第十回 遊びの心理学(後半)
遊びの心理学(後半)
ピアジェの『遊びの心理学』によれば、子どもの遊びは発達の段階に応じて三つのタイプに分けられた。すなわち、「実践のあそび」と「象徴的あそび」と「ルールのあるあそび」である。だが、これら三つの遊びのうち、――最初のものはそれ自体では〈子どもの遊び〉であるかもしれないが、――後の二つのタイプは、人間的で社会的であるので、むしろ大人に遊ばれるものである。というのも、大人は、〈子ども〉と違って、人間社会の一員だからである。大人には人間的で社会的な遊びしか遊べないのである。すると、ピアジェが研究する子どもは、いずれ発達し大人になる、いわば「大人の小さなもの」であることになる。つまり、彼らは潜在的にはすでに人間社会の一員である。彼らの遊びは、――「実践のあそび」でさえ、――大人の遊びに通じているのである。
しかしながら、私たちが探求したいのは、人間社会以前の〈子どもの遊び〉であった。それは、すでに人間社会の一員であるような子どもでなく、むしろ自然世界の一部であるような〈子ども〉である。それは大人とは異質の存在である。だが、そのような〈子ども〉とは、どのような存在なのだろうか。それはどのように遊ぶのだろうか。
もしかしたら、私たちもかつてはそのような〈子ども〉だったのかもしれない。とはいえ、私たち大人にはもはやそれを思い出すことはできない。なぜなら、大人に思い出せるのは、大人と同質の子どもでしかないからである。しかし、私たちが知りたいのは、大人が知らない〈子どもの遊び〉なのである。たしかに、大人が子どもと関わるときには、「かつて子どもだった大人の目線」[111]が求められることがある。これはもちろん大切である。ただし、関わる子どもが、潜在的に人間社会の一員であるときに限って。というのは、大人に思い出せるのは、大人になる子どもでしかないからである。すなわち、すでに人間社会の一員である大人には、いずれ人間社会の一員(である大人)になる子どもしか思い出せない。しかし、もしも、関わるのが、自然世界の一部である〈子ども〉だったなら。大人には何ができるだろうか。大人にそれがわかるだろうか。むろん自分の子ども時代の記憶はある。だが、そこに現れるのは、大人である自分になる子どもである。そこに自然世界の〈子ども〉はいない。それは人間社会の大人にはけっして手が届かない。それは人間社会の外の存在だからである。
そのため、〈子ども〉のすることは、大人には計り知れない。〈子ども〉は「大人がまだ見ぬ可能性に(…)開かれている」[112]のである。だから、それが〈子どもの遊び〉に現れると、大人は驚くのである。だが、そのときに大人は〈子ども〉から〈遊び〉を学べるだろうか。「自分が失ってしまった(…)別の可能性」[113]を手に入れるだろうか。もしここで、学べるということが、行えるということまで含むのなら、大人は〈子ども〉から〈遊び〉を学べるわけではない。なぜなら、〈子どもの遊び〉は〈子ども〉にしか遊べないからである。それに心打たれた大人が〈子ども〉のように遊べるわけではない。大人はそれにただ驚くばかりである。しかし、まさに驚き(タウマゼイン)から哲学は始まるのである[114]。もちろん驚くだけで学べるわけではない。驚いたところで〈子ども〉の可能性は手に入らない。そもそも〈子ども〉の可能性は大人には見えないからである。大人に見えるのは、大人にできる可能性でしかなく、それは人間社会の内にある。だが、〈子ども〉の可能性はその外にある。すなわち、それは自然世界に剥き出しになっている。そこに大人の目は届かない。しかし、〈子ども〉がそれを実現するのなら、もちろん大人にもそれは見えるのである。だから、大人の目に映るのは、――〈子ども〉の可能性でなく、むしろ――〈子どもの遊び〉の現実である。もちろん、見えたところで、それが何なのか、大人にはまったくわからない。だから、大人は〈子どもの遊び〉に驚くのである。そして、驚くから、探求が始まるのである。
