第8回 レンジを広くとる
ブルボン小林さんの連載、「グググのぐっとくる題名」。小説や演劇、映画、音楽、漫画や絵画など、あらゆる作品の「内容」はほとんど問題にせず、主に題名「だけ」をじっくりと考
第8回は、実写映画化も決定した、銭湯で働く吸血鬼が主人公の漫画と、先月発表の第172回芥川賞を受賞した小説の題名を取り上げます。(編集部)
ファミレスで筆者が一番好きなメニューは「チーズinハンバーグ&甘エビクリームコロッケ」だ。恥ずかしい。弁当屋で好きなのは「生姜焼き&とんかつ弁当」。恥ずかしい。こないだ家で「塩焼きそばとソース焼きそばのハーフ&ハーフ」を作った。我ながらバカみたいだと思う。
友人に「皆が好きな食べ物はハンバーグとかコロッケだけど、ブルボンさんが好きなのは『&』ですね」と言われた。
ハンバーグが、とか、生姜焼きが、ではない、一度にいろいろ食べたい。食べたかろう、という欲からの逆算が、弁当やメニューの品名に露呈していて、まんまと釣られる自分がいる。
そういう「どちらも取りにいく」というのは必ずしも成功するとは限らないが、うまくすればスパークするはずだ、題においても! 今回は「レンジを広くとる」という話。
1.『ババンババンバンバンパイア』
奥嶋ひろまさの漫画の題名
『ババンババンバンバンパイア』ⓒ奥嶋ひろまさ(秋田書店) 2022
赤と青の3Dメガネでどーんと飛び込んできたような題名だ。赤と青の、つまり「古い」3Dのイメージ。
とにかく、本当にバカバカしい。新聞の記事で、「ババンババンバンバンパイア映画化」と見出しに載っていたが、手書きでない、活字で書かれていることに対して笑ってしまった。
こんな題名、語呂だけ、音だけ、面白さだけじゃん、という向きもあろう。別に奥深くない、と。そうだろうか? 早速みていこう。
吸血鬼(バンパイア)は強い力を持つ一方で、弱点も多いキャラクターなので、そもそもフィクションに重宝される。日光に弱く、血を吸わないと生きてられず、十字架やにんにくが苦手。設定されたさまざまな制限が人格やドラマを面白くみせてくれるから、シリアスで悲劇的なものからコメディ、ギャグに至るまでたくさんの物語で描かれている。
その際「どんな」吸血鬼かということを題名であらかじめ示すのは有効なことだ。以前に語った「二物衝突」の掛け算の片方が、しっかりと大きな値になる。
『吸血鬼すぐ死ぬ』や『インタビューウィズヴァンパイア』などがいい例だ。前者は特性を、後者は状況をいうだけで、吸血鬼が活きている。
そんな中でも特に筆者がこれまでですげえなと唸ったのは『ヴァンパイア
少女漫画なので、美しい男(吸血鬼)たちがてんこもりの、ある種のハーレムを示唆しているのだろうが、題名だけ聞くと真逆に聞こえる。
カビのはえた万年床でラーメン(ニンニク抜き)をすする主人公、「俺のトマトジュース呑んだやつ誰だ!」とダミ声で殴りこんでくる下駄ばきの先輩、夜通しの麻雀で、このままじゃ学費も払えない……みたいな汗と情けなさにまぶされた、昭和の男子寮しか想像ができない。その寮生たちが吸血鬼? そんなの、めっちゃ楽しいじゃん!
……読んだら全然違ってた。それはそれでよいのだが(当たり前だが)、内容と別の、題名だけが独自に感じさせる楽しさも、味わいそびれたくない。
それよりもさらにすごいというか『ババンババンバン~』は不意打ちで、上を来られたなー。吸血鬼ものの題で「音の面白さ」では、すでに『ドン・ドラキュラ』があったから油断(?)してたわ。
しかし、音だけではない。「ババンババンバン」部分には一応、というか、かなり強い「意味」があるし、その意味は巷間に広く伝わった、有名なものだ。
先の『ヴァンパイア男子寮』で筆者が想像した方の男子寮を思い出してほしい。不潔な万年床、汗臭く貧乏な男たちの大騒ぎ。男子(だけ)の寮。「女性がいない」ということをわざわざ強調してある、むさくるしさと若さの象徴のようなそのイメージは昭和の、かつての寮だ。
現代では少子化もあって、どこの学校も会社も寮など廃止するか、個室になった。きっと今はどこの男子寮も清潔なワンルームだろう(『ヴァンパイア男子寮』の刊行は2019年)。
ターゲットになっている少女マンガ読者は抱かない、昭和の古いイメージが男子寮という「語」にだけ付着していて、ターゲットではない者にも面白い誤解が生まれた。
「ババンババンバンバン」もザ・昭和だ。ドリフターズの大ヒット曲『いい湯だな』の一節である。言語的な意味はない、スキャットとでもいえばいいのか。レコードが1968年リリースだそうだから、57年前のものだ。
「男子寮」と同じ古さを醸し出す、のんきな昭和のフレーズが、令和の漫画の吸血鬼に接続された。『いい湯だな』=お風呂の暖かさ、弛緩した嬉しさがシリアスな設定を持つ吸血鬼との対比的な衝突になっている。
それだけではない。音楽的な良さも大きい。
歌の「ババンババンバンバン」は4拍子だとして2小節だ。2小節目に休符がある。
注・楽曲『いい湯だな』の正確な楽譜はこのようになりません。こ
「ババンババンバンバン」には休符があるから、ドリフターズが歌う時には「ハァ~ビバノンノン」と合いの手が入っていた。
その、2小節の休符部分に「パイア」が納まった。
