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遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第八回 遊びの社会学(後半)

遊びの社会学(後半)

 カイヨワの遊びの四分類は、身近な遊びを改めて知るのに、たしかに役に立つ。しかし、私たちがここで探求する〈子どもの遊び〉は、そこにはうまく位置づけられない。というのは、私たちは、〈子どもの遊び〉が何なのか、そもそも知らないからである。それは私たちにとってけっして身近なものではない。だから、それが四つのカテゴリーのどこに入るのか、よくわからない。

 だが、彼によれば、種々の遊びは、――四つに分類にされるだけでなく、――二つの極の間に段階的に並べられる。すると、もしかしたら、私たちが考える〈子どもの遊び〉とは、彼の言う「パイディア」の極であるのかもしれない[68]。彼は「パイディア」について次のように述べている。

 

 一般に、パイディアの初期の段階の種類の遊びには、名前のついたものがない。また名づけようもないのである。しっかりした秩序とか、明らかな目じるしとか、鮮明に他と区別される存在とかいったもの以前の段階だからである。他と区別される存在となってはじめて、特別な呼び名でその独立がみとめられるのだ。[69]

 

もちろん〈子どもの遊び〉には色々なものがある。たとえば、彼は初期の「パイディア」の例として、「毛糸の糸まりの中に足をからませる猫、鼻をならして動きまわる犬、ガラガラにほほえみかける赤ん坊」[70]を挙げているが、これまでの連載で見てきたものとしては、水の入ったバケツに何度も砂を入れることも、ブロッコリーの上にブルーベリーを転がすことも、レースが始まってもスタート地点からまったく動かないことも、ノコノコを何度も壁にぶつけたり崖に落としたりすることも、すべて〈子どもの遊び〉の例である。しかし、カイヨワの言うように、こうした遊びは個々に名づけることができない。なぜなら、それらは互いに明白に区別されないからである。

 ようするに、〈子どもの遊び〉は、どこまでが一つの遊びであり、どこからが他の遊びであるのか、けっして明らかでない。たとえば、ノコノコを、レース開始後に動かさないことと、何度も壁に当て崖に落とすことは、「マリオカート」の同じ一つの遊び方なのだろうか。それとも、それらは互いに別の遊びなのだろうか。あるいは、水の入ったバケツに初めて砂を入れることと、水を汲み直してきたバケツに再び砂を入れることは、どうだろうか。それらを続けて行うとき、〈子ども〉はずっと同じ一つの遊びを続けているのだろうか。それとも、同じ遊びを繰り返しているのだろうか。

 いや、もちろん、たとえば「ポケモン」でなく、「マリオカート」をしている間は、ずっと同じ「マリオカート」というゲームをしている、とも言えるし、あるいは、同じ「マリオカート」をしながらも、コースを変えて異なるレースを遊んでいる、とも言える。また、砂を使っているかぎりは、砂遊びという一つの遊びである、とも言えるし、たとえ砂場を離れても、まだ公園遊びは続いている、とも言える。しかし、そうした区切りは本来〈子どもの遊び〉にはないものである。なぜなら、〈子ども〉はいつでもどこでもずっと遊べるからである。〈子ども〉はきっと公園を離れても家路で遊ぶ。家に帰っても、お風呂に入りながら、夕飯を食べながら、歯を磨きながら、寝るまで遊ぶ。〈子ども〉はずっと遊んでいる。だから、〈子どもの遊び〉には区切りがない。本来〈子どもの遊び〉には始まりも終わりもない。そこに区切りをつけるのは、もちろん大人である。

 そもそも大人は〈子ども〉のようにずっと遊んではいられない。大人には遊べないときがある。――子どもにも授業中など遊べないときはある、と言われるかもしれないが、授業中に遊べないのは、もはや〈子ども〉でなく、むしろ大人の所作である。――だから、大人が遊ぶときは遊ばないときと区別され、それゆえに大人の遊びには始まりと終わりがあることになる。

