第5回 二物衝突その2(レイヤーのある題名)
ブルボン小林さんの新連載、「グググのぐっとくる題名」。小説や演劇、映画、音楽、漫画や絵画……あらゆる作品の、「内容」はほとんど問題にせず、主に題名「だけ」をじっくりと考
第5回目は、俳句の「二物衝突」という表現上の効果が生じているタイトル。一見、同じ画角には入らなそうな言葉の取り合わせが印象的な小説と、赤塚不二夫の代表作と言えるギャグ漫画、そして、ここ十数年で定着した新語が盛り込まれた漫画の題名を取り上げます。(編集部)
数年前、『NHK俳句』の選者をしていた。毎月、数千に及ぶ投句に目を通し入選作を選ぶのだが、落選の句についてはさまざまな傾向がみられた。
以下はあるときの『NHK俳句』(雑誌)に筆者が書いた、落選したダメな句についてのアドバイスである(題は「雪女」)。
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しんしんと雪の夜に出る雪女
吹雪舞うブリザードの中雪女
そりゃあ、そうだ。落選作の多くはこの二句のように「素直」すぎる。(中略)
夏だから暑い、雪女だから雪、初鰹だから舌鼓をうつ。そういう素直さだけの句は個人のスケッチにはいいが、他者の心はうたない。
では、これらはどうだろう。
ワイキキの浜に寝転ぶ雪女
ひょっとしてタヒチの浜に雪女
淡き闇ビルの谷間に雪女
雪女のイメージに対して素直ではない。雪女が南国の浜や都会のビル街にいたらそれは「意外」だ。
意外だが、やはりつまらない。こういう落選作もとても多い。(中略)
ここで分度器の0度をみてほしい。横にまっすぐで少しも角度がついていないところを。それが「素直な句」だとする。
「真逆の」「意外な」発想ということで、今度は180度のところをみよう。0度とは正反対の方向だ。
どうだろう。二つは同じ直線上にある。「0度と180度は同じ線」ということをどうか理解してみてほしい。正反対なのに、つまらなさは同じ線上にあるのだ、と。(中略)
将棋の桂馬飛びのような意識を軽く持ってみるだけで、句が変わってくるだろう。
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俳句を含め、あらゆる言語は縦書きにしろ、横書きにしろ直線で記される。だからこそ意味的には直線から外れて、桂馬飛びの気持ちで挑め、とアドバイスしているわけだ。題名ももちろん、似たことがいえる。
似ているが、まるで同じでもない。意外性を獲得するやり方は「桂馬飛び」だけだろうか? 今回は「二物衝突その2(レイヤーのある題名)」。
1.『御社のチャラ男』絲山秋子の小説の題名
『御社のチャラ男』絲山秋子(講談社)
一読して忘れ難い題だ。喚起力が半端ないし、絶対に面白いなにかがあると期待させる力が宿っている。ここは注意深くみていこう。
先に挙げた俳句の世界には「二物衝突」という考えがある(二物衝撃ともいう)。
詳しくは当連載の前作にあたる拙著『増補版ぐっとくる題名』に記しているので、ここでは簡単に述べるが、一句を構成する要素「季語」と「それ以外の要素」の二つ(二物)が衝突して詩的作用を起こすことだ。
俳句のすべてが二物という意味ではない。「をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田
そして、先の雪女の落選作群も本当には二物ではない、雪女のことだけを描写した一物句なのだが「雪女」と「それを説明する要素」の二つの取り合わせに問題がある。
雪女とブリザードではイメージが「近すぎる」から、喚起させる力が出ない。
雪女とワイキキでは「遠すぎる」うえに「ひねりがない」。
距離のことでもあるし、角度のなさゆえに跳ね返りの衝突がうまく広がらない。
この二物衝突の考えは題名にも応用ができる。
『ギンギラギンにさりげなく』『セーラー服と機関銃』といった題名は二つの語のイメージの取り合わせである効果を生んでいるわけだ。
(そして、俳句と違って題名は「作品全部」ではない。あくまで作品の一部だ。だからたとえば、俳句では角度のないダメな取り合わせだった「タヒチ」と「雪女」も、「タヒチの雪女」という題名だったら、そんなにいい題でもないが、まずくない気がしてくるだろう)。
