朝日出版社ウェブマガジン

MENU

遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第六回 遊び研究の対象と方法

遊び研究の対象と方法

 遊びについては古くからたくさんの洞察がある。たとえば、ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で引用するように[14]、プラトンの『法律』には次のように書かれている。

 

アテナイの人 (…)真剣なことには真剣な努力を致さなければならないが、しかし真剣でないものにはその必要はない、そして神は、本性上幸福を約束するすべての真剣な努力に値するものであるが、人間は、(…)神の何か玩具として工夫されたものでして、そして実際にこのことが、人間のやれる最も善いことであるのです。だから、この生活の型に従っていき、できるかぎり立派な遊戯を遊戯しながら、男も女も、皆がこうして生きていかなければならないのです。(…)[15]

 

ホイジンガの解釈によれば、プラトンは「(…)遊びという観念を精神の最高の境地に引き上げることによって、それを高めている」[16]。たしかに遊びはよく真面目(真剣)に対比される[17]。というのは、たとえば家事や仕事の息抜きのために、私たち(大人)はしばしば遊ぶからである。だが、彼(ら)によれば、遊びは最も真面目なものになる[18]。それが美しく神聖な遊びである。つまり、私たちは、神のために、美しく遊ぶことができる。「そうすれば、その結果、神々を自分に恵み深いものとすることができる」[19]のである。

 あるいはまた、ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った』の中で遊ぶ子どもを精神の最高の変化と見なしている。彼によれば、私たちの精神には三つの変化がありうる。まず、辛抱強い精神は、多くの重荷を背負って、「汝なすべし」の精神である駱駝になる[20]。だが、精神はそこから自由を手に入れるため獅子になる[21]。これは「われ欲する」の精神である[22]。そして、最後の変化が子ども(幼な子)である。彼によれば、「幼な子は無垢である。(…)ひとつの遊戯である。(…)ひとつの聖なる肯定である」[23]。つまり、遊ぶ子どもの精神は、現にあるところのものを――たとえそれが永遠に回帰するとしても何度でも――そのまま自然と受け入れ遊び続ける[24]。これは(私が言い表すなら)いわば「現にある」の精神である。

 さて、こうした遊びの形而上学は、――まさに本連載が試みるものではあるが、――「われわれの日常のありふれたさまざまな遊びのふるまいの実質については、ほとんどなにも教えてはくれない」[25]、と思われるかもしれない。おそらくそのためだろうか。現代の遊び研究の多くは(広い意味で)科学的なものである。たとえば、ホイジンガの遊び研究を受け継ぐ[26]、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』は、明らかに社会科学●●的なものである。また、教育学も遊びを研究するが、(特に初等)教育学的な遊び研究を基礎づけるのは(主に発達)心理学的な遊び研究である。もちろん心理学は(広い意味で)科学である。とはいえ、科学でない遊び研究もたしかにある。たとえば、西村清和の『遊びの現象学』は、遊びの科学でなく、遊びの哲学である。なぜなら、西村の遊び研究は、「なぜ人間は遊ぶのか」という問いに因果的に答えるものでなく、「遊び手にとって遊びとは何か」という問いに本質的に答えるものだからである[27]。もちろん私たちの遊びの形而上学も遊びの哲学である。つまり、私たちが試みるのは(子どもの)遊びの本質を探ることである。だが、遊びの現象学と遊びの形而上学では研究する対象が異なる。現象学的に研究される遊びは、私たち人間にとっての現象である。(だから、西村の『遊びの現象学』は「われわれの(…)遊びのふるまいの実質について」教えられるのである。)しかし、私たちが形而上学的に研究したい遊びは、世界それ自体における存在である。私たちは世界(あるいは自然)そのものに存在する遊びを研究したいのである。

 かくして、私たちの遊びの形而上学は、従来の代表的な遊びの諸研究とは、研究する対象と方法が異なることになる。私たちが研究する対象は、人間社会に現象する遊びでなく、自然世界に存在する遊びである。それを探求しうるのは形而上学だけである。だから、私たちの遊び研究は、科学でなく、哲学である。形而上学は哲学の一分野だからである。

