朝日出版社ウェブマガジン

MENU

大人のための詩心と気心の時間 ~アメリカ詩を手がかりに~

第1回:詩を読むことが、心身の健康につながる!?

健康のために、みなさんはどんなことに気をつけていますか。「病は気から」「諸病は気より」といった言葉の通り、気を整えておくことも健康には必要です。そして気は良い言葉によって整えるのが一番です。
この連載は、良い言葉の宝庫である詩作品、とりわけ著者の深く精通するアメリカ詩を中心に読むことで「詩心を知り、気心の滋養を図る」すべての大人に贈る健康と文学への優しい案内です。


 

|はじめの自己紹介

 皆さん、こんにちは。渡辺信二と言います。今回、新しく「詩心と気心の時間~アメリカ詩を手がかりに~」という連載を始めます。連載という形ではありますが、この連載を通して読者の皆さんと一緒に詩心・気心を養いたいと願っています。SNSなどで言葉があふれている時代ですが、お手隙際にお読みいただければ幸いです。

 さて、私はこれまで生きてきた多くの時間、大学で文学を教えてきましたが、そもそもの始まりは1960年代の始めに古今東西の文学を読み尽くそうと決心したことでした。60年代の半ばには自分で詩を作るようになり、大学ではアメリカ文学を専攻。院生時代には、気功などの東洋医学も同時並行で志しました。これらの道を踏み出してから、それぞれに歳月が流れています。

当初は、詩作・研究・気功は別々に見えていましたが、今は何か同じ方向へ向かって行きそうな予感があります。しかし同時に、古希を過ぎた今でさえ、全てにおいて数歩を歩み出したに過ぎないとも実感しています。大詩人・大作家たちの作品だけでなく、様々な言葉や働きにも心や存在を揺さぶられます。立教大学で教えていた22年を含めて44年間、学問を続け、教壇に立ってきましたが、今でもアメリカ文学の研究を生業とする一学徒であるという気持ちに変わりはありません。

それでは早速、「詩心と気心の時間」をはじめて参りましょう。

 

|「心身の健康」の心身とは何か?

 人生を楽しむには、心身の健康が必須です。でも、心身の健康とは、どうやって確保できるのでしょうか。

 たぶん基本は、快食、快便、快交、快学、快眠でしょう。これは、五快の勧めとも言われていますが、適切な食べ方を含めて心地よく美味しく無農薬・無添加の食材をよく噛んで頂く食養、適度の運動と気血の適切な循環、夫婦間や家族を含めて他者との快い交流、全てに関心や質問を寄せる知的好奇心、そして、途切れない熟睡でしょう。この5つが備わっていれば、まずは、心身ともに健康だと言えます。

 ここで既に3度、「心身」という言葉を使いました。確かに、言葉として漢字として、「心」と「身」は違いますが、でも、どこかでわたしたち日本人の多くは、「心」と「身」がつながっているのではないかと考えている節があり、だからこそ、「心身」と言う言い方をするのでしょう。考えてみれば、「心」も「身」もともに「しん」という読み方をするのは、単なる偶然なのでしょうか。

 調べてみると、「心身」は、過去には「神身」と表記したこともあるそうです。もちろん、心とはなにか、身体とは何か、それぞれをよく考えれば、定義がとても難しいのですし、また、心と身体の状態は、必ずしも同じではありません。同じではありませんが、特に、「心」は、「こころ」と平仮名表記されたりしながら、かなり恣意的に使われる場合もあります。例えば、「心を入れ替える」といった言い方は、その主語がとても気になりますし、「心」って入れ替え可能なのか、と外国人なら驚く人もいるでしょう。これらについては、おいおい考えて行くことにして、ここで強調しておくべきことは、確かに伝統的に、「心身一如」(しんしんいちにょ)と言われてきたことです。これは、心と身体が一体のもので、分けることができず、一つの連続体であるという意味です。

  鎌倉時代に曹洞宗を開いた道元の『正法眼蔵』には、「身心一如」とあって、身体と心の順序が逆であると言われています(*1)。「身体」が先か、「心」が先かによって、重点の置き方が変わってくるのでしょうが、ここでは、「心身医学」という言い方に倣って、「心身」としておきましょう。ちなみに、心と身体を2元論で捉えるだけでなく身体の各部位まで別々に考えがちな西洋医学の主流とは異なって、「心身医学」は、身体と心が有機的にホリスティク(全体的)に関わりあうものと捉え、心身を分割したり切り離したりせずに、個々人のQOL(生活の質)を重視した総合的な医療を目指すと宣言しています(*2)