『御社のチャラ男』も二物、助詞の「の」を除けば「御社」「チャラ男」の二要素に分けられる。
前者は取引先の会社を呼称する際の尊敬語であり、後者は「チャラい風貌や性格を持つ、特定の男性」を示すスラング(俗語)だ。
この二つが、普段あまり接続されることのない組み合わせだというのはすぐに大勢が判断できるだろう。
公式の書類上で「御社」は使用されるが、チャラ男とは記入されることはない(その人がどんなにチャラくても)。御社の、と相手のことを呼び始めたら、続くのは普通「〇〇氏」「××さん」だ。
言語というものにはそれぞれにもっぱら生息域があって、両者は普段、相まみえることがない。なんならサバンナと寒冷地くらいに隔たっている。
それでもときに、練馬で猿を目撃したニュースみたいに、言語も越境してくることがある。
「練馬に猿」ほどレアな状況でなくても、たとえば書類や会議でない、居酒屋なんかで、生息域の異なる言語同士が不意に邂逅してしまう。
酒が回るとかした、なにか胸襟を開いた瞬間にだけ言い交す人間の呼び方として「御社のチャラ男」と「いうしかない」奴というのが、いかにもいそうだ。
というのも、御社とチャラ男は言葉遣いにおいては正反対だが、対象との距離の遠さにおいて、むしろ近似のものがある。
ある会社を「御社」とへりくだるのは、その会社と話している人との関係が仲睦まじい気安いものではない=距離があることを示している。
ある男を「チャラ男」と呼び下すのも、その男と仲睦まじい気安い関係ではない=距離がある。一般的な名詞としての「チャラ男」には距離がなくても、特定のそれについては、面と向かって発することはあまりない、むしろみえない(=距離を置いた)ところでこっそり呼び交わすはずだ。
名刺交換もまだしていない、役職や姓名を把握できない、外見やわずかな言動だけが強烈に印象を与えてきた人のことを、「チャラ男」と心の中で呼び続ける。
しかし、先の俳句の例だと「丁寧な言い方」に対して「くだけた俗語」をぶつけるのは、ただの反対、雪女とワイキキやタヒチのような、つまらない180度の関係ではないか? という風にもみえるだろう。
だけど、このチャラ男は御社と180度の関係では実はない、むしろ0度の位置にいる。つまり、御社の社員だ。
チャラ男はチャラ男だらけの場所にいたら、おそらくそう呼ばれない。総じてチャラくない一定の人数の中での比較で呼ばれる呼称であり、職場、学校などの規律ある組織にまぎれてこそ呼ばれうる(生息域は実は(御)社にあるのだ、ともいえる)。
御社と、(一般名詞でない、この)チャラ男は(正反対の位置どころか)同じ「社」に重なって「存在している」。
「御社の」の「の」がそれを保証している。取引先への敬意と、その内側にいる男を親しみ侮る気持ちは両立する。0度なのに、言語的には180度反発することの両立が達成される。
つまり、この題名の上では気持ちがレイヤーになっている、といえる。
『御社のチャラ男』の構造でもう一つ面白いのは、人が「もう一人いる」ということだ。
この題の言語自体は一人のことを言っているのに、題されたときには一人ではない、二人でもない、三人が関与している。
まず「御社のチャラ男」が当然いる。「そいつをチャラ男とみなしている人」(おそらく主人公)がいる。そして第三に、そのチャラ男自身にでなく、チャラ男のことを話題にしようと水を向けているであろう、御社の相手がみえてくる。「御」社の、とへりくだってもらっている人だ(へりくだってもらっているのは絶対にチャラ男ではない)。
あの会社のチャラ男と、心で思っているだけでない、具体的にチャラ男不在の場所で話題にしあえる(本編ではしてないかもしれないが、題名においては)二人の関係性が豊かに表れているし、チャラ男も含めた三角形の広がりを示唆しているのである。
絲山秋子は作品だけでない題名の名手だ。『夢も見ずに眠った。』のようにハードさと静けさの同居したフレーズや『薄情』のような二字のかっこよさまで、題に創意が行き届いている。
・『ギンギラギンにさりげなく』1981年に発売された近藤真彦の曲の題名。(伊達歩・作詞/筒美京平・作曲)