 まず、私たちの遊び研究の対象は、私たち人間に現象する遊びでなく、世界それ自体に存在する遊びである。たしかに、遊びは私たち人間の社会文化である、とも言えるので、――次回の連載で概観するカイヨワの『遊びと人間』のような、――遊びの社会(科)学は、むろん可能であるし、実際に盛んである。しかし、私たちがここで探求したいのは、すでに社会の一員であるような大人の遊びでなく、むしろ自然の一部であるような子どもの遊びである。

 第三回「遊びでしかない遊び」の論説に倣えば、大人の遊びは、自己目的的でなく、それ自体とは別の目的が伴われる。だから、それは、遊びでもあるが、遊び以外の何かでもある。たとえば、職場の忘年会は、いつもの仕事ではないが、まったくの遊びでもない。また、同じスポーツであっても、競技としてする人がいる一方で、健康のためにする人もいるし、気晴らしにする人もいる。でも、どうして、他の何かで(も)あることが、遊びに(も)なるのだろうか。何がそれを遊びに(も)しているのだろうか。(大人の)遊びの本質は何なのだろうか。おそらく、(大人の)遊びの本質を見つけようとしても、――あるいは、(大人の)遊びの定義を下そうとしても[28]、――うまくはいかない。というのは、種々の(大人の)遊びに共通する性質のうち、どのような性質をどれほど選び出そうとも、そこから零れ落ちる(大人の)遊びがあるからである[29]。そして、あらゆることが(大人の)遊びになるにもかかわらず、どんなことでも遊びに(も)してしまう何らかの性質が、あらゆる(大人の)遊びに共通して見つかるとは思えないからである[30]。たとえば、何らかの厳格なルールがあることは、競技スポーツや賭け事などには見いだせるが、即興劇や自然浴などには見いだせない[31]。しかし、もちろん即興劇も自然浴も遊びになるのである。

 これに対して、子どもの遊びは、それ自体が目的であるので、それ以外の何かではありえない。すなわち、遊びでしかない遊びが子どもには遊べるのである。たしかに子どもは(残念ながら)いつか大人になる。いつか大人と一緒に(人間)社会の一員となる。だが、子どもは(幸いなことに)まだ大人ではない。すると、ある意味では子どもはまだ(人間)社会の一員ではない。そうではなくて、それはむしろ自然(世界)の一部である。この意味で子どもの遊びは(自然)世界に存在する。これが私たちの遊び研究の対象である。もちろん、(人間)社会に現象する(大人の)遊びは、科学的にも哲学的にも研究に値するし、実際に社会学でも現象学でも研究されている。けれども、自然(世界)に存在する(子どもの)遊びは、仮に科学的に研究されているとしても、なお哲学的に研究する余地がある。というのは、現代では(ほとんど)誰も(遊びの)形而上学に興味がないからである。だから、巷には(子どもの)遊びの心理学は溢れているが、(子どもの)遊びの形而上学はまず見かけない。そもそも(遊びの)形而上学は(遊びの)心理学よりも人気がないからである。しかし、だからこそ、私たちにはそれを形而上学的に探求する余地がある。(子どもの)遊びの形而上学はなおも可能なのである。

 また、明らかに、私たちの研究方法は、科学でなく、哲学である。形而上学は哲学だからである。とはいえ、もしかしたら、自然(世界)の存在を研究するのは、むしろ自然科学である、と言われるかもしれない。なるほど、――たとえば次回以降に検討するジャン・ピアジェの『遊びの心理学』のように、――子どもの遊びを(自然)科学的に研究することはもちろん可能である。だが、(自然)科学的に研究される子どもとは、一体どのような存在だろうか。それは本当に自然(世界)の一部であるだろうか。

 おそらくそうではない。そうではなくて、(自然)科学的に研究される子どもたちは、いずれ(人間)社会の一員になる、すなわち、いずれ大人になる子どもである。だから、彼らは、いわば「大人の小さなもの」[32]であって、(自然)世界の一部でしかない〈子ども〉であるわけではない[33]。たしかに、(発達)心理学や(人間)生物学などの諸法則に照らし見れば、子どもとはいずれ必ず大人になるものである。(むろん年齢を重ねても子どもっぽい大人はいるだろうが。)それゆえに、(自然)科学的に研究される子どもは、すでに潜在的には(人間)社会の一員である。彼らは、(自然)科学の諸法則に従って、因果(必然)的に大人に通じているのである。

