第4回:夫婦愛の詩②〜愛しているから結婚するのか、結婚するから愛が生まれるのか〜
この連載は、良い言葉の宝庫である詩作品、とりわけ著者の深く精通するアメリカ詩を中心に読むことで「詩心を知り、気心の滋養を図る」すべての大人に贈る健康と文学への優しい案内です。
前回取り上げたアメリカ最初の女性詩人、アンブラッド・ストリートの夫婦愛がテーマの作品の続きです。今回は作品の背景と結婚観の変容について考察していきます。
前回の連載分は、こちらから。
|Q8. どういう背景があるのか? 【作品背景】
A8:歴史的な背景として、先回指摘した通り、大航海時代がありますが、この頃は同時に、宗教改革、宗教戦争の時代でもありました。16世紀の前半、ドイツのルターや、スイスのジュネーヴにおけるカルヴァンらの教会改革から始まって、キリスト教社会であったヨーロッパが、カトリック教会(旧教)とプロテスタント(新教)に二分され、政治や社会に大きな変動がもたらされました。
イギリスでは、イギリス国教会が1534年にカトリックから独立する形で宗教改革が行われ、国教会は、復帰を目論むカトリックたちや、改革の不徹底を批判するプロテスタントたちを弾圧しました。
イギリスにおけるプロテスタントは、カルヴァンの教えに従っており、国教会のなかのカトリック的なものの排除を主張し、より聖書に忠実に教会を純粋化(purify)しようとしたために、ピューリタンと呼ばれました。この対立は、1642年に始まるピューリタン革命へとつながってゆきます。
この宗教的な文脈のなかで、「我が愛する大切な夫へ」の第一行目に出てくる「二つがひとつ」という言い方を考えると、興味深い読解ができます。以下、ちょっと長くなりますけれど、説明させてください。この辺り、作品を理解するのに非常に重要ですので。
Albrecht Dürer (1471–1528)の描いた「アダムとイヴ」
|「夫婦の契り」が意味するもの、結婚観の変化
まず、「二つがひとつ」という言い方は、聖書の有名な物語をすぐに思い出します。「創世記」(2:20-22)に出てくるアダムとイヴの物語です。
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
この箇所を受けて、「二つがひとつ」という考えは、新約聖書でも何箇所かで繰り返し想起されます。その中でも、次の「エフェソの信徒への手紙」(5:21-32)が最も有名な箇所の一つでしょう。キリストと教会との契約概念や、夫婦に対して愛し合うようにという命令が見てとれます。ただし、妻に対して夫へ仕える様にと命ずる点は、現在の価値観からすれば、完全に男尊女卑の考えとなります。聖書も歴史的制約を免れません。
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キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 ・・・わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
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下線は、わたしが引いたものですが、旧約に記された創世記のイヴ創造の物語が長きにわたって記憶されおり、ここに想起されたと言えます。しかも、夫婦の契りがメタファーとして、キリストと教会の関係で説明されています。
特にどうも、16世紀あたりから,結婚観が変化し、夫婦は二人で一つ、といった考えが改めて強調されていったようです。シェイクスピアの『ハムレット』で、主人公ハムレットのセリフには、次のようなものがあります。彼が、イングランド行きを命ずる国王に向かって「お母さん」と返答し続けている場面ですが、これに怒った国王に対して、その理由を次のように説明しています。
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ハムレット
お母さん、です。父と母は夫婦、夫婦は一心同体、だから、お母さん。(護衛歩兵へ)
さあ、イギリス行きだ。(彼ら退場)(*1)
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シェイクスピアは、時代の変化を敏感に感じながら、それを逆用して、ハムレットに国王をからかわせたのでしょう。
|ピューリタンにとって、結婚はどのようなものだったか
以下は、ネイサン・W・ビングハムの書いた「ピューリタンは結婚生活の性交をどう見たか」(*2)によりますが、この頃、結婚観に関するコペルニクス的な転換が起きたようです。それまで、中世のローマ・カトリックは、結婚が独身より劣っている、結婚相手同士のすべての性的接触は種の保存に必要な悪である、情熱を伴う生殖行為は本質的に罪深いものである、と説明してきました。しかし、マルティン・ルター、フルドリッヒ・ツヴィングリ、ジョン・カルヴァンなどの宗教改革者は、ローマ・カトリックの結婚に関する見解が非聖書的であり、悪魔的でさえあると教えました。彼らは、結婚の禁止が悪魔の教義であると言ったパウロを引用しました。以下が、「テモテへの手紙第一」(4:1–3)のパウロの言葉です。