ようするに、大人が直接〈子ども〉に触れられることはない。たしかに大人も自分の子ども時代を思い出すことはある。しかし、大人が懐かしむのは、自分が思い至れる限りでの子どもでしかない。かつてそこにいたはずの〈子ども〉はもうここにはいないのである。もちろん大人の目の前に〈子ども〉が現れることはある。なぜなら、大人は〈子どもの遊び〉を見て驚くからである。だが、大人は、〈子どもの遊び〉に驚いても、同じようにそれを遊ぶことはできない。(もし遊べるなら、それは〈子ども〉なのである。)その意味で大人は〈子ども〉から〈遊び〉を学べない。大人は〈子どもの遊び〉が遊べるようにはならない。大人はけっして〈子ども〉にはなれない。大人はそれにただ驚くしかない。大人には、〈子ども〉であるということが、どのようなことであるのか、まったくわからない。
にもかかわらず、私たちは〈子ども〉の存在をたしかに信じている。私たちも昔は〈子ども〉だったのかもしれないし、〈子どもの遊び〉は現に私たちを驚かせる。むろん大人がそれを直接わかることはない。しかし、それはたしかに実在するのである。少なくとも私たちはそう信じている。
それがどのようなことなのか、わからないのに、それが実在するとは信じている。これは一見すると理解しがたく聞こえるかもしれない。しかし、それがどのようであるのか(本質の問題)と、それがあるのかどうか(存在の問題)は、それぞれ別々の問題である。
たしかに、私たちの身の回りには、本質と存在のどちらも明らかなものが多い。たとえば、水の本質はH2Oの分子構造にあると言えるが、水の存在を疑う人がいるだろうか。毎日、顔を洗ったり、飲んだりしながら、実は水(だけ)は存在しない、と主張するのは、ほとんど不可能であるだろう。だが、本質が知られているからといって、必ずしも存在が信じられるわけではない。たとえば、ギリシャ神話のペガサスの本質は、ペルセウスに首を切られたメデューサの血から生まれた、翼をもった馬である、と言ってよい。しかし、そのようなペガサスが本当に存在したと信じる人はきっといないだろう。
では、本質はわからないのに、存在は信じられる、そんなものはあるだろうか。実はたくさんある。たとえば、他人の心、外的な物体、過去の世界、自然の斉一性など、哲学的な懐疑論の的になるものは、すべてそうである。他人の心がどのようであるのか、もちろん私にはわからない。なぜなら、私が直接わかるのは、私の心だけだからである。そもそも、現に在る(実存する)心とは私の心でしかない。それが心の唯一の実例である。しかし、他にも心は実は在る(実在する)のでなければならない。さもなければ、他の人たちは、嬉しそうに笑ったり悲しそうに泣いたりするが、嬉しさも悲しさも実は感じていないことになる。私の家族や友人がそのような人であると信じるのは難しい。他のものについても同じことが言える。たとえば、私たちには、物自体がどのようであるのか、けっしてわからない。私たちが直接アクセスできるのは、私たち自身の感覚でしかないからである。とはいえ、誰にも感覚されない物は存在しない、とは思えない。私たちは、私たちの感覚とは独立に物自体が実在する、と思っている。
同じように〈子ども〉の実在も信じられるのではないか、というのが私の提案である。たしかに大人は〈子ども〉の本質を直に捉えることはできない。しかし、現在の記憶とは独立に過去自体の実在が信じられるなら、私たちに想起される子どもとは独立に〈子ども〉自体が実在したと信じられる。むろん、それがどのようなものであったのか、私たちにはわからない。だから、それは大人にはまったく得体の知れないものである。にもかかわらず、私たちには〈子ども〉の実在が信じられる。
そんな〈子ども〉の実在なんて形而上学的な戯言にしか聞こえない。そのように感じる人もいるかもしれない。(とはいえ、そのような人たちは一体どのように他人の心や過去の世界を信じているのだろうか。)だが、そんな〈子ども〉の実在を具体的に描き出してしまった漫画がある。諸星大二郎の「子供の遊び」である[115]。
物語はある家族の食事の場面から始まる。両親と兄妹の四人家族である。母親は乱暴な兄の隆に困っているようである。父親によれば、彼はまだ社会のルールがわかっていない。つまり、彼はまだ人間社会の一員ではない。