 だが、自然の諸法則がいつでもどこでも同じであることを前提しないのなら、――すなわち、前回の連載で論じたように、「自然の斉一性」を前提しないのなら、――自然の諸現象がいつかどこかで変わることは、矛盾なく想像できるし、それゆえに形而上学的に可能である[34]。すると、自然(科)学の枠を超え出て、生物心理学的な諸法則の斉一性を捨て去るなら、大人にならない〈子ども〉さえ(思考)可能であることになる。すなわち、形而上学的には、〈子ども〉が大人にならないことも、(あるいは、大人が〈子ども〉になることも、)可能なのである。もちろん、大人にならない〈子ども〉は、潜在的にも(人間)社会の一員ではない。それは、大人とは何の(因果的)つながりもない、〈子ども〉という独立した存在なのである[35]。そんな子どもでしかない〈子ども〉の遊びでしかない〈遊び〉を研究するには、自然(科)学の諸法則を超越しなければならない。つまり、〈子どもの遊び〉は形而上学的に研究されなければならない。だから、私たちはここで、科学でなく、哲学をするのである。

 では、科学的な〈子どもの遊び〉研究は不可能なのだろうか。そう決めてかかることはできない。なぜなら、科学(的実在論)は文字通りに自然(世界)それ自体を捉えられるかもしれないからである。ようするに、自然科学者たちが語っているのは、彼らに現れ(超越論的に構成され)るかぎりの自然(世界)であるとはかぎらない。いや、むしろ「科学者が、おのずと実在論的な(…)態度をもっていることは、正常で自然である」[36]。たとえば、古生物学(的実在論)者が追っているのは、いま彼らに研究できるかぎりのカムイサウルスの姿でなく、7000万年前に実在したカムイサウルスの姿なのである。

 けれども、〈子どもの遊び〉はそもそも非因果的な(acausal)ものである。なぜなら、それは自由かつ自己目的的だからである。まず、遊びとは、強いられるものでなく、しなくてもよいもの、つまり自由なものである。だから、もし仮に遊び(に見えるもの)に何か原因があるのなら、それは、その原因に引き起こされたのだから、しなくてもよい自由なものでな(く、それゆえに遊びでな)かったことになる。また、〈子どもの遊び〉は、そこから生み出される何らかの結果のために、なされるのではない。それは、その〈遊び〉自体を目的とする、自己目的的な遊びであるからだ。〈子どもの遊び〉には、その結果生じうる、別の目的はない。だから、それは遊びでしかない〈遊び〉なのである。それゆえに、〈子どもの遊び〉を研究するのなら、それと因果的につながる何かを探すのでなく、それ自体の本質を見抜くのでなければならない。すると、科学的な〈子どもの遊び〉研究が可能かどうかは、因果のない科学、つまりアコーザルな科学が可能かどうかにかかっているのかもしれない。(とはいえ、これは、私の手に余る問題であるので、ここでは棚に上げておく。)

 さて、以上から、遊びの諸研究は大きく四つに分けられる、と言える。というのは、研究の対象と方法がそれぞれ二分されるからである。まず、研究の対象はもちろん遊びである。しかし、それは、人間(社会)にとっての現象でもあるが、(自然)世界における存在でもある。たとえば、(人間)社会の一員である大人の遊びは、前者であるだろうが、自然(世界)の一部である〈子どもの遊び〉は、後者であるだろう。また、研究の方法には、科学的なものもあるが、哲学的なものもある。科学的な研究は(アコーザルなものを除けば)対象の原因や結果を発見しようとする。(アコーザルでない)科学は因果(的必然)性を前提するからである。さもなければ、科学的な諸法則は意味を成さない。他方、哲学的な研究は対象それ自体の本質を洞察しようとする。そのために哲学者たちはしばしば(奇妙な思考実験をし)科学的な諸法則を超越する。(だから、もちろんアコーザルな哲学は可能である。)すなわち、そうすることで、たとえば大人にならない〈子ども〉が考えられるようになるのである。