 また、第三回の連載で書いたように、〈子どもの遊び〉は自己目的的であるが、大人の遊びには別の目的が伴われる。〈子ども〉が遊ぶときには、まさに遊び自体が目的である。それ以外のことを〈子ども〉は考えない。〈子ども〉は、遊ぶときには、遊んでしかいない。言うなれば、〈子どもの遊び〉には外がない。そこには〈遊び〉しかない。だが、大人はつい何かのために遊んでしまう。(あるいは、つい他のことも一緒にしてしまう。)だから、大人の遊びには(少なくとも可能的には)外がある。大人は〈遊び〉自体に没頭できない。その目的が念頭にあるからである。もちろん、大人だって、ときには〈子ども〉のように遊びたい、と思うかもしれない。そして、そのために、他に何の目的もなく、ただ遊び始めるかもしれない。しかし、大人の脳裏にはきっとその結果がよぎる。遊んだ結果どうなるか、つい大人は考えてしまうのである。

 かくして、大人の遊びには、始まりと終わりがある、あるいは、他との区切りがある、と言える。大人は、遊べないときがあるし、遊ぶとしても、何かをして遊ぶからである。だが、〈子ども〉は、何をしても遊べるし、ずっと遊んでいられる。だから、〈子どもの遊び〉は、互いに区別されず、それゆえに「名づけようもない」のである。

 ところが、大人が遊ぶときには、遊びとは別のことでありながら、遊びとつながっていることがある。それは遊びの目的(や結果)である[71]。もちろん、それ(ら)は、遊び自体ではないのだから、遊びとは区別されるものである。しかし、それは、遊びから生じ(う)るものであるのだから、遊びと関係するものである。

 区別し関係づける。〈子どもの遊び〉にそんなものはない。では、なぜ大人はそんなことをするのか。それは、大人には、すべてが因果的に現れるからである。どんなことにも原因と結果がある、と私たち大人は信じているからである。

 たしかに因果のない世界(因果ゾンビ世界)も可能ではある[72]。なぜなら、そもそも誰も因果を見たことがないからである[73]。たとえば、蚊に刺されたところが痒くなったら、蚊に刺されたことが痒みの原因である、と言いたくなる。だが、その痒みが蚊に刺されたことから生じた●●●●●、とどうして言えるのか。そのような何かを生み出すような力は、私たちにはまったく見えない。私たちに体験されるのは、蚊に刺されたことと、その後そこが痒くなったことだけである[74]。前者が後者を引き起こした●●●●●●ことは、けっして体験されないのである。

 にもかかわらず、それらを因果的に関係づけないことは、私たち大人には(ほとんど)不可能である。なぜなら、これまで蚊に刺されたところは(ほとんど)いつも痒くなったからである。すなわち、私たち大人は、これまでがそうであったら、これからもそうである、と習慣的に思い込んでしまう。そして、習慣に反することは、考えることはできても、信じることは難しいのである[75]。(というのは、おそらく私たちは人間の本性レベルで「自然の斉一性」を信じ切っているからである。)

 また、私たち大人は、(世界が因果的に現れるので、)世界を因果的に知ろうとする。たとえばアリストテレスは『自然学』で次のように書いている[76]

 

 (…)われわれは原因について、それらがどのようなものであり、またその数はどれほどあるのかを検討しなければならない。われわれの専心しているのはただ知らんがために知ることであり、しかもこの知の対象の各々についてその「なにゆえに」を把握していないうちは、われわれはまだこの各々を知っているとは考えないのであるから(…)。[77]

 

ここでは、何かを知るためには、その原因がわからなければならない、と言われている。しかし、ここで言われる原因の中には、目的もまた含まれる。というのは、たとえば、「なんで散歩しているの?」という問いに「健康のため」と答えるなら、それはその(結果として見込まれる)目的をもって原因づけられるからである[78]。(いわゆる四原因における目的因である。)