ある日、父親は隆と妹の美子が物置で何かを飼っているのを目撃する。父親は、自分も子どものときに、犬を拾ったことを思い出した。だが、こっそり物置をのぞいてみると、子どもたちが飼っていたのは、犬でも猫でもなく、見たこともない奇妙な動物であった。驚いた父親はすぐにそれを処分しなければと考えたが、後に考えを改め、少し動物を観察することにした。というのも、隣の家ではその変な動物が飼われていたからである。だが、代わりにその家の子ども博之君の姿は見えなくなっていた。
別の日に父親は子どもたちがままごとをしているのを見かける。美子が母親を演じ、隆は父親を演じている。子ども役は、大きく成長した、あの奇妙な動物である。父親は、何かを感じ取ったようで、やはりそれを捨てに行くことにする。
父親は、子どもたちの知らない間に、それを自転車の荷台の段ボールに入れ、できるだけ遠くの河原に捨てに行った。だが、土手沿いを走りながら、彼は次のように考える。
しかしこんな気持ちの悪い動物をどこでみつけて……しかも飼う気になったんだろう……。いや、子供には子供のルールがあって……それは社会のルールとはまったく無関係なものなのかもしれん。普通、世間では子供を単に大人の小さなものと思っているが、もしかしたら……。全然別の生き物かもしれんじゃないか。“不完全な大人”ではなく、“子供”という独立した種……。[116]
そのとき、動物が、段ボールから顔を出し、「……パ…パ………」[117]と鳴いた。彼は驚きバランスを崩した。彼は、そのまま自転車ごと動物を置き去り、そこから慌てて逃げ帰った。
後日、自転車は彼の家に戻ってきていた。あの動物も戻ってきている、と彼は直感した。しかし、もちろん物置にそれはいなかった。用心した子どもたちが飼い場所を変えてしまったのである。
隣の博之君をまた外で見かけるようになった。しかし、博之君はあの動物の姿をしてた。また、彼は町でもあの動物をよく見かけるようになった。彼は動物について考える。「あれは、ああしてやがて人間に進化し……そして……。そして……?」[118]。そして、もちろん大人になるのである。
だから、彼には、動物の居場所を隆から無理に聞き出し、それを殺してしまうことは結局できなかった。なぜなら、それは(人間の)大人になる(人間の)子どもだからである。それは彼と同じ種の生き物だからである。ある夜、彼は、子どものときに拾った犬の夢を見ながら、次のように考える。
あれは犬ではなかったのかもしれない……。そうだったのかもしれないじゃないか……。どこかの、おれのしらない、子供が飼っていた醜い動物が、やがてその子といれかわり、おれという人間にまで進化したのかもしれないじゃないか。[119]
隆はいつということもなく消えてしまった。後には代わりに隆に成長した動物が残された。成長した隆は、聞き分けもよく、立派な人間社会の一員である。なぜなら、それはそもそも大人になるものだからである。それは大人という種の子どもなのである。
隆が消えた後、今度は妹の美子が物置で何かを飼い始めている。もちろん、彼女もそのうち消えてしまって、代わりに飼っていた動物が成長した美子として現れる。こうして〈子ども〉たちは消えていく。後に残されるのは、〈子ども〉に育てられた、大人たちである。これは〈子ども〉についての形而上学的な真理である[120]。
それゆえに、〈子ども〉は大人にはならない。大人になったのは隆が拾ってきた動物であって、隆は〈子ども〉のまま消えたのである。もちろん(人間の)大人という種の子どもは大人になる。しかし、(人間の)大人になるのは、あの奇妙な動物である。あの変な動物が大人(という種)の子どもなのである。だから、あの動物たちは潜在的にはすでに人間社会の一員なのである。彼らはいずれ人間社会の一員である大人になるからである。
だが、〈子ども〉は大人にはならない。それは、〈子ども〉という「独立した種」であるのだから、(人間の)大人という別の種にはなれないのである。そうではなくて、〈子ども〉はむしろ大人を育てるのである。隆も美子も、どこかで大人の子どもを拾ってきて、こっそり飼っている。そうしてそれを大人の大人にまで育て上げる。諸星曰く、これが「子供の遊び」である[121]。そして、これはもちろん〈子どもの遊び〉である。〈子ども〉は〈遊び〉で大人を育てるのである。
