第2回 人名の入った題名
ブルボン小林さんの新連載、「グググのぐっとくる題名」。小説や演劇、映画、音楽、漫画や絵画……あらゆる作品の、「内容」はほとんど問題にせず、主に題名「だけ」をじっくりと考
第2回目は、謎を多く含んでいる小説と、楽しい二人が登場するBS番組、そしてアメリカ文学史を代表する文豪の名作の題名。豪華3本立て!(編集部)
子供に人気の絵本『おしりたんてい』に登場する「ワンコロけいさつ」の面々は、身体の特徴がそのまま名前になっている。「くびふとし」「パーマネント」「こいまゆ」「みみとがり」だ。
あれは彼らの「本名」なのだろうか。
それとも、往年の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の中の「ラガー刑事」や「ジーパン刑事」のような「愛称」なのだろうか。
本名のようにも思える。特に「くびふとし」は「くび」が苗字で「ふとし」が名だ。
「みみとがり」も、なんだか苗字っぽい。「聞かんでしょうが、うちの地元では近所中、皆みみとがりですわ」みたいな。
「パーマネント」はいかにも愛称のようだし、「こいまゆ」は、たとえば「こいがわまゆきち」とかを縮めた略称のようにも思える。
つまり、姓名っぽい、苗字っぽい、愛称っぽい、略称っぽい、それらが入り混じることで一集団としての印象が深まっている。
「名前」もまた言葉であり、そのキャラクターの造形と同じかそれ以上にインパクトを与える。今回は題名に人名があるときの話。
1.『みんな蛍を殺したかった』
木爾チレンのミステリー小説の題名
なんとそそる題名だろう。
当たり前だが題名も本編と同じ「テキスト」なので、そこには情報がある。この題名から伝わる情報は「皆が、蛍という人を殺したかった(のらしい)」ということだ。
短いから「分かる」ことはそれだけだが、同時にこのテキストは「分からないこと」をいくつも示している。
殺したいと思っている人の人数や、殺したいのはどういった人たちなのか。そして蛍は殺されたのか、生きているのか。また、そんなにも殺意を抱かれる蛍とはどういった人なのか……さまざまな不明点を、この題名は(多くを言わずに)示唆してみせている。
同じミステリーの古典的名作としてアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった(原題:And Then There Were None)』がある(古典のぐっとくる題名だ)。よく似た印象で、好対照の二題名といえる。
「みんな蛍を殺したかった」
「そして誰もいなくなった」
どちらも同じように、作中での大勢の人の関わりを示唆している。だが「そして~」の方には具体的な人名がない。
また「いなくなった」「殺したかった」は、どちらも「た」止めだ。題名の時点ですべてのことは終了している(=覆らない)前提だ。
だが前者は断言で、後者は願望。どうなったかが明示される・されないという真逆の「た」止めになっている。
どちらも微妙に同じ、微妙に異なるやり方で、うまく謎を示している。謎の答えはもちろん本編にあるだろう。題名が本編の「促し」のためにあるのだとしたら、良質の分からなさが保持されているわけだ。
そして、古典の名作に(題において)勝っているとまでは言わないが、「みんな~」の方の題名は、人名の蛍も効いている。
ところで、小説の内容を知らずに題だけを鑑賞するとき、この蛍を昆虫と解する人もいるかもしれない。
……いや、いるか?
