第九回 遊びの心理学(前半)
遊びの心理学(前半)
私たちは〈子どもの遊び〉を追い求めている。それが何なのか、まったくわからないからである。だが、私たちにはわからなくても、それはたしかにある。〈子ども〉はたしかに大人にはわからない〈遊び〉を遊んでいる。私たち大人は、それが何なのか、知りたいのである。
もちろん、第六回の連載で確認したように、それは自由かつ自己目的的なものである、とは言える。まず、それは、遊びであるのだから、しなくてもよいものでなければならない。なぜなら、もしそれが外から強いられるものであれば、もはやそれを遊びと見なすことは難しいからである。だが、このことは明らかに大人の遊びにも当てはまる。つまり、大人の遊びもまた—―遊びであるのだから――自由である。だから、自由であることは〈子どもの遊び〉に固有の性質ではない。それは、〈子どもの遊び〉にとって、必要ではあるが、十分ではない。
では、自己目的的であることは、どうだろうか。それが〈子どもの遊び〉の本質なのだろうか。そうである、と私は睨んでいる。第三回の連載で見たように、大人の遊びには何か別の諸目的が伴われうる。だから、それは――遊びでもあるが――遊び以外の何かでもありうる。大人は、それによって成し遂げられる目的(ないし引き起こされる結果)を見据えながら、遊んでしまうのである。しかし、〈子ども〉は、まさに遊び自体を目的として、ただ遊ぶことができる。だから、〈子どもの遊び〉は――遊びであるだけでなく――遊びでしかないのである。とはいえ、そもそも、遊び自体を目的に遊ぶとは、どのようにすることなのか。一体どうしたら、〈子ども〉のように、ただ遊ぶことができるのか。ただ遊ぶ〈子ども〉はそこで何をしているのか。私たちが知りたいのはこれである。これ(ら)に答えられるのでなければ、〈子どもの遊び〉が何なのか、わかったことにならないからである。
さて、第七回と第八回の連載ではカイヨワの遊びの社会学に注目したが、そこには〈子どもの遊び〉はうまく位置づけられなかった。というのも、それは、大人には遊べない、社会以前の〈遊び〉であるが、カイヨワの主眼は社会の遊びにこそ置かれるからである。〈子どもの遊び〉は(人間)社会の一員である大人には遊べない。それを遊べるのは、(人間)社会以前の〈子ども〉、すなわち(自然)世界の一部である〈子ども〉なのである。そして、それを探求しうるのは、遊びの形而上学(メタフィジックス)である。
もしかしたら、自然(世界)の対象を研究するのは、形而上学でなく、自然科学である、と思う人もいるかもしれない。しかし、自然科学は、もちろん、哲学でなく、科学である。すると、やはりそれは〈子どもの遊び〉を研究するのにそぐわないのではないか。というのは、〈子どもの遊び〉は、それ以外の何も原因とも目的(ないし結果)ともしないので、他の何とも因果的に連関しないが、科学的な探求は伝統的に因果性を前提するからである。――第六回の連載に書いたように、非因果的(アコーザル)な科学が可能であるなら、〈子どもの遊び〉の科学も可能であるかもしれない。――
たしかに、自然科学が研究する対象は、(人間)社会でなく、自然(世界)である。この意味でそれはたとえばカイヨワの社会(科)学とは異なっている。だが、それは本当に(自然)世界の一部である〈子ども〉を研究しうるのか。たとえば、遊びの心理学はどうだろうか。それは〈子どもの遊び〉を探求しうるのか。
もちろん、ここでは心理学は自然科学の一枝である、と考える。すなわち、それは、生理学や脳科学に基づき、生物学に通底する学問である。そのような自然科学的な心理学の遊び研究として、ここではジャン・ピアジェの『遊びの心理学』を取り上げる。彼の心理学的な子どもの遊び研究と比べることで、私たちの形而上学的な〈子どもの遊び〉研究はさらに浮き彫りになるだろう。
まず、ピアジェは子どもの「実践のあそび」について次のように述べている。なるほど、これは遊びでしかないように(も)見えるかもしれない。
あるあそびは、何らの特別なテクニックをも包含していない。単に『実践する』だけで、適応段階でその構成を修正することなく、種々の行動群を活動させる。それゆえに機能、ただこれ単独で、これらのあそびを区別する。彼らは機能の快楽の目的で実践するので、それ以外の目的で実践しない。たとえば、子どもが跳躍のたのしみで小川をとびこえる、あとへとびかえる、こんどはまた跳びこえるというような時、この子どもは快楽のためにやるのであって、必要があってやるのでもなく、また新しい行動を学習せんがためでもない。[99]
