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大人のための詩心と気心の時間 ~アメリカ詩を手がかりに~

第6回:思索ノートその2 「気と限界、孤立と自立」

この連載は、良い言葉の宝庫である詩作品、とりわけ著者の深く精通するアメリカ詩を中心に読むことで「詩心を知り、気心の滋養を図る」すべての大人に贈る健康と文学への優しい案内です。 

今回は「思索ノートその2」です。これまで経験と記憶から、気と限界、孤立と自立について、著者の思考が展開されます。
前回の連載分は、こちらから。 


 

|鍼灸と辺境の民の私たち

なぜなのかは明確にはわからないのですが、21世紀に入ると、鍼灸の話を学生たちにしてもなかなかに通じなくなっています。1980年代、わたしはある国立大学の教育学部に勤めていたのですが、あの頃は、昼休みや面談の時間など、学生に余談で東洋医学や鍼灸の話をすると、乗ってくる学生が何人かいました。なかには、じぶんたちで試したいという者まで出てきて、今であれば、セクハラと言われかねないのですが、学生の頭頂部を触って百会を押し、「あ、少し寝不足だね」とか「ストレスが溜まっているね」と冗談交じりに説明しては、悦に入っていました。

ついには、学生・職員・教員で東洋医学の自主的なサークルができあがり、経験や知識・知見を持ち寄って鍼灸を勉強した時期がありました。春や夏には、そのサークルで合宿もしました。ただし、辺境の国日本にふさわしく、などというと大げさですが、決して大陸的な、理論的学習ではなくて、実践的な試みでした。つまり、身体・経絡の実地の調整や、実際に困っている身体的な不調に対して、実践的に対処するのです。大陸からスキルとしての対処法を学んですぐに使ってみる。そこ見られるものは、悠久の宇宙や歴史への視点よりは、目先の健康を求めた対症療法的な対応が主でした。話を大きくして言えば、明治時代、和魂洋才が理想であったようなものでしょう。辺境の民としての日本は、和魂漢才、和魂唐才というふうに、スキルやテクニークに関して、伝統的に外国を頼りにしてきました。目先は大きく変わりますが、実質的には何も変わっていないのでしょう。

※和魂洋才:日本固有の精神を失わずに、西洋からのすぐれた学問・知識を摂取し、活用すべきであるということ(コトバンクより参照)

ぼくは、数年の長により、その自主的サークルで指導的な立場にはいたのですが、もちろん、難しい病状への対処はできません。時折は、鍼灸の専門家を招いて、じぶんたちの病気をじぶんたちで直すにはどうすればいいかを学び、実践しました。当然ながら、西医との併用が前提でした。

※西医:西洋医学のこと

 

|あらゆるものに気は宿る

確かにあの頃、わたしたちは、体力・気力に任せて、神気の補いなどをしていませんでしたし、考えてみれば、誰かを治療すると、その人は調子よくなることが多いのですが、治療したのと同じわたしたちの部位が、翌日、痛くなったりすることがよくありました。それはそれで、直ぐにじぶんで治療するので、回復はするのですが。

なお、ここでいう「神気」とは、「しんき」または「じんき」と読みます。東洋的な説明によれば、原気・元気・腎気・真気とも言われる生命の素であって、森羅万象全てに宿ると言われています。岩石にさえも宿ると言われており、実際、漢方薬には、ほんのわずかですが、ある種の岩石を混合することもあるそうです。人間における神気は、先天の気とも言われ、その人がもって生まれた生命であると説明されています。

2021年1月2日にNHKで放映された「ライジング若冲 ~天才かく覚醒せり~」は、江戸時代の伊藤若冲を主人公としたテレビドラマですが、彼が神気を感じて初めて鶏の絵を描けるようになったという挿話があります。医学博士の村上千鶴子によれば、若冲は、野菜を含めた生物だけでなく、石や灯籠、器物にも神気を感じたらしいと指摘しています。(*3)

 

 