もちろん「いない」と断ずることはできないが、多くの人が、題だけでも「蛍=人間(もしくは人間のような意識を持つ存在)」と解すると思う。それはなぜでしょう。
たとえば『オーイ!とんぼ』という漫画がある。
なにも知らずに題「だけ」を聞いたら、昆虫の蜻蛉を想起するかもしれない。
でもそれが「漫画の」題名だと知った時点で、とんぼは昆虫かもしれないが、もしかしたら人名ではないか、という風に「読み」の分岐が起こると思う。
これが音楽の題だったら、主題が「蜻蛉それ自体」だと理解しうるので、昆虫そのものへの呼びかけという可能性の方を強く思うだろう。
それに対して手段としての漫画(や小説)は、物語を伝えることが主眼の表現だ。
加えて「漫画の題は主人公の名を冠することが多い」という前例に馴染んでいれば、なおさら「オーイ!」という呼びかけを「主人公に」対してしている、と自然に思えるはずだ。
(もっとも「かわいそうなぞう」のように、物語であっても人名とは到底受け取れない題ももちろんあって、文章との組み合わせによって受け止めは変わる。象、蜻蛉、蛍それぞれの人名採用の可能性も判断に影響するだろうが)。
今作の蛍もしかり。たしかに蛍は昆虫だけど、題にした際に大勢が人名であると受け止めるだろう。なぜかというと、これが「小説の題」だからだ。
「なんか、みんな蛍を殺したがってさあ」という「口伝えの報告」ならまた別なのだが、これは報告ではない、題だ。
題であるゆえに、題をつけられるに足るなにごとかであるはずだと読み手は身構えるのである。字義どおりに「昆虫のホタルを大勢が殺したがる物語」だと受け取る読者はごく少ないだろう。
ただ一方で、多くの読者が、夜の暗闇に美しい光を放つ昆虫のホタルの幻想的なイメージを、これから出会う小説内人物(大勢が、勝手に容姿端麗な人を想起する)に、うっすらと重ね合わせることもするはずだ(ここが花子やトメや大五郎では台無しだ!)。
作者が「題名映え」まで考えて人物名を決めたのだとしても、少しも驚かない。
・『オーイ!とんぼ』 かわさき健・原作/古沢優・作画(ゴルフダイジェスト社)の漫画の題名。
・『かわいそうなぞう』 つちやゆきお ・文/たけべもといちろう・絵(金の星社)の絵本の題名。
2.『友近・礼二の妄想トレイン』
BSのテレビ番組の題名
友近・礼二の妄想トレイン/毎週火曜よる9時放送(BS日テレ)
……これをぐっとくる題名に挙げることには異論があろう。
芸人である友近と(中川家の)礼二、二人の個性を知っていないと「ぐっと」来ないのではないか。
また、二人がほとんど実地の旅をせず、スタジオでVTRをみながら妄想だけで旅を味わうという「内容」が面白いのであって、これがぐっとくる題名だとしても、題名単独での手柄ではない。そのような正論があるだろう。分かってる。分かってますって。
それでもなお、この題名に備わる独特のシズル感について、考えずにはおれない。
「〇〇の」と人名を冒頭に置く題名は、テレビやラジオ番組によくみられるものだ。
かつてなら『三枝の国盗りゲーム』『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』、今でも『有吉の壁』や『マツコの知らない世界』など、メインパーソナリティーの「名」こそが看板であり、売りであり、特色だから「題」から外せないわけだ。
皆さん「ご存じ」あの人のあれですよ、というミーハー一点突破で興味を持たせんとする、詩的に迫るのではない直截的な命名法ではある。
珍題名もある。1986年公開の『マドンナのスーザンを探して』という映画の邦題は、「あの」マドンナが出ている映画ですよ、と「言う」必要が興行的にあった。原題の「Desperately Seeking Susan」では客が来ないとみなされたわけだ。
スーザンが架空でマドンナが実在なので、妙なねじれを感じさせる題名になってしまっている(マドンナは一般名詞でもあるので、そこにもねじれがある。さらに余談になるが、映画好きの間で実は名作とされていることと邦題の珍奇さにもねじれが、幾重にも生じている)。
そういうある種のミーハーさを『友近・礼二の~』でもセオリーとして用いているのだが、それを受けるボトムの「妄想トレイン」の語感がとてもいい。
「もーそー」「とれいん(とれーん)」の伸びが列車の走行、遠くまで続く線路の印象にごく自然に馴染んでいる。
そして、誰と誰であれ「二人」の連名であることで、またリズムを生み出している。
それぞれ音読してみたときの、収まりの良さの差は歴然だ。たまたまだが礼二(レージ)の「レー」と「トレイン(トレーン)」の響きも加わっている。
(※24/08/02追記:そればかりか
