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グググのぐっとくる題名

第9回 題を題につける

小説や演劇、映画、音楽、漫画や絵画など、あらゆる作品の「内容」はほとんど問題にせず、主に題名「だけ」をじっくりと考察する本連載。20年前に発売された前著『ぐっとくる題名』以降、新たに生まれた題名や、発見しきれていなかったタイトルを拾い上げます。
第9回に取り上げるのは、2015年公開の映画『バクマン。』の主題歌と、2018年公開の『映画ドラえもん のび太の宝島』の主題歌の曲名です。(編集部)


 刑事コロンボの愛犬の名は「ドッグ」だ。原文でもdogらしい。大昔に読んだ小説版では、dogを「犬っころ」と訳している人もいた。
コロンボを楽しんでいる者からすると、犬をドッグと呼ぶのが実に彼らしいと思うが、犬っころかもしれない。どっちなんだろうと悩む。
犬を犬と呼んでいたら、それは「名付けてない」ということだ。
日本人が「ドッグ」とカタカナの名を付けたら、それは諧謔のある命名だが、コロンボはイタリア系移民だ。さてどんなつもりだったんだろう。今回は「名付けていない名付け」ということが題にもある、という話。

1.『新宝島』サカナクションの曲名

   
   『新宝島』サカナクション

これは、題が題になっている。作者がゼロから生み出したワードは一つもない。
その元になった題も、また別の題を踏まえている。引用が二重になっているのだ。

つまり、まず最初に『宝島』という題名の冒険小説があった(スティーヴンスン作・原題は『Treasure Island』)。
それを踏まえて『新宝島』という題名の漫画が描かれた(手塚治虫作・酒井七馬原案)。
それを踏まえて、今度は同じ題名で曲が作られた、というわけだ。

それぞれ初出の発表年を調べると『宝島』が1883年。漫画の『新宝島』が1947年。そして曲名になったのが2019年。64年、72年と、どちらもけっこう長いスパンを経ている。
ここではそれぞれの題の「意図」に思いを馳せてみよう(内容とはなるべく無関係に)。

「宝島」とは、普通に考えれば宝のある島のことだろう。
「島」が舞台を、「宝」は目標を示唆している。
単に「島」と書くと、島しか言ってない。だが題名に出てくるとうっすら「示唆」が感じられる自動的にさらなる意味をまとう。広大な海も舞台に含まれることが想像できるし、陸地からの大移動だって予見させる。
「海や移動」をなぜ想起するかというと、(当たり前のことをわざわざ書くが)あらゆる題名には必ず本編が付随するからだ。題名だけの題というものは、ない。
「宝」もだ。ただ紙に「宝」と書いてあっても宝というだけだが、題名に入ることで輝きだす。宝って、その正体は? どれくらいの価値が? という謎や期待をはらみだす。
(今の時代には素朴にみえるものの、既にしてぐっとくる題名である)。

さて、世紀をまたいだ64年後に創作された漫画の『新宝島』(の題)のうち、「宝島」部分が想起するのは旧版と同じ。
追加された「新」が、文字通り新しい創作であることを示している。あれよりも新しいものですよ、と。でも同時に古い古典を想像させようともしている。
有名なアレとは別ですよ、ということと、アレと同類のものですよ、ということを両方、いおうとしているのだ。
「新凱旋門」「新丸ビル」などもそうだ。新のつかないそれらとまるで違う建築物だが、古いアレのブランドをまとっていたい。

しかし、建築はどうか知らないが、創作に限っていうと、「新」をつけたもので成功したものは少ない。
『新オバケのQ太郎』は面白いしヒットしたが、その評判は古い『オバQ』と併せたものになっているし、『新ど根性ガエル』は明らかに前の評判がよいし、『新コボちゃん』は刊行の都合で新がついただけで同じ中身である。
最近は時期を置いてのリブートにも「新」とつけない(同じ題名のままにする)ことが多いのは、新とつけるメリットが感じられなくなっているからだろう。
(近年の『シン・ゴジラ』『シン・ヱヴァンゲリオン』におけるカタカナの「シン」は題名的に画期的なものだったわけだが、今回は深入りしない)。

とにかく、新のつく題名の中、『新宝島』は高い評価を受けた。特に日本においてはほとんど「神格化」された。
藤子不二雄、赤塚不二夫ら、多くの人気漫画家がこの漫画をバイブルに挙げている(その漫画家たちが有名な「トキワ荘」に集ったことで伝説の存在になっており、伝説の人が挙げるバイブルということで、神話性さえ帯びた題名になった)。藤子不二雄Aの大ヒット漫画『まんが道』に登場することで、作品そのもの以上に題名が輝かしいものとして語り継がれた。