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後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。
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ピューリタンの結婚の定義は、もちろん、夫婦の性的行為を含んでいました。デジデリウス・エラスムスは、理想的な結婚は性交を控えることだと教えましたが、これとは対照的に、たとえば、エリザベス朝の頃のピューリタンの指導者であったウイリアム・パーキンス(1558-1602)は、結婚を「2人の既婚者の合法的な結合」と定義しており、結婚によって「一人の男性と一人の女性が一つの肉体」になると説明します。また、マサチューセツ植民地の指導的な牧師であったジョン・コットン(1585-1652)は、ある結婚式の説教で、もしも結婚生活で禁欲を求める者がいるなら、愚かな指示に従っているのであり、それはもともと、聖霊の言葉、すなわち、男が一人でいるのは良いことではないという命令に違反している、と断言しました。
ピューリタンにとって、夫婦の愛は、むしろ、性的でなければなりませんでした。これによって、夫婦は、パートナーとして、互いに忠実で健全な関係を保つことができました。言い換えれば、喜びと活気をもってお互いに完全に自分自身を与え合うのです。
具体的に、17世紀マサチューセツのピューリタンたちが結婚や夫婦愛を、一般的に、どう考えていたのか、興味のあるところですが、歴史作家のエイミ・ブラウン等によると(*3)、彼らは、結婚を宗教的な儀式とは考えていませんでした。それは、市民生活の一コマであり、教会ではなくて政府の管轄項目でした。結婚相手は、お互いの社会的な階級や身分などを考慮して選ばれました。結婚予定の二人は、結婚前の14日間、結婚予告を集会場に張り出しておかねばなりません。結婚の司祭者は、判事であって、牧師ではありませんでした。
家庭内暴力は法的に禁止です。離婚や、ある特別な理由を除いて、別居も、禁止でした。犯せば、鞭打ちの刑などが待っていました。不倫も死刑相当でした。ちなみに、既婚女性と牧師との恋愛を描いた19世紀小説家ナサニエル・ホーソンの『緋文字』(1850)や、魔女裁判を描いた20世紀劇作家アーサー・ミラーの『るつぼ』(1953)などは、題材として、この時代の不倫を扱っています。不倫もまた、人間の永遠のテーマです。
女性は、結婚すれば、じぶんの所有物すべてを夫へ捧げ、家事に専念します。無駄や浪費は厳禁でした。決定権はすべて夫にありましたので、妻は、夫の権威の下、全く従順に服従しなければなりませんでした。一方、夫の方は、妻に多くを期待しないようにと言われていました。女性は、肉体的にも精神的にも「沈みやすい船」(「ペテロ第一の手紙」3:7)だと見なされていました。
さて、では、こんな男性中心主義の世界、男尊女卑の世界に、愛は、あるのでしょうか。あるとすれば、どのような愛なのでしょうか。
|愛では結婚しない、結婚が愛を育む
実は、愛は、ピューリタンたちの結婚にとって、最も大事なものであり、結婚という契約を行った者はすべからく、神の求める義務と権利として、相手を愛さねばなりませんでした。
ただし、愛があるから結婚するのではありません。愛は、結婚してから生まれるものでした。そして、結婚生活は、まさしく、愛とロマンスに溢れるものである場合も少なくありませんでした。まずは、アン・ブラドストリートの描いた世界がそうでしょう。あるいは、当時の植民地指導者であったトマス・フカー(1586-1647)は、次のような文章を書き残しています。
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じぶんの愛する女性から慕われている男は、夜、彼女を夢見るし、目が覚めればまぶたに彼女を思い浮かべて不安になり、テーブルに座れば彼女のことをじっと思いつめ、旅行するときは、彼女と一緒に歩き、至るところすべての場所で、彼女と言葉を交している(*4)
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こうした文章から、愛する女性のことをいつも夢見ている男の姿が浮かび上がります。ただし、この男が、父権主義・男性上位の考え方を持ち合わせていないとは、決して言えません。
なお、トマス・フカーは、著名なピューリタン植民地指導者であり、「コネチカトの父」と言われます。また、「アメリカ民主主義の父」と呼ばれることがありますが、これは、男子教会員のみに参政権を認めるピューリタン主流派とは異なり、被統治者の権利を擁護したためです。とりわけ、参政権をめぐって、マサチューセツの指導者たちと意見が対立したために、仲間と共にマサチューセツ植民地を出て、コネチカト植民地を建設しました。
「トマス・フカーとその仲間たち、コネティカト到着」と題されたリトグラフ。
Q9. 現在の評価はどうか? 【文学史】