無論、七音の人名一人でも、トモチカレイジに匹敵するリズムは生じるわけだが、この題の中に二人分の人名が収まることは、お座敷列車の二人掛けの座席をも想起させる(さらにいうと「二両連結」のイメージまで含んでいる!)。
一人旅ではないことが絶対的に保証された(実際にはほぼどこも行かないんだが)愉快さ・心安さは、一人の姓名では生じさせられない。
余談だがこの番組は現在BSのほか、huluでもみることができる。往年の『お笑いマンガ道場』とこれをみられるだけでhulu加入の甲斐があると個人的には思う(さらに余談だが『お笑いマンガ道場』にも「だん吉なお美のおまけコーナー」という、口に出して朗誦せずにはおれない心弾む名前の人気コーナーがあり、その名もまた、妄想列車と構造的に酷似している。音数、リズムなど仔細に観察されたい)。
・『マドンナのスーザンを探して』 スーザン・シーデルマン監督の映画の題名。
・『三枝の国盗りゲーム』 朝日放送制作(1977年10月2日~1986年3月20日放送)のクイズ番組の題名。
・『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』 渡辺プロダクション制作(1990~1996年放送)のバラエティ番組の題名。
・『有吉の壁』 日本テレビ系列(2020年4月8日より放送中)のお笑いバラエティ番組の題名。
・『マツコの知らない世界』 TBS系列(2011年10月より放送中)のトークバラエティ番組の題名。
・『お笑いマンガ道場』 中京テレビ制作(1976年4月4日~1994年3月27日放送)のバラエティ番組の題名。
3.『バートルビー』
メルヴィルの短編小説の題名
『書記バートルビー/漂流船』メルヴィル・著/牧野有通・訳(光文社古典新訳文庫)
もちろん人名はマドンナや友近、礼二のように、それを「知っている」人に対して特に効果をあげるわけだが、なにも知らない人にもマドンナ、友近、礼二という「語感」や「印象」を別個にもたらしている(蛍のような一般名詞としても意味のある語でなくてもだ)。
もっといえば、知らない名前にだって「語感」はあり、ゆえに「効果」がある。
たとえば『バートルビー』や『オルソンさんのパイ工場』や『大豆田とわ子と三人の元夫』という作品名を僕はなんだか覚えてしまうのだが、どの人も存じ上げない。
それでもなんだか覚えるのはなぜか。オルソン、バートルビー、大豆田とわ子、それぞれの音の響き(にある独特さ)を我々が自然と味わっているからだ。
そして名前や地名は意味をすぐにはとれない。題の中に名前が混じるとき、それを読む側はひとまず「名前らしいなにか」として「パイ工場」や「三人の元夫」という「意味をスムーズに取れる」語群と混ぜながら咀嚼する。
その咀嚼の際のひと手間が、フックを生んで名を(ひいては題を)記憶させる。
でも『バートルビー』は他の語群がない。題名が途中で変更されたのだそうだ。
もともと発表されたとき「代書人バートルビー ウォール街の物語」という題名だった。のちに短編集に収録される際、シンプルな題に変更されたという(『バートルビー 偶然性について』ジョルジョ・アガンベン・著/高桑和巳・訳(月曜社)による)。
日本語訳も一時期のものはそれに倣った(岩波文庫『幽霊船』、国書刊行会『乙女たちの地獄・上』収録時)。感覚的な判断だが題名鑑賞家として、ここはシンプルな方を圧倒的に支持したい!
日本人なのでバートルビーという名前の語源やニュアンスをくみ取れない(なんなら、人名なのかどうかさえ判然としない)わけだが、耳慣れない、なにかのアナグラムのような語感の良さだけで満腹だ。
最初に付けられたという「代書人」「ウォール街」「物語」などの語は、「分からなさの解消」という意味での貢献をもちろんはたしている。
しかしそれらすべて、いかにも補足めいた言葉選びであり、説明的で美しさを減じさせてしまっている。
もちろん最初のとき(人名だけでは)伝わらないと思ったことはよく理解できる。
そこを潔く思い切った「変更」に、ここではぐっとくる。さすが文豪メルヴィルだと(ろくに読んだことないのに)思う。
なお現在、日本で刊行されている光文社古典新訳文庫版では『書記バートルビー』という邦題になっている。翻訳者、編集者の逡巡ももちろん分かる、が! いいじゃん、人名と思われなくても、とつい言いたくなる。
・『オルソンさんのパイ工場』コーエン・作/ランドストローム・絵/とやま まり・訳(偕成社・現在は絶版)の絵本の題名。
・『大豆田とわ子と三人の元夫』 坂元裕二・脚本/カンテレ制作(2021年4月13日から6月15日放送)のドラマの題名。
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