 

|声と言葉によって人は人となる

 このてらすは、「詩心・気心の時間~アメリカ詩を手がかりに~」と題していますが、ここでわたしたちが使う「詩心」ということばは、「詩へ向かう心」のことであり、まずは、「詩が好き」だという気持ちを意味します。しかし、詩やアメリカ詩が心身の健康に必須であると証明するものではありません。心身の健康に必要なのは、先に上げた5つの快です。そして、もしも、そのなかで、詩が何か担うことのできる仕事があるとすれば、知的好奇心への貢献であり、主として、快学の項目でしょう。

 これをもう少し敷衍して言えば、精神的滋養と知的刺激として、良い詩を読み、問いを立てて思考し読み解き、時には詩を書き、常に心を清新に活発に保つことができれば、健康な心身を維持することに寄与するのではないだろうかと考えています。

 もともと、詩は、人類が人間へ進化した時から、人間とともに存在していたはずです。それは、文字が生まれるずっと前のことだったでしょう。

 ここでちょっと微妙に、人類と人間を使い分けましたが、これを含めて、以下にお話しするのは全て人類の起源と進化に関するWEB上のサイトや書籍を参照しながら記述しますので、理解の行き届かない所もあるかもしれませんが、生物学的に言えば、人類を人間へ変化させたのは、脳容量の増大や2足直立歩行、手の使用などよりは、言語の獲得が最も重要だと言われています。

 ヒトの祖先がチンパンジー・ボノボの祖先と別れたのは、600万年前~700万年前くらいと推定され、直立歩行自体は、その頃には獲得していたらしいのですが、ずうっと長い間、人類は、2足直立歩行する、単なる哺乳類の一種にすぎなかったのです。

  人間への大変身は、7万年前、あるいは、4~5万年前に起こったらしいですが、その原動力は、言語を獲得したことにあり、そのきっかけになったのは、おそらく、さらに遡ること数十万年前に生じた、咽頭腔と喉頭腔の遺伝的変異だと指摘されています。この遺伝的変異の選択圧になったのは、既に獲得していた直立歩行であったろうとのことです。この変異によって、人間の身体のなかに、複雑な話し言葉を可能にする解剖学的な構造変化が生じました。すなわち、口腔と咽頭腔が直角になり、咽頭が下に移動することで、声の獲得、言葉の誕生へとつながってゆくのです。吠えたり唸ったりのみの喉が表象表現へと解放されました。喉は、舌、歯、唇の動きと有機的に関わりながら、母音と子音を様ざまに組み合わせて、音を声として出すようになりました(*3)

 

|「気」の本質とその変貌

 多分、ここで強調すべきなのは、「気」でしょう。

「気」とは何かといえば、まずは単純に「空気」と考えていいのですが、音や声を出すために「空気」が不可欠であるというだけではありません。人間に限らず、すべての生命体は呼吸によって「気」を体内に取得し、また、「気」を排出しています。この「気」によって、人間は、宇宙の生命とつながっています。これは、数分、呼吸を止めるだけで、人が死ぬことでも分かります。

 ですので、「気心」とは、ここでは辞書的な「その人が本来もっている性質や考え方」という意味ではなくて、むしろ、生命や身体をまさしく生命として身体として発現させ機能させる「気」を滞りなく自然に保とうとする意志であり、また、これによって保たれる自然で健康な心身のことを意味しています。

 すなわち、生命を養うことばが声となり、声が詩となって、祈りや願い、あるいは、喜怒哀楽を放射します。

 もちろん、「気」を養う方法は、たくさんありますので、とりわけて、詩である必要はありませんし、さらに言えば、アメリカ詩が中心である必要もさらさらありません。これぞと思う知的な刺激であれば十分です。

 なぜ、このてらすで、アメリカ文学、アメリカ詩が中心なのかといえば、それは、わたしたちの個人的・伝記的な理由によるものです。これについても、おいおい、説明させてもらおうと思っていますが、ただ、詩は、気がもたらす生命であり声であり、文字の生まれるずうっと以前から、人間の喜怒哀楽であり、表現であったということです。したがって、詩は、声に出して読まれる、しかも、誰かに向かって読まれる、ことが基本です。