 ところで、物事を区別し(因果的に)関係づけることは、(広い意味で)科学的な方法である、とも言える。というのも、第二回の連載ですでに見たように、「(…)科学的精神は、観察された所与事実の根拠としての因果性を究明する」[79]からである。つまり、「(…)「ひとは、なぜ遊ぶか」という原因を、また「ひとは、なんのために遊ぶか」という目的因を問う」[80]のは、(広い意味で)遊びの科学なのである。

 カイヨワの遊び研究はまさに遊びの社会科学●●である。彼の研究は、諸々の遊びを四つのカテゴリーに区別し、それらを互いに(広い意味で因果的に)関係づけるからである。たしかに、彼は「パイディア」の初期の「名づけようもない」遊びについて言及しているし、もしかしたらそれは〈子どもの遊び〉であるかもしれない。しかし、彼はそもそも各カテゴリー内で「子供の遊びと大人の遊びを区別することをしなかった」[81]。というのも、彼が研究の中心に据えたかったのは、初期の「パイディア」の遊びでなく、その後に生じる個々の遊びを分類する四つのカテゴリーだからである[82]。おそらく彼の興味は区切りのない〈子どもの遊び〉にはなかった。そうではなくて、彼が論じたかったのは、互いに還元不可能で互いに相容れない、「競争(アゴン)」と「偶然(アレア)」と「模擬(ミミクリ)」と「眩暈(イリンクス)」の遊びの区別なのである。

 むろん彼はそれらを区別するだけではない。彼はまたそれらを関係づけるのである。たとえば、彼によれば、「競争(アゴン)」と「眩暈(イリンクス)」は、――もし後者の遊びをするなら、前者の遊びはできなくなるので、――ありえない組み合わせであるし、また同様に「偶然(アレア)」と「模擬(ミミクリ)」が両立する遊びもありえない[83]。だが、たとえば、官能的な惑乱が賭け事に興じる人をしびれさせたり、競技者が観客から(勝つだけでなく)良い試合も期待されたりするように、「偶然(アレア)」は「眩暈(イリンクス)」と、また「競争(アゴン)」は「模擬(ミミクリ)」と、何の困難もなく、しかし偶発的に結び付くのである[84]。そして、カイヨワは残り二つの組み合わせをどちらも根源的なものと見なしている。まず、ゴルフやサッカーのようなスポーツでも、あるいは、チェスやトランプのようなゲームでも、「競争(アゴン)」と「偶然(アレア)」は(それぞれ異なる割合で)明らかに融合している[85]。もちろん、勝利のために頼れるのは、純粋な「競争(アゴン)」では、自分だけであるが、純粋な「偶然(アレア)」では、自分以外である[86]。しかし、規則のある遊びでは、それらが(割合は異なるが)本質的に結び付いている[87]。また、規則のない遊びでは、「模擬(ミミクリ)」と「眩暈(イリンクス)」が強力に結び付く[88]。というのは、(特に仮面をかぶる)演技は人格を分裂し人を陶酔させるが、憑かれた演技者はさらに現実を忘れるほどの発作を引き起こすからである[89]。カイヨワによれば、これらの結合は「聖なるものの世界に属する」[90]ほどに強力である。

 こうして遊びの四つのカテゴリーは互いに(区別され)関係づけられる。だが、彼が関係づけるのは、遊びのカテゴリーだけではない。彼はさらに遊びと社会を関係づけている。たとえば、カイヨワは、原始的な社会では「模擬(ミミクリ)」と「眩暈(イリンクス)」が支配的であるが、文明的な社会では「競争(アゴン)」と「偶然(アレア)」が重要になっている、と見なしている[91]。というのは、そもそも彼が、遊びと社会の間には何らかの密接な関係がある、と信じているからである[92]。すなわち、彼によれば、人間社会の文化が、成功しうるのか、あるいは、停滞しうるのかは、いずれの(組み合わせの)遊びのカテゴリーを選んでいるのかによって、決まってくる[93]。彼が『遊びと人間』で試みるのは、「遊びを出発点とする社会学」[94]なのである。