・『セーラー服と機関銃』1981年に発売された薬師丸ひろ子の曲の題名。(来生えつこ・作詞/来生たかお・作曲)
2.『天才バカボン』赤塚不二夫の漫画の題名
『天才バカボン』赤塚不二夫(竹書房)
いっけん、まったき180度の、ひねりのない逆張りの二物にみえてしまう題名と言えば、これもそう。
でも、この題名はスカっと分かりやすいものとして人口に膾炙したし、誰も「天才をバカと呼ぶだなんて安直な逆張りだなあ」などと言わない。
俳句と違って、題名の場合(特にフィクションの場合)「天才」と「バカ」の二物に「逆」という感じが、実はしないのだと思う。
バカと天才は紙一重、というが、天才科学者が大変な騒動を起こすことは物語でよくあることだ(凡人はなにもドラマを生まない)。天才こそ、偏執的で常識外れの価値観を持ち、暴走するというイメージがある。やはり、ほぼ重なって(レイヤーになって)いる。
言語的には逆なのに、分度器でいうと359度と0度の「紙一重」のブレがこの題名にはあって、言葉同士が共振しているのである。
(加えてバカ「ボン」の音のもつ間抜けさ、楽しさが、天才にもバカにも備わっている狂気をうまくコーティングしている)。
同じ作者では『もーれつア太郎』なんかも、言語の運動神経がかなりよくないと出せない題名だなあと思う。
3.『【推しの子】』赤坂アカ・横槍メンゴの漫画の題名
「二物衝突」を題名で、最小言語数でやると四文字(四音)か。
漢字三文字で『寄生獣』『人間豹』のような二物(寄生虫じゃなくて獣なの? 人間の豹って? と驚かせる)もあるけど、それらは音にすると五音、六音になる。
三音だと「木の香」とか「尾の毛」とか、一音で一物ずつ用意しなければならず、バリエーションが限られる。ありえなくはないが、やはり四音が最短最速、ではないか。
「推し」というのは間違いなく、この十数年くらいで広まった、新しい言葉だ。
アイドルや役者、漫画やアニメのキャラクターなどを強く支持し応援する、またその対象。辞書っぽくいうとそういう感じか。今の人の価値観や気持ちにしっくりくる語で、みるみる浸透していった。
アイドルもキャラクターも楽曲や物語に関わるからか、「題名」にも「推し」が出てくるようになる。推しているという様態の面白さを、フィクションがどんどん取り入れていった。
『推しが武道館いってくれたら死ぬ』『推しが上司になりまして』などなど、言葉に宿るエネルギーが題名にもうまく活かされているなと感じる(たまたま例に挙げたが、前者は一物といっていい並びになっているし、後者はやや意外性をもたせたものになっている)。
その中でも「推し」に「子(供がいる?)」ことを示唆したのは、二物の衝撃がとても強い。
もちろん題名だけだと、それがどんな推しかも分からないし、そもそもどんな推しにも日常生活があって当然だし、子供がいてもいいに決まってるのだが、そういう正しい建前と別の「動揺」は必ず生じる。しかも、最短距離の四音で、動揺までの導火線がとても短い。
もちろん、この題は「推しの信奉者」を比喩として「子」と呼んでいるというミーニングもあるだろう。また題名を「【】」で括っていることにも含むところがあり、深読みをうながしてくる。
だがそれらの奥深さをひとまず考慮せずとも、四音の速度にキャッチーなワードと二物衝突を詰め込んだ題の「装置性」それだけでも十分にぐっとくる。
同様に「推し」で「四音」で「二物」の題名に、宇佐美りんの小説『推し、燃ゆ』もあって、これもなかなか優れた題と思う。推しと同様に広まった「炎上」を示唆する言葉がみやびやかな燃「ゆ」で深遠さを獲得している。
あえてどちらか選ぶとしたら推し「の子」の方をとるのは、筆者の好みの問題かもしれないが、推しと燃える、どちらも新規の、生息域の似た二物に、俳句で言うところの「つく」感じをみてしまうこともたしかだ。
・『推しが武道館いってくれたら死ぬ』 平尾アウリ(徳間書店)の漫画の題名。
・『推しが上司になりまして』 森永いと・漫画/東ゆき・原作(ハーパーコリンズ・ジャパン)の漫画の題名。
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