当のことが知りたいことはある。これを探求するのが形而上学である。

 遊びについても同じことが言える。すなわち、私(たち)がここでしたいのは、世界それ自体に在る遊びについての探求である。もちろん、遊びについても、私たち人間にとっての遊びを哲学することはできる。しかし、ここで私たちがするのは「遊びのメタフィジックス」である。だから、私たちの探求においては、遊びは、私たち人間に現れるものでなく、世界それ自体に在るものである。(そんな遊びが本当にあるのか、と訝しがられるかもしれないが。)

 もしそのような形而上学的な探求が遊びについて可能であるなら、世界の創造はまさに神の遊びであるかもしれない。そして、それは、神の遊びであるのだから、本当の遊びであるにちがいない。だが、私たちはまだ、それがどのような遊びであるのか、まったくわからない。もちろん、遊びについては、形而上学的でない(が哲学的である)探求もあるし、そもそも哲学的でない探求もある。しかし、私たちはまだ遊びについて形而上学的な真理を知らないのである。だからこそ、私たちにはここでそれを探求する余地がある。すなわち、世界それ自体に在る遊びについて、哲学的に探求する余地がある。

 

 

[1] Cf. 成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか-デイヴィッド・ヒュームと哲学する』青土社,2022年9月28日,155-157頁.

[2] 北原白秋『洗心雑話』「その四」,『白秋全集15詩文評論1』岩波書店,1985年2月5日,504頁.(Cf. 村田康常「遊びと教育のリズム論―有機体の哲学の観点から見た遊びの哲学―」『柳城こども学研究』第1号,2018年7月20日,85頁.)

[3] 北原白秋『洗心雑話』「その四」,『白秋全集15詩文評論1』岩波書店,1985年2月5日,504頁.(Cf. 村田康常「遊びと教育のリズム論―有機体の哲学の観点から見た遊びの哲学―」『柳城こども学研究』第1号,2018年7月20日,85頁.)

[4] Cf. アリストテレス『形而上学』982b10,『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1959年,28頁.

[5] アリストテレス『形而上学』982b10,『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1959年,28頁.

[6] Cf. 谷徹「形而上学」『辞典 哲学の木』永井均・中島義道・小林康夫・河本英夫・大澤真幸・山本ひろ子・中島隆博編,講談社,2002年,294頁.

[7] Cf. 一ノ瀬正樹「原因と結果と自由と」ヒューム『人生論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳,中央公論社,2012年,2頁.

[8] Cf. ピアジェ,ジャン.『遊びの心理学』大判茂訳,黎明書房,1973年,64頁.

[9] Cf. ヒューム,デイヴィッド『人間本性論 第一巻 知性について』木曾好能訳,法政大学出版局,2011年5月10日,113頁

[10] Cf. ヒューム,デイヴィッド「人間本性論摘要」『人間知性研究:付・人間本性論摘要』斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳,法政大学出版局,2009年5月15日,210-211頁.

[11] もしかしたら、未来に発見されるカムイサウルスは、本当のカムイサウルスではないのかもしれない。なぜなら、カムイサウルスは7000万年前の北海道に生息し(絶滅し)た恐竜だからである。このように考えると、カムイサウルスが未来に発見されることは、けっしてありえないことになる。

[12] バークリ,ジョージ.『人知原理論』大槻春彦訳,岩波書店,2004年10月15日,45頁.

[13] 北海道むかわ町公式ウェブサイト「日本の竜の神カムイサウルス・ジャポニクス(通称 むかわ竜(むかわ町穂別産))」 http://www.town.mukawa.lg.jp/3076.htm(2024年4月7日閲覧)

 

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著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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