 だが、このように遊び(と社会)を区別し関係づける遊びの社会学の中に〈子どもの遊び〉は身の置き場がない。なぜなら、区別され関係づけられるのは、大人の遊びだからである。〈子どもの遊び〉はそもそも区別さえされない。それは、大人になる前の〈遊び〉であり、社会以前の〈遊び〉である。しかし、カイヨワの研究対象は(人間)社会の遊びである。それはもちろん社会の一員である大人にも遊べる遊びである。だが、〈子どもの遊び〉は、社会以前の遊びであり、大人には遊べない〈遊び〉である。だから、彼の遊びの社会学ではそれは探求されないのである。

 もちろん「パイディア」の初期の遊びは〈子どもの遊び〉であるかもしれない。だが、仮にそうだとしても、それは一体どのような〈遊び〉であるのか。たしかに、彼の言うように、そこには「すべてに先んずる自由がある」[95]だろうし、それゆえに、それは本質的に不規則的で即興的であるだろう[96]。しかし、それは本当に無秩序な興奮や奔放な気晴らしでなければならないのか[97]。また、そこにはたしかに幸福な活力や歓喜があるかもしれない[98]。だが、それはどうして幸福なのだろうか。そもそも活力とは何なのか。それはどのような歓喜なのか。

 

 

[68] そもそも、カイヨワが「パイディア」という言葉を用いたのは、「それが子供を表す名詞を根源としていて、子供を連想させるからである」(カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,67頁.)。

[69] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,70頁.

[70] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,68頁.

[71] 第二回の連載に書いたように、「遊びの目的は、遊びの結果として生じるときに、果たされる」。それゆえに、遊びに目的があるのなら、それは、――それが実際に生じるかどうかとはまた別の問題であるが、少なくとも――遊びの結果として見込まれるものである。

[72] もし、私と物理的には同一であるのに、意識体験のみが欠けている、私の意識ゾンビが可能であるのなら(Cf. チャーマーズ,デイヴィッド『意識する心:脳と精神の根本原理を求めて』林一訳,白揚社,2001年,129頁)、この世界と物理的には同一であるのに、因果性のみが欠けている、因果ゾンビ世界も可能であるだろう。

[73] Cf. 一ノ瀬正樹「原因と結果と自由と」ヒューム『任正論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳,中央公論社,2012年,2-3頁.

[74] Cf. ヒューム,デイヴィッド.『人間本性論』木曾好能訳,法政大学出版局,2011年5月10日,95-97頁.

[75] Cf. ヒューム,デイヴィッド.『人間本性論』木曾好能訳,法政大学出版局,2011年5月10日,128-129, 184頁.

[76] 同じような内容の記述は『形而上学』にも見られるが(アリストテレス『形而上学(上)出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,23頁』)。しかし、ここで『自然学』を引用したのは、本連載の見解では、何かの因果を知るということは、それを自然(科)学的に知るということだからである。

[77] アリストテレス『自然学』『アリストテレス全集3』出隆・岩崎允胤訳,岩波書店,1968年7月10日,54頁.

[78] アリストテレス『自然学』『アリストテレス全集3』出隆・岩崎允胤訳,岩波書店,1968年7月10日,54-55頁.

[79] 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,11頁.

[80] 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,11頁.

[81] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,46頁.

[82] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,46, 70頁.

[83] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,128頁.

[84] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,129-131頁.

[85] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,131頁.

[86] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,131-132頁.

[87] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,132頁.

[88] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,132-133頁.

[89] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,132-133頁.

[90] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,133頁.

[91] Cf. カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,146-147, 166頁.

[92] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,123頁.

[93] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,123-124頁.

[94] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,124頁.

[95] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,67頁.

[96] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,68頁.

[97] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,68頁.

[98] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,67-68頁.

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著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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