題名は音楽でないから、何小節ということもない、と思われているが、そんなことはない。七五調やラップのような言葉だけでない、どんな題名(言葉)でも音楽的な調べの中にあることは知っておきたいところだ。
無意識に休符を意識させられてしまう空白に「(バン)パイア」が入って、なんだか調子づく。「パイア」のあとまだ休符があるおかげで、感嘆符の如き勢いも得ている。
別に昭和世代を狙って決めた題名ではないだろう。楽し気なコメディのムードが音にあるのを用いただけかもしれない(内容をあえて踏まえると銭湯が舞台だということで、ごく自然な着想だ)。
だとしても、筆者のような昭和世代まで「お?」と振り向くようになったことはたしかで、注目を広く集めることに成功したといえる。ドリフの元ネタを知らない人にも特に邪魔になっていないから、レンジを広げたことで元の需要を取りこぼす、なんてことにもなっていない。鮮やかなバカバカしさの炸裂だ。
一つ面白いのは、「ババンババンバンバン」も「バンパイア」も語としては、ともに昭和からずっとあったということ。あるけど、そこまでふっきれた題を昭和の人はつけられなかった。
ペンネームや芸名などの変遷をみても、昭和にいきなり「こっちのけんと」とか名乗れない。時代とともに少しずつ文化のタガが外れていったわけで、やっと訪れた、はしゃいでいい時代に晴れて(?)バンとパイアが結ばれたのだ。
・『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』 1994年公開の映画の題名(ニール・ジョーダン監督)。
2.『ゲーテはすべてを言った』
鈴木結生の小説の題名
とれっとれのぐっとくる題名だ。最近の芥川賞受賞作品の中でも妙に目立つ。派手な言葉使いは少しもしていないのに。
ゲーテといえば文豪だ。題が示唆する通り、いかにもいいことをたくさん言ってそう。
「もっと光を!」だけじゃあないよ。「さよならだけが人生だ」あ、それ、ゲーテ言ってるから。「天才とは99%の努力と1%の閃き」それもゲーテ言ってっし。「同情するなら」金をくれ、でしょう、それゲーテが元ネタ。
「ゲーテはすべてを言った」=「あまねく
なぜそうなる(頭悪くなる)のかというと「を言った」の、単純な断定のせいだ。
ゲーテくらいの古典的なブランドには、文語調がふさわしいという気がつい、する。昭和どころか、18~19世紀の人だもの。パーカーじゃなくて三つ揃いを、ビニール床じゃ台無し、大理石持ってきて、という風な「あてがい」を考える。似合う似合わないという瞬間的ジャッジが働いて、「を言った」に対して軽い違和感を抱いてしまう。
「ゲーテすべてを語りき」にするとどうか。
ほうら、めちゃくちゃ収まりがいいでしょう。
でも、文学好きしか手に取らない凡庸な題になった。つまり、レンジが文学どまりになっている。
また、「すべてを語りき」だとゲーテが自分の人生を告白したようにも思える。「すべて(all)」という言葉が、その意味と裏腹にあいまいだからだ(シニフィエがあってシニフィアンがない……逆か? シニフィアンがあってシニフィエがない、のか)
(あとの連載で取り上げるかもしれないが「すべて(all)」は題名を奥深くするのに向いている言葉だ。『すべての美しい馬』や『うるさいこの音の全部』など。読者側からは絶対に把握できない、その「全部」のなんたるかを本編に期待させる効果が得られる)
「すべてを言った」の言い方も、人生の告白の可能性は残るが、同時に森羅万象の真理を網羅的に言い得た、という風にもみえてくる。
「語る」と「言う」のニュアンスの違いを考えてみよう。単純にいうとこんな風ではないか。
「もったいぶって、わざわざ、あえて」「語るべき話を」→語る。
「ただ、普通に」「卑近なことを」→言う。
今日あったことは「言う」。我が人生は「語る」が似合う。
だから「すべて」「語る」はただごとを言ったのでない風に(つい)思えるわけだ。
では「小林はすべてを言った」だったらどうだろう。
不特定の一般的な名前の場合、なにかを「白状した」感じに思えるだろう。ただの小林は森羅万象に精通しているか、心もとないからだ。
ゲーテのときは「すべて言った」というのが森羅万象の真理、ただごとでないなにかを語ったかのように思える。逆になにかの事件の白状じゃあ、ゲーテ甲斐がない(ゲーテにも卑近な日常があったろうから、勝手な印象だが)。
文豪で、名言録を作れそうという印象をあらかじめ内包したゲーテという厳かな人名のときに「すべてを言った」の「ただ、普通の」言い回しが不思議な効果をもたらす。ゲーテの一般的イメージから少しだけレンジを広げてみせているわけだ。
「すべて」の指すものの曖昧さがそのまま本編への興味へとつながり、知的好奇心をくすぐってくれる(題だけの時点では「人生を語った」可能性も残っているが、それも興味の邪魔をしていない)。
もし自己啓発書のようなゲーテの発言録を作るなら「すべてゲーテが言っている」になるだろうか。もっと大きくレンジを広げると「それもう、ゲーテが全部言ってるんだから!」になる。たぶん芥川賞とれない。
・『すべての美しい馬』 コーマック・マッカーシー・著/黒原敏行・訳の小説(早川書房)の題名。
・『うるさいこの音の全部』 高瀬隼子の小説(文藝春秋)の題名。
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