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遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第七回 遊びの社会学(前半)

遊びの社会学(前半)

 私が驚いたのは〈子どもの遊び〉である。それは、たとえば、砂場に池を作るために汲んできた水の入ったバケツに砂を入れることであり、さらに、きれいな水を汲み直してきたバケツにも同じように砂を入れることである。これを見せつけられたとき、私には、何が起こっているのか、まったくわからなかった。もちろんそれは〈子どもの遊び〉だった。しかし、それは一体どんな遊びなのか。それが知りたくて、「遊びのメタフィジックス」を書き始めた。だから、私たちがここで探求するのは〈子どもの遊び〉である。すなわち、私たちの研究の対象は、(人間)社会の一員である大人の遊びでなく、(自然)世界の一部である〈子どもの遊び〉である。

 また、私たちは〈子どもの遊び〉を哲学的に研究する。なぜなら、(自然)世界の一部である〈子ども〉とは、〈子ども〉という独立の存在であって、けっして(人間)社会とつながらないからである。むろん科学的な子どもの遊び研究もある(し、むしろ哲学的な〈子どもの遊び〉研究より盛んである)。しかし、――たとえば発達心理学などで――科学的に研究されるのは、いずれ大人になる子どもである。すなわち、彼らは潜在的にはすでに(人間)社会の一員である。そこで私たちは大人にならない〈子ども〉を研究しなければならない。それを可能にするのが(哲学の一分野である)形而上学である。だから、私たちの研究の方法は、科学でなく、哲学なのである。

 かくして、私たちは(自然)世界の一部である〈子どもの遊び〉を哲学する。それが遊びの形而上学(メタフィジックス)である。

 だが、それを始める前に、それとは異なる三つの伝統的な遊び研究を通し見ておこう。――もちろん、三つの遊び研究とは、遊びの社会学と遊びの心理学と遊びの現象学である。――というのは、それがどのようなものであるのかを論じ始める前に、それがどのようなものでないのかを明らかにしたいからである。

 まず初めに見たいのは、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』に代表される、遊びの社会学である。よく知られているように、彼の遊び研究はホイジンガのそれを継承し発展させたものである。これはカイヨワ自身が認めるところであり、『遊びと人間』の「日本版への序文」には、「これは(・・・)J・ホイジンガのみごとな分析『ホモ・ルーデンス』のあとを受けつぐものである」[37]、と記されている。そして、実際に彼らの遊びの定義はほとんど同じである[38]

 まず、ホイジンガは遊びを次のように定義している[39]

 

 (・・・)われわれは遊びを総括してそれは本気でそうしているのではないもの日常生活の外にあると感じられているものだがそれにもかかわらず遊んでいる人を心の底まですっかり捉えてしまうことも可能な一つの自由な活動であると呼ぶことができるこの行為はどんな物質的利害関係とも結びつかずそれからは何の利得も齎されることはないそれは規定された時間と空間のなかで決められた規則に従い秩序正しく進行する[40]

 

ここからは遊びの五つの主要素が取り出せる。すなわち、遊びとは、①非日常の虚構とされる、②自由な行為であり、③何の利害も生まず、④規定された時間と空間の中で、⑤規則に従って進むものである、と[41]

 カイヨワの遊びの定義はこれによく似ている。彼の遊びの定義は、ホイジンガのそれを吟味した後で、次のようにまとめられている。

 

 (一)自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと、もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。

 (二)隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。

 (三)未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなければならない。

 (四)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も創り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。

 (五)規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。

 (六)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。[42]

 

ここには、ホイジンガから取り出せる遊びの主要素が、どれも明らかに含まれている。すなわち、①と(六)、②と(一)、③と(四)、④と(二)、⑤と(五)は、それぞれ明らかに同じことである。

 また、さらに(三)未確定の活動でさえ二人の遊びの定義の相違点であるとは言い難い。たしかに、上で引用したホイジンガの遊びの定義には、(三)未確定の活動に対応する要素は含まれていない。しかし、彼は、『ホモ・ルーデンス』の別の個所では、「緊張」という言葉を用いて、「緊張、(・・・)不確実ということ、やってみないことにはわからない、ということ(・・・)」[43]も、遊びの重要な要素である、と述べている[44]。すると、もしこれを彼の遊びの定義に加えるなら[45]、彼ら二人の遊びの定義は互いにますます似ることになる。

 とはいえ、もちろんカイヨワはホイジンガの遊び論をそのまま受け継いだわけではない。むしろ彼は、それを批判的に検討し、――遊びの定義はほとんどそのまま継承したが、――特に遊びのカテゴリーを強力に補強している。

 たとえば、ホイジンガは、先ほど引用した遊びの定義を記した直後に、遊び(の本質的な動機)のカテゴリーとしては、「(・・・)遊びは何ものかを求めての闘争であるかあるいは何かを表す表現であるかのどちらかである[46]、と書いている。だが、「闘争」でも「表現」でもない遊びは明らかにありそうである。たとえば、水の入ったバケツに砂を入れることは、もちろん「闘争」でもないし、おそらく「表現」でもない。(あるいは、もしかしたら、それは実は何かを表そうとしていたのだろうか。)しかし、それは、どちらでもないとしても、〈遊び〉ではある。むしろ、〈子どもの遊び〉は、他の何でもなく、遊びでしかありえない。それは「遊びでしかない遊び」なのである。とはいえ、ここで、どんな遊びであるかもわからない、〈子どもの遊び〉を持ち出すまでもなく、ホイジンガの遊びのカテゴリーは一見して不十分に思われる。なぜなら、「闘争」でも「表現」でもない遊びが、もっと身近にあるからである。カイヨワによれば、それ(ら)は「偶然(アレア)」と「眩暈(イリンクス)」である[47]