再び世紀をまたぎ72年後、漫画家を目指す若者たちを描いた青春映画『バクマン。』のエンディング曲として書き下ろされたのが『新宝島』だ。

かつての手付きで付加された「新」のようなさらなる付加が、ここではない。変化させずにそのまんま、持ってきた。
だが漫画の『新宝島』と音楽の『新宝島』。まるで同じ表記でも意味上の力点が変わっていることに注意したい。

漫画の『新宝島』は「新『宝島』」だ。音楽の『新宝島』は「『新宝島』」である。

アクセントが違うという意味ではない。漫画のとき、前から持ってきたのは「宝島」だけだ。だから、あえてつけた「新」には強い意味がこもっている。転校生と在校生の緊張関係とまでいうと大げさだが、それに似た気配がある。


音楽の時は、漫画で追加された「新」もまとめて持ってきて題に据えているから、意味の強さが均衡してみえる(三人一緒に転校したのだ)。
二つの題名が、一字一句同じ文字のワードなのにどこか異なる感触を与えてくるのはそういうわけだ。均衡している分、音楽の方には熱の醒めたクールさが生じていると筆者は感じる。

内容は無関係にせよ映画主題歌のタイアップという「背景」が、この題名が「ぐっとくる」ことに関わっているのは否めない。だが、語感だけでも元から備わった「良さ」はあるし、内容に過去の題を借用したことで、最初の(なんのタイアップもない)「宝島」の意味まで変容している。

そもそもスティーヴンスンの描くところの「宝」と手塚治虫の描いた「宝」は同じような物質的な宝のみを示唆している。どれだけ新といっても、そこは変わらないだろう。

しかし、漫画家のバイブルだった「新宝島」が意味している「宝」は違う。漫画人生で得られる成功や充実を示す、比喩的な「宝」に変化しているのだ。「島」も、比喩としての目的地を示唆するようになり、漫画人生の到達点を暗示することになった。

もちろん、うっすらと、オリジナルのオリジナル、百年以上前の『宝島』が彷彿とさせた金銀財宝(それにともなう冒険)のイメージもうっすら残っていて、レトロさとロマンも重層的に生じることになった。

創作者なのにオリジナルの創作でないワードを用い、少しも自分の創意を混ぜようとしない選択をした作者にむしろ強いセンスと自信を感じるし、敬服せざるを得ない。

2.『ドラえもん』星野源の曲名

 

変えなかった、という観点ではこの変えなぶりも相当だ。

この曲もタイアップである。タイアップとは、ドラマやアニメ(コマーシャルもあるが)など、あらかじめある「作品」ありきで作る「作品」だ。二次創作ではないが、無からの創作でもない。

落語でいう三題噺のように「お題」がある状態の創作といえる。お題を無視しすぎてただの歌だとタイアップの甲斐がなくてつまらないし、寄り添いすぎると「絵解き」になってしまうし、自分らしい創作ではなくなるだろう。

同時に、既に題名があるものについて、また(ドラマと音楽とは違う「作品」ではあるものの、モチーフが同じものに)新たな題名を考えなければいけない、ということでもある。

でも、変えなかった。
変えないというのは普通「なにも思いついてない」ということのようだが、「すごくいろいろ思った」ゆえに変えなかったのだ。

ご存じの通り『ドラえもん』は長寿コンテンツで、毎年、新作映画がつくられる。それはつまり毎年ドラえもんにまつわる題名が増えていくということと同義である。

映画には主題歌があるから、ドラえもんをモチーフにした曲も増えていくのであり、その題名も自動的に増える(星野源の『ドラえもん』は『映画ドラえもん のび太の宝島』2018年公開の主題歌。シリーズ38作目)。

1985年公開の『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』(シリーズ6作目)で海援隊が歌った『少年期』が名曲とされ、原作者の藤子・F・不二雄も気に入って作中に歌詞を取り入れたことで、ドラえもん映画は主題歌も大事、という意識が(作り手サイドに)芽生えたかもしれない。
これまでにさまざまな人気ミュージシャンが主題歌を手掛けてきたが、映画版のどの曲名にも「ドラえもん」「のび太」というワードは使われていない。