「紫陽花双鶏図 」伊藤若冲

 

|自分たちの限界を悟る時

ある学生が、体育授業での水泳学習中に、プールにて心臓発作を起こし、病院に緊急搬入されたのですけれど、処置が間に合わず、亡くなりました。痛ましい事故でした。実は、この学生は、わたしたちのサークル所属学生ではなかったのですが、なぜかその事故の前の週にサークルに顔を出しました。あのサークルは、誰でもいつでも来ていいことになっていました。来る者は拒まず、去る者は追わず、が方針の一つでしたから。そして、彼は、たまたまその時に来てくれていた鍼灸師の問診・触診を受けました。きっとどこか、気になることがあったのでしょう。何らかの変調があったのかもしませんけれど、それに鍼灸師を含めて誰も気づきませんでした。その時は、大丈夫だろうと言われて、彼は、ほっとして帰って行きました。それから、1週間後に彼の亡くなる事故が起きたのです。あれは、わたしたちの力の無さ、対応力の欠如を露わにして、わたしたちを打ちのめすことになりました。

悔やまれるのは、やはり、じぶんたちの限界です。あの時、その場にいたわけではないですし、たとえ現場にいても何かできたわけでもありません。しかし、今でも時おり思い出します。

このサークルはそれでも数年続きましたが、ある時期から、道を歩いていると、すれ違う人の病気が見えるような不思議な感覚に襲われ始めました。これはもちろん、病名まで分かるわけではないのですが、見知らぬ人の不調とか不具合などに気づくのです。ちょっと得意になって、サークルでも一種の診断のようにして仲間を診ていましたら、指導を受けている鍼灸師に、

「その気づきは、じぶんの神気を使っているので、生命を縮めているのと同じことだ、あなたはそれこそ専門の鍼灸師ではないのだから、そういうことは見ないように、気づかないようにしないといけない」

と注意を受けました。ここでいう神気とは、原気・元気・腎気などとも言って、それぞれの人が持っている先天的な気で、先ほど説明したそれぞれの生命の短長となる気のことです。

 

|「西洋の西」としてのアメリカ

ちなみに、「辺境」と言えば、アメリカも辺境の国である、というと、今では、奇妙な意見に聞こえるかもしれません。ですが、アメリカは本来、イギリスやヨーロッパから見て大西洋の遥か西に位置する辺境国家でしたし、今でもそうした自己認識を持っています。これは、ある意味、隠された劣等感があるかも知れません。

歴史を振り返れば、開拓、ということもあったのでしょうが、発想が実践的で行動的です。アメリカにおける哲学などを考えてみても、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)などの、いわゆるプラグマティズムくらいしか思い出せません。ちゃんとした立場の人なら怒り出すかもしれませんが、ぼくにはどうも、プラグマティズムは、真理でさえも有用かどうかで判断しているように思えます。残念ながら、大陸的で重厚深遠な思想家は出現していません。ただし、哲学とは対照的に、蒸気船、電気、電球、電信、電話、飛行機、電子メールなど、私たちの生活を改善し便利さを広げるような発明が、アメリカには非常に多い。

 

一例ですが、アメリカが「西方の国」であるという明確な認識を、ウォルト・ホイットマンの詩に見えることができます。「こんにちは世界くん」2には、

 

ぼくの内部で井戸が広がり経度が伸びる、

東の方にあるのがアジア、アフリカ、ヨーロッパ ー西の方にはアメリカも立派に存在を保証され(*1)

 

とあります。また、「誇り高き嵐の音楽」5には、

 

そして君ら、古き国の美しき歌びとたち、ソプラノ、テナー、バスの君らよ、

君たちに「西の国」で讃歌を歌う新しい詩人が、

今うやうやしく愛をおくる(*2) 

 

とうたっています。奇をてらわずに言えば、アメリカは、「西洋の西」ということでしょう。そして、これら引用した詩は、劣等感や優越感を感じさせず、相互のリスペクトに溢れているようです。

 

|孤立を恐れ、自立を避けるか?

時代が変わったと言えば、個人情報のことがあります。

個人情報を守るのは大事なことですし、例えばクレジットカードの情報等が漏洩すれば、不正利用されたりして、大変なことになりますので、法律でこれを保護するのも当然でしょう。ただ、何だか、暮らしづらくなったような気もしています。

かつて、日本の官庁、企業や学校、様々な機関はほとんど、全勤務員ないし従業員の住所や電話番号を小冊子に印刷して、全員に配布していました。しかし、ある時から一斉に消えました。見知らぬセールスからの電話やダイレクトメールが急激に増えた時期以降と関係するかもしれません。しかし、そうなってからは、例えば年賀状を出したいといった場合には一度相手に住所を尋ねなければならず、ある意味では、とても不便なことになりました。また、欠礼(挨拶をしないこと)が多くなっていきました。実際、わたしたちの多くは、新しく知り合った人や新しい職場の人たちとは、年賀状のやりとりをしないことが圧倒的に多いのではないでしょうか。年賀はがき発行枚数に関して、2003年の44億6千万枚をピークにし、2020年度は、19億4千枚まで減ったという報告があります (*4)