すると、〈子ども〉は、大人になるのでなく、大人を生むのである、と言えるだろうか。〈子ども〉と大人の間には、変化はないが、因果がある、と言えるだろうか。たしかに、――変化するのは同じものであるが、――因果は異なるものを結びつける。また、隆と美子は明らかに大人を作り上げている。これは、〈子ども〉が大人の作用因である[122]、ということだろうか。〈子ども〉には大人を生み出す力があるのだろうか。
そうなのかもしれない。だが、それだけで、〈子ども〉と大人が因果的な関係にある、とまで言ってよいものか。
まず、〈子ども〉と大人は同じ因果系列の中に対等に並び立つものではない。たしかに、(諸星の「子供の遊び」を離れて)普通に考えれば、親と子の間には因果関係がある。もちろん親が原因で子が結果である。しかし、それらは互いに一方から他方へと双方向的につながれる関係にある。だから、それらは同じ因果系列に対等に並べられるのである。だが、〈子ども〉と大人の関係は一方的である。むろん〈子ども〉は大人(になる動物)をよく知っている。〈子ども〉は、それを簡単に見つけて拾ってくるし、それを飼って大人にまで育てられるからである。けれども、大人には〈子ども〉がまったくわからない。大人はけっして〈子ども〉に手が届かない。大人が暮らす人間社会の外で〈子ども〉は遊ぶからである。たしかに、隆の父親のように、どこかの〈子ども〉が育てた動物が自分になったのかもしれない、と考えるなら、〈子ども〉の実在に感づくことはできるかもしれない。しかし、それは、彼には知りえない、どこかの〈子ども〉でしかない。彼は、それがどのようなものであるのか、まったくイメージできない。彼が像を結べるのは、自分を拾って育てた〈子ども〉自体ではなく、段ボールで〈子ども〉に育てられた自分なのである[123]。――すると、父親の原因として同じ系列上に並べられるのは、むしろ質料因としての動物になるかもしれない[124]。つまり、大人という種の大人になったのは、大人という種の子どもなのである。(これは同じものの変化である。)――したがって、彼の作用因としての〈子ども〉は、彼自身が置かれる因果系列の内にはけっして現れない。だから、大人は〈子ども〉の実在を信じることしかできない。そして、大人の知りうる因果系列の外で働く力と考えるしかない。これは明らかに普通の親子の関係とは異なる。
また、〈子ども〉が遊んだ結果、大人が生まれるのだとしても、〈子ども〉は大人を作るために遊ぶのではない。なぜなら、〈子どもの遊び〉は自己目的的だからである。つまり、それは〈遊び〉自体の他には何も目的としない。だから、大人の飼育も〈子どもの遊び〉の目的にはならない。たしかに、隆がそれを飼育した結果、動物は大人の隆に成長した。だが、そう考えるのは、隆自身でなく、隆の父親である。それはむしろ父親の洞察である。なぜなら、隆自身は〈子ども〉だからである。彼はただ拾った動物をこっそり飼って遊んでいたにすぎない。こっそり飼うこと自体が隆の〈遊び〉である。隆はただそれをこっそり飼っている。そこにはその〈遊び〉以外に何の目的もない。だから、大人の育成も〈子どもの遊び〉の目的因ではありえない。隆の目的は〈遊び〉自体でしかない。だから、彼は成長した動物を残して消えてしまう。彼はただ大人を作っただけである。彼は、それを作りっぱなしで、消えてしまった。〈子ども〉はいつも〈遊び〉っぱなしである。[125]
さらに、もしそれが遊びであるのなら、そもそも〈子ども〉は大人を飼育しなくてもよいことになる。なぜなら、遊びとは、しなくてもよい自由なものだからである。すると、〈子ども〉は大人を、もちろん育てることもできるが、必ずしも育てなくてもよいことになる。では、大人を育てない〈子ども〉も実はいるのだろうか。なるほど、もしかしたら、諸星の「子供の遊び」では、〈子ども〉は必ず大人を飼育するのかもしれない。もしそうだとすれば、それらの間には(一方的ではあるとしても)必然的な関係があることになる。だが、それは「子供の遊び」でなければならない。そして、遊びであるのなら、しなくてもよいものでなければならない。だから、それをしない〈子ども〉もいるかもしれない。いや、たとえば美子がそうだったように[126]、まだ大人(になる動物)を見つけていない〈子ども〉は、実は私たちのすぐ近くにいるのである。そして、そのまま大人を拾わないことも、もちろんありうる。それは、しなくてもよい、遊びだからである。あるいは、せっかく拾ってきたのに、大人になる前に飽きてしまって、他の〈遊び〉を始めてしまうかもしれない。それだけが〈子どもの遊び〉ではないからである。そんな〈子ども〉たちが実は私たちの周りにいるにちがいない。さもなければ、どうして〈子どもの遊び〉に驚けるだろうか。