A9:既に先回、Q3への回答で述べましたが、アン・ブラドストリートは、英語の文学の歴史の中では、詩集を初めて刊行した女性詩人として、歴史的な意味で高く評価されています。加えて、その内容において、現在にも通じる普遍的な主題が、彼女の生活や時代に即して個別に追求されているので、今も高く評価されているのでしょう。とりわけ、想像も創造も神の範疇に入るとして、創作を禁止していた北米植民地のあの時代に、父の励ましがあったとは言え、果敢にも詩作を試みていること、詩の主題としてプライヴェートな題材をとりあげていること、家庭内という条件があるにしろ男女平等を示唆するなど、当時としては斬新であったと評価できます。
アン・ブラドストリートの詩は、1650年の第一詩集出版以来、断続的に21世紀にも、刊行されています。
|アメリカ最初の詩人!? トマス・モートンのこと
なお、アン・ブラドストリートがアメリカ最初の女性詩人であるのは間違いないでしょうが、最初の詩人かどうかは議論のあるところです。というのも、アメリカ最初の詩人は、トマス・モートン(Thomas Morton 1579?-1647)ではないかという説があります。
彼は、1637年アムステルダムにおいて、三巻本の『ニュー・イングリシュ・カナン』(New English Canaan)を刊行しています。しかし残念ながら、これは詩集とは言えません。アメリカン・インディアンについての描写や説明、北米の動植物や地理の記述、植民地の政治のことなどが書かれている散文と、散文のところどころに、詩が挿入されていますが、全部で10篇前後ほどです。確かに、詩を書いているので、詩人と言ってもいいかもしれませんが、人によって評価は分かれるでしょう。
彼は、現在のマサチューセツ州クインジーにあたるメリーマウント植民地を1625年に建設しましたが、プリマスのピルグリム・ファーザーたちやピューリタンたちの厳格で宗教的な主義主張を批判し、自由気ままな生き方を実践しました。陽気と享楽を旨として、時には卑猥な詩を作り、ピューリタンたちをからかいました。その象徴が、5月柱(メイポール)でした。この柱の周りで、お酒を飲みながら踊ったりしました。交易では、ビーヴァーの毛皮貿易を独占し、武器をインディアンに売りました。しかし、武器をインディアンに提供することは同時、禁止されていたために、プリマスに住むピューリタンたちの危機感が募りました。このため、ピューリタンたちが様々な噂を流した上で、1628年(一説では1627年)、5月柱を切り倒し、彼を王党派として市民を扇動した罪に問い、裁判にかけ追放しています。
【部隊長マイルズ・スタンディシュとその部下たちが1628年メリーマウントでの五月柱の祭りで繰り広げられ、不道徳な行為を監視している19世紀の彫版】
モートンは、ピューリタンたちが建設しようとしている植民地やその政策を「ニュー・エルサレム」(“New Jerusalem)と批判的に名付け、これに対抗して、じぶんの植民地を「カナン」(“Canaann”)と呼んでいました。彼の主張によれば、ピューリタンが原住民を半ば虐殺しているとしつつ、インディアンたちのほうが、ピューリタンたちよりもずっと優れていると主張し、彼らと対等に接していました。これは、まったく、プリマスやボストンの方針と異なります。後に、彼は、ボストンでも逮捕されますが、その時は既に高齢であったために恩赦を与えられ、現メイン州の西の地にて亡くなりました。
彼のことは、ナサニエル・ホーソンが、『トワイス・トールド・テイルズ』(Twice-Told Tales 1837)の中の「メリー・マウントの五月柱」("The May-Pole of Merry Mount")で取り上げていますので興味ある方は、是非読んでみてください。
今回も質問に回答するというよりは、更に質問を呼ぶような回答もありました。新しく提出された疑問の検討は、次回以降に持ち越しとなります。
では、また次回。
註
(*1) ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』市河三喜・松浦嘉一譯。岩波文庫、1949年:127頁。
(*2) Nathan W. Bingham, “The Puritan’s View of Sex in Marriage” https://www.ligonier.org/blog/sex-in-marriage/ 21/02/27閲覧。
(*3) Amy Belding Brown, “Love and Marriage Among the Puritans” in "Collisions: Natives and Puritans in Early New England," https://amybeldingbrown.wordpress.com/about// 21/02/27閲覧。
(*4) “Excerpts of Puritan writing that suggests they enjoyed sex,” https://www.mcall.com/news/nation-world/mc-puritan-sex-writing-excerpts-20161021-story.html , 21/02/27閲覧。
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