 ようするに、カイヨワは、さらに二つの遊び(の本質的な衝動)のカテゴリーを提案し、遊び論に新たな展望を切り開いた、と言える[48]。つまり、彼の提案する分類法によれば、――すでにホイジンガが論じていた――「競争(アゴン)」と「模擬(ミミクリ)」だけでなく、――ホイジンガが軽んじていた――「偶然(アレア)」と「眩暈(イリンクス)」もまた、遊びの基本的なカテゴリーなのである。

 なお、カイヨワは、これら四つの区分とは独立に、「パイディア」と「ルドゥス」という二つの極を遊びに設けている。彼によれば、「パイディア」の極にあるのは、無邪気な発散、奔放な気晴らし、衝動的な騒ぎ、無秩序な興奮などである[49]。そこでは、遊びの本能が自発的に現れ、即興性と不規則性が本質とされる[50]。だが、「やがて、規則を作り出したいという欲望が生じる」[51]と、遊びには「ルドゥス」の傾向が現れてくる。すなわち、遊び(の目標)が容易に達成されないように、恣意的な規約や障害によって遊びは縛られるようになる[52]。そうなると、遊び(の目標)を達成するには、練習し訓練し技能を身に付ける必要が出てくる[53]。しかし、そこには困難の解決を味わう楽しみがあるわけである[54]

 では、カイヨワの提案する、遊びの四つのカテゴリーと二つの極を用いると、具体的に遊びはどのように分類されるのか。カテゴリーごとに簡単に確認しておこう。

 まず、「競争(アゴン)」の遊びは「勝利への意志を前提とする」[55]。なぜなら、私たちを「競争(アゴン)」に駆り立てるのは、ある分野で自らの優秀さを示したいという欲望だからである[56]。たとえば、ルールのない取っ組み合いは「パイディア」の極にある「競争(アゴン)」であるが、サッカーやチェスのような競技は「ルドゥス」の極にある「競争(アゴン)」である[57]

 次に、「偶然(アレア)」の遊びでは、運命こそが勝利を生み出せるので、プレイヤーはただ運命に身を委ねることになる[58]。そのため、子どもにとっては、――遊ぶことは行動することであるため、――「偶然(アレア)」の遊びはそれほど魅力的ではない[59]。ここでは、たとえば、じゃんけんやコイントスなどは「パイディア」の極に置かれるが、宝くじや競馬などは「ルドゥス」の極に置かれるかもしれない[60]。(とはいえ、純粋な運命の決定にすべてを委ねる遊びには「ルドゥス」は見いだされない[61]、とも言えるかもしれない。)

 また、「模擬(ミミクリ)」とは、虚構の世界を一時的に受け入れ、自分以外の何かになりきったり、そのように他人に信じさせたりする遊びである[62]。そこでは、子どもが大人の真似をしたり、大人が仮装を楽しんだりするように、物真似と仮装が相補的な原動力となる[63]。たとえば、架空の人物になるような空想は、「パイディア」の「模擬(ミミクリ)」であるが、他者になりきって見せる演劇は、「ルドゥス」の「模擬(ミミクリ)」である[64]

 最後は「眩暈(イリンクス)」の遊びである。「眩暈(イリンクス)」の遊び手は、主に身体を様々に翻弄することで、知覚を一過的に不安定にし、意識を官能的な惑乱状態にする[65]。というのも、そこには熱狂的な快楽が生じるからである[66]。たとえば、子どもがぐるぐると回り続けることは、「パイディア」の極にある「眩暈(イリンクス)」であり、オートバイなどでスピードに酔いしれることは、「ルドゥス」の極にある「眩暈(イリンクス)」であろう[67]

 

 

[37] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,3頁.

[38] 多田道太郎「役者解説――ホイジンガからカイヨワへ」ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,348頁.

[39] また、ホイジンガは、別の個所では、「遊びとはあるはっきり定められた時間空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動であるそれは自発的に受け入れた規則に従っているその規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている遊びの目的は行為そのもののなかにあるそれは緊張と歓びの感情を伴いまたこれは日常生活とは、「別のものという意識に裏づけられている」(ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,81頁)、とも述べている。

[40] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,43-44頁.

[41] Cf. 多田道太郎「訳者解説―ホイジンガからカイヨワへ」ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,347-348頁.

[42] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,40頁.

[43] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,38頁.

[44] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,38頁.

[45] 不確定性という緊張はそれ自体でホイジンガの遊び(の定義)の主要素の一つとされることもある(Cf. 小川純生「遊び概念―面白さの根拠―」『経営研究所論集』第26号,東洋大学経営学部,2003年2月,101頁)。

[46] ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳,中公文庫,2021年6月5日,44頁.

[47] Cf. カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,32-33, 276頁.

[48] Cf. 多田道太郎「訳者解説―ホイジンガからカイヨワへ」ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,357-358頁.

[49] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,44, 68頁.

[50] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,68頁.

[51] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,70頁.

[52] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,44-45頁.

[53] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,44-45,71頁.

[54] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,70-71頁.

[55] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,48頁.

[56] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,48頁.

[57] Cf. カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,81頁.

[58] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,50-52頁.

[59] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,53頁.

[60] Cf. カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,81頁.

[61] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,71頁.

[62] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,54-58頁.

[63] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,57頁.

[64] Cf. カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,81頁.

[65] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,61-62頁.

[66] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,65-66頁.

[67] Cf. カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,81頁.

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著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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