第11回 題の中を時間が流れる
小説や演劇、映画、音楽、漫画や絵画など、あらゆる作品の「内容」はほとんど問題にせず、主に題名「だけ」をじっくりと考
第11回に取り上げるのは、中島らもの名小説と、大槻ケンヂ率いるバンドのアルバム、デジカメ情報マガジンのユニークな連載の題名です。(編集部)
ハチドリが花の蜜をすう写真がある。カメラのシャッタースピードを示す例で、奇麗に静止しているでしょ、ということをみせるための写真だ。
ほとんどその(カメラの性能を表す)ときしかハチドリをみない。なんか言いたいんじゃないかと思う(ハチドリが)。またそれですか、みたいな一言を。
しかし、そのように空を飛んでいる鳥を撮った写真をみるとき、その鳥が静止していると人は考えない。写真は絶対に止まっているのに、だ。その前も飛んでいただろうし、その後も飛んでいく姿を我々は感じ取る。
それ自体が静止していても、人は動きを感じ取る。題名においてもそれがある、という話。
1.『永遠も半ばを過ぎて』中島らもの小説の題名
前著『ぐっとくる題名』で語り漏らした、名題名中の名題名。
永遠(とわ)という言葉の意味に反することを言っているのが(わざわざ指摘するのもダサいことだが)ミソだ。どこまでも無限にあるはずの永遠。でも、もうその半分は過ぎたと。
そう思えるなら、それ、永遠じゃないじゃん! そういう矛盾をあえて言うことで「ってことはつまり、どういうこと?」と読者に聞く耳を持たせている。
永遠は概念でしかない。本当に永遠のものは、なかなかない。この世のあらゆるものは有限だという「実感」も、大勢に備わっている。だから言語レベルでは矛盾なのに、実感レベルでは共感を生んでいる。
そのおかしさが題に味わいを生む。
似た題の小説として『永遠の1/2』や『永遠の途中』という作品もある。
やはり「永遠」という定義に矛盾する言葉を続けることで効果をあげている(無限に続くはずのものを半分に分かつことはできないし、永遠に途中はない)。
もちろんダメな題ということでは決してないし、これらも効果をあげた良い題とは思うが、「永遠」で始まる題において「半ばを過ぎて」はやはり図抜けている(念を押すまでもないだろうが、作品内容の話ではない、題名に限ってのこと)。
助詞を省いて後段を列挙すると分かる。
a「1/2」
b「途中」
c「半ばを過ぎて」
abは体言止めだ、題名にそこで「。」がついていると言っていい。
それらに対しcにつくのは「、」だ(と思わせられる)。まだ、続きの言葉がある。書かれてないが、続きは予見させている。すなわち、この題は、その先までも時間が流れている。不可逆な流れの気配がある。
もう一点。
「半ばを過ぎ」るという言い回しで一般的なのは「夜」だ。
夜も半ばをすぎた。夜半、夜半過ぎという語もある。昼半とはいわない。
「昼も半ばをすぎて」も、いわない気がする(語法的に、いえないわけではないし、そういう用例もあろうが)。
「半ば」とだけいうと「道半ば」などのように、ど真ん中の折り返し地点(マラソンの三角コーン)を思わせるが、この題では、実は一日でいう四分の三を経過しているのではないか、ということを想起させる。実はもうかなり、終わり(夜明け)は近い。
(「1/2」や「途中」は、まさにど真ん中を指しているようにみえる語選びだ)。
夜とは言ってないのに、実はそのムードをあらかじめまとっていた。
とっぷりと暮れた、起きる人の少ない、真っ暗なあの時間だ。
この世界は「半ばを過ぎ」るはるか前に、永遠から降りてしまった(つまり、寝てしまった)人がほとんどなのではないか。
皆が寝静まった暗くひっそりとした世界で、寝ないことで永遠を続けているわずかな人たちの物語。そんなことまで思わせる。さりげないたった1フレーズで。すごいことだ。
・『永遠の1/2』佐藤正午の小説の題名(小学館文庫)
・『永遠の途中』唯川 恵の小説の題名(光文社文庫)
2.『ウインカー』特撮のアルバムの題名
中島らも(世代の人々)の影響を受けて育ったであろう、大槻ケンヂもまた題名の名手である。
『リンウッド・テラスの心霊フィルム』『今のことしか書かないで』『パララックスの視差』など、詩集から楽曲名まで、独特なムードのある題名が特長だ(前著『ぐっとくる題名』でも『飼い犬が手を噛むので』を取り上げている)。
筋肉少女帯での活動が有名だが、特撮という別バンドで2016年に放ったアルバム名が異様だ。