 

|気は生命の息吹

江戸時代初期の有名な儒学者貝原益軒(1630―1714)は、当時の平均寿命が32歳とも44歳とも言われるなかで、85歳の長寿を誇っただけでなく、死の直前まで健康を保ち、著作を続けていたと言われます。実際、最も有名な『養生訓』もまた、貝原益軒83歳の著作でした。以下は、その引用と現代語訳ですが、ここには、詩歌が心身の健康に良いという主張がありました。

 

[253]古人は詠歌・舞踏して血脉を養ふ。詠歌はうたふ也。舞踏は手のまひ足のふむ也。皆心を和らげ、身をうごかし、気をめぐらし、体をやしなふ。養生の道なり。今導引・按摩して気をめぐらすがごとし。(*4)

 古人は詠歌や舞踏をして血脉を養った。詠歌というのは歌を歌うのだし、舞踏というのは手で舞い足で踏むのである。みな心を和らげ、からだを動かし、気を循環させてからだを養う。養生の道である。今日、導引や按摩で気を循環させるのと同じだ。(*5)

 

 こうして現代語訳を紹介した上でなお、「血脉」、「養生」、「導引」に関して、注記を入れておいたほうがいいと思うので以下に説明していきます。

 まず、ここでいう「血脉」とは、「血統」とか「血のつながり」ではなくて、血液循環の意味です。そして、「血脉を養う」とは、東洋医学でいうところの「気・血・水」が滞りなく流れるようにすることを意味しています。原文には、「身をうごかし、気をめぐらし、体をやしなふ」とあって、「身」と「体」が異なるように表現しています。この違いを江戸時代に即して説明するのは、わたしたちの手に余ることですが、少なくとも『養生訓』のなかで確認する限り、貝原益軒は、「身」を身体全体の意味で用いつつ、「体」は、よく「耳・目・口・体」という使い方をするように、身体のうちの体幹と手足をさすように思えます。

 「身」という文字は、その成り立ちに関して、「人がみごもった(妊娠した)」象形文字という説と、「人間が横を向いて立っている様子」を表す表意文字という説がありますが、いずれにしろ、人間の姿形を元にしています。これに対して、「体」は「骨」と「豊」を合わせた「體」が本来の漢字であり、それは、会意兼形声文字で、「骨と切った肉」の象形と「草木が茂っている象形と頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)の象形」(「豊か」の意味)から、多くの骨からなる「からだ(首、胴、手、足の総称)」を意味する「體」という漢字が成り立ったと漢和辞典では説明されています。 

 

 貝原益軒の肖像画(*6)

|詩歌は気の養生

 「養生」についてですが、もともと、「養生」というのは、「衛生をまもり健康の増進に心がけること」でした。戦争が相次いだ戦国時代の中国では、戦争から逃れるために隠遁を重視したり、無為自然を重視する老子や荘子などの思想が起こり、その動きのなかで、過度な飲食を慎み、規則正しい生活を重視する養生という考え方が生まれてきたと言います。その後、養生は、疾病予防、強壮、老化防止などの手段として日常生活に取り入れられていきました。現在の日本語の用法では、病気を治すことや、病後のケアを主として意味していて、病気の自然治癒を促すことも指すようです。けれども、建築工事などでは、破損防止の手当という意味で、今も「養生」という言葉を使います。また、冬の到来を前にして樹木を藁や茣蓙で囲うことも、「養生」と言います。

 最後に、「導引」ですが、これは四千年とも五千年前とも言われる長い歴史のなかで中国が育ててきた「気」の健康法のことであり、今でいう「気功」のことです。辞書によっては、「導引」を按摩の意味であると説明していますが、ここでは、道家より出た漢方の体操療法を意味します。新しい「気」を体内に導き入れる深呼吸と、獣の真似をし同一動作をくり返す一種の体操とを併用した健康法であり、目標は、健康な長寿にありました。これが、現在の「気功」にあたるのですが、ただ、「気功」と言われるようになったのは、20世紀になってからです。