アニメソングの歴史をみていっても、曲名にその主人公(やタイトル)が入るのは、おおむね七十年代から八十年代半ばまで(その後ももちろんなくはないが、ぐっと減少する)。
『機動戦士ガンダム』(1979年)の主題歌の題名は『翔べ!ガンダム』だが、続編『機動戦士Zガンダム』(1985年)の主題歌の題名は『Z・刻をこえて』。
かろうじて「Z」が入るが、「ガンダム」の名は(早くも)ない。

2025年の最新作『機動戦士Gundam GQuuuuuuXジークアス -Beginning-』の主題歌『Plazma』に至るまで、西城秀樹からYOASOBI、米津玄師など錚々たる歌手たちが歌ってきているが、筆者の知る限りでガンダム主題歌の題名内に「ガンダム」という語が出てきたことはない。

なぜだろうか。それはタイアップが「win-win」をもくろんだものだからだ

『翔べ!ガンダム』は多くの人に親しまれた主題歌ではあるが、レコードの売り上げはどうだったろう。YOASOBIの曲のようにはヒットしていないだろう。

かつての主題歌はアニメに似合うものという観点「だけ」で考えられていたが、タイアップという文化においては、題名に主人公名を入れ込むと音楽の間口が狭まってしまう。その曲は、アニメの主題を表すと同時に、歌番組で披露できるポップさ、分かりやすさも「兼ねないと」いけなくなった。

いつしか、題名はイメージだけで、アニメそのものの要素を露骨には入れ込まないという不文律ができていったように見受けられる。歌詞や曲調には内容がある程度反映されるが、題名は、歌の置き場所をアニメからよその世界に変えても(=タイアップ元を離れた場でも)見栄えするものになったのだ。

……でも、よく考えてみたら、そんなのぜんぜん破ってよい。不文律って、実際にはなんの拘束力もない。
『ドラえもん』の歌なんだから、ドラえもんっていっても構わない。

歴代のドラえもん主題歌で、『ドラえもん』というだけの題名のものは、実はある。
1973年の、日本テレビでのアニメ化の際の初代主題歌がそうだ。この日テレ版のアニメは好評を得られず、今現在ほとんど歴史に残っていない。
国民的人気を獲得したのは1979年開始のテレビ朝日版『ドラえもん』で、主題歌の題名は『ドラえもんのうた』だ。「のうた」がついている。2007年のテレビ版に『夢をかなえてドラえもん』もあるが「夢をかなえて」がついている。

無垢の、つるつるの『ドラえもん』の五文字だけを主題歌の名前に冠することは、73年の最初期以後、ずーっと手付かずだった。何人もの人が主題歌をうたってきたというのに。

ど真ん中に落ちていたのに誰も拾わなかったものを、手に取った。
曲名を知った時(筆者は)おっと声が出てしまった。
モノリスに触れる猿の如き「場面」さえ想起される。
そういう場面が浮かぶほど、勇気のいることでもある。

たとえば先の「ガンダム」も同様の状態なわけだが、今、新たなガンダムの主題歌に『(機動戦士)ガンダム』という剥き身の、ツルツルの、そのまんまの題名の主題歌を作ることが、果たしてできるだろうか?

不文律なんてない、破っていい。でも、その「いい」というのはcanでしかない、goodとは限らないのだ。
聴き手の間口を狭めるデメリットと別に、普通に、ものすごいプレッシャーが湧きそうだ。『ドラえもん』のときだってそうだったろう。それだけをタイトルにするからには、そのブランドに見合った、高いクオリティのものを作らなければならないはず。

変化させない題というのは、勇気と自信なくして付けられない。この星野源版の『ドラえもん』は、映画の後でテレビアニメ版の方の主題歌にも起用された。内容が名前負けしないものだったことを結果的に示している。

今回のどちらの曲も、アニメや漫画などの(文学などに比べて若い)文化に十分な歴史や権威的な意味が生じたことを示してもいる。その歴史や意味を正しく咀嚼、尊重できる世代が現れたことでやっと命名しえたのだ、とも思う。


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著者略歴

  1. ブルボン小林

    1972年生まれ。「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーのコラムニスト。
    00年「めるまがWebつくろー」の「ブルボン小林の末端通信」でデビュー。
    著書に『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』(ちくま文庫)、『ゲームホニャララ』(エンターブレイン)、『マンガホニャララ』(文藝春秋)、『増補版 ぐっとくる題名』(中公文庫)など。
    『女性自身』で「有名人(あのひと)が好きって言うから…」連載中。小学館漫画賞選考委員を務める。

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