 かくして、遊び研究の対象と方法の二分法が交わると、遊びの諸研究は以下の図のように四つに大別されることになる。(もちろん、それらは互いに重なり合ったり支え合ったりするので、それらの間にはっきりとした境界線を引くことはできないだろうが。)もはや言うまでもなく、私たちがここで試みるのは、遊びの形而上学(メタフィジックス)である。それ以外の三つの遊び研究を代表するのは、それぞれ、カイヨワの遊びの社会学、ピアジェの遊びの心理学、西村の遊びの現象学である。

 

四分類

 

 

 

[14] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,56-58頁.

[15] プラトン『法律(上)』山本光雄訳,『プラトン全集9』山本光雄編,角川書店,1975年2月10日,306頁.

[16] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,58頁.

[17] Cf. ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,26頁.

[18] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,448頁.

[19] プラトン『法律(上)』山本光雄訳,『プラトン全集9』山本光雄編,角川書店,1975年2月10日,307頁.(Cf. ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,488頁.)

[20] ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣訳,岩波文庫,2000年4月5日,37-39頁.

[21] ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣訳,岩波文庫,2000年4月5日,38-39頁.

[22] ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣訳,岩波文庫,2000年4月5日,39頁.

[23] ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣訳,岩波文庫,2000年4月5日,40頁.

[24] Cf. 永井均『これがニーチェだ』講談社現代新書,1998年5月20日,188-192頁.

[25] 西村清和「遊び」『辞典 哲学の木』永井均,中島義道,小林康夫,河本英夫,大澤真幸,山本ひろ子,中島隆博編,講談社,2002年3月11日,23頁.

[26] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,3頁.

[27] 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,11-19頁.

[28] Cf. シカール,ミゲル『プレイ・マターズ:遊び心の哲学』松永伸司訳,フィルムアート社,2021年5月20日,22頁.

[29] Cf. カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,39頁.

[30] ヒュームは因果性について同じ(型の)議論をしている。彼は『人間本性論』で次のように書いている。「一見しただけで私は、その[因果の観念を生み出すところの]印象を、対象のどれか特定の性質のうちに探し求めるべきではないことを、知る。なぜなら、これらの性質のどれを選んでも、その性質をもたないが原因または結果の名称に妥当する範囲に入る何らかの対象を、見出すからである。実際、外的あるいは内的に存在するもので、原因または結果と見なされ得ないものはないのに対して、あらゆる存在者に普遍的に属し、それらにこの〔原因または結果という〕名称をもつ資格を与えるような性質は、一つもないことが、明らかである。」(ヒューム,デイヴィッド『人間本性論 第一巻 知性について』木曾好能訳,法政大学出版局,2011年5月10日,95頁.)

[31] Cf. カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,37-38頁.

[32] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,284頁.(Cf. 永井均『マンガは哲学する』岩波現代文庫,2009年4月16日,151-152頁.)

[33] 以下では、(自然)世界の一部でしかない子どもを〈子ども〉と表記する。それは、いずれ大人になる「大人の小さなもの」ではなく、(人間)社会の一員である大人とは本質的に異質な存在である(Cf. 諸星大二郎「大人の遊び」『諸星大二郎自薦短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,284-291頁.)。また、それに伴って、私たちが形而上学的に研究する〈子ども〉の遊びは、今後は〈子どもの遊び〉と表記されることになる。

[34] Cf. ヒューム,デイヴィッド.「人間本性論摘要」『人間知性研究:付・人間本性論摘要』斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳,法政大学出版局,2009年5月15日,210-211頁.

[35] Cf. 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,284-291頁.

[36] メイヤスー,カンタン『有限性の後で―偶然性の必然性につての試論』千葉雅也,大橋完太郎,星野太訳,人文書院,2017年2月20日,29頁.

バックナンバー

著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

ジャンル

お知らせ

ランキング

閉じる