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大人のための詩心と気心の時間 ~アメリカ詩を手がかりに~

第5回:思索ノートその1 「『愛』が変わったのか?我々が変わったのか?」

この連載は、良い言葉の宝庫である詩作品、とりわけ著者の深く精通するアメリカ詩を中心に読むことで「詩心を知り、気心の滋養を図る」すべての大人に贈る健康と文学への優しい案内です。 

今回は思索ノートその1です。アメリカ最初の女性詩人、アンブラッド・ストリートの夫婦愛がテーマの作品「私の愛する大切な夫へ」の考察を通して生まれた疑問について、著者と一緒に考えていきます。
前回の連載分は、こちらから。 


 

|「愛」の受け取られ方の変化 〜重い愛には耐えられない?〜

前回まで扱っていたアン・ブラドストリートの「私の愛する大切な夫へ」は、実はわたしがアメリカ文学の講義やゼミを担当する際、詩の内容と歴史的位置付けから、初回の授業で取り上げることが多い作品です。けれど、作品自体は変わらないのに、その受け取られ方がこの40年で随分と変わったなと感じられます。

わたしたちが主として接してきたのは、20歳前後の大学生で、それもほんの一部、かつ、文学部系の学生がほとんどです。なので、一般論ではなく一つの印象、または感想して受け取ってもらえれば良いのですが、1980年代、90年代は、この作品に書かれていることを素直に受け取って、この夫婦愛を言葉通りに信じ、「こういう夫婦になれたらいいな」と思う学生がクラスの半数以上はいました。なかには、この作品を切り取ってお財布の中に大事にしまって、1日1回は読む、という女子学生もいました。 

今から考えれば、もしもアメリカ文学を教えるわたしたち教員に社会学的な観点があったならば、この作品に関して、同じアンケートを取り続けたことでしょう。そうすれば、ほぼ40年前後の資料が手に入ることになり、現代日本における結婚観や恋愛観、あるいは、離婚率などの変化と合わせて考察すれば、データとして意味あるものになったかもしれません。というのも、21世紀に入ってから、ガラッとなのか、次第になのか、どうも、「愛」についての受け止めかたが変わってきたように感じられます。

 以下は、山根宏氏の「歌謡曲にみる性意識の変化」(*1)によりますが、20世紀後半の日本における恋愛・結婚・性交の3つの関係とその変化が、歌謡曲を手がかりにして概括されているので、ここで紹介しましょう。

 

|ロマンチック・ラブ・イデオロギーと性の多様化

まず、ロマンチック・ラブ・イデオロギーという概念についてですが、これは、あまり聞き慣れない言葉だと思いますが、恋愛・結婚・性交の三位一体とも呼ばれています。すなわち、結婚のためには恋愛が、性交のためには結婚が、性交のためには恋愛が、それぞれ必要であるという考え方です。恋愛を称揚すると同時に、純潔主義を強要しており、1960年代の「性革命」に至るまでは、欧米でも、規範であったイデオロギーだと言います。もちろん、大きな歴史的な視点から考えると、これは、近代固有のものだと言っていいでしょう。アン・ブラドストリートの時代は、ある意味で近代の始まりとは言え、当然ながら、結婚や性交のために恋愛が必要だと考える時代ではありませんでした。

日本では、ロマンチック・ラブ・イデオロギーが、1955年から70年にかけて大衆化しますが、一方で、結婚とは無関係な性行動を正当化する「性革命」の輸入によって、1960年代以降の性意識は、めまぐるしい変化と多様性を見せることとなります。

さて、このめまぐるしい変化と多様性は、何を目指しているのでしょうか。

わたしたちには今のところ予測がつきませんが、さらに新しい変化が押し寄せており、日本だけでなく世界中が、大きな変化の中にあるように思えます。少なくとも、異性愛に基づく単婚制度の一夫一婦制、伝統的家族観、が揺さぶられていることは確かです。これは、LGBTQ(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・クエスチョニング)をもはや、タブーとしない傾向とも同じのかもしれません。なお、ここでいうクエスチョニングとは、「自分の性自認や性的指向を決められない人、決まっていない人」のことを言います。

2018年に行われた電通の調査によれば、日本での「LGBT層(Qを含む)」は、2015年の調査結果である7.6%よりも増加して、8.9%であると報告されています(*2)。この数字自体は、調査主体側の独自の分類方法に基づいていますし、さらに国柄も年度も違いますから、単純な比較はできません。ですが、アメリカの世論調査会社であるギャラップが行った2020年の調査によれば、アメリカでのLGBTは、5.6%となっています。これは、3年前の4.5%から増えており(*3)、世界的にLGBTないしLGBTQについて人々の認識は広まりつつあると言えるでしょう。

 

|どんな人間関係にも「愛」は必ずあるはずだが...