 中国の歴史のなかでは、経絡理論と結びついたさまざまな身体運動療法、健康法の呼び名には、「吐納」「導引」「静坐」「定功」などいろいろあって、何千年も前から統一していませんでした。これは、他に秘伝を公開しないという一子相伝の伝統と関係しているのでしょう。1950年代になって、毛沢東の意向もあり、劉貴珍という赤軍兵士の活動とその著作によって、「気功」と言う名称で統一されることになりました。(*7)

  上記の『養生訓』からの引用は、結局のところ、芸事や習い事によって知的であると同時に身体的でもある刺激を心身に与えることが、気功や按摩をしているのと同じくらい、心身の健康に良いという指摘です。

 

|静心動身 ~身体は動かすからこそ健康となる~

 今回は、イントロダクションですが、少し長くなりました。最後に、再度、心と身体の関係に関して、やはり、『養生訓』を引用して終わりにしましょう。

 

[114]心は身の主也。しづかにして安からしむべし。身は心のやつこ(奴)なり。うごかして労せしむべし。心やすくしづかなれば、天君ゆたかに、くるしみなくして楽しむ。身うごきて労すれば、飲食滞らず、血気めぐりて病なし。  (『養生訓』中村学園大学)

 

 とあります。心静かに、体は常に動かせ、と言う趣旨です。四文字熟語風に言い直せば、「静心動身」ですね。念のため、松田道雄の現代語訳も引用しておきます。

 

 心はからだの主人である。この主人を静かに安らかにさせておかねばならぬ。からだは心の下僕である。動かしてはたらかさねばならぬ。心が静かで安らかだと、からだの主人たる天君はゆたかで、苦しみなく楽しむ。からだが動いてはたらけば飲食したものはとどこおらず、血気はよく循環して病気にならない。(松田道雄訳、16頁)

 

 健康のために身体を動かすのではなくて、身体を動かすから健康なのです。同様に、知的刺激のために詩を読むのではなくて、詩を読むからこそ知的刺激となるのでしょう。

 次回は心と身体についての話をもう少し続けてから、実際に詩を読んでいきたいと思います。

 



(*1)   仲紘嗣「<心身一如>の由来を道元・栄西それぞれの出典と原典から探る」『心身医学』2011, 51巻8号, pp. 737-747
(*2)   日本心身医学会。http://www.shinshin-igaku.com/everyone/mind.html 2021/02/08閲覧。
(*3)   山賀進「ヒト(人類)の誕生」https://www.s-yamaga.jp/nanimono/seimei/jinrui-01.htm
  「言語の獲得と人類の進化」
   http://fnorio.com/0080evolution_theory1/acquisition_of_language1/acquisition_of_language1.htm
  「人類の文化的躍進のきっかけは、7万年前に起きた「脳の突然変異」だった:研究結果」
  https://wired.jp/2019/09/01/recursive-language-and-imagination/  など2/23/21参照。
(*4) 『養生訓』 中村学園大学校訂テキスト
   https://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive03/text01.html、2/23/21参照。
(*5)   貝原益軒『養生訓』松田道雄訳。中公文庫、2020: 58頁。
(*6)  医家先哲肖像集(藤浪剛一編、刀江書院、1936)国立国会図書館デジタルコレクション 
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1222715/63。2/23/21閲覧。

(*7)   帯津良一「気功—生命の本質に関わる技法としての気功—」日本保険医療行動科学会年報Vol.11 1996.6
   https://www.jahbs.info/journal/pdf/vol11/vol11_12.pdf など参照。2/23/21閲覧。

 

バックナンバー

著者略歴

  1. 渡辺 信二

    アメリカ文学研究者、詩人、翻訳家。立教大学名誉教授。北海道札幌市出身。専門はアメリカ詩、日米比較、創作。著書に『荒野からうた声が聞こえる』(朝文社、1994年)、『アン・ブラッドストリートとエドワード・テイラー』(松柏社、1999年)など、詩集に『まりぃのための鎮魂歌』(ふみくら書房、1993年)、"Spell of a Bird"(Vantage Press、1997年)など、翻訳に『アメリカ名詩選』 (本の友社、1997年)などがある。
    近著に、「不覚あとさき記憶のかけら」(シメール出版企画、2021年)がある。

ジャンル

お知らせ

ランキング

閉じる