もしそれが「快楽のために」行われるのなら、それは明らかに〈子どもの遊び〉ではない。なぜなら、「快楽のため」の遊びは自己目的的でないからである。むしろそれは結果として生じうる快楽を目的とする。すると、もはやそれは大人の遊びである。大人はよく、快楽を求めて、どこかに行ったり何かをしたりする。ただ遊ぶことが大人にはできないからである。
とはいえ、『実践する』とは、ようするに、実際にするということである。すると、もしそれが本当に「単に『実践する』だけで」あるのなら、それは、何の原因もなく、何の目的もなく、ただ実際に行われるだけであるのかもしれない。このように解釈するのなら、ピアジェの「実践のあそび」は、――カイヨワの「パイディア」の初期の段階の遊びと同じように、――私たちが求める〈子どもの遊び〉と見なせるかもしれない。というのも、〈子ども〉は遊び自体をただ実際に遊ぶからである。
また、ピアジェは「実践のあそび」を動物の振る舞いにも見いだしている。もちろん、動物の遊びは、人間(社会)のものでなく、自然(世界)のものである。
象徴も、フィクションも、ルールもない、ただの実践のあそびは、特に動物の行動を特質づける。子猫が枯葉や毛糸のボールを追いかける時、私どもはこれらの対象が鼠を表象するものだとは、必ずしも考えねばならぬ理由はない。猫が爪や歯を使って子猫とあそんでいる時、その猫はもちろんこのファイトは真剣にやっているものではないということを知っているのだ。しかし猫はファイトが本当のものであったならば、それがこんなものであるということを想像しているのだと説明する必要はない。(…)子猫が追いかけるボールは、単に客観的なものであり、それをプッシュする時、自ら走ってゆく機会を与えているので、それ以上の何ごとでもないのである。[100]
もし子猫がただ遊んでいるだけであるのなら、これはまさに〈子どもの遊び〉である。(とはいえ、このとき子猫はそもそも何をしているのか。)そして、もしそうだとすれば、――子猫は狩りの練習のために遊ぶと考えるべき理由がないのと同様に、――子猫は(機能の)快楽のために遊ぶと考えるべき理由もない。なぜなら、〈子ども〉の猫はただ遊ぶことができるからである。
ところで、ここでは「実践のあそび」には「フィクションも、ルールもない」とされているが、ホイジンガとカイヨワによれば、虚構性と規則性は遊びの定義の(六つの)主要素(の二つ)であった。にもかかわらず、ピアジェによれば、「実践のあそび」はれっきとした遊びなのである。しかも、それは、特に動物に見られるのだから、自然(世界)の遊びなのである。
しかしながら、ピアジェの『遊びの心理学』もまた、(自然)科学であるがゆえに、子どもの遊びを分類し(因果的に)関係づけるのである。彼によれば、子どもの遊びは、「実践のあそび」と「象徴的あそび」と「ルールのあるあそび」の三つに分けられる[101]。まず、最初に現れるのは、言語以前の発達を特質づける「実践のあそび」である[102]。しかし、次の段階になると、「象徴的あそび」が始まる。たとえば、子どもが、箱を押して、それを車と想像するように、ここでは遊び手に現前しない虚構的な表象が生じる[103]。さらに、「象徴的あそび」の後には「ルールのあるあそび」の段階がある。ピアジェによれば、それは、規則的であるだけでなく、強制力のある、社会的なものである[104]。
それゆえに、――カイヨワの社会(科)学にそれができないのと同じ理由で、――ピアジェの心理(科)学にも〈子どもの遊び〉を掬い取ることはできない。彼(ら)はそれを因果的に説明しようとするからである。たとえは、ピアジェは子どもの遊びの三段階と心の発達について次のように述べている。すなわち、「実践と象徴とルールとは(…)精神的構造の見地からあそびの三つの主要な分類を特質づけるようである」[105]、と。ここで彼は明らかに遊びの三段階を精神の発達構造から因果的に理解しようと努めている[106]。しかし、〈子どもの遊び〉には何の原因も目的もないのである。にもかかわらず、彼(ら)の科学的な研究は、(子どもの)遊びを分類し、他の何かと因果的に関係づける。だから、彼(ら)は〈子どもの遊び〉の外に目を向けてしまっている。彼(ら)が見ているのは、もはや〈子どもの遊び〉自体でなく、それと因果的につながる精神の発達(や社会の構造)である。
また、たしかに「実践のあそび」は自然(世界)の遊びであるかもしれない。なぜなら、それは、特に動物に(も)見られ、それゆえに人間(社会)なしに為されうるからである。けれども、それに続く「象徴的あそび」と「ルールのあるあそび」はどうだろうか。それらはむしろ人間(社会)の遊びではないだろうか。たとえば、ピアジェは、「象徴的あそび」については、「それが表象を意味する限りにおいて、象徴的あそびは動物には存在しない(…)」[107]、とはっきり述べている。すると、それはやはり人間(社会)の遊びであることになるだろう。また、彼によれば、ルールとは、「必然的に社会的あるいは相互・個人的な関係を意味する」[108]ものであって、「集団によって負わされた規定である」[109]。すると、「ルールのあるあそび」もまた(人間)社会の遊びであることになる。