現代では性に対する考え方が変化しているとはいえ、一夫一婦制を含めてどの人間関係にも「愛」は必ずあるはずですし、あるべきでしょう。そもそも、人間関係における「愛」は、相互に育て合うものです。ただ、その「愛」の軽重や深さ・浅さ、あるいはもっと本質的な層において、どうやら何かしら変化が起きている様に思えます。と言うのも、このごろの英文学系のクラスで「私の愛する大切な夫へ」を取り上げると、「重い」とか、「ちょっと信じられない」とか、あるいは「私には無理」といった反応が多くなってきました。今の日本では、逆にいうと、恋も愛も結婚も、軽くて無理ない範囲でするものになってきているのでしょうか。

ただし、そう言う彼ら・彼女らの人生へ取り組む真摯さ、が以前の若者たちと比べて格段に減少しているとは言えませんし、もちろん、他者を求めたり恋をしたりする傾向が衰えているとも決して言えません。「愛」についての考え方、捉え方について、何処かしら、何かしら、わたしたちにはまだ測り知れない本質的な変化が始まっているのでしょうか。 

なお、付け加えるならば、この「私の愛する大切な夫へ」のなかで、詩人である女性は、表面的に言葉で演技している、つまり、当時は男尊女卑の時代なので、妻として夫への愛を示すことで従順さを装っていたのではないか、という疑いの目や、夫を操作しようとする意図を隠しているに違いないという穿った見方もありました。こうした疑いや穿った見方は、かなり少数ですが、いつの時代も存在します。

 

|嘘は水に流される?「食言」はどこに消えたのか?

この変化と関係するかどうか不明ですが、近頃では、前に言ったことと違ったことを言ったりしてしまうという意味の「食言」という言い方もなくなりました。かつては、食言すれば、特に政治家などは強く非難されたものです。江戸時代は「侍二言なし」と言われていました。今は、戦後の日本の政治体制そのものが、「嘘」を通して行かざるを得ないシステムになっているのではないか、と思ってしまう時もあります。

戦争放棄、及び占領と交戦権を否認する日本国憲法は、世界に誇ることができる平和憲法ですが、それを侵すように、日米安保条約及び日米地位協定がいわば上位概念として存在します。特に矛盾が顕著なのは、外交・軍事、とりわけ、沖縄と原子力をめぐる案件です。平たく言えば、アメリカの要求を満たすために、あるいは、そう装うことで、これまで、政府が様々な策を施し、ときには嘘で切り抜けてきたことに、国民が気づき始めているのでしょう。『政府は必ず嘘をつく』(堤未果著、角川新書)という本もありますが、他の例では、2020年の東京オリンピック開催理由についても、政府は、納得のいく説明をしているとは思えませんし、多くの人がそのことに気付き、憤りを抱いていた(あるいは、今も抱いている)ように思えます。当初掲げられていた世界平和や東日本大震災からの復興といった言葉もどこかへ消え、いまだ収束の見えない新型コロナウイルスに「打ち勝った証しの五輪」へと説明が変えられた上に、今は、「希望と勇気を世界中にお届け」することを目的としているようです。ただし、そうした政府の変幻自在や欺瞞に気づいたからと言って、欧米とは異なり、反政府運動に向かう民衆たちの大きな動きにはなりませんけれど。

今は、嘘をついても、あまり追及されない。もともと、日本人には「水に流す」性格もありましたが、これと深く文化的に通底するというのなら、メディアが食言を追求する健全さをすぐに失うのは、さもありなんということでしょうか。食言を激しく追及していた頃があったと言うのは、むしろ、日本の歴史の中で稀有だったのかもしれません。

考えてみれば、かつては喋る時はもちろん、書くときも、すごく神経を使いました。とりわけ、言葉の印刷には、家庭用プリンターが登場する前はガリ版刷りが身近な印刷方法の主流でしたから、一字一句間違えないように非常に気をつけて作業をしていました。誤記すれば、すべてが水の泡で、初めから書き直しでしたから。

 

(手前に見えるのが謄写版。かつては学校の職員室などに置かれていた)

 

「間違いはしないに越したことはない。でも、したとしても、それほどに大したことではない。したがって、間違っても謝らない」といった傾向は特に、90年代ごろから次第に強くなっていったように感じます。これはコンピューターとプリンターの普及が関係しているのかもしれません。この2つがあれば、例え、誤記してもすぐに直せます。印刷物に誤字脱字やデータの不備などがあっても、すぐに差し替えることができる技術のおかげか、私たちが持っていた言葉に対する丁重さも失われつつあるように感じられます。