たしかに、〈子ども〉が大人を生み出せるのなら、そこには因果的な力がある、とは言いたくなる。しかし、それらが(普通の)因果的な関係にある、とは言い難い。なぜなら、〈子ども〉と大人は、結果から原因へは遡れないし、原因から結果を狙えないし、必然的には結びつかないからである。そうではなくて、〈子ども〉は一方的に何の目的もなく偶然的に大人を作り出す。それが〈子どもの遊び〉であ(り、「子供の遊び」であ)る。
そんな〈子どもの遊び〉に私たちは驚かされる。私たちには、それが何なのか、まったくわからないからである。もちろん、驚いたところで、そんな〈遊び〉ができるようになるわけではない。しかし、驚くから、探求は始まるのである。〈子どもの遊び〉とは何なのか。〈子ども〉とは何なのか。
[111] 貴戸理恵・矢野利裕「子どもがいる世界を豊かに 学校内外に広がる共同性から」『現代思想2024年4月号 特集〈子ども〉を考える』2024年4月1日,23頁.
[112] 中村佑子「大人は子どもを教育できるのか?」『現代思想2024年4月号 特集〈子ども〉を考える』2024年4月1日,27頁.
[113] 中村佑子「大人は子どもを教育できるのか?」『現代思想2024年4月号 特集〈子ども〉を考える』2024年4月1日,29頁.
[114] Cf. プラトン『テアイテトス』155b-d,『プラトン全集2』田中美知太郎訳,岩波書店,1974年12月5日,220頁.
[115] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,267-292頁.(Cf. 永井均『マンガは哲学する』岩波現代文庫,2009年4月16日,152-153頁.)
[116] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,284-285頁.
[117] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,286頁.
[118] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,289頁.
[119] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,290頁.
[120] Cf. 永井均『マンガは哲学する』岩波現代文庫,2009年4月16日,153頁.
[121] 父親は、美子が物置で動物を飼い始めたことを察知し、それを「子供の遊び」と形容している。(諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,292頁.)
[122] 作用因(または始動因)はアリストテレスの四原因の一つである。「一般に作るものは作られたものの(…)原因であると言われる」(アリストテレス『自然学』『アリストテレス全集3』出隆・岩崎允胤訳,岩波書店,1968年7月10日,54頁)からである。
[123] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,290頁.
[124] 質料因もアリストテレスの四原因の一つである。「たとえば、銅像においては青銅が、銀杯においては銀がそれで(…)ある」(アリストテレス『自然学』『アリストテレス全集3』出隆・岩崎允胤訳,岩波書店,1968年7月10日,54頁)。
[125] 佐倉城南幼稚園長の井出渉先生によれば、砂場で遊ぶ〈子ども〉たちは、せっかく作ったものを、そのまま置き去って別のところへすぐに遊びに行ってしまったり、――大人であれば少なくとも写真には残しておきたくなるだろうが、――あっという間にいとも簡単に壊してしまったりするそうである。
[126] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,271頁.