かくして、ピアジェの研究する子どもの遊びは、結局のところ、(人間)社会に行き着くことになる。それゆえに、彼が研究する子どもは、いわば「大人の小さなもの」であって、潜在的にはすでに(人間)社会の一員なのである。そんな子どもたちはいずれ必ず大人になれるのである。少なくとも大人たちはそう信じている。
だが、私たちは「大人の小さなもの」である子どもの遊びを知りたいわけではない。なぜなら、そのような遊びは、「大人の小さなもの」であるのなら、むしろ私たち大人にもわかるからである。そうではなくて、私たちが知りたいのは、大人にはわからない〈子どもの遊び〉である。そのような〈子ども〉はけっして「大人の小さなもの」ではない。つまり、それは、大人と同質だが程度が異なるものでなく、大人とは異質の存在である。(再び)諸星大二郎の言葉を借りるなら、それは、「“不完全な大人”ではなく、“子供”という独立した種」[110]なのである。だから、私たち大人には、それが何なのか、まったくわからない。しかし、私たちはそれを知らないから知りたいのである。
私たちの求める〈子どもの遊び〉は、(人間)社会のものでなく、(自然)世界のものである。たから、すでに(人間)社会の一員である私たち大人には、それが何なのか、わからないのである。それは、(人間)社会の一員である大人とは、何の(因果的)つながりもない。だから、それを遊ぶ〈子ども〉は、いずれ大人になる必要もないし、〈子ども〉のままでいることも可能である。もちろん、そんな奇妙な〈子どもの遊び〉はピアジェの『遊びの心理学』には登場しない。彼の『遊びの心理学』は自然科学的な探求だからである。すなわち、――自然科学の諸法則を前提すれば、子どもとは、「大人の小さなもの」であり、いずれ大人になるものであるのだから、――彼が研究するのは、大人から見た子どもの遊びなのである。だが、私たちが知りたいのは、大人の知っている子どもの遊びでなく、大人の知らない〈子どもの遊び〉である。大人からは見えない〈子どもの遊び〉である。砂場で遊ぶ二歳の〈子ども〉は私にはまったく異質のものだった。マリオカートの〈遊び〉方はまったく未知のものだった。そんな奇妙な〈子どもの遊び〉を私たちは知りたいのである。そのためには、私たちは自然科学の(因果的な)枠組みを超え出なければならない。つまり、私たちはそれを形而上学的に探求しなければならない。というのは、自然(法則)が斉一的でなくなることさえ、形而上学的には可能だからである。
[99] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,51-52頁.
[100] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,52-53頁.
[101] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,51頁.
[102] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,53頁.
[103] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,54-55頁.
[104] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,56頁.
[105] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,57頁.
[106] そもそも、ピアジェは、(遊びの)妥当な分類には「分類と法則の発見とそして因果的説明」(ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,42頁.強調傍点引用者)が包含されなければならない、と考えている。
[107] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,55頁.
[108] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,56頁.
[109] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,56頁.
[110] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,285頁.