 

|「今だけ、金だけ、じぶんだけ」〜四半期決算が我々を変えた!?〜

鈴木宣弘東京大学教授が、「三だけ主義」と言う言葉で、「今だけ、金だけ、じぶんだけ」という現代日本の傾向を批判していますが(*4)、こうした傾向に日本を変えた理由の一つには、世界の会計基準に合わせようと、短期的な利益を追求する4半期決算制度を輸入・導入したことが関係しているのかもしれません。

以前は中間期と期末の年2回決算開示だったはずですが、この四半期決算というのは、1年を4期に分けて3カ月に一度企業が公表する決算で、現在は金融商品取引法によって公表が義務化されています。長期的な施策を行うことができない理由の大きなものとして、国家予算や地方公共団体の予算が単年度決算である弊害が長年にわたって指摘されてきていますが、上場企業は、それよりもさらに短い期間である四半期末から45日以内に「四半期報告書」を提出する必要があるのですから、どこかのスーパーではありませんが、ほとんど毎日が決算でしょうし、こんな縛りがあれば、長期的な発想を持つことはまず不可能でしょう。内田樹氏によれば、「当期利益最優先」という株式会社的な時間意識が現在の日本の問題だろうと指摘しています(*5)。確かにそのように考えられます。そしてこの短期的な時間意識は、もともと、アメリカ発のものです。

 

|専門家にお任せの政治と戦争

あともうひとつ気になる変化は、知識の疎い分野のことはその専門家に任せてしまう傾向が顕著になってきた点です。というか、じぶんたちが責任を取る範囲を次第に狭めてきている。こういう傾向はもともとあったのかもしれません。政治のことは政治家というように、確かにそれぞれの分野には、専門家がいて、ある程度、方向性の判断や実務などは任せざるを得ないのでしょうが、普通の人がそれをちっともチェックしようとしなくなりました。間違いや「食言」への追求が薄れたように、それが事実かどうかの判断をしないで、黙って受け入れるか、無視して放置する傾向があります。

このことに関してすぐに思い出すのは、9・11事件後のイラク戦争(2003年)です。アメリカやイギリスなどの有志連合は、9・11事件との関係や大量破壊兵器の保持を口実にして、イラクへ攻め込みましたが、それが正しい判断だったのかどうか、ほんとうに、フセインは、9・11事件に関わっていたのか、大量破壊兵器を秘匿していたのか。流石にイギリスでは、イラクのフセイン体制を崩壊させた後ではありましたが、国会レべルできちんとした調査が行われ、ついには、ブレア元首相が謝罪に追い込まれました(*6)

 

 

(2004年12月12日、ホワイトハウスで握手を交わす当時のブッシュ大統領とトニー・ブレア首相)

 

果たして日本では、当時の首相であった小泉純一郎氏がどういう反省をしているのか、また、その反省を求めるメディアがいたのか、事実を追求すべき調査が国会で行われたのか、非常に気になるところです。ちなみに、2011年3月11日の福島第一原子力発電所事故でも、東電関係の専門家は、正しい情報を流しませんでした。

間違えても謝らないのは、間違えてもいいからだということではありません。間違えたなら間違えたと表明できる勇気があって初めて、過去の失敗が未来に活かされます。こうした歴史に学ぶという態度がどうも、私たち日本人には欠けているように思えます。

 

|専門家は信頼に足るのか!?

今、世界中が新型コロナウイルスで大変な事態になっていますが、日本においては果たして政府が依頼している専門家たちのみに頼っていて大丈夫なのでしょうか。これまでの他の例を思い浮かべるのは失礼かもしれませんが、どこかの国ではデータの改竄がよく行われていると聞きますし、P C R検査の実施数を含めて、データへの信憑性が担保されているのかどうかが非常に気になります。例えば、単純に感染者数に一喜一憂していますが、そもそも、地域ごとの人口に比例した検査が行われているのでしょうか。新型コロナワクチン接種後の死亡として、令和3年6月27 日までに報告された 453 事例 のうち、451例を「情報不足等によりワクチンと症状名との因果関係が評価できないもの」として公表されていますが(*7)、それで終わりではなくて、きちんとこれから評価してゆかねば、国民の疑心暗鬼を生むこととなります。何か、日本の知性というか、民度というか、かなり劣化してきているようで心配しています。