ウインカーとは自動車の左折・右折(二つ使うことで一時停止)を明示するための部品で、たった一語。
車それ自体や、エンジンやガソリンを比喩として題に用いる例はたくさんあれど、そこを題した作品を寡聞にして知らない。
あ、自動車の部品を用いた題名では『ヘッドライト・テールライト』という中島みゆきの曲があって(これもなかなかの名題名だ)、そこには時間の流れが感じられる。
でも、それぞれ「ヘッドライト」「テールライト」だけにすると時間が流れない。
二つを並べたことで、わずかだが時間が流れ出す。
まず、道路を行く車の列の、往路と復路の両方を俯瞰してみていることが分かる。遠くて暗いから個々の自動車の姿までは判別できない(だから題の遡上にのぼってこない)が、テールライトの赤とヘッドライトの黄白色の、輝きの連なりだけは分かる。
両方を列記することで、遠くの道路の途切れない車列を浮かび上がらせたし、それは緩慢に、動いているであろう(大渋滞で静止している可能性もあるが)。二つが点灯しているということは、もちろん今が昼間ではないことも情報に入ってくる。
で、実は「ウインカー」は単体でも時間が流れる。
なぜなら必ずリズムを刻むものだ。カチ、カチと。同じ車でもヘッドライトは基本的に「つきっぱなし」なのに対して、ウインカーは必ず点滅する。
もちろん、使用していないときは消灯しているのだから、ウインカーという単語をみただけで時間が流れる・流れないは五分五分ではある(さらにいえば、車の運転中にウインカーを使う瞬間はごくわずかなのだから、五分五分どころか、ほぼすべてで消灯しているともいえる)。
「ウインカーの点滅」とするならば時間が流れるわけだが、品名だけでは静止しちゃっているではないか、という向きはあろう。
だが、わざわざ「題にしている」のだ。
その行為を通してみたとき、使用しないウインカーのことを人は思うだろうか。思わない、どころか、使用しない限りにおいて、車のウインカーなど誰も意識しない。題に銘打つということは、ウインカーは、点滅しているのだ(わざわざ写真に撮られるハチドリの羽ばたきのように)。
地の文では必要かもしれないウインカー「の点滅」が、題においては不要になる。題にするという大仰でもってまわった行為が、題の中の時間も動かしている。
さっきの『ヘッドライト・テールライト』は、そのように「いう」ことで個々の車種とかの大きな情報をボカしていたわけだが、同様にウインカーも、ウインカーという一部の箇所だけを言うことで、どんな車か、どんな道にあるのかなどの大きな情報を捨象している。
なんなら、夜なのではないかと思わせる。あまりに暗くて、遭遇したその車のウインカー「しかみえない」のだ(=だから、そう題するしかなかった)。
ヘッドライトをつけて姿をみせてもくれない、不穏な一台がいる。ハザードをつけて一時停止しているのだろうか? 車は無人ではどこにも移動できないのだから、必ず誰かが運転している。
その車にはさて、誰が乗っているのだろう? 姿を現さないが確実にいる「人間」を、わずかな光の点滅だけが示唆している。ウインカーの音が意識できるのは、喧噪のない静かなときだ。真夜中の、人けのない、そんなところでの邂逅だ。ドキドキする。
ウインカーという語の、短さの割にたっぷりした語感が、題に流れる時間にも効いている。おおむね「速い」ことが特長であるはずの自動車が、右折、左折、一時停止、いずれも必ず速度を落とす。そのゆっくりした時間の、カッチカッチという静かでいて確実に聞こえる音の効果もまとっている。
ウインカーは中に乗る人を暗示しているが、車それ自体の「人」的な気配もみせている。自動車は発明されて百年以上たつが、いまだにほとんど喋らない。トラックが「バックします」と「言った」り、バスが「次、とまります」と「言う」が、おおむねウインカーとクラクションしか「意思を伝える手段」がない。道を譲ってくれた人にハザードで御礼をいうタイミングに迷ったり、とても不自由なコミュニケーション手段だ。車を人的に捉えた際の不自由さ(愛しさ?)をもこの題は保持している。
片目だけつむる=ウインクする「比喩」から来ているであろうことを思っても、車それ自体の擬人的な存在感をもうっすらと持ち込んでみせている。車を擬人化するとだいたいは「かわいい」ものになるが、ここではうっすら不気味な気がするのは作者がこれまで我々にみせてきた幻想的なイメージのせいだろうか?