かつては、家族のカードでDVDとかを借りることができたのですが、ある時期からは、そのカード本人でないと使えなくなっています。銀行の窓口などでも、家族だと言えば、お金を下ろすことができた牧歌的な時代がありましたが、もう無理です。もちろん、カードや口座は、本人以外が利用できないのは、当たり前のことといえば、あたりまえのことでしょう。ただ、個人意識がきちんと確立して、個々が市民としての自覚を持っているかと言えば、そうではないのに、やたら、個人が強調されてきたような気がしています。昔ながらの言い方をすると「分断して統治」というのかもしれません。

個人情報の保護は大事なので、それをとやかくいう必要はないですし、なお、情報漏洩が後を絶たないので、これはセキュリティをさらに強めてほしいところです。しかし、日本の場合は、個人を強調すると、自立よりは孤立を促すような気がします。データで説明出来ないのですが、夫婦別姓問題を考えてみても、それが実現しないのは、日本では、社会的な個人意識より、なお世間や家族意識が生きていて、父権中心で生きている方が安心だと思う人が少なくないためのようです。ある調査によれば、

 

 平成に入って、世の中は進歩し、伝統的な暮らし方よりも、常識にとらわれず多様性を認めるべきという意識が高まっている、また、消費はモノからコトに変化し、更に欲しいものがないので自分でつくるといった行動も現れています。企業と生活者との関係はフラットになり、また、人と人との関係もフラットになりつつある(*5)

 

等、指摘されていますが、まさしく、平成について考えると、フラットになる=平らに成る、であり、残念ながら「平等になる」というわけではありませんでしたが。

今でも、無意識のレヴェルで大家族主義が幅を利かせていますので、わたしたちは、まだまだ、きちんとした個人意識を確立できていませんし、自由な個人としての感覚を持てていないのでしょう。孤立を恐れて、自立できないのでしょうか。そもそも、社会に生きる、という意識を持つ人が現在の日本に、どれくらい、いるのでしょうか。自由がなくて、平等でもない、個人としても生きていない、というのなら、そういう体制とは、一体、何なのだろうかと考え込んでしまいます。

21年お正月に受け取った年賀状の添え書きで目立つ言葉は「コロナ」でしたが、同時に、「世の中」とか「世間」とかいう言葉が頻出し、「世間を騒がすコロナ」とか、「外出しづらい世の中」と言った添え書きが目立ちました。おそらく、今でも私たちが体感・実感として暮らしている世界は、「社会」ではないようです。

 


(*1) ウォルト・ホイットマン『草の葉』上。岩波文庫、1969年:320頁。

(*2) ホイットマン『草の葉』下。93-94頁。

(*3) 村上千鶴子「伊藤若冲という生き方-作品の分析と求道の考察 -「動植綵絵」を中心に、禅宗、分析心理学の視点から」日本橋学館大学紀要 第 9 号(2010) 参照。

(*4)「年賀葉書の発行枚数などをさぐる(2020年用確定報)」Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20200119-00159518/ 2021/02/11 閲覧。

(*5)「平成時代を総括、30年間の意識変化【第一弾】 ~社会が変化することで、「シームレス社会」の幕開けへ」日本マーケティング協会https://www.jma2-jp.org/article/jma/k2/categories/496-rd-181019 2021/03/07閲覧。

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著者略歴

  1. 渡辺 信二

    アメリカ文学研究者、詩人、翻訳家。立教大学名誉教授。北海道札幌市出身。専門はアメリカ詩、日米比較、創作。著書に『荒野からうた声が聞こえる』(朝文社、1994年)、『アン・ブラッドストリートとエドワード・テイラー』(松柏社、1999年)など、詩集に『まりぃのための鎮魂歌』(ふみくら書房、1993年)、"Spell of a Bird"(Vantage Press、1997年)など、翻訳に『アメリカ名詩選』 (本の友社、1997年)などがある。
    近著に、「不覚あとさき記憶のかけら」(シメール出版企画、2021年)がある。

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