病気になった時など、「専門家任せ」や「医者任せ」が顕著になると思われます。大抵の人間は最期、命取りの病気になって死にますが、死亡診断書を書くことが法律的に許されているのは、日本では、医者と歯医者となっています。歯医者がなぜ?と思う人もいるでしょう。確かに、かつては、禁止されていたようですが、現在の法律では可能とのことです。「歯科医師法施行規則」(第19条の2第1項)によれば、「歯科医師は,その交付する死亡診断書に,次に掲げる事項を記載し,記名押印又は署名しなければならない」とあるらしいので。それはともかくとして、よく山や海の遭難事故を報道する際に、「心肺停止」という言葉が使われますが、あれはご存知の方も多いと思いますが、たとえ心臓と肺の機能が停止しており、明らかに死亡しているのがわかっていても、死亡を宣告できるのは専門家のみとなっているためらしいです。脈を取れなかったり、息をしていなければ、それは死体だとわかるはずなのですが。

 

|消滅した「年の功」

わたしたちはみな、最終的に死に臨むにあたっては、西洋医にかかるわけですけれど、三世代同居とか、叔父叔母も同居する大家族とかが普通であった頃の各家庭には、大抵、長老のような人がいて、困ったときにはまず、その人の判断を仰いでいました。

彼/彼女は、症状を見て「大丈夫、寝かせておけ」とか「味噌と長ネギの湿布をしろ」とか、「すぐに医者を呼べ」とかその場その場で間違いのない判断をすることがほとんどでした。長年の経験が生きるわけです。特に、薬を飲まないでも自然に治る病気が多いと実体験で知っていたり、そういう例を見聞きしていることが大切なのでした。

しかし、今は全く違います。

当期利益最優先や年功序列の崩壊に比例して、年配者へのリスペクトが、ほとんどなくなっているように感じられます。そもそも、自然に病気が直るためには、数日は寝ていなければなりませんので、学校や会社などを休むことになるわけですが、専門家の一筆がなければ、休む理由として認められません。つまり、医者の診断書が求められるわけです。医者の方もまた自然治癒のことなど、おくびにも出さない場合が圧倒的に多いでしょう。「この症状だと、何もしないで2、3日休めば治りますよ」と言ってくれる医者は、ほとんどいません。

(次回へ続きます)

 


(*1) 山根宏「歌謡曲にみる性意識の変化」『言語文化研究』立命館大学14:4.
   "http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/14-4/RitsIILCS_14.4pp.129-139YAMANE.pdf"

   http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/14-4/RitsIILCS_14.4pp.129-139YAMANE.pdf 2021/03/07閲覧。
(*2)「電通ダイバーシティ・ラボが「LGBT調査2018」を実施」dentsu。
   https://www.dentsu.co.jp/news/release/2019/0110-009728.html, 2021/04/02閲覧。
(*3)  "LGBT Identification Rises to 5.6% in Latest U.S. Estimate," FEBRUARY 24, 2021.
   https://news.gallup.com/poll/329708/lgbt-identification-rises-latest-estimate.aspx,2021/04/01閲覧。
(*4)「【鈴木宣弘・食料・農業問題 本質と裏側】卒業生・修了生への祝辞」2019年5月9日、Acom農業協同組合新聞。
   https://www.jacom.or.jp/column/2019/05/190509-37971.php, 2021/04/02 閲覧。
(*5) 内田樹「日本人はいつから嘘つきになったのでしょうか?」
   内田樹の凱風時事問答舘<これで日本も安心だ>
  "https://www.gqjapan.jp/culture/column/tatsuru-uchida/20160815/the-professor-speaks-160">https://www.gqjapan.jp/culture/column/tatsuru-uchida/20160815/the-professor-speaks-160
, 2021/04/01閲覧。あるいは、内田樹『日本習合論』ミシマ社、2020年:128−36頁、参照。

(*6) イラク戦争について「謝罪」したブレア元英首相:「情報は間違っていた」が、開戦の決意そのものは「後悔せず」
   https://webronza.asahi.com/business/articles/2015122500009.html 2021/03/07閲覧。
(*7) 「新型コロナワクチン接種後の死亡として報告された事例の概要 (コミナティ筋注、ファイザー株式会社) 」厚生労働省資料 
   https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000802338.pdf 2021/07/14

※文中の写真については、全てwiki commonsより引用 

 

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著者略歴

  1. 渡辺 信二

    アメリカ文学研究者、詩人、翻訳家。立教大学名誉教授。北海道札幌市出身。専門はアメリカ詩、日米比較、創作。著書に『荒野からうた声が聞こえる』(朝文社、1994年)、『アン・ブラッドストリートとエドワード・テイラー』(松柏社、1999年)など、詩集に『まりぃのための鎮魂歌』(ふみくら書房、1993年)、"Spell of a Bird"(Vantage Press、1997年)など、翻訳に『アメリカ名詩選』 (本の友社、1997年)などがある。
    近著に、「不覚あとさき記憶のかけら」(シメール出版企画、2021年)がある。

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