3.『岡嶋和幸の「あとで買う」』ネットコラムの題名
岡嶋和幸の「あとで買う」
ここまで詩的な題名を二つ語ってきたが、実用(?)的なものも語りたい。インプレスの「デジカメWATCH」というニュースサイト内のコラム名だ。
写真家の岡嶋和幸さんが、気になったガジェット、欲しいアイテムを紹介するコラムである。掲載されているのがデジカメの新製品等を紹介するサイトなので、ここで取り上げているのもカメラバッグや、充電器やケーブルのようなものだ。絶妙に、欲しくなりそうな、かゆいところに手が届きそうな、ちょっと気の利いたものをみつけてきて紹介してくれている。
しかし、媒体の性質上、オススメということなのだから「岡嶋和幸のすぐに買う」「岡嶋の即ポチれ!」という題名のほうが自然なはずだ。
「あとで」買うというのは、むしろ今は要らない程度と言っているのでもあり、訴求をわざわざ弱めている。
弱めていることが、むしろ訴求力につながる? なんてことがここではある。こことはつまり、ネット。
これはインターネット上の連載だ。ネットでオススメするものは、やはりネットで(通販サイトで)買う流れが自然だ。実際、岡嶋さんの連載もAmazonなどにリンクをしている。
そうすると、その先の「買い方」には分岐が起こる。「ワンクリックで即購入」か「カートに入れる」かである。Amazonのような通販サイトのみならず、電子書籍などでもこの二つが選べる(アスクルという事務用品の通販サイトは、そのカート名がまさに「あとで買う」という名称だ)。
分割で買うか一括で買うか、現金で買うかクレジットで買うか。そういう「選択」とまるで別の「今買うか、あとで買うか」が、ある。ネットにのみ、ある。
ネット以前には、ほぼなかった。月賦で買っても、品物は全部すぐ入手する。買う気があるけど買わないなら、店員に買うと言わない。取り置きしてやはりキャンセルということがないわけではないが、気軽な行いではない。
でも「あとで(より、その気になったら)買う(買わないかも知れない)」という「状態」が、物欲にはある。欲しいは欲しいが、家の人にも相談してから、とか、よその店の値段もみてから、とか、あるいは単に本当に欲しいかどうかを悩む、とか。
今の自分と未来の自分を同一視しないで、軽はずみな物欲にあらかじめブレーキをかけておけるというのが、ネットの買い方でできるようになったわけだ。
ほとんど新たな「気分」の発生だ。あとで買おうか、今買おうか。買ったら素敵になるであろう、未来への期待が宿る。「あとで買う」を題名にしたとき、その中に、まだ出会っていない素敵な未来が(まだ買わずに)保証される。
ずっと買う買わないというデジタルな二択だったのが三択になったような、新カードが投入されたような目覚ましさ。
会うまでがデート、みたいな言葉があるが、売買というものの楽しさも、買う「まで」にあるともいえる。「欲しくなさ」という矛盾を心で遊ばせることもできる。
このコラムで紹介されるものはすべて「カートに入れる」タイプだ。絶対に今買わないと後悔するものは紹介していない。
その「買う」ものは、必需品ではないことがもちろん分かるし、買わなくてもよいものだということさえ分かる。
それでもコラムに銘打っている。そのことで、不必要かも知れないが、良さそうなものなんじゃないか、というシズルを放ち出す。なんなら「絶対買う!」という強い題を凌駕するほどの。
だからこのコラムは題の手前の「連載のコンセプト」がまず、よいのではある。
それでも「明日買う」とか「いつか買う」ではない、「あとで」という、不確定な(いいかげんな)時間の決め方がいい。題の中に余裕(という時間)が漂っている。
ネット通販の「カート」がそういうものだから、はなはだ素直に命名した題ではあろうが、コラムの外側まで余裕があることを示しており、とても豊かな気持ちにさせる。
この連載が1400回以上(!)続いているということにも納得感がある。未来は常に無限に思え、人が「あとで」欲しいものも無数に出